吾輩は幸運な猫である
海藤日本
吾輩は幸運な猫である
吾輩は幸運な猫である。
吾輩は幸運な猫である。
かぎしっぽで小太り。
そして、少し涙(ミルク)もろい雄の黒猫である。吾輩は今年で十七歳になる。
吾輩は父、母、長女、長男、次女、三女の六人家族に飼われた最初のペットである。
それから、吾輩には一歳年下の妹が居る。
三毛猫の『ココ』だ。
『人間』というのは、何かと忙しい動物である。十七年間も生きているから分かるのだ。
だが、吾輩は毎日が暇である。
という訳で、今日はざっくりではあるが、皆に吾輩の猫生を少し紹介しよう。
吾輩が、最初に覚えている記憶。
それはダンボールに入って居るところからであった。
場所は、学校のグラウンドの端っこにポツンと置かれていた。
恐らく捨てられたのだろう。
親は覚えていない。
兄弟は吾輩を含め三匹。
皆、同じダンボールの中に入っていた。
吾輩達はまだ生まれたばかり。
当然生き方すら知らない。
故に、日々腹を空かせて弱っていった。
どれくらいの時間が経ったのか。
突然、吾輩達の目の前に一人の少年が現れた。その少年は吾輩達を見た瞬間、ダンボールごと吾輩達を抱え、血相を変えて走り出した。
吾輩達は、ある一軒の家に連れて行かれた。
その家から、初老の女性が一人出て来た。「その、子猫ちゃん達どうしたの?」
それを聞いた少年は焦った声で言った。
「おばちゃん、子猫が三匹、僕の学校のグラウンドに捨てられていたんだ。可哀想だったから、連れて来ちゃった。……でも僕の家は、アパートだから猫飼えないんだ。おばちゃんの家で、この子猫達飼えないかな? 僕もお世話するから」
おばちゃんは、少し暗い表情をしていた。「一匹ならまだしも、三匹も面倒見れないよ。困ったね……」
少年は黙り込んだ。
しかし、次の瞬間にはこう言ってくれた。「……だったら、僕がこの子猫達を引き取ってくれる人を探すから、見つかるまでおばちゃんの家に預けてもいいかな?」
「……わかった。おばちゃんも手伝うわ」
おばちゃんは了承してくれた。
「ニャー!」
吾輩達は「お腹が空いた」と力を振り絞って叫んだ。
「あら、ごめんね。お腹空いているんでしょ? ちょっと待っててね」
おばちゃんはそう言って、部屋の奥からミルクを持って来てくれた。
吾輩達は、そのミルクに顔を突っ込んだ。
そのミルクは、まるでお母さんのような味。
先程も言ったが、吾輩は親は覚えていない。 だが、その時はそう感じたのだ。
ミルクを飲んでいると、吾輩の目からも一滴の涙(ミルク)が流れていた。
それから直ぐに、吾輩達の飼い主が見つかった。吾輩は、現在の六人家族の家に行く事になった。どうやら、この家族はあの少年の知り合いだったようだ。
兄弟達も無事、他の飼い主達が見つかった。
一匹はおばちゃんの知り合いが、もう一匹は少年の友達が引き取る事になった。
しかし、流石に三匹一緒に引き取ってくれる所はなかった。
短い間ではあったが、兄弟と離れるは寂しかった。だが、あそこで野垂れ死ぬよりはましだったと思う。
「兄弟……元気でね」
吾輩の飼い主達は、とても優しかった。
毎日美味しいご飯もくれるし、四人の子供達は毎日のように吾輩と遊んでくれた。
只、吾輩は室内猫になった為、外には出してくれなかった。
猫は、室内で飼った方が寿命が延びるらしい。外に出していたら、変な物を口にしたり、色んな菌で感染症を起こしたり、車に轢かれたりとリスクはかなりある。
それを、飼い主達が察してくれた。
外に出れないのは少し寂しいが、吾輩を想ってくれての事だろう。
飼い主達はその分、吾輩にたくさん遊ぶ物を買ってくれた。
『人間』というのは、忙しい動物である。
子供達は日中、『学校』という所に行き、大人達は『仕事』という所に行く。
その間、吾輩は独りでお留守番だ。
吾輩は「また兄弟がほしいなぁ」と思いながら、ひたすら飼い主達の帰りを待つ日々を送っていた。先に子供達が学校から帰って来て、その後に大人達が仕事から帰って来る。
皆が揃ったら、ご飯の時間だ。
この家族は『鍋』という食べ物が好きなようだ。母が、よく鶏肉を湯がいて吾輩にくれた。
六人はいつも仲良く、笑顔で食事をしていた。吾輩は、その光景を見てなぜか幸せな気持ちになった。
「これが家族ってやつか……」
あっという間に月日が流れ、吾輩は一歳になった。
『人間』というのは誕生日がくると皆で祝うらしい。吾輩も盛大に祝ってもらった。
ご飯もいつもより全く違う物で、とにかく美味しかった覚えがある。
吾輩は、飼い主達に恵まれたようだ。
お陰で、この一年でとても大きくなった。
飼い主達も物凄く嬉しそうな顔で、「一歳の誕生日おめでとう。これからもよろしくね」と言ってくれた。
その顔を見て吾輩も嬉しかった。
それから間もなくして、また吾輩にとって嬉しい出来事が起きる。
ある日、吾輩の元に小さな三毛猫がやって来た。それが吾輩の妹、『ココ』であった。
ココは親猫とはぐれたらしく、道で弱っていたそうだ。
それを、たまたま飼い主達が見つけて保護して来た。
吾輩が初めてココと出会った時は、すでに病院から戻って来た後だったので、ココはすっかり元気になっていた。
吾輩とココが、仲良くなるのに時間はかからなかった。
家にやって来た日から、吾輩は毎日ココのお世話をして、毎日楽しく遊んだ。
ココも吾輩にすっかり懐いてくれた。
思えば、ココは赤ん坊の頃、可愛い癖があった。それは、吾輩は雄であるのにココは吾輩のお乳を吸ってくるのだ。
どうやら、お母さんと勘違いをしていたのだろう。とても可愛かった。
まるで妹のようであった。
ココを連れて来てくれた飼い主達に本当に感謝している。
ココがやって来てすぐの事である。
吾輩にある異変が起きた。
「なんだか落ち着かない。物凄く外に出たい。なんだかムズムズする。スッキリしたい。なんなんだ、この感情は」
吾輩は自分を制御出来ず、家の中のあらゆる所に小便をかけるようになった。
ココはそんな吾輩の姿を見て、心配そうな顔で見つめていた。
そんな姿を見た母が、少し暗い表情をして吾輩に言った。
「そろそろ病院に行こうか。少しだけ、痛い思いをさせるかもしれないけど許してね」
吾輩は次の日、動物病院に行った。
病院の先生に「すぐ終わるからね」と言われ、吾輩は飼い主達から離され、別の部屋に移された。
吾輩は、不安と恐怖で心が支配され精一杯叫んだ。
「嫌だ! 帰りたい! 独りにしないで! ココに会いたい!」
喉が壊れるくらい大声で叫び続けた。
しかし先生が何かしたのか、吾輩の意識が突然ブツッと途切れてしまった。
次に意識が戻ると、吾輩は狭いゲージの中に入れられていた。
何だかお腹が少し痛かったが、それよりも吾輩の頭はぼーっとしていた。
間もなくして、飼い主達が迎えに来てくれた。吾輩は飼い主達の顔を見た瞬間、これまでぼーっとしていたのが一気に吹き飛びんだ。
嬉しさのあまり、気付いたら飼い主達に飛びついていた。
飼い主達は、吾輩を撫でながら「よく頑張ったね。おかえりなさい」と言ってくれた。
暖かい腕の中で、飼い主達の暖かい声で、吾輩の目から一滴の涙(ミルク)が流れていた。
病院で何をされたのか全く分からないが、吾輩はその日からあの症状が出なくなった。
家に帰るとココが吾輩の元へ走って来た。
とても寂しかったのであろう。
それから一年も経たずに、ココも吾輩と同じ症状が出た。
ココは病院に行く時、物凄く不安そうであった。ココの気持ちは痛い程分かる。
吾輩もそうであった。
その日の夜、吾輩はココが心配でほとんど眠る事が出来なかった。
「もし、ココが帰って来なかったらどうしよう。いや、きっとココはきっと帰って来るだろう」
この二つの言葉が、永遠に吾輩の頭の中でやり合っていた。
あの時の夜は本当に長かった。
しかし、ココは次の日無事に帰って来た。
吾輩は寝不足であったが嬉しさのあまり、眠気なんて一気に吹き飛び、ココの元へ走って行った。ココも寂しかったのだろう。
吾輩に寄り添って来て、ずっと離れなかった。そんなココを見て吾輩は想った。
「離れたら互いに心配し合い、戻って来たら互いに心から嬉しくなり寄り添い合う。たとえ血は繋がっていなくても、吾輩とココは誰にもほどけない、固い絆で繋がっている兄妹である」
吾輩は再び目から一滴の涙(ミルク)を流しながら、生涯ココの傍に居る事を心に誓った。
それから約六年の月日が流れた。
吾輩が七歳、ココが六歳の時、我が家は引っ越す事になった。
とは言っても、今の家からそんな遠くではなかった。
長女と長男もすっかり大きくなっていた。
父と長男は、家の中にある重たい物を必死に運んでおり、他の飼い主達も家にある色んな物の整理に追われていた。
当時が夏という事もあり皆、汗水を流しながら必死に働いていた。
『人間』というのは、本当に忙しい動物である。引っ越した家は、前の家よりとても広かった。吾輩とココは部屋中を走り回り、それを見ていた飼い主達は笑っていた。
引っ越した家にも慣れたある日の夜、吾輩は何故か全く眠る事が出来なかった。
飼い主達もココも、もう既に眠っていた。
吾輩は、とにかく暇だったので家の中をひたすら歩いていた。
その時である。
微かに、夜風が吾輩の身体を通り抜けた。
吾輩は、まるでつられるかのように夜風が吹く部屋へと向かうと、その部屋の窓が少し開いていた。
吾輩は、再びつられるかのように開いている窓の方へ歩いて行った。
ふと気付いた時には、すでに部屋の外に出ていた。さっきまで微かだった夏の夜風が、今度は吾輩の全体を通り抜けて行く。
そして空を見上げると、星が無数に広がり輝いていた。
「なんて、綺麗な夜空なんだ」
その瞬間、吾輩は夜風と共に全速力で走り出した。外を走るのは初めてであったので、何とも言えぬ幸福感と開放感でひたすら走り続けた。外を走るのが、こんなに気持ちがいいなんて思ってもいなかった。
どれくらい走ったのだろう。
吾輩は疲れきって足を止めた。
吾輩は我に返り、さっきまでの幸福感と開放感が一気に消え去った。
「ついやってしまった。此処は何処だ? 飼い主達のにおいがしない」
今度は、不安と恐怖が吾輩を襲ってきた。
普通なら自分のにおいを辿れば帰れる筈だが、不思議な事にそれすら感じない。
「どうしたものか……」
吾輩は迷子になってしまった。
迷子になった吾輩は、必死に飼い主達とココを呼んだが返事がある訳がない。
すると、あっという間に夜が明け太陽が昇り始めた。
夜は涼しかったのに太陽が昇った途端、猛烈な暑さが吾輩を襲ってきた。
吾輩は日陰に逃げ込み何とか暑さは凌げたが、今度は空腹感が吾輩を襲ってきた。
「お腹空いたなぁ……」
いつもなら、とっくに飼い主がご飯をくれていた。
「今まで、どんなに幸せだったか……」
この時、吾輩は改めて毎日ご飯を食べられるありがたさを感じた。
すると、茂みの中から野良猫が数匹出て来た。
「もしかしたら、ご飯を分けてくれるかも」
吾輩はそう思い、野良猫達に近づくと彼らは物凄い形相で威嚇してきた。
「しまった」と思った瞬間、野良猫達は、猛スピードで吾輩に襲いかかって来た。
吾輩は必死に逃げ、何とか野良猫達から逃れた。しかし、また猛烈な暑さと空腹が吾輩を襲ってきた。
後に分かった事だが、どうやら野良猫は縄張り意識が高いらしい。
吾輩が彼らの縄張り域に入った為、襲って来たのだろう。
外の世界がこんなに厳しいなんて、思ってもいなかった。
吾輩は、今まで室内猫として育ってきたので、今更外で生きて行くのは到底無理である。
とにかく日中は暑かったので、吾輩は誰のかも分からない、家と家の間の日陰で、夜までじっとして居る事にした。
夜になり、吾輩の空腹感は更に増してきた。「ん? これは……」
吾輩は、一匹の虫を見つけた。
空腹のあまり、吾輩はとうとうその虫を捕まえて口の中に入れた。
虫を食べるのは初めてであったので正直不味かったが、飢えを凌ぐにはこれしかなかった。
慣れない物を口にした事が原因だったのか、吾輩は激しい下痢に襲われた。
あまりの苦しさにこの時、吾輩の心は折れそうになった。
「このまま、死ぬのだろうか……」
その瞬間、飼い主達やココとの想い出が頭を過った。
皆で仲良くご飯を食べている記憶。
子供達やココと楽しく遊んでいる記憶。
皆で一緒に寝ころがっている記憶。
気付いた時、吾輩の目からは一滴の涙(ミルク)が流れていた。
それと同時に、心に光が戻ってきた。
「そうだ! 飼い主達もきっと、吾輩を探してくれている。吾輩がもし居なくなったら、飼い主達もココも、悲しむだろう。吾輩の居場所は我が家(あそこ)しかない。必ず帰るんだ!」
吾輩は、無数の星で輝く綺麗な夜空を見上げながら心に誓った。
吾輩は冷静になって考えた。
「確かに、飼い主達のにおいはまだしない。……だが、吾輩は猫である。いくら全速力で走ったところで、そんな遠くに行っている訳がない」
吾輩はとにかく自分を信じて、ひたすら我が家を目指した。
前向きになると、暑さにも慣れてきた。
お腹が空いたら虫を食べ、喉が渇けば溜め池の水を飲んだ。
お腹も慣れてきたのだろうか。
吾輩は徐々に下痢をしなくなった。
「どれだけかかってもいい。必ず帰るんだ!」 何だか、吾輩の想い出達が背中を押してくれているようであった。
雨の日も、風が強い日も、野良猫達を避け、車を避け、来る日も来る日も、吾輩は只ひたすら我が家を目指した。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。それは早朝の事であった。
いつものように吾輩が道を歩いていると、正面からある若い男性が歩いて来た。
一件、普通の事のように思えるが、その男性のにおいに吾輩は見覚えがあった。
「このにおい……思い出した」
その男性は今から七年前、吾輩達を助けてくれたあの少年であった。
少年は、随分と大きくなっていた。
いきなりの再会に驚いた吾輩は、足を止めると少年は吾輩に気付き歩み寄ってきた。
「どうしたの? ……君、首輪しているから飼い猫だね。迷子になったの?」
どうやら少年は、吾輩があの時の猫だと気付いていないようだ。
すると少年は、「ちょっと、待っててね」と言い、近くにあるコンビニの中に入って行った。数分後、少年はコンビニから出て来て、吾輩の所へ来ると、袋の中から缶詰めを取り出して吾輩にくれた。
吾輩は、その缶詰めに顔を突っ込んだ。
まともなご飯を食べるのは久しぶりであった。
「美味しい……。目から涙(ミルク)が出そうだ」
吾輩はあっという間に食べ終えた。
満足そうな吾輩の姿を見た少年は、ニコッと微笑み吾輩にこう言った。
「さぁ行きなさい。飼い主が心配しているよ。 君ならきっと帰れるから」
これも一件、なんの根拠もないように聞こえる。だが、吾輩はそれを聞いた瞬間、不思議とすぐ近くに我が家があると感じた。
「少年……ありがとう」
吾輩はそう言って、真っ直ぐに走り出した。 すると、微かだが飼い主達のにおいを感じた。
吾輩は、只ひたすらそのにおいを頼りに走って行った。
そして、「……我が家だ」
吾輩は、とうとう我が家に帰り着いた。
その時の我が家はまるで、あの時に見た無数の星で輝く綺麗な夜空のようであった。
我が家に帰りついた吾輩は、精一杯の声で飼い主達とココを呼んだ。
「ニャー!!」
吾輩の鳴き声に玄関の扉が開き、中から母が出て来た。
母の姿を見た瞬間、吾輩は母に抱きついた。
母は、目から涙(ミルク)を流していた。
「心配したんだよ。でも、帰って来てくれてありがとう」
そう言い、吾輩を深く抱きしめてくれた。
母の声に、他の飼い主達も部屋から出て来た。飼い主達も目から涙(ミルク)を流して喜んでいた。
久しぶりに見る飼い主達の姿。
久しぶりに聞く飼い主達の声。
久しぶりに感じる飼い主達のぬくもり。
吾輩も、目から一滴の涙(ミルク)が流れていた。
「ただいま……。心配かけて、ごめんなさい」
ちなみにココからは、強烈の猫パンチを一発もらった。
「ココ……あの時誓ったのにごめん」
その後、吾輩は病院に行き検査をしてもらったが特に異常はなかった。
先生からそれを聞いた飼い主達はホッとしていた。今回、吾輩の脱走事件で後に分かった事がいくつかある。
一、吾輩は、二週間も迷子になっていた。
ニ、飼い主達は学校や仕事に行く前と、帰った後、暗くなるまで吾輩を探していた。
三、飼い主達は近所に住んでいる人や、交番のお巡りさんに吾輩の写真を配り「見つけたら、教えて下さい」とお願いしていた。
四、飼い主達は、部屋の窓を閉め忘れていた事に凄く後悔をしていた。
五、母は毎日、吾輩が「無事に帰って来ますように」と神様にお祈りをしていた。
これらは全て、ココから聞いた話である。
そしてココは一度、吾輩を探す為に母が玄関の扉を開けた瞬間外に出たらしい。
しかし、母が震えた声で、「ココまで居なくならないで」と言われたので戻ったそうだ。
色んな人達に配ったという吾輩の写真は、今でも大切に我が家に飾ってある。
その写真の下には、「人懐っこい猫です。かぎしっぽで小太りな黒猫です」と書いてある。「小太りは少し失礼である」
しかし今回の件について分かった事は、外の世界は非常に厳しいという事である。
夏は暑いし、冬はもちろん寒いだろう。
吾輩は、同じ猫という種族なのに全く違う生き方をしている野良猫達を見た。
襲われはしたが、厳しい環境の中で必死に生きている彼らに『尊敬』の一言以外、出てこなかった。二週間、野良生活をして今となってはいい経験にはなった。
だが、もう二度と家から出る事はないだろう。何故なら、吾輩には心から心配してくれる、心から愛してくれる、心から涙(ミルク)を流してくれる家族が居るからである。
こうして吾輩の脱走事件は、幕を閉じるのであった。
吾輩の脱走事件から約三年の月日が流れた。 吾輩が十歳、ココが九歳の時我が家にまた家族がやって来た。
子猫の『ツキ』である。
ツキはココと同じ女の子で、口元からお腹は白く、目元から背中まではグレーの色をした猫であった。
多分、ココが赤ん坊だった頃よりも小さかったと思う。
よちよち歩きの天使のような子猫で、吾輩とココはツキに寄り添い、ツキも猫見知りする事なく吾輩とココに寄り添って来る。
飼い主達は、毎日ツキにミルクを飲ませてあげていた。
吾輩は、その光景を見て昔の事を想い出した。
「吾輩もココも赤ん坊の頃、毎日飼い主達からミルクを飲ませてもらっていたものだ。……そう言えば、あの時ミルクをくれたあのおばちゃんは今、何をしているのだろう? 二度も吾輩を助けてくれたあの少年は元気にしているだろうか? あの少年にもし出会わなければ、吾輩はどうなっていたのだろう? きっと、今の六人の飼い主達に出会う事はなかっただろう。それどころか、もしあの時、あの少年に出会っていなかったら、吾輩達はとっくの昔に死んでいたかもしれない。吾輩の兄弟達は、元気にしているだろうか? いい飼い主に出会えただろうか? ココもそうだ。もしあの時、飼い主達がココが歩いていた道を通っていなかったら、ココはどうなっていたのだろう? 他の人に保護されていたかもしれない。最悪の場合、車に轢かれて死んでいたかもしれない。飢えで死んでいたかもしれない。どちらにせよ、そうなっていたら、吾輩とココは出会う事はなかっただろう」
そう感じると、感謝の気持ちが自然と込み上がってきた。
「少年、二度も吾輩の命を助けてくれて、ありがとう。おばちゃん、あの時、吾輩達にミルクをくれて、ありがとう。飼い主の皆、ここまで吾輩とココを育ててくれて、ありがとう。ココを連れて来てくれて、ありがとう。ココ、あの時飼い主達に拾われてくれて、ありがとう。そしてツキ、吾輩達の所に来てくれて、ありがとう。神様、皆に会わせてくれて、ありがとう」
しかし幸せな時間は突然、終わりを告げる事になる。
ツキにある異変が起きる。
歩く事がままならず、ご飯もあまり口にしなくなった。
そんな異変に気付いた母は、すぐ病院に連れて行った。
家で待っている間、吾輩とココは胸が張り裂けそうなくらい心配で、時間が経つのがとても長く感じた。
「神様、どうして辛い時だけ時間が経つのが遅いのですか?」
吾輩とココは何度も神様に問いかけたが、もちろん返事がある訳がない。
ようやく病院から母とツキが帰って来た。
母はとても暗い表情をしていた。
母の、こんな暗い顔を見るのは初めてであった。すると母は、重くなった口を精一杯開いて吾輩とココにこう言った。
「ツキの体は、生まれつき弱くて、どうしても成長出来ないんだって。もう、あまり長くないって、先生が……」
それを言い終えると、母は目から涙(ミルク)を流して泣いた。
吾輩とココは頭が真っ白になり、まるで人形になったかのように、動けなくなってしまった。他の飼い主達も帰って来て、母からツキの事を聞くと、表情が暗くなり長女、次女、三女も目から涙(ミルク)を流して泣いていた。
病院にずっと通っていたが、日が経つに連れツキは見る見る弱っていった。
ご飯も食べられなくなり、痩せ細っていく。
母は仕事を休み、吾輩とココはツキの傍にずっと居た。
他の飼い主達も、出来るだけツキの傍に居た。しかし、とうとう別れの日がきてしまう。 ツキは眠るように息を引き取った。
「ツキ、ごめんね。育ててやれなくてごめんね。苦しい思いさせてごめんね」
飼い主達は大粒の涙(ミルク)を流し、泣きながらひたすら眠ったツキに謝っていた。
父もツキの訃報を聞き、途中で仕事をやめ帰って来た。
父はまったく口を開かずに、ずっと眠ったツキの姿を見つめていた。
すると母が泣きながら、吾輩とココの所へ来てこう言った。
「ツキは、お月様の所に帰ったんだよ。とても寂しいね。でも皆、真面目に生きていたら、いつかきっとお月様に帰れるから、その時また皆でツキに会おうね」と。
この言葉は生涯、忘れる事はないだろう。
ツキは、たくさんのお花の中で眠っていた。
飼い主達は、ツキに最期の別れを言っていた。吾輩とココも最期の別れを言った。
「ツキ、短い間だったかもしれないけどとても楽しかった。ツキとの想い出(たから)は、一生忘れない。すぐには行けないけど、吾輩もココもいずれお月様の所へ帰るから、その時また一緒に遊ぼうね」
この日、吾輩とココは猫生で初めて大切な存在を失った。
それは、何にも例えられない程辛く、自然と目からは一滴の涙(ミルク)が流れていた。
ツキとの別れから時は流れ、吾輩もココも歳を取った。
飼い主の子供達も成長し、大人になっていた。最初は長男が家を出て行き、その後長女が結婚して家を出た。
それからは早かった。
まるで、川の流れのように三女、次女と次々に家を出た。
『人間』というのは、大人になると家から出て行くようだ。
そして父も突然、家から居なくなった。
たまに帰っては来るが、毎日会える事はなくなった。
気付いたら、我が家に居るのは母だけになっていた。
その時吾輩は、一人一人の飼い主達との想い出が蘇ってきた。
母は、いつも吾輩とココと一緒に居てくれる。初めて、家に来た時から毎日忘れずにご飯をくれる。
吾輩とココの異変に気付いたら、すぐ病院に連れて行ってくれる。
一番、吾輩とココのお世話をしてくれる心の暖かい飼い主(ひと)である。
父は、とにかくおならが臭かった。
だが、仕事から帰って来ると必ず吾輩とココの名前を呼んでくれた。
寝る時はいつも「おやすみ」って言いに来てくれた。
いつもふざけていたが、一番家族を賑やかにしてくれる面白い飼い主(ひと)であった。
長女は、いつも笑顔で吾輩はよく彼女に甘えた。ココも懐いておりよく一緒に寝ていた。
彼女は一番のしっかり者で、長女の鏡のような飼い主(ひと)であった。
長男は、よく両親に迷惑ばかりかけていた。 とてもだらしなく、一番どうしようもない飼い主(ひと)であった。
只、吾輩の猫生を書いたようだ。
次女は、後先の事をしっかり考え行動していた。少し不器用な所もあったが、一番家族の事を考えてくれており、頭が良く、賢く、優しい飼い主(ひと)であった。
三女は、一番年下で吾輩とココが来た時はまだ小さかった。
よく一緒に遊び、彼女が泣いている時は吾輩とココはよく寄り添った。
逆に、吾輩とココが落ち込んでいる時は寄り添ってくれた。
共に成長し、吾輩とココの感情を一番理解してくれた姉弟妹(きょうだい)のような飼い主(ひと)であった。
そう、吾輩の飼い主達はそれぞれが『一番』になれる個性を持っていた。
毎日一緒に居る時は鬱陶しいと思う日もあったが、いざ居なくなると寂しいものだ。
でも、会う日が少なくなったから、会える楽しみが出来た。
会う日が少なくなったから、会えた時の嬉しさを凄く感じれる事に気付いた。
会う日が少なくなったから、まだ生きていたいと想えた。
家に居なくなったからといって、吾輩、いや、吾輩達の大切な想い出(たから)は、永遠に消える事はないのだ。
吾輩は現在(いま)も生きている。
だが、生まれたからには最期の時は必ず訪れる。それまで今一緒にいる母、そしてたまに帰って来てくれる家族に会う為に、お月様に居るツキの為に、吾輩とココはこれからも精一杯生きていく。
また六人が全員揃って、仲良く『鍋』を食べている光景を見れる事を願って。
すると、吾輩の目から一滴の涙(ミルク)が流れていた。完
吾輩は幸運な猫である 海藤日本 @sugawararyouma6329
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