虐殺スイッチ
🌙十六夜勇之助🌕
虐殺スイッチ
人には扱う事が出来ない力があればいいのに。アニメや漫画などに出てくる異能力が自身にも備わっていればいいのに。誰しもがそんなことを考えた事があるのでは無いだろうか。
都内の会社で働いている西園寺美穂も、その内の一人だった。
「美穂君。この資料明日の会議に使うものだから、渡しておくよ。君も出席するはずだろ?」
「はい。ありがとうございます」
資料を受け取った美穂は一礼して、踵を返した。するとその時、
「っ──!」
私は咄嗟に手でお尻を隠した。目の前にはニタつく部長がいるのを確認した。この部長は会社で『セクハラ親父』と言われている人物。私も可能であれば今直ぐにでもボコボコにしたい所ではある。
しかし、この国の法律がそれを許さないだろう。いくら原因が相手にあっても、後にも先にも手を出した方が負けなのだ。それにあの部長が社長の親族だと言うことも私は知っている。以前セクハラの事について社長の元に直談判しに行ったが、直ぐに追い返されてしまった。
「……美穂ちゃん。今って」
「大丈夫だよ、桃香。心配いらないわ」
「でも…」
私の隣の席で心配そうに声をかけてきたのは、同期の神田桃香。
この会社で知り合った彼女は、元々仲が良かった訳でも無いのにお互いに色々な話をするぐらい仲がいい。
「心配しないで。私は大丈夫だから」
私は直ぐに頭を切り替えてパソコンに集中した。
そして、定時まで残り時間後一時間となった時。
「美穂ちゃん…」
私の隣から情けないような声が聞こえてきた。この声が聞こえてきた時は大体何かやらかした時だ。
「どうしたの?また何かトラブル?」
彼女の方へ視線を移すと、涙目になっていた。
「作成していたデータ、消し飛びました」
「………どうしてそうなったのよ。まぁいいわ。半分頂戴。私も手伝うわ」
「ありがとうございます…」
桃香は泣きながらお礼を言ってきた。
「やめてよ。私たち同期なんだし、支え合っていこ」
そして、この時点で私の残業が確定した。
「恭介に連絡だけ入れておくか」
私は同棲中の彼、斉藤恭介に連絡を入れた。
〈ごめん恭介。今日残業だから、夕飯適当に食べてて〉
スマホを机に置いて作業に取り掛かろうとした時に、通知が鳴った。
《は?何言ってんの?誰が俺の晩飯作るの?まぁいいわ。外で食べる。領収書もらってくるから金出せよ?》
私はその言葉に少しイラつきを覚えたが、冷静になった。
〈一応恭介だって働いているからさ、少しぐらいは出してよね〉
《あー、俺仕事辞めてきたわ》
「はぁ⁉︎」
私は思わず立ち上った。
「み、美穂ちゃん?」
私は直ぐにハッとなって椅子に座った。
「何かあったの?」
「ううん、なんでもないよ。ごめんね」
私は残りの仕事を一気に片付けた。
そして、残業を開始してから二時間が経過した。
「お、終わった……」
「美穂ちゃんありがとう」
「いいよ。それより無事に終わってよかったよ。二時間で終わらせられたから。それじゃあ帰ろうか」
私と桃香は身支度をして会社を後にした。
「じゃあ、私はこっちだから。今日はありがとうございました」
「うん、気をつけてね」
駅で私と桃香は別れた。私の乗る電車は後十分ある。私はさっき桃香からもらった缶コーヒーを取り出し口にした。
するとそんな時、恭介からの連絡を思い出した。
「仕事辞めたってどう言う事なの」
恭介は私が大学生の時からの恋人で、三年の時に付き合った。
お互い大学を卒業して、就職して、二年経過したら結婚しようという話もしていた。しかし、いざ蓋を開けてみれば、私は卒業と同時に就職出来たものの、彼氏である恭介は就職したものの、長くて半年しか働く事ができなかった。その後、アルバイトなどをしているが、今回も続けることが出来なかったんだろう。
「はぁ。もう嫌だな」
そんなことを呟いて、残っているコーヒーを飲み干し、ゴミ箱に捨てた。
帰りの電車に揺られながら今後の事を考えている。恭介との関係をこのまま続けて行くのか。でも、恐らく恭介との未来は明るい物ではない。それは断言できる。じゃあ、これから彼が変わる事を信じて説得を続けるのか。変わる可能性は皆無だけど、やってみる価値はある気がしてきた。帰ったらその話をしてみようかと思う。
まぁ、あまり期待していないけど。
電車に揺られること四十分。私は自宅の最寄り駅に着いた。
入社当初も迷いながら進んできた駅構内も、二年も通えばどうと言うこともなかった。私はスラスラと進んでいき、出口へと向かった。
駅の出口から出た私は、腕時計の時刻を確認すると、二十時過ぎを指していた。
「何買って帰ろうかな」
十分ほど歩いた私は自宅へ向かう途中にあるコンビニに足を運んでインスタントラーメンを購入した。
こんな時、同棲している彼が料理の一つや二つ作ってくれればいいのだけど。と叶うはずもない期待を込めて、ため息を吐いた。
自宅に着き、玄関を開けた。
「ただいまー」
「……」
奥から返事がない。恭介は寝たのだろうか。私は靴を脱ぎ、リビングへと向かった。
リビングへ入ると案の定ソファで恭介が寝ていた。机には空の缶ビールが無数に転がっている。仕事をやめた時は大体こうだ。本人はどう言うつもりなのか知らない
けど、片付けるのはいつも私だ。
空き缶を片付けた後、私は夕食と入浴を済ませて明日の準備をして就寝した。幸いにも明日は有給取得日だ。退職の事については明日聞く事にした。
翌朝、恭介に叩き起こされた事により、私の有給による休日は最悪な形で幕を開けた。
「おい、朝飯は?」
「……今作るよ」
付き合った時はこんな事を言う人じゃなかったのに。どうして私は彼なんかと付き合ってしまったのかと感じている。
「そういえば、昨日仕事辞めたって言っていたけど、どうして?」
「は?そんな事今関係ある?とにかく俺は腹が減っているんだ。早くしてくれ」
「分かった。その代わり、後でちゃんと説明してよね」
「はいはい。覚えていたらね」
私は台所に向かい、冷蔵庫を開けて、食材をいくつか取り出し、朝食を作り始めた。
正直な事を言うと今直ぐにでも別れたい。でも、中々そうもいかないのが現状。ここの家の名義は恭介になっているし、直ぐに引っ越すにしろ手続き等に時間がかかる。それに、前にも破局を申し出たことがあるが、その時は酷かった。当時の恭介はお酒も入っていたこともあってか盛大に暴れた。おかげで家具や家電をいくつか買い替えないといけない状態にもなり、私も体にアザが出来た。
その時の恭介の顔は今でも忘れることが出来ない。それを言い訳にしたくは無いけど、それが怖くて一歩を踏み出せない。
いっそ何かの事故に巻き込まれてくれないかな。そんな事ばかり祈っているのは、私自身可笑しいだろうか。
朝食を作り終えた私はリビングに運んだ。休日の朝から凝ったものを要求してくる恭介には毎度毎度頭を抱えている。
「恭介、出来たよ」
「ほーい……。今日はいいじゃん。段々俺の希望の品が分かってきたな」
相変わらずの上から目線の言葉を交わしつつ私は朝食を食べた。
「それで?会社辞めたのはどうして?」
「なーんかなぁ。俺に全く合わなかったんだよね」
「それ前にも言ってなかった?」
「そうだっけか?とりあえず俺は暫く働きたくない。みんな俺に合わないんだもん」
「ちょっと待って、じゃあ生活費とか家賃とかどうするの?私一人の給料じゃカツカツだよ。前にも言ったじゃん。再就職先決まってないの?」
「うっせーな。俺の人生なんだから俺の勝手だろ?お前は俺の母親か?」
「母親じゃ無いけど、少なからず私と一緒に暮らしているんだから恭介もお金の事とか協力してよ。その約束だったじゃん」
「知らねーよ。契約書でも書いたのか?つーか貯金あるだろ?そこから使えばいいじゃん」
「あのお金は将来の為に使うものって話じゃん!」
「その金の半分は俺の金から出したものでもあるからな?つー訳で俺も使うからな」
「だからってそんな!」
「分かったら通帳出しな。半分しか使わないからよ。半分しか使わないであげてやるからありがたく思いな」
確かに貯金口座のお金は私と恭介の将来の為の貯金。通帳の名義は私になっているから、管理場所も印鑑の場所も私しか知らない。
私が渡さない限り恭介は引き出すことは出来ない。
「もういい分かった。本当に半分しか使わないんだね?」
そう言って私は別室に置いてある保管場所から通帳とキャッシュカードを取り出した。
「引き出してくるから」
私は銀行へと向かった。正直自分でも分かっている。
自分がどれだけ馬鹿げた事をしているのか。そして足早に銀行へ向かっていると、路地裏に人がいた。少々気になったけど、私はその人を無視して銀行へ向かった。
銀行でお金を下ろして来た道を戻ると、先程の路地裏にまだ人がいた。私はその雰囲気が怪しすぎると感じて直ぐにその場を離れようとしたが、声をかけられた。
「そこの貴女。ちょっと面白いもの見ていかない?」
「…は?」
私は思わず足を止めてしまった。その好きにその人物は私の元に歩み寄る。背格好からして男だろうか。黒いパーカーを着ており、フードを深く被っているせいか、顔がよく見えず、口元しか見えない状態だ。
「まぁまぁそう警戒せずに。まずはこちらへ」
その人物は私を奥へと誘導してきた。何故私もこの胡散臭い言葉に踊らされてるのか分からないが、直ぐに逃げれる状態にだけはしたほうが良いと思った。
「まずは、俺の名前からだね。俺はしがない行商人で、名前は…そうだな。漆薊とでも言っておこうか。まずは俺の話に興味を持ってくれて有難うね。君にどうしても見せたい物があってね」
「別に私は貴方のような人が扱う物に興味は無いです」
「そうつれない事を言わないでおくれよ」
その人物は肩を落とした。私はその好きに踵を返そうとしたが、止められた。
「あー待って待って。君って、最近物事上手くいってないでしょ」
私は足を止めた。
「ふざけているのですか?それとも、私がそんなに幸薄い女にでも見えるのですか?」
「いやいや、そんなんじゃないよ。君の最近の悩み、当ててあげよう」
「行商人なのか、占い師なのか。一体貴方は──」
「会社ではセクハラとパワハラを受けていて、家では同居している彼氏からモラハラを受けている。自分でもその状況から脱したいって思っているけど、中々一歩が出せないでいる。違う?」
漆薊の雰囲気がガラリと変わった。
「あれ?もしかして当たってた?顔に書いてあるよ」
私は咄嗟に横を向いた。
「…何が言いたい?」
私は奥歯を噛み締めた。単にイラついている訳ではない。この状況を脱しなければならないのが自分でも分かっている。だが、それを軽々しく何も知らない奴から言われるのが無性に腹が立つ。
「それで、そんな君に特別にこれを売ってあげよう」
漆薊の手に握られていたのは、ボタンが付いたスイッチのような物だった。大きさからして単一電池ほどだろうか。黒色で、存在が禍々しい感じがする。素人目で見ても、怪しいと言うより、これ以上関わってはダメな気がするのは直ぐに分かった。
「もう良いです。結構です」
私は直ぐに振り返り、通りに出た。
「…あーらら。帰っちゃった。でも、また直ぐ会えるよ。だって君は、『これに頼らないといけなくなる』からね」
家に着いた私は恭介と話し合った。
「このお金はさっきも言ったけど将来に向けて使うはずだったものなの。だから極力使わない事。恭介は何がなんでも次の職場を見つけてね。私もこのお金は使わないようにするから」
「へーへー分かりましたよ。つー訳で、その金は俺が預かっておこう」
「話聞いてた?恭介に持たせると使いそうな気がするんだけど」
「俺の信用してないの?良いから渡せよ。どうせお前は家にいる時間が俺より少ないんだからさ」
「ちょっと待ってよ。恭介だってハローワークとかに行くつもりないの?」
「別に俺がいつどのように行動しようと俺の勝手だろ?
お前に指図される筋合いはないんだけど?それとも何?自分が働いているからって、働いていない俺より上に立ったつもり?それで俺に説教しているわけ?あーやだやだ。これだから女は」
恭介はニヤつきながら大きなため息をついた。そしてこの時、私の中で何かが崩れる音がした。
「恭介ってさ。変わったよね」
「なんだよ急に」
「大学生の時は優しかったのに。自分が上手く行かなくなった途端私に当たり出したよね?どうして?私が恭介に何かした?」
私の頬を一筋の涙が伝った。
「…なんだよ。なんで泣いてんだよ」
恭介は少し動揺していたが、おそらく彼は全く反省していないと思う。前にも似たようなことがあった。しかし、何も変わらなかったのを覚えている。
「もういい。私恭介に何も期待しないから。好きにやって」
私はそう言って部屋に引き篭もった。
「あ、おい!」
恭介が何か言いたそうにしていたけど、私はそれを無視した。
正直言って彼には本当に何も期待していない。これ以上何を言っても無駄だと思っている。そんな時、ふと先程の行商人の事を思い出した。正直言うと、あのスイッチの様な物がなんなのか、全く分からない。でも、凄く惹かれるようなものを感じた。
「あれは一体なんだったの…」
「虐殺スイッチだよ」
私は思わず後ろに倒れ込んだ。
「あれ?脅かすつもりなかったんだけどな」
私の目の前には漆薊がいた。いや、いたと言うより現れたの方が正しいのかもしれない。
「ど、どうやって」
「そんなことはどうでも良いじゃない。それより、さっき俺が持っていたスイッチ、とても気にならない?あれは虐殺スイッチって言ってね、その名の通り、『押したら代わりに虐殺してくれる』の。面白いと思わない?」
「虐……殺…」
私は背筋が凍りついた。この人は一体何を言っているんだ。ボタンを押すだけで人が殺せる?そんな非現実的なことがあるわけがない。でも、もしそれが本当なら、このスイッチを奪って今目の前にいる漆薊を虐殺することも可能なのか。そう思ってスイッチを奪おうとしたが、止められた。
「あ、ちなみに俺のを事を虐殺しようとしもて意味ないよ。どうしても疑うなら、試しに押してみる?」
そう言って漆薊はスイッチを差し出した。私は何を思
ったのか、それを受け取ってしまったが、押すのに凄く躊躇している。
「大丈夫だって。ほらほら、押しなって」
私の心臓の鼓動が速くなっていく。それと同時に呼吸も荒くなっていく。彼は『殺せない』と言っているが、もし本当に虐殺してしまったらと考えると、押すのに戸惑っている。
「もう、情けないな」
そうってボタンを構えていた私の手の上から漆薊がスイッチを押した。
私の心臓が飛び出そうになって、思わず目を瞑った。
「………」
恐る恐る目を開けた。
「ね?言ったでしょ?意味ないって」
「……信じた私が間違っていたよ。ただのガラクタじゃない」
「んー。それは違うね。これはガラクタに見えるかもしれない。でも君は条件を満たしていなかったからね。だから俺を殺すことができなかったんだよ」
「条件?」
私は気になって思わず聞いてしまった。
「そう、条件。簡単だよ。君は俺に対して『強い殺意』を向けなかったからだよ。でも、他にも条件があるよ。自分の視界に入れることと、少なくとも半径三十メートル以内にいることと、二人以上同時に虐殺することはできない。どう?欲しくなった?」
私は彼の言葉に惑わされそうになったが、ぐっと我慢した。
「いらない。人を殺すのなんて、いくらなんでもダメ。私は私の力で解決させる」
「強いねー。でもそう言う強い人ほど誰かに頼ったりする事が苦手だったりするよね。もしかして、友達少ないタイプ?」
「貴方に関係ないでしょ」
「そんなことよりそんな大きな声で喋ってていいの?隣の部屋にいる恋人に聞かれているかもよ」
私は完全に恭介の存在を忘れていた。そして急いで扉を開けた。
しかしそこに恭介の姿はどこにも見当たらなかった。
「嘘だよ、彼なら俺が来ると同時にいなくなったよ」
「本当に人をイラつかせるのが得意なのね」
「あ、もしかして褒めてくれた?俺は得意な事少ないから嬉しい」
「もう用がないなら出てってくれない?私は暇じゃないから」
「出ていくのは良いけど、まだ俺は君に話していない事があるけど、聞く?」
「いいわ。もう貴方の顔見たくないから」
「そんな釣れないこと言わないでよ。所で、机の上に置いたであろう大金が入った封筒どこへ消えたんだろう」
「…は?」
私はスルーしようとしたが、思わず向いてしまった。しかし、彼の言う通り、机の上に置いてあった封筒が消えていた。
「嘘!まさか」
私は真っ先に恭介を疑った。
「それじゃあ俺はこれにて失礼するよ」
私は恭介を追いかけようとしたが、行き先の候補が分からない。
「恭介…どこ行ったの」
私は漆の方を向いた。
「ねぇ、貴方なら恭介の居場所わかるの?」
「うーん。俺はさっき美穂ちゃんに『顔も見たくい』って言われちゃったしなぁ」
私はその言葉にイラッとしたが、彼の言っていることは正しい。
「そのことは謝る。だから恭介の居場所について教えてほしい」
「じゃあ取引と行こう。君は俺に何をくれるの?」
「え?何をくれるのって?」
「じゃあこうしよう。『これ』を買ってくれたら教えるよ」
漆薊はスイッチを取り出した。
「…分かった。その代わり代金は恭介を見つけたらね」
「取引成立、だね。約束通り居場所を教えよう。斉藤恭介はここから少し離れた商店街にいるよ。因みに、一人じゃないね」
「一人じゃ…ない?」
「行けばわかるさ」
そう言って漆薊はスイッチを渡してきた。
「後でお金は渡すわ」
私は受け取ると、玄関を飛び出した。
「行っちゃったか。使わないって心で決めても、使うだろうね。なんせ、一緒にいるのは、『女の人』なんだからさ」
そう言って漆薊は消えた。
玄関を飛び出してちょうど下に降りた時、目の前でタクシーを捕まえる事ができたため、飛び乗った。
「近くの商店街までお願いします」
繁華街の入り口でタクシーを降りて、恭介を探し始めた。幸いにもまだ夕方前。人はそこまで多くはない。恭介のことを見つけやすいだろうと思っていた。しかし、探し出して数十分経つが、恭介が中々見つからない。店の中だろうか。諦めかけていたその時。
「次どこいく?恭ちゃん」
「そうだな。ちょっと早いけど、もう行っちゃう?」
「やめてよー。けどいいの。彼女いるんでしょ?」
「あんなやつもうなんとも思っていないから大丈夫だよ。それに俺の本命は君だけだよ」
恭介が女の人と腕を組んで高級ブランド店から出てきた。
「恭介?」
私は思わず声をかけてしまった。
「み、美穂!なんでここに!」
「……ねぇ、机の上に置いてあったお金って、恭介が持
っていったの?」
「………」
「答えてよ」
恭介はバツが悪そうに立ち尽くしている。隣にた女の人に至っては気付いたら腕を解いていた。
「あーめんどくせぇな。そうだよ。俺だよ」
「なんで?どうして持っていったの?まさかと思うけどそのお金使ってこの人に何か買ったの?」
「……あー、えっと私帰るね?」
「すみません、少し待ってください」
「ど、どうしてですか?私、関係なじゃないですか!それに私は恋人がいなんで知らなかったです!」
「でも、さっき貴方は『彼女いるけど良いの?』って言ってませんでしたか?」
「…そ、それは」
「兎に角、ここで使ったお金はきっちり返してもらうから」
私は強めに出た。しかし、それに対して帰ってきた言葉は想像を絶する物だった。
「はぁ。ったく使ったもんはしゃーないだろ。大体、俺が他の女と遊んで何が悪いんだよ。俺の勝手だろ?それに、俺がこうなったのは、元はと言えばお前の魅力がないからだろ?俺のせいじゃない」
「恭介、本気で言ってる?」
「当たり前だろ?なんで俺だけが悪者扱いされないといけないんだよ。お前は悪くないのかよ」
私は頭の中が真っ白になった。今まで私が恭介と過ごしてきた時間は一体なんだったんだろうか。全て無駄だ
ったのだろうか。恭介に喜ばれると思って買った服も、髪型も、何もかも無駄だったみたいに思えてきた。呆然と立ち尽くしていると更に追い打ちをかけられた。
「もうさ、お前のせいで台無しだよ、せっかく良い雰囲気だったのにさ。つー訳でさ、俺への謝罪の金として、金は返さなくても良いよな?」
私の心と頭は完全に真っ白になった。意識を保つことができる自信がない。正常の判断すら出来ない。そして私はポケットからあるものを取り出した。
「…お金はもういい。返さなくていい」
「なんだよ、さっきまでの勢いはどうしたんだよ」
「だって、返せないでしょ?」
そう言って私はスイッチを押した。
「恭介はここで死ぬんだから」
「お前何言って───」
次の瞬間、恭介の体が大きく膨れ上がり、内側から破裂した。周り一体には恭介の体の肉片が飛び散っている。
先程まで恭介だったものを見下ろすと、近くにいた女性がその場で嘔吐した。
「貴方も、ね」
私はもう一度スイッチを押した。すると、今度は隣の建設工事中のクレーン車が吊り上げていた鉄骨が落下してきた。彼女はものの見事に鉄骨の下敷きになった。数秒後に私の足元に血が流れてきたのを見て、私は急に我に返った。
「……嘘」
私は内側から込み上げてくるのを感じて直ぐにその場を離れた。
路地裏に逃げ込むと、私は嘔吐した。人を手にかけたのは初めてだった。しかも、それが自分の恋人。この先の人生を共に歩んでいくと思っていた人物なのにも関わらず、不思議と罪悪感は感じ無かった。寧ろ、今までの人生で感じたことのない程の高揚感に溢れていた。
「ほらね?俺の言った通りでしょ?」
一人で高揚感に浸っていたところ、漆薊が現れた。
「何か言いたいのかもしれないけど、少し待ってて」
そう言って漆薊は指を鳴らした。
「…何をしたの?」
「記憶を消したのさ。現場の目撃者がいたら厄介でしょ?でも記憶を消したのは、スイッチの影響を受けた人物に関する記憶のみ。ただし、君の記憶からは消えない。スイッチを押した人は、この効果の影響を受けないからね」
「どうしてスイッチを押した人が影響を受けないの?」
「さぁね。その理由は俺にもよく分からないんだ。それよりどうだった?初めて人を殺した感覚は。しかもそれが自分が愛していた恋人。あ、冷め切ってたんだっけ?これは失礼」
私は漆薊の言葉を無視した。そしてスイッチの代金の事を伝えようとしたが、漆薊に止められた。
「事の経緯は全部知っているから大丈夫だよ。お金はいらない。良いものを見させて貰ったからね」
「だったらこれは返すわ。持っているだけで吐き気がしてきそうなの」
実際一度吐いたがまだ気分が悪い。
「残念だけどそれは出来ないかな。一度スイッチを押して殺害してしまったからね。それは君のものだ。それが君の物じゃ無くなる時が来るとするならば、君の寿命が尽きる時だね。そうすれば、このスイッチは俺の手元に戻る。つまり、これから一生このスイッチを手放す事ができなくなるんだ」
「もしかして最初からそのつもりで私に持たせたの?」
「いやいや誤解だよ。俺はただ、面白いと思った方の味方なだけだよ」
相変わらず掴めない人物だ。だけど、恭介の事をどうにかできたんだから、感謝はしている。人を殺す事に協力して貰って感謝するなんて、私は可笑しいだろうか。
そして、私は自宅へと戻っていった。
玄関の扉を開けて中に入る。靴を脱いでリビングへ入った。部屋を出て言ってからそこまで時間が経過していないのにも関わらず、部屋の中がとてつもなく冷え切っている感じがした。
「…本当に私が」
そう呟いた後、ふと飾ってあった写真に目を写した。そこには、私が一人で写っている写真しか無かった。
彼が言っていた事が本当ならば、私の元恋人の斉藤恭介の記憶等は消えてしまった事になる。私個人、何故彼と恋人になったのかすら思い出せないけど、彼の事を愛していたのは事実。
しかし、そんな彼の人生を、私は終わらせてしまった。スイッチを押した時より強い込み上げと感情が押し寄せてきたが、私は直ぐに耐えた。『彼が浮気したのが悪い』そう自分に言い聞かせた。
自分の行った行動は間違っていないと、正当化する為に。
様々な感情が入り混じっている状態だと、自分が自分じゃ無くなりそうな気がすると思い、私は一度仮眠を取る事にした。寝れば全て忘れる。そう思いながら…。
どのくらい寝ただろうか。時刻を確認するために時計を見ると、時刻は深夜一時を表示していた。相当長い時間眠っていたようだ。
私は眠い目を擦って体を起こしてシャワーを浴びた。
浴室から出ると、私はリビングに向かって声をかけた。
「恭介お風呂──」
私はそう言いかけて止めた。そう言えば、恭介はもういなかったんだな。自分で殺害しておきながら一体何を思っているのやら。
それに明日は普通に会社に行かなければならない。その為にも今日は寝よう。さっき仮眠から起きたばかりだから寝付けるか心配だけど、そんな事を言ってられなかった。沢山寝られるんだし、ストレスを作っている原因が一つ減ったんだ。明日からは良い日になりそうな気がした。そう思って髪を乾かし、寝床についた。
翌朝、いつもより快適な目覚めを感じた。それもその筈、自分にとってのストレスが無くなったから。そして私は起床して朝ご飯をしっかりと食べてスーツに着替えて出社した。
会社に着くと、部屋にはすでに桃香がいた。
「桃香、おはよう」
「あ、美穂ちゃんおはよう」
「珍しく早いわね」
「昨日仕事をしていて早く終わったから昨日は早く寝たんだ」
そう言うと桃香は笑った。
「そう言う美穂ちゃんはなんか顔色良くなった?何かいいことでもあったの?」
「あー、ちょっとね。最近ストレスから解放されたっていうか」
「へぇー、プライベートで良いことあったんだね。でも、会社ではまだまだストレス溜まりそうだよね」
私の頭の中にある人物の顔が浮かんだ。私にセクハラをしてくる部長だ。
「あの人だけはどうにかならないのかな……」
「多分だけど、無理だと思うよ。転職でもしない限り」
「転職かぁ。桃香はしないの?」
「私も考えているんだけどね。いっそ地元に戻るっての考えたんだけどね。でも、私の地元、田舎だからやりたい仕事が見つかる可能性が低いんだよね」
「そうなのね。それは確かに辛いわね」
「美穂ちゃんは転職しないの?」
「私?私かぁ。あまり考えた事無かったかも。この仕事好きだし」
「美穂ちゃんは凄いね」
「そんな事ないよ。その気になれば──」
私は思わず手で口を覆った。
「…どうしての?」
「ううん。何でもないよ」
私はスイッチの事を話してしまいそうになった。もう使いたくないと思っていたのに、一体何故なのだろうか。
「おはよー」
部署の部屋の扉が開いて、部長が入ってきた。
「おはよう御座います」
「おはよう、美穂君」
部長が私の後ろを通り過ぎるころ、さりげなく肩を触ってきた。
「今日もよろしくね」
部長がニタつきながら顔を近づけてきた。正直言って背筋がゾッとしたのを感じた。それを見ていた桃香が直ぐに声をかけた。
「み、美穂ちゃん!始業前にコーヒーでも飲まない?」
「え?」
答える間も無く桃香は私の腕を引っ張り自動販売機へと連れていった。
「大丈夫?美穂ちゃん」
「あ、ありがとうね。桃香」
「良いってことよ、私も普段美穂ちゃんに助けられているからこれぐらいしないと」
そう言って桃香はドヤ顔をした。
「じゃあそんな桃香に私からお礼としてコーヒーご馳走するよ」
「え⁉︎私が誘ったんだからむしろ私が出すよ!」
「いいの。私に出させて」
そう言って私はコーヒーを二つ買って、取り出す口から問い出したコーヒーを桃香に渡した。
「あ、ありがとう」
桃香は少し照れながら受け取った。
「これ飲んだら今日の仕事も頑張ろ」
私もコーヒーを飲んだ。
八時間後、今日の業務を終えた私は帰宅の準備をしていた。
「美穂君。今から帰りかい?」
振り返るとセクハラ部長がいた。
「…そうですけど、何かあったのですか?」
「いやいや、ただ、よかったら一緒に駅まで行かないか?と思っただけだよ」
「え──?」
私が困惑していると部長は畳み掛けてきた。
「そんなに怖い顔しないでくれよ。ただ、最近君はよく頑張っているじゃないか。私は君をとても買っているんだよ?でも仕事を与えたは良いけど、頑張りすぎていないか心配なだけだよ。上司として、部下の悩み事を聞くことはとても大事だと思わない?」
「それは確かにありがたいですが、お気持ちだけで結構です」
私は一礼してその場を離れた。しかし一歩遅かった。
「そんなつれないこと言わないでおくれよ」
部長が私の腕を掴んできた。
「やめてください!」
私は恐怖を感じて、思わず手を振り解いた。
「ふーん。良いのかな?そんな態度取っちゃって。今の仕事の手柄美穂君のおかげだって社長に報告しようと思っていたんだけど、君がそんな態度なら仕方がないな。でも、私は優しからさ。一晩だけ私に付き合ってくれたら、今回のことは黙っておいてあげるよ」
部長がいつも以上にニタつきながら近づく。その顔を見て私はさらに恐怖を感じた。確かに私にも非は有るかもしれない。でも、だからと言ってこの後の事を受け入れるほど、私は甘くない。
「社長にでも何でも言ったらどうですか。私はそんな脅迫に屈するほど、弱くありません」
私はハッキリ言った。この言葉で部長がどう出るのか分からないけど、いざとなったら───。
「君は従順な人だと思っていたけど、残念だな。私は君の事、とても良いと思っていたんだけど、仕方ない」
部長が目の色を変えて私の腕を掴んだ。
「え⁉︎ちょっと!離してください!」
「君が悪いんだよ。俺の言う事に従わないんだから」
部長は人気のないところまで私を連れ込むと、私の両腕を壁に押さえ込んだ。
「お前は黙って俺の言う事を聞いていれば良いんだよ。今までの奴だって俺が仕事を回してやったからやってこれたんだ。だからもっと俺に感謝しろよな?俺が仕事回さなかったらお前らは何もできなんだからよ」
部長の呼吸をとても荒くなるたび、私の心拍数はかなり上昇し、とうとう我慢出来なくなった。次の瞬間、私は思いっきり右足を前に蹴り出し、腹に蹴りを入れた。
「うっ!」
腹をおさて蹲る部長をよそ目に、私は大通りへと走った。
しかし、もう少しで大通りだと言うところで、部長が追いついてきた。
「待てや!このくそアマ!お前もあいつらと同じ目に合わせてやるよ」
私は手の施しようが無くなっていた。大通りに出れば人がいる。
そうすれば、誰かに助けを求める事ができる。でも、そこまで間に合うのだろうか。そんな事を考えているが、直ぐにその考えは無くなった。
「逃げる…?」
私はポケットに手を忍ばせて、スイッチを取り出した。
「別に逃げなくたって良いじゃん。これがあるから」
「何ぶつくさ言ってんだ」
私は振り返り、大通りへと走った。
「あ、おい待て!」
私は部長の言葉を無視して大通りへと着き、スイッチ
を押した。
そして私の目の前で、私の部長だった人が信号無視してきた大型トラックに轢かれ、壁との間に挟まれた。挟まれた衝撃で、鮮血や肉片などが四方へ散らばった。
通りすがった人たちは悲鳴や叫び声などをあげていたが、今の私には正反対の感情が湧き上がっていた。
「やっと、終わったんだね」
私は思わず笑ってしまった。それもその筈、数年間もの間苦労し続けてきた悩みの魂胆を潰したのだから。けどどうしてだろう。
元彼の恭介を殺害した時みたいに後から来る罪悪感が湧き出て来ない。寧ろ快楽に包まれている様だった。
その後も漆薊に記憶を消してもらい、私はいつも通りの日常へと戻っていった。
部長を殺害した翌日、上司の机には新しい上司が座っていた。
話を聞く感じだと、私が入社するより前からずっとここで働いているらしい。私が殺害した上司の名前を出すと、周りの人間は首を傾げていた。どうやら本当に記憶がなくなっているらしい。それどころか、存在すら消えているのかもしれない。勿論理由は私しか知らないし、今後誰かが知ることもないだろう。
「美穂ちゃん、この資料なんだけど…」
桃香に手渡された資料に目を通す。
「……分かった。とりあえず、今やってる仕事終わらせてからでもいい?その後にそっちの仕事手伝うよ」
「有り難う。いつも助けてもらってるから、申し訳ないよ」
「良いよ良いよ。席隣なのに私だけ先帰るの何だか心苦しいし」
私は無理矢理笑った。自分でも分かっている。『人をこの手で殺害した』事よりも『定時で上がって帰る事』の方が心苦しいのは、正直可笑し過ぎる話だと言うことが。
でも、自分にそう言い聞かせないと自分自身の心が保てない気がする。そんな免罪符を並べているが、本当は自分の行動を否定したく無いだけなのかもしれない。
書類の山を片付けた後、時計を確認して見ると、定時から二時間が経過していた。
「美穂ちゃん有り難うね。助かったよ」
桃香は両手を合わせて礼を言った。
「良いよ良いよ。そんなにお礼言われても私は何も返せないから。それじゃあ帰ろっか」
私達はカバンに荷物を詰め込み、会社を後にした。
「それじゃあね。桃香」
「うん、また明日ね。美穂ちゃん」
駅に着いた私は、ホームで電車が来るのを待っていた。時間も時間だし、スーツを着た人や、学生服を着ている人などはほとんど見かけなかった。その代わりに、今から遊びに行く若者や、これから仕事の人たちであろう人がホームで同じく電車を待っていた。
その中で一人、杖を突いたお年寄りの男性がやってきた。腰が曲がり、ゆっくりと一歩ずつ歩いている状態を見ると、足の状態もあまり良く無いのだろう。私は少しばかりその男性が気になった。
しかし、次の瞬間、近くで騒いでいた若者が後ろに立っていた男性に気が付かず、ぶつかってしまった。そして、その弾みで男性は線路に転落してしまった。
「うっわやっべ。けど老いぼれジジイだからいいか」
ぶつかった若者はゲラゲラと笑っている。私はその男に注意をしようとしたが、それよりも先にまずは線路に落ちた人を助ける事を優先した。
まずはホームの緊急非常停止ボタンを押して、駅係員を呼んだ。
幸いにもまだ駅に電車が到着するまで時間があったが、すぐ近くまで電車が着ていた。お年寄りの男性は何とか引き上げられたが、ぶつかった男は依然として反省の色は無かった。
「つーかなんで俺が謝らないといけない訳?ワザとじゃねぇし」
「君ね!ワザとじゃ無くても、実際人の命が危なかったんだぞ!」
スーツを着た中年男性が、ぶつかった男と言い合いになっている。
「知らねーよ。結果的に死んでないんだから良いじゃね
ぇか。それに、そんな老いぼれ遅かれ早かれ死ぬんだしよ」
そう言って男は笑った。
「お、おいそれはいくら何でも言いすぎだろ」
男と一緒にいた友達であろう人物が止めに入った。
「は?お前もこいつと同じ意見なの?萎えるわー。ノリわりー」
その言葉で私の何かが切れた。
「…じゃあ、その人の代わりに、お前が命落とせよ」
そう言って私は無意識のうちに持っていたスイッチを押した。
「…これで何人目?」
全てのことが終わり、自宅に帰って来た後、漆薊が私に声をかけて来た。
「流石の俺も驚いているよ。最初はあれだけ嫌がっていたのに今では四人も手にかけている。その内二人は初対面。あの時の君はどこに行ったのやら。一体何が君をそこまで駆り立てているのかい?」
「別に。例え突き動かされる何かがあったとしても、貴方には関係ないでしょ?」
実際、『私の心の中で突き動かされる何かがあるのか』と聞かれたら、無いと答えると思う。四人目に関しては自分の意思ではなく無意識だったから。
「ねぇ、四人目の時なんだけど、私無意識にスイッチを押していた気がすんだけど、何か知らない?」
「………さぁね〜。俺は知らないな〜。今までそんな人見たことないし」
一瞬漆薊の動きが止まった気がした。それについて問いかけようとしたが。
「あ、俺行かなきゃならないところがあるから帰るね」
そう言って、漆薊は帰って行った。部屋の中でポツンと私だけが残された。
「まぁ、いっか。特に体に変化とか無いし、問題ないよね」
*
美穂と別れた漆薊は、一人近くのビルの屋上に立っていた。
「…そうだね、本人は自覚は無いけど、多分そう。……うん、分かった。それじゃあ今後も観察しておくよ」
そう言って通話を終了させた漆薊は少しニヤッとした。
「さぁて、今後はどういった動きを見せてくれるのかな?新たな世界の女王候補者様は」
*
夕食を済ませた私は早急に入浴を済ませてベッドに入った。
「……」
私は自分の右手を見た。思えば、この数日間で四人も手にかけている。最初に合った恐怖も、自分でも驚いているぐらいに薄れている。
「私、一体何がしたいんだろう……」
元彼だった恭介の顔が浮かびそうになったが、はっきりと顔が思い出せない。
でも、思い出せないなら、自分にとってはその程度の記憶だったのだろと割り切って目を閉じた。
翌朝、いつも通りの時刻に起床していつも通り会社に向かう。
「行って来まーす」
私は誰もいない部屋に声をかけて出発した。
会社の最寄り駅に着くと、桃香がいた。
「おはよう。偶然だね」
「美穂ちゃんおはよう!」
桃香は明るく話しかけてきた。
「昨日は有り難うね。おかげで助かったよ」
「大丈夫だよ。困った時はお互い様だよ。ゆっくる休めた?」
「うん。今度お礼させてよ」
「そんなの気にしなくてもいいよ」
私は桃香の提案を断った。気持ちはとても嬉しいけど、スイッチの事で桃華を巻き込みそうな気がしたから。
今日も一日何事もない日である事を願いながら、会社へと向かった。
*
結局この日は特に何もない一日だった。いつも通りに仕事をこなし、時間になったら帰宅する。本来ならばこれが当たり前なのに、私は少し違和感を感じていた。それもその筈。この数日間の非日常を経験しているから。寧ろそっちに違和感を持たなければならないと自分に言い聞かせていた。
「美穂ちゃん業務終わり?」
「うん。明日使う会議の資料も全員分印刷したし、他の作業も終わらせたよ。桃香も終わった?」
「うん。今日は仕事少なかったから残業は回避出来たよ」
「そっか。それじゃあ帰ろうか」
私たちは挨拶をして会社を出た。
「それじゃね。また明日」
「うん。じゃあね」
駅に着いた私達はそれぞれの路線へと向かった。
自宅の最寄り駅へと向かう路線のホームに立った途端、昨日の光景がフラッシュバックした。それと同時に心臓が締め付けられる感覚がした。
「ッ!」
私は落ち着かせる為に深呼吸をした。すると、次第に心が落ち着き始めた。
「……何だったの。今の」
恐らく今になって昨日の恐怖が襲って来たのだろう。明確な根拠は無いけど、そんな感じがした。
「とりあえず早く帰ろう」
私は寄り道する事なく帰宅することにした。
自宅に着くと、リビングには漆薊がいた。
「おかえり。今日は誰も殺さなかったね」
「その言い方やめてくれない?それに何で人の家で寛いでいるの」
「いやー何となく?もしかしたら誰か殺すかもしれないからいつでも動けるようにしておこうかと思って」
「私を何だと思っているの?そんな話しないで」
「とか言っちゃって、本当は何か自分でも体に変化があるって気づ
いているんじゃ無いかい?」
「は?何言って──」
私は言葉を詰まらせた。自分でも思い当たる節があったから。
「おや?冗談のつもりだったんだけど、まさか本当に何かあったのかな?」
漆薊はニヤつきながら近づいてきた。
「……やめて。それ以上何も言わないで」
私は冷たく突き放した。
「そんな冷たいこと言わないでよ〜。でも、変化があるって気が付いているなら、今後また何か変化が訪れるかもね」
「それ以上何も言わないで!」
私は大声を上げた。と言うより、上げてしまったの方が正しいのかもしれない。そして、私の体は震え出した。
「あらら。怒っちゃったかな?ごめんよ、俺も言い過ぎたよ。それじゃあ俺は帰るね」
そう言って漆薊は何処かへ消え去った。
自分の体の変化は確かに自分が一番分かっている。日中もそうだった。でも、私はそれを無視し続けていた。しかし、帰りの駅でそんな自分に無理やり押し付けるかのようにして存在をアピールしてきた感情がある。それは、『誰かに向ける強い殺意』だった。
目の前にいる人、名前も何もかも知らない人。そんな人に何故か私は殺意を覚えていた。しかもそれが一人じゃない。不特定多数に向けてのものだった。実際私がその人たちに害を加えられた訳でも無い。直接関わってすらない。なのにも関わらず、私は何故か殺意に駆られていた。ポケットの中にあるスイッチが『押せ』と言わんばかりに存在をアピールしている様にも感じた。一体何故そうなってしまったのか私には分からない。でも、このままだと何も関係の無い人物にまで手をかけてしまいそうな気がする。私は明日からの行動にはいつも以上に気を引き締めないといけないと誓った。
あれから二週間が経過したが、私の体には変化が無い。そしてこの二週間は一度もスイッチを使う事は無かった。
漆薊は依然として私に使うよう促してはいるが、私はその口車に乗らないようにしている。
今日も漆薊は私の家にいた。私はそんな彼の言葉を聞き流しながら自宅に持ち帰ってきた仕事をこなしている。
「つまんねー。あれからマジで誰も殺してないじゃん」
「当たり前でしょ。私を何だと思っているの」
「俺の客」
「ふざけないで。それに私は二度と押さないって決めたから」
そう言って私は漆薊を睨みつけた。しかし、その後に放ったセリフは思わず耳を疑うものだった。
「──いや、押すよ。絶対に」
口調からしていつもの感じではないことはすぐに分かった。
「……何でそう言い切れるの?」
私は妙に緊張していた。それもその筈、いつもなら口角が上がりっぱなしの漆薊が、この時ばかりは口一文字と言った様子だったから。そしてその口元を見ているだけで、背中に汗が伝っていくのが分かる。心臓の鼓動も同時に早くなっていった。
「…………」
漆薊は口を閉じたままだった。
「何とか言ってよ」
私は声を震わせながらそう言った。しかし、漆薊の口元は変わらない。
「んー。ここで言ってもいいけど、言っちゃうと君は押してくれないからね。言わないことにするよ」
「は?何で?私はスイッチなんか──」
「覚えてない?君は最初押すつもりなかったかもしれないが、今の今まで何人殺害してきた?上辺だけの綺麗事を今更並べるのはやめなよ。君はもう既に堕ちるところまで堕ちているんだよ」
私は漆薊の言葉に対して何も反論出来なかった。確かに私は最初は拒んでいた。しかし、元彼の恭介の浮気が原因で理性を失って二人も殺害してしまった。その後は会社のセクハラ上司。その次は名前も知らない人。スイッチを押した瞬間の光景、感触、空気、断末魔、血の匂い、全て一度たりとも忘れたことなどなかった。いや、忘れたくても忘れるなと言わんばかりに記憶にへばり付いている。
「俺の言っていること分かった?可能性としては十分にあり得るんだよ。それとも、まだ自分はここから挽回できると思っている?だとしたら相当頭の中花畑だね。人間ってのは、無意識の内に味を占めているんだよ。一度成功するって経験をしているからさ。それにスリルに打ち勝つってある意味最高な経験だよね。人の言葉で説明するのであれば、カリギュラ効果ってやつ?頭ではダメだって分かっているのにいざやってみてまさか成功するだなんて思わない訳で。何なら後処理は全て俺。ある意味楽だよね?」
「わ、私はただ──!」
「いかなる理由があろうと、お前は『殺す』って決断したんだよ。俺が殺せだなんて一言でも言ったか?俺はただスイッチを渡しただけだ。そこから先の行動は全てお前だ。今の状態から抜け出したいだの殺したい程憎いやつとか、そんな人間がいるのは分かる。でも原因があるからって言って誰かを殺しておいて今更言い訳を並べるだなんて〜」
漆薊は一歩前へ歩み寄った。
「自分行動が間違ってないって自分に言い聞かせたいだけじゃないのか?」
この時、私の中で漆薊に対する殺意が限界に達していた。そして私はスイッチを取り出し、漆薊の目の前に突きつけて押した。
しかし、漆薊に対して変化はなかった。
「…え?何で?」
「だから言ったじゃん?俺は殺せないって。話聞いてなかった?」
私は地面に崩れ落ちた。
「一時の感情に身を任せすぎだよ。もっと慎重にならないと。それとも、石橋を叩いて渡らないタイプ?」
いつもの私なら漆薊の言葉に苛立ちを覚える訳だが、この時はそう言った感情は湧かなかった。殺害できなかったことに対する絶望感なのか、それとも彼が言っている言葉が正しいと認めてしまったからなのか。そんな自分を否定するかのように私は早急に入浴と食事を済ませて就寝した。
翌朝の私の目覚めは快適とは言えなかった。睡眠中何度も目が覚めたからだった。
「頭痛い……」
私は右手で頭に触れた。寝不足による頭痛がする。耐えれないほどの痛みではない。でも、正直言うととても鬱陶しい。
「会社行かなきゃ」
ベッドから起き上がると食事を済ませ、いつも通りスーツに手を通し、出社した。
「おはようございます」
私は部署の部屋の扉を開けて挨拶をした。この時すでに何人か出社していた。そして私が席についた一分後に桃香が出社してきた。
「おはよう。桃香」
「おはよう美穂ちゃん。ってどうしたの?なんか寝不足みたいだけど」
みたい。というか実際寝不足である。
「あ〜。ちょっと夜寝付けなくて寝不足かもしれない」
私は笑って答えた。
「無理しないでね。今の上司は優しから対応してくれると思うよ」
「うん。ありがとう」
お礼は言ったものの、この時の桃香のセリフの違和感を私は見過ごさなかった。
どうして桃香が上司が変わったことを知っているのか。私の中で新しい問題が発生した。
昼休憩に入って、昼食を摂っていると、桃香が話しかけてきた。
「体調はどう?大丈夫そう?」
「うん。問題ないよ」
「そう。なら良かったよ」
いつもなら桃香の優しさに感謝する所だけど、朝の発言がとても気になる。しかし、どう切り出すべきなのか、全く分からないでいた。そして何も聞けないまま昼休みが終了した。この時の昼休憩時間は桃香のことを考えすぎていたのか、いつもよりとても早く感じた。
昼からは午前中の業務の続きを終わらせた後、新しい企画書の作成を始めた。企画発案や、計画などの業務は私自身得意としている業務ではあるが、今日ばかりは本領を発揮出来ていない。
「はぁ…」
私は椅子に腰掛け、頭を抱えた。
「やっぱり体調良くないんじゃない?」
桃香に声をかけられて私は顔を向けた。
「大丈夫よ。気にしないで」
仕事に取りかかれない理由が今まさに目の前にいるだなんて口が裂けても言えない。
「でも、美穂ちゃん顔色悪いよ?」
「そう?でも私自身何も感じないから大丈夫よ」
私は作り笑顔で誤魔化した。そして、目の前のパソコンに集中した。
結局、この日私が発案した計画は通る事が無かった。
荷物を纏めて会社を出る時、またしても桃香が声をかけてきた。
「美穂ちゃんやっと終わったね。体調は大丈夫?良かったら家まで送っていくよ?」
「本当に大丈夫よ。気にしなくていいから」
私は桃香が何者なのか分からない状態だから一刻も離れたかったが、桃香も引かなかった。
「でも美穂ちゃんさっきより顔色悪いよ」
「…本当に大丈夫だから」
私は少し強めの口調で言い返した。
「でも……」
「いいから!私にかまわないで!」
私はさらに強い口調で反論した。その瞬間、周りにいた人たちの視線がこちらに向いた。
「美穂…ちゃん?」
私はハッとなった。
「…ごめん、桃香。心配してくれたんだよね」
「こっちこそごめん。余計な心配だったかもしれない」
私の心臓がとてもバクバクしている。何か声をかけるべきだろうか。しかし、何も浮かばない。どうするべきか悩んでいると、先に口を開いたのは桃香だった。
「えっと、そのそれじゃあね。帰り気をつけて」
「うん……ありがとう」
しばらく気まずい空間が発生したけど、お互い会社を出て帰路についた。
電車に乗るために駅のホームで待っていると、ふと先日のことを思い出した。自分が殺害した若い男の人の事を。
毎日通勤と退勤でこの駅を使っているから、一度たりとも忘れた事などない。いや、忘れる事が出来ないと言った方が正しいのだろうか。
「…はぁ」
私は深くため息をついた。どうしてだろう。この感情は一体どこから湧いてくるのか。私には分からない。漆薊が言っていた通り、またしても私は誰かを殺害してしまうのだろうか。スイッチがある限り、私のせいで誰かが。そんなことばかり考えていると、電車が到着したから、私は一度考えるのをやめた。
これからの事は、この先を生きる私に任せればいい。今の私は何も考えたくない。ふとした時にこのスイッチを押してしまいそうだから。
家に帰宅すると、部屋の明かりは付いていなかった。今日は漆薊は家にいないようだ。寧ろありがたい。私にとってはいない方が好都合だから。
「俺がいない方が好都合だって?」
私は思わず大声を上げた。後ろを振り返るとそこには漆薊が立っていた。
「そんなでかい声あげなくてもいいでしょうよ。後ろにいるんだか
らさ。それにさっきのアレなんだよ。まとめて殺しすぎだよ。あんだけ殺害するの嫌がっていたのによ」
漆薊はため息をついた。でも私は彼が何を言っているのか理解出来なかった。私が誰かを殺した?でも、私は今日一度もスイッチを押していない。
「どう言うこと?私は一度も押していないけど?」
「何言っているんだい?俺は見てたよ?最寄り駅を出てきて家に着くまでの間に少なくとも五回は押しているよ。おかげで処理が大変だったよ」
「ちょっと待って?五回?って事は五人殺害しているって事?」
「そうだけど?もしかして殺しすぎて何人殺ったか分からなくなったのかい?」
「待って、何かの勘違いじゃなくて?私は一度も押してない。他にスイッチを持っている人がいるとかじゃない?」
「いや、それは無いな。君の持っているスイッチは一つだけだ。それ以外に存在する事はない。だから君以外が所有することも、使うことも不可能なのさ。勿論誰かがスイッチを奪って押すことも不可能。例え押したとしても効果は無いよ。君以上の殺意を持ったとしてもね」
「…それは本当なのでしょうね」
「当たり前だよ。俺はこう言ったことに関しては嘘は言わない。俺は行商人だかららね。大事な商品の説明は完璧にこなす。それが俺の仕事人としてのプライドだからね」
「でも、私はスイッチを押した記憶は無いよ。それについてはどう説明するのよ」
私は漆薊に問いかけた。
「そんな事を俺に聞かれても分からないよ。きっと疲れて記憶が飛んでいるんじゃない?さっさと寝たら?それと、一度に大量殺人はやめてくれよ?処理するこっちの身にもなってくれよな」
そう言って漆薊はいなくなった。
「ちょっと待って、私はスイッチなんて──」
その時、私の頭の中でフラッシュバックした。目の前に写っているのは五人の人が血だらけで倒れ込んでいる光景だった。そして、その倒れ込んでいる人の全員が無惨な死に方をしていた。頭が潰れている人もいれば、体が上半身と下半身で分かれている人もいた。
「何…これ……!」
私の体は徐々に震え出した。
「本当に、私が…?」
私は頭を抱え込むようにして蹲み込んだ。心臓が恐怖で高鳴り激しい頭痛がする。そして手の震えが止まらない。そして身体中から汗が止まらない。やがてお腹から込み上がってくる感覚もしてきたから私は直ぐに立ち上がりトイレに駆け込んだ。
初めてスイッチを押した時と同じ感情が湧き上がっている。それと同時に今まで殺害してきた光景が一変に襲いかかってきた。
胃の中が空になり、呼吸も落ち着いてきたところで、私は台所に行き口を濯ぎ、その後に水を飲んだ。
「何なのよさっきの記憶は」
私はもう一度記憶を掘り起こしてみた。いつも通りの時間の電車に乗り、いつも通りの時間に改札を出たはず。そう思い携帯を取り出した。交通系電子マネーの記録が残っているはず。
「時間も問題ない。改札を出た時刻もいつも通りだ」
次に確認するべきなのは私が自宅に到着した時刻。これに至っては確認する方法はない。管理会社に電話して防犯カメラでも調べてもらうとかならあるかもしれないけど、理由を話すわけにもいかない。どうすればいいのか全く分からないでいた。
「………あ」
私は直ぐに玄関に向かった。
「恭介のあれ捨ててなかったよね」
元彼である恭介が玄関に設置してあったセンサーを思い出した。
思えばモラハラや束縛が激しかった恭介が私の入退室の時間を管理するために設置していたセンサー。何度これにうんざりしていたのか。でも今回ばかりは役に立っていると感じている。
私は早速手に取り、メモリーカードを抜き取った。そして自宅のパソコンに差し込むと、中のフォルダを開こうとしたが、クリックする手が止まった。
私の中で、真実を知りたいという感情と、知っていいのかと言う感情が入り混じっていた。押せばいづれにせよ真実に辿り着く。中を見ていつも通りの時刻に帰宅しているのなら問題ない。しかし、いつもと違う時刻に私が玄関を通っていたのなら。それは私がスイッチを押した可能性がとても高くなる。
普段私は残業無しで自宅に着くのが夜の六時二十五分。電車の遅延やその他の理由で遅くなっても六時三十五分までには到着している。私は震える指でファイルを開いた。最新の記録を見ると…。
『午後七時十分』
最新のファイルには、予定時刻よりも大幅にズレた時刻が表示されていた。
私は目を見開き後ろに後退りした。そして、呼吸がまたしても荒くなった。その時、またしても記憶がフラッシュバックしてきた。
そこには、帰宅する私と、しつこく絡んでくる男たちがいた。
*
『ねぇお姉さん俺たちと遊ぼうよ』
『結構です』
『そんな冷たいこと言わないでさ〜』
『俺たちいい店知ってるからさ』
『しつこいですよ』
『どうせあれでしょ?ろくに最近彼氏とかいない感じでしょ?』
『やっばお前それは言い過ぎだろ。まぁでも幸薄そうだもんね、この人。あ、じゃあさ、俺たちと遊べば幸せになるんじゃない?そうだよ絶対そうだよ。つー訳で俺たちと遊ぶの決定!』
『やめて…』
『え?何々?』
『やめて!』
『…うーわなに?ちょっと揶揄っただけじゃん』
『あんたらみたいなやつ、消えればいいのに』
*
「嘘…でしょ……」
この記憶が正しいのなら、私はあの場にいた三人の若い男を殺害している。でも、でどうしてだろう。確かにしつこいナンパではあったものの、私自身そこまで根っから殺意を覚えて記憶はない。そして何より気になっているのが、残りの二人は、何故殺害しなければならなかったのか。記憶が曖昧である以上、結論を出すのは難しいと思う。それよりも、私は知らない間に三人を殺していたことの方が重要だった。
でも、もうこれ以上何も考えたく無かった。考えれば考えるほど新しい問題が出てくる。出てくると言うよりか、襲いかかってくると言った方が正しいのだろうか。
自分が自分じゃない気がしてきた。
「もういいや、寝よう」
完全に疲れ切った私は、食事も摂らないまま、重い足を無理やり動かしながら寝室に向かい、そのまま寝てしまった。
そして、迎えた翌朝。私は眠たい体を無理やり叩き起こし、浴室に向かい頭と体を洗った後、出社するための準備をしていた。
「………」
私はいつも朝にはコーヒーを飲むのだけど、淹れながらふと、昨日の事を考えていた。一日経ったけど実は昨日のあれは夢でした。
なんてオチを期待していたけど、そうでもない感じがした。ちゃんと時計の日時は合っているし、昨日机に広げたままのパソコンも確認出来ている。
「やっぱり夢じゃないんだ」
そう呟いて、私はコーヒーを一口飲んだ。
三十分後、家を出て駅に向かう私は、昨日スイッチを
押したであろう場所へ寄り道をした。
昨日大量殺人をしたのにも関わらず、現場はまるで何もなかったかのようになっていた。
「疑いたくなるのも無理はない。でも昨日君はここで殺したんだよね」
私は驚き後ろを振り返ると、そこには漆薊が立っていた。
「急に何?朝から嫌な思いしたくないんだけど」
私はため息混じりにそう言い放った。
「朝からそんなにイライラしていたら碌な人間になれないよ。あ、もう手遅れか」
「挑発になら乗らないよ。それより何?何か用があってきたんじゃないの?」
「あー、そうそう。昨日言い逃した事が有ってね。大量殺人するのはいいけど、それなりにリスクがついてくるから気をつけてね。特に人の数が多ければ多いほどにね」
「…リスクって?」
「さぁね。俺にもよく分からない。一言にリスクって言ってもそれを所有した人物によって変わるから一概にはいえないんだよね」
「過去にどんなリスクがあったの?」
「残念だけどそれについては答える事が出来ないんだ」
「どうして?」
「個人情報だからね。俺は確かに自他ともに認める怪しい行商人だけども、この商売っていろんな奴との信頼関係によって成り立ているんだよね。だから例え君の頼みであっても言う事は出来ないね。言っちゃうと契約違反になるから」
「契約違反?」
「うん、契約違反」
「誰との契約?」
「それも言えない」
私は咄嗟に『桃香って名前聞き覚えない?』って聞こうとしたけど、聞くのをやめた。この男の目的が分からない以上、迂闊に話すべきでは無さそうだと思う。
「それじゃあね。俺は警告をしにきただけだから」
そう言って漆薊はどこかへ歩き出して行った。
「リスクが発生する…」
私はそのリスクが何なのか分からなかったけど、もしかすると昨日の記憶喪失と何か関係があるのかと思ったけど、例えその事を漆薊に聞いたとしても、答えをはぐらかされるだけだと思う。
私は直ぐに考えるのをやめて会社に向かった。
「おはよう。桃香」
「おはよう。美穂ちゃん。今日も何だか疲れてそうだけ
ど大丈夫?」
「大丈夫よ。心配しないで」
実際疲れているのは本当。私は深呼吸をして業務の準備に取り掛かった。
業務を開始してから数時間後、私と桃香は会議室で次の企画案について上司と話し合っていた。
「まずは企画ご苦労様ね。二人ともよく頑張ってくれたね。それで、結論から言うと、今回の企画は桃香さんの企画を採用しようと思う」
桃香はとても嬉しそうな顔をした。勿論私も例外ではない。私も自分の企画書を作成しながら桃香のサポート
もしていた。裏で桃香がどれだけ頑張っていたのかも知っている。なのに、どうしてだろう。私は心の底から桃香の頑張りを評価出来ていない気がする。一体どうしてだろう。別に桃香の事心から嫌っているわけではない。
確かに漆薊との関係も疑ってはいた。でもだからと言ってそれだけで嫌うと言う理由は何処にも無い。私はどうしてそんな感情が湧き上がって来たのか、不思議で仕方なかった。
「…いや、まさかね」
私は会議室を出た後にそう呟いた。まさか私が桃香に殺意を抱いているだなて。そんなはずがないと。
「美穂ちゃん、有り難う」
「……どうしたの?急に」
「私、美穂ちゃんがいなかったら今頃企画書の提出間に合ってなかったし、企画も通らなかったと思う」
そう言った後、桃香は何かに気がついた顔をした。
「ごめん!別に変にマウントを取ろうとしたわけじゃないの!私はただ美穂ちゃんにお礼が──!」
「いいのよ、桃香。私は気にしてないから」
とは言ったももの、会議室で感じた違和感と同じ感情がまたしても現れた。しかも、さっきより存在感が増している気がする。
「……本当に?何だか顔が強張っているけど?」
桃香の言葉で我に返った。
「あ、ごめん!ちょっとぼーっとしてただけだから」
私は笑って誤魔化した。
その後の作業は、桃香の企画書に沿って今後の具体的な方針を固めていくかを話し合っていた。
話し合っている最中も、私の中であの時の違和感がまだ残っていた。まるで、存在をアピールしているかのように。
「───以上が、今後の活動方針になります。では皆さん方、よろしくお願いします」
上司の声で我に返った私は、手元の資料を片付けて自分のデスクに戻った。
「さてと、やりますか」
私は気合を入れて業務を再開した。
「色々と迷惑かけるかもしれないけど、宜しくね。美穂ちゃん」
「いいよ。もう慣れっこだから」
「うぐ。き、気をつけるよ……」
数時間後。今日一日の業務が終了した。私は机の上を片付けて帰路に着こうとしたけど、桃香に声をかけた。
「桃香、良かったらこの後ご飯行かない?企画通ったお
祝いにさ」
「あー、ごめん!私この後用事があるの!また今度誘って!」
そう言うと桃香は足早に去っていった。
「仕方ない。今日は一人でお酒でも飲むか」
私は帰りにお酒を買って帰る事を頭に入れておいた。
会社の最寄り駅に着き、丁度到着した来た電車に乗る事ができた。そして、暫く電車に揺られると、車内アナウンスが流れてきた。
「お客様にお知らせです。二駅先で停車中の車両トラブルが発生した為、大幅に遅れが生じております。あらかじめご了承ください」
私はこのアナウンスを聞いて次の駅で降りることにした。
電車が駅に到着して、私を含む何十人の人がホームに降りた。中には私の様にこの先歩いて帰る人もいれば、ここが目的地の人もいるだろう。私の家の最寄り駅までは後三駅ほどある。別の路線やバスで帰ることも考えたけど、ストレス解消や運動不足のことを考えて歩くことにした。
思えば、通勤途中の駅なのに、この駅で降りたことは一度も無かった。特にこの駅周辺に何かがあると言うわけでもないし、私の友達の家もない。『何か新しい発見があるかもしれない』と、この時ばかり思っていた。
自宅のある方面に向かって線路沿いの道を歩いていると、目の前に見覚えのある人物が立っていた。
「…桃香?」
桃香がそこに立っていた。しかし、私に背を向けている状態なので、桃香は私に気がついていない。
私は声をかけようとしたその時、私の心臓が大きく脈打った。
「………」
私は一体どうして桃香の手伝いをしたのだろうか。と
いう考えが頭に浮かんだ。桃香の手伝いをしなければ今頃企画案が通ったのが私だったかもしれないのに。思えば、いつもそうだ。ただの同期なのに、どうして私が助ける必要があるのだろうか。桃香が私のことを助けてくれた事ってあったっけ?桃香のミスをカバーして私の仕事が遅れてセクハラ上司にネチネチ言われた時も、戻ってきた私に『ごめんなさい』の一言を言われただけ。その後私の仕事を手伝おうとする素振りすら無かった。
次から次へと溢れ出る記憶は留まることを知らない。
私の感情は今どんな状態なのか、私自身でも分からない。でも、これだけは言える。
「桃香さえ、いなければ……」
そう呟いた私の手には、スイッチが握られていた。
そしてそれを見つめる私の呼吸は荒くなっていく。
感情の制御が効かない。
自分でも止めることが出来ないのが分かる。
私は桃香の方を向いた。彼女はまだ此方に気付いていない。絶好のチャンスだった。
私は桃香に近づいて。スイッチを───。
「ざーんねん。君はここで終わりだ」
体に強烈な痛みが走った。私は視線を落とすと、そこには大きな刃物が私の腹部を背後から貫通していた。
私は吐血した。
「なん…で……」
私はその場で倒れ込んだ。誰かが近づいている。一体誰なのだろうか。視界がぼやけてよく見えない。
「君はスイッチを使いすぎた。そのせいで、こいつに精神を乗っ取られたんだよ」
「その声……」
視界がぼやけているからよく見ないけど、声でわかった。
「俺は言ったはずだよ。相応のリスクが生じるって」
漆薊だった。
「あ、もしかして自分をやったのお前だろって思ってる感じ?そうだね。美穂ちゃんがこうなったのは俺が原因だね。この際だからネタバラシしちゃうけど、君が持っているのは言わば『スペアのスイッチ』。俺が持っているのが、『マスタースイッチ』。これがあれば、殺意の有無に関わらず誰でも虐殺出来る。だから俺が押して美穂ちゃんを殺害しようとした訳さ」
だんだん意識が遠のいていくのが分かる。私が直ぐに死なないようにしているのも、彼のスイッチが関係しているのだろうか。
「どうして自分が?って顔しているね。まだ分からないかい?君は『スイッチの適合者』に選ばれなかっただけだ。俺たちが理想とする世界を作り出す人物に相応しく無かったってこと」
私の意識が完全に無くなりそうになっている。私は最後の力を振り絞って体を動かした。しかし、僅かに動かすことが出来ただけで、そこから先は何もすることが出来ないまま、私は息を引き取った。
*
「あーあ。俺の正体を知らないまま逝っちゃったか」
そう言って漆薊は美穂の遺体の近くに転がっていたスイッチを回収した。
「終わったか?」
漆薊の元に近づく者がいた。
「終わった。のかな?どちらかと言うと、振り出しに戻った感じじゃないかな」
「まぁいいさ。こいつも適合者じゃ無かっただけだからね。次の候補は見つかっているのか?」
「あぁ、目星は付いているよ。後は俺が売り込むだけ。それでいいんだろ?桃香ちゃん」
漆薊の近くに立っていたのは、桃香だった。
「馴れ馴れしくその名前で呼ぶな。これはただの器だ。
利用しただけだ。お前もそうだろ」
「確かにそうだけどさ」
漆薊は両手を広げてそう答えた。
「ま、確かに俺たちは『人が生み出した負の感情の集合体』だからね。実体が持てないのも無理はない」
「お前もそろそろ別の体に移ったらどうだ。限界が近いだろ」
「んーまだ大丈夫そうだけど、あんたがそう言うなら」
そう言うと、漆薊が利用していた体はその場に倒れ込んだ。そしてその体は、跡形もなく消滅した。美穂の体も同様に消滅した。
*
数ヶ月後、漆薊は別の人物の体を乗っ取り、目星をつけていた人物を探していた。
「お、いたいた」
その人物が人気のない路地裏に入り込んだところで声をかけた。
「そこの貴女。面白いもの見ていかない?」
FIN
虐殺スイッチ 🌙十六夜勇之助🌕 @IzayoiYunosuke
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