紅茶の香りに誘われて―英国式ティールーム・ローズメリーへようこそ
天月りん
序章 ローズメリーへようこそ
横浜の、少し煤けた住宅街の一角に、その店はある。
『英国式ティールーム・ローズメリー』
白いレンガ壁には緑の蔦が這い、名乗りは小さな丸い木の看板だけ。
重厚な木製の扉を押し開けると、チリン、と軽やかなベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。――あら、藤宮くん」
「こんにちは、翠さん」
彼女はこの店の女主人、桂木翠さん。
五十代と聞くが、少女のような可愛らしさを持つ人だ。
「亜嵐さん、まだ帰ってきていないのよ。……ミルクティーでいいかしら?」
「はい、お願いします」
レースのカーテンがかけられた窓際には、赤いロンドン・バスのミニチュア。それを眺めながら腰掛けると、ほどなくティーポットが運ばれてきた。
「今日のおすすめはディンブラよ」
揃いのポットとカップ、そしてピッチャーにはたっぷりのミルク。テーブルの上に、豊かな紅茶の香りが広がった。
(いまだに茶葉のあれこれはわからないけど……翠さんの紅茶が美味しいことは間違いない)
カップに半分ほど紅茶を注ぐ。濃い琥珀色の液体から、芳醇な香気が立ち上がった。
そこにミルクを投入すると、優しいマーブル模様を描く。
入れる順番は、この店で使われている上等な磁器に合わせているが――。
(これも亜嵐さんからの受け売りなんだよな)
スプーンでくるりと混ぜると、こっくりとしたミルクティーが出来上がった。
カップを持って、口に運ぼうとしたそのとき。
チリン!
「だから~!そうじゃないんですってば、師匠!」
「黙れ、美緒。私はもう騙されないからな」
店の入り口が突然騒がしくなる。そこに立っていたのは――。
「亜嵐さん!」
「おや、湊。来ていたのか」
俺の憧れの人。食文化研究家にしてフードライターの西園寺亜嵐氏、その人だ。
クォーターと聞いているが、日本人の血はほとんど感じられない。
明るい栗色の髪、緑とも金色ともつかない不思議な瞳。そして――ちょっと類を見ないほどの美貌。
スタイルもセンスも抜群なうえに、その頭脳には食文化のあらゆる知識が詰まっている。
大学で栄養学を専攻している俺は、色々なことを彼に教えてもらっているのだ。
「藤宮くん、私もいるよ~!」
「白石さん、こんにちは」
彼女は白石美緒さん。俺と同じ大学の看護学部の学生だ。
ひょんなことから知り合い、亜嵐さんを”師匠”と呼び慕うようになった。
(……慕うっていうか、いつもじゃれ合ってるっていうか……)
この二人が揃った場で、静かにしていることなどあっただろうか。お互いをからかい倒すことが、とにかく大好きなのだ。
「美緒ちゃん、いらっしゃい。これで全員揃ったわね。お茶とスイーツは二階に持っていきましょうか?」
「お願いしま~す!えっと、今日のお菓子は……」
白石さんは屈みこんで、カウンター横のショーケースをのぞき込んだ。
磨き抜かれたガラスのショーケースには、数種類の焼き菓子が並んでいる。それを眺める白石さんの目は、楽しそうにきらきらと輝いている。
実はこの店の菓子は全て翠さんの手作りで、内容は日替わり。
種類は多くないし、何があるかは来てのお楽しみだが、これだけははっきりしている。
――とにかく、どれもが最上の味だ。
「コーヒー・アンド・ウォルナッツか、アップルパイか……うーん、どっちにしよう……」
「ふふっ。迷うなら、両方持っていきましょうね」
「やった!翠さん大好き、ありがとう~!」
見えない尻尾をブンブンと振る白石さんに、翠さんはいつも甘い。
亜嵐さんは呆れ顔でそれを眺めている。
「美緒、少しは遠慮というものをだな……」
「いいじゃないの、亜嵐さん。藤宮くんはどのケーキにするの?」
「俺は、ヴィクトリア・サンドウィッチにします」
ヴィクトリア・サンドウィッチは、ジャム――これも翠さんの手製だ――とクリームを、バターたっぷりのスポンジで挟んだケーキだ。
素朴な見た目ではあるが、リッチなスポンジの風味と果実感豊かなジャムの取り合わせは、何度でも食べたくなる味わいだ。
「では私もヴィクトリア・サンドウィッチを」
「そう言うと思った!師匠は何でも藤宮くんとお揃いがいいんですもんね」
にんまりと笑みを浮かべた白石さんの頭にポンと拳を当てて、亜嵐さんは全員をぐるりと見渡した。
「それでは――行くとするか、ふたりとも」
「はい!」
「はーい!」
カウンターをすり抜けて、店の奥へ歩を進める亜嵐さんの後を追う。
目立たない場所にある扉の向こう側に、俺たちの秘密基地はあるのだ。
「……ねぇ、藤宮くん。栄養学のレポート、また手伝ってくれない?」
「いいよ。その代わり、生理学をちょっと教えてほしいな」
「美緒、レポートは自分の力でやるものだ。湊は……私がみてやろう」
「え~!?藤宮くんばっかり、ずるいですよ~!」
ブーイングを上げる白石さんと、それを理屈で窘める亜嵐さんの楽しそうな声。
そして近づいてくる紅茶とケーキの甘い香り。
俺にとって大切な場所、大切な日常。
今日もまた、愉快な一日が始まろうとしている。
***
湊と亜嵐の出会いの物語は、アルファポリスにて連載中です。
秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~
https://www.alphapolis.co.jp/novel/400679482/624998094
ローズメリーにて、あなたのお越しをお待ちしております☕
紅茶の香りに誘われて―英国式ティールーム・ローズメリーへようこそ 天月りん @RIN_amatsuki
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