世、妖(あやかし)おらず ー畏怖歯々(いぶはは)ー

銀満ノ錦平

畏怖歯々(いぶはは)


 人間の体の一部において、重要な部分の一つは【歯】である。


 この口から露出し、反楕円形に連立している小さいカルシウムの塊には神経も入っており、これを【歯髄しずい】と呼ばれるらしい。


 大体虫歯や歯が削れた時の痛み等はこの歯髄に背激を与えてしまうかららしいが、何故こんな口の中という人の身体の中で人の目が見えない部分に刺激が出やすい神経が通っている歯を生物の創造主が作ってしまったのか…。


 どの生物も形や配置は違えど、口の中に歯が付いているというのは共通であるので、やはり生物にとっては歯の位置というのは相当重要な部分なのだろうと今はとても実感している。


 我々人間は料理という自由に食する形を化けさせる能力を兼ね備えている知能がある為に、固形食を液体食に変化させることもまた逆も然り…このお陰で仮に歯が無くても栄養が取れるように人の食に関しても時代共に進歩しているのだ。


 栄養だけなら体の中にチューブを入れて、そこから注入するだけで摂れるのでこれも時代の流れと共に人間の叡智と発展が歯を使わずとも栄養を摂れる環境に変化していった…素晴らしいことである。


 だが、やはり人の味覚と嗅覚はどうしても【美味しいもの】と【良い匂いのするもの】を欲して体内に入れてしまいたい食欲に駆られてしまう訳で、それを視野にいれるとどうしても歯という部位が絶対必要になるだろう。


 たがそれにしたって痛みの治しにくい歯に神経を通すのはちょっと機能としては中々不便な構造にしてくれたなあ…と俺はそんな不便ではないが不満を呟き、頬を抑えながら近所歯科の目の前に辿り着いていた。


 1週間前…歯とうがいもきっちり三日三晩行っていたし、なんなら嗽薬なんか使用してまで歯の健康を保つ様に努力していた…つもりだったが、どうやら歯の磨き過ぎで歯茎を傷つけてしまっていたらしく、その傷がいつの間にか一部バイ菌が取り付いてしまって虫歯になってしまった…ということなのだが、俺はそれについては結構ショックを受けてしまい、今まで虫歯になった事が無いのだが寧ろだからこそ歯について寄り添うことが出来ず、歯茎が苦しんでいる事に気が付かず、磨き過ぎてしまっていたのか…と申し訳ない気持ちが心の底から悔いてしまい向かう途中に何度も小声で「すまない…歯と歯茎…」と呟やいてしまいながら、院内へ入る。


 中は少しこじんまりとした待合室で、受付が無表情で作業をこなしていた。


 俺が諸々の手続きを済ませ、椅子に腰を掛け周囲を見回してどんな様子なのか観察してみることにした。

 

受付の手前にある椅子に座っている人は緊張をしているのか目の迸しりながら貧乏揺すりが止まらない様子で!俺の隣の会社員の女性も同じく緊張しているのか小刻みに貧乏揺すりしながら、顔を俯かせている。


 子供連れの親子も、子がなにか異様な雰囲気を察しているのかそわそわしているのを母親が宥めているのが伺える。


 そして…奥の治療室から聴こえてくるのはドリルの音や悲鳴とまではいかないものの、口から小さい唸り声が耳元に入り、俺の背筋を凍らせる。


 悲鳴ならそれはそれで怖いが、逆に動くこともできず、口を好き勝手されてしまう不安に抗うこともできず医者に身を委ねているのでその恐怖心をなんとか唸り声で紛らわす方法しか取れないと想像してしまうと余計に此方も少し恐怖が感染してしまって落ち着かなくなってしまうのだ。


 俺は他の患者と同じ行動をしてしまうのは何故か嫌なので敢えて気にしない素振りで、さながら不動明王が如く、今恐怖心や不安感を輪王座の姿勢で座っているつもりで何とか椅座位している。


 それでも俺は神や仏ではなく、人間な訳でそんな心持ちで気張っても結局聴覚は、あの恐ろしく繊細なドリル音を捉え…更に俺の視覚は歯科の対しての先入観が頭を過ってどうしても体の何処かを小刻みに動かしていないと恐怖心を誤魔化せずにいる人を写してしまう為に、俺はどうしても動揺を何とか隠すことで精一杯で、緊張で肌寒い風が流れている筈なのに何故か冷や汗がほとばしる。


 すると、1人の患者が治療室から出てきた。


 その患者は、とてもスッキリしたような…何か憑き物が取れたみたいにそれはもう清々しい顔で周囲を見渡した後、少し鼻高々に傲慢というか高飛車というかなんともムカつく得意顔で椅子に座り、優雅な姿勢で会計を待つ体制に整えている。


 俺はそんな姿を見て苛つきはしなかったし、寧ろ時間がやはり解決してくれる案件だということがより現実的に感じ取れたので安心感が心に芽が出始めたと認識して、ガチガチだった心と身体に穏やかさが浸透し始めた。


 大丈夫…時間というものは必ず過ぎるもの…。


 何か異常事態が起きたとしてもその数時間後には何もかも時間経過で解決している筈…。


 俺もあの男の様に優雅な気持ちで座っている筈…。


 筈だ筈だと、何もかもが願望…正に、こうなればいいやという世界平和を願うかのような壮大な念願…希望…負を煩わせ、あくまで希望に擦り寄る今の俺はこの世で最も情けない姿に見て取れてしまうかもしれない。


 心の中でそう思っていたとしても、その感情が表に出始めてきているのは受付係の『いい歳している男が情けない…。』と言わんばかりの目線で俺を睨んでいる…ように見えてしまうが、これは多分気の所為であると思いたい。


 そんなこんなで数十分経ったであろうか…「〇〇さーん、こちらにどうぞー。」とスタッフの方が俺の名前を呼んだので俺は、硬直した身体を何とか緩ませながら、ガツンガツン…と鳴り響きそうなくらいに床に足裏を叩きつける感覚になるが、当然院内の中でそんな愚直で失礼な行為はしないが今の自分の緊張による身体の硬直はそんな感覚に陥っている状態で、俺はまるで会社の面接室へ向かうが如く緊張感を醸し出しながら治療室へ向かう。


 俺は診療台に座り早速スタッフに何処が悪いか…どの辺りに痛みが伴うかを聞かれたのでこの後行われる行為を想像し、少し唇を震わせながら答えた後に、歯のレントゲンを撮られ、しばらく待機すると、スタッフが結果とともに歯のレントゲン図を前にしてどうなっているかの説明を受けた。



やはり、力強く磨きすぎて歯茎を気付けてしまい、そこからバイ菌が入ってそのまま炎症して、しばらくして虫歯になってしまった…というまぁ大体予想していた事だが、改めて診断結果を聞くと目で見えない部分なだけに直接見ることができない恐怖が口に纏わりついていて、余計に言葉が発せられ無いほどの緊迫感に襲われてしまう。


 そして…てっきり俺はこれで次回に持ち越されるものだと思ったが、先生の「では、今から治療しますね。」の一言により、再び緊張感が体中に迸った。


 今からなの?という戸惑いが脳を刺激し、今までとは違う緊張感に俺は目のやり場すら定められない状態になりかけるがなんとか正気を保たせながらこの診療台で先生の話を聴いているが、話が緊張からか所々しか聴けずに、気が付くと先生は早速治療の準備に取り掛かる。


 「では…横になってくださいね。」


 この一言で俺の身体は勝手に沈み…そして診療台には頑丈な拘束道具などある訳が無いにも関わらず、身動きが何故か取れないでいる。


 別に今、俺がされている行為というのはやましいことではなく寧ろ、俺の歯を治してくれている一環の筈なのに俺は誰かに催眠術でも掛けられたのではないかと千思万考せんしばんこうに浸ってしまうが結局はそれは俺が『今から行う行為が治療でもあるが下手に動いてしまうと俺の口が被害を被ってしまう』という不安感に身体が反応して、動かさないというスイッチが入ってしまったのだろうと想像する。


 身体は震えるが、動かない。


 下手に口から言葉が出でない。


 逃げたくても時間が解決してくれるかも…と楽観的思考がより身体の硬直を解除させてくれない。


 俺は正反対の感情が頭に渦巻いて、もう考えるという行為を停止させよう…と諦めの姿勢に入った。


 多分今の俺の顔を鏡で見たらきっと死んだ顔をしているのであろう。


 只々、診療台のライトを眺める。

  

 眩しい…とは思わず、この光が消えた時には…俺は治療終えているのだろうか…と治療を終えた後の自分を想像するしか今この場の雰囲気、状態、経過全て今俺が感じ取っているその時間を誤魔化すしかできなかった。


 ここから逃げ出すなんてそんな常識に非礼を犯す様な真似も、ここで働いている方達に迷惑をかけることもしてはならないと承知はしているが、それでも魂がここから逃げたいと一生懸命俺の身体から抜けだそうと必死になっているが、勿論その様な非学的でこれこそ常識に反旗を犯している超常現象の類に縋ってしまう自分が余計に情けなく思えてきて、そろそろ考えること自体をやめようとずっと光を見続ける。


 …だが、やはり眩しくて目を閉ざす。


 少しすると「お待たせしました。」という先生の声が聞こえたので覚悟を決めて目を開ける。


 先生は治療する姿勢に入り、その目は俺ではなく口の中をすでにロックオンしていた。


 「口を開けてくださいね。」と冷静な声で囁く声量で俺に指示を促し、俺もそれに応え口を大きく開ける。


先生は口を眺めながら、手に何か取り出して痛む場所に塗っている。


 俺は何かを問おうとしても口を開けているので話すことも出来ないし、そもそも怖くて聞けないと言うこともある。


 まぁここの歯科は有名どころではあるので変なものを塗っている訳では無いのは明白で、そこは信用しているが…それでも得体の知れない液体を塗られている訳で、どうしても緊張で心臓の高鳴りが激しくなり始めたような気がした。

 

 口の中が段々と何かを敷き詰めた触感を感じたと思ったら、先生は次に注射器を手にして液体を吸い上げ注射針を口に入れ、俺の歯茎に刺す。


 俺は歯茎に針が刺さるなんて口に塗った何かのお陰でチクッとはしたもののそれほど痛くは感じなかったのはあの塗られた何かのお陰かそれとも俺の恐怖心で痛みが麻痺しているの…それすら判断がつかない程混乱に陥っているんだと更に思考が纏まらずずっと脳の中を渦巻いていた。


 先生は俺の心中を察しているのかいないのか…いや、こういう治療の出来る先生というのはきっとこんな不安や心配した表情や心境は見慣れているのかそのまま冷静に治療箇所に何かを当てる。


 その何かからは、


      ウ゛ィィィィィィン


 と耳から得体の知れない途轍もなく高速で動いている音が聞こえ、明らかに歯を削るドリルだというのは速攻で理解をしてしまい、俺はこのドリルが歯を削った時その痛みはどのくらい伴うのであろうか…それに、もし別の場所にドリルが当たってしまって痛みに加えて大量の出血によって自身の身が危うい状態に陥ってしまわないか…と俺は恐怖心のパラメータが最大限に到達して、恐怖に震える眼差しで先生を覗き見る。


 先生の目に写っていたのは…俺の歯だった。


 そう、先生は俺のことなんか見てくれていなかった。


 恐怖に掻き立てられ、不安で心配で俺の生死に関わる状態で、せめて先生は俺の心配をしているものさと思っていたが…そんな事はなかった。


 いや、勿論患者の心配を医者の先生がしていないわけが無いのは百も承知だし、患者を治す事こそが仕事であるのでそんな治療する相手に無頓着とまではいかないものの、興味がないとか、この治療で失敗しても良い等の考えには至っていない筈である。


 それなのな…先生は淡々と治療を進める。


 俺は怖くなって何度も口を閉じようとしてしまうが、先生は口を開けてくださいね…と表情変えずに俺に投げかけ、それに俺は従わざる負えない。


 説明は受けていて、麻酔をかけられたのは理解していてもいつそれが切れるのか…このタイミングでもしかしたら痛覚が再び現れてしまうのではないか…という二重三重の恐怖心の重ね合わせに俺は気絶してもおかしくない極致に達していた。


 目を瞑っていてもライトは眩しく、口の中で行われているドリルによる治療作業が俺の目には永遠に見えない所で行われ、俺はそれをただじっと待つしかない。


 耳から入ってくる自身の歯が削れていく音…。


 自身の体内から聞こえる激しい心臓の音…。


 無機質に聞こえる機械の音…。

  

 音が…音がどうしても聞こえてしまう。


 耳を塞ぐわけにもいかない、目を閉じても意味がない。


 もう絶望である。


 このまま喉を突っ切ってしまわないか…


 このままドリルを誤植してしまい胃の中で暴れてしまうのではないか…。


 最悪大量出血によって命が消えてしまうのではないか…。


 待合室では、希望的観測でものを語っていたが、今は絶望的予測によって身も心も持たない状態が起きている。


 怖い…怖い…怖い…怖い…怖い…怖い…。


 震えることもできず、動かせない身体で俺はこのまま死んでしまうのではないか…と覚悟を決めた。


 もう恐れることはない…ここで死んでも俺は後悔はしない。


 そう涙が頬を伝わりだし始めた時…。


 先生が、この俺の感情を一変させる一言を発した。


 その言葉は絶望の最中を彷徨い、死神の鎌に首元が当たり始めていたと思われた時、まるで仏の出す蜘蛛の糸に手を伸ばした時のような希望の一言だった。


     「よし、終わりましたよ。」


 俺は呆気にとられた。


 終わったのだ。


 痛覚を味わう余裕すらなく、気が付けば終わっていた。


 俺はあんぐりと口を開けたまま、呆けてしまって先生が「もう終わったのでうがいして大丈夫ですよ。」と先程治療中に見た無表情で冷静で、そしてあの冷徹に見えた目が優しく人を案じ、労いの声すら温かさを含めた仏様の一声と耳が拾った所で、俺は漸く身体の束縛から抜け出せた気がした。


 麻酔でまだ感覚が乱れている口をくじゃくじゃ…と嗽(うがい)をして水を吐く。


 今まで痛みを伴う出来事や事故を経験はしたが、なんというかそれについては大体擦り傷が多く、このような口の中が不快感と顔全体が歪んでいくのではないかと頭がありもしない危機を警告を発する程の痛みなんて味わったことがなかったのでこれがほんとに治るのか…もし永遠の時間この痛みと付き合わなければいけなくなるのでは…という懸念に苛まれていたが、まさかこんなあっさりと終わるとは思わなかったが、何事も無く終わった事にあぁ…時間が解決してくれるもんなんだな…と感覚のない口の口角を少し上げ、ニヤケ顔で頭の中はずっと治療完了の4文字が羅列しながら虫歯の文字を掻き消している妄想に浸りながら待合室の椅子を優雅に座る。


 今ならあの先に治療を終えて余裕さを出していた男の気持ちが凄くわかってきた。


 諸悪の根源である痛みが消えて、待合室に座って不安感に包まれている空気の中で今の俺はその空気を跳ね除けているこの安堵感のガードがこの俺の優雅さを醸し出させているのか…と実感している。


 周囲の目は少し濁みが含んでいるように見えて、その目はきっと俺がここに来た時と同じ目だったのか…と少し鳥肌が立ったが、それも今日で終わり…だと思うと俺は今にも裸になりながら外に向かって走り出したい気分で上書きされ、もう来た時と治療中の恐怖心なんかすっかり薄れていった。


 そして…漸くここを出ることのできるあと一歩の脳内アナウンスが響き渡る。


   「〇〇さん、お待たせしました。」


 と受付係の方が俺を呼び掛ける。


 俺はそれこそ水面から飛び散る水滴が太陽の光を反射して黄金色に輝き、首を空に向け羽ばたく白鳥の如く俺は上品で優雅に椅子から立ち、俺は受付に向かった。


 受付係は、金額を提示したのでその金額を俺は払う。


 払い終え、出口に向かおうとするその一歩は今まで様々な人生の中でも一番大きく清々しい一歩であったと思う。


 ここで受付係の一言がなければ…。


 「あ、すいません!次の予約はどうされますか?」


 俺は踏み出す一歩を止めて、受付係を呆けた顔で見る。


 「よ…予約?もう治療は終わったのではないですか?」


 「虫歯は治療しましたが、まだ歯の方に歯石が出てきてまして、その治療の為の予約を…。」


 「歯石?」


 「簡単に言いますと、汚れが溜まると歯に固まって固まってしまうんです。それが少しでてきてますので、削って治療をすると多分説明を受けたと思うのですが…。」


 俺は忘れていた…いや、そういえば何か聞いた…気がしたが俺は気が気じゃなかったから頭に入っていなかった…。


 「また…削るのですか?」


 「はい、ただ今日みたいに麻酔を掛けますので痛くはありません。」


 俺の頭はまた…ここに来た時のあの不安感に襲われていた脳内に戻った。


 俺は…また己の恐怖と戦わなければならないのか…。


 またあの心身が削られる音を聞かせられないといけないのか…。


 俺は…俺は…。


    「…この日でお願いします。」


 俺は自分の歯と共に…畏怖し、歯科を出た。

 




 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

 


 

 


 


 


 

 


 


 


 


 

 


 

 


 


 


 


 


 


 

 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

 

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