SCENE#139 贋作の家族
魚住 陸
贋作の家族
第1章 窓辺の観察者
僕、伊吹俊介は、売れっ子のミステリー作家だ。人々は僕を「人間心理の深淵を描く天才」と称賛するが、その実、僕の創作の源は、他人には言えないある秘められた趣味にある。それは、覗き見だ。
この趣味は、幼少期に形成された。両親がいつも喧嘩をしていて、僕は自分の部屋に閉じこもり、壁越しに聞こえてくる隣人の、笑い声や穏やかな話し声に耳を澄ませるのが唯一の安らぎだった。そうして他人の日常を観察することで、僕は現実の物語を消費し、自分の孤独を埋めていた。
しかし、それ以上に、僕には別の不安があった。編集者から投げかけられる「最近の作品は刺激が足りない!」「もっと読者の心を掴むような、衝撃的な物語を!」という言葉。僕の作品が売れなくなることへの恐怖が、僕をさらに他人の物語へと駆り立てていた。
向かいのマンションに住む、穏やかな夫と美しい妻、そして幼い娘がいる、絵に描いたような幸せな家族。彼らの生活を覗き見ることが、僕の唯一の安らぎであり、創作のインスピレーションだった。しかし、その夜、僕は異変を目撃した。夫が、娘に触れようとした妻の手を、信じられないほど冷たい目で払い除けたのだ。その瞬間、妻の顔に浮かんだのは、恐怖だった。
完璧に見えた家族の亀裂。僕の心は騒ぎ、覗き見は単なる趣味から、一つの事件を追う探偵行為へと変わっていった。僕は彼らの日常をより詳細に観察し始め、夫の冷酷な一面、妻の怯え、そして娘の無邪気さの奥に隠された影を、少しずつ書き留めていった。この家族の物語は、僕の次の小説のテーマになるだろう。僕は高揚感を覚えながら、しかし、知らず知らずのうちに、自らの人生を物語の中に引きずり込んでいることには、まだ気づいていなかった。
第2章 忍び寄る視線
僕の覗き見は、もはや日常のルーティンを越え、ほとんど強迫観念と化していた。僕は毎晩のように双眼鏡を手に取り、ターゲットの家族の家を観察した。夫は僕の小説に出てくるような、外面は完璧だが内面に闇を抱える人物像そのものだ。妻は、常に怯えているようだったが、時折見せる娘への深い愛情が、僕の好奇心をさらに掻き立てる。娘は無邪気で、家族に何が起こっているのかをまだ理解していないようだった。
ある日、僕は夫が妻に対して、暴力を振るう現場を目撃してしまった。妻は泣きながら抵抗し、「やめて!お願いだから、この子に、こんな所を見せないで!」と叫んでいた。娘はその光景を見て硬直していた。僕は双眼鏡を持つ手が震えるのを感じた。これは僕の創作の範疇をはるかに超えている。現実の暴力、そして、被害者の悲痛な叫び。僕は、この出来事を小説にするべきか、それとも誰かに通報するべきか、激しく葛藤した。
その夜、妻が窓辺に立ち、僕のマンションの方を見つめているように見えた。僕の心臓は激しく鼓動した。まさか、気づかれたのか?いや、そんなはずはない。僕の位置からは見えないはずだ。僕は自分に言い聞かせ、安心しようとした。しかし、その日から、僕の生活は一変した。誰かに見られているような感覚、僕の部屋の前に置かれた、不審な手紙。そこには、僕の小説の登場人物を思わせる言葉が、いくつか綴られていた。僕は、自分が単なる観察者ではなく、物語の中に巻き込まれてしまったことを、ようやく悟り始めた。
第3章 反転する視点
手紙は続いた。手紙には、僕の覗き見の内容が正確に記述されていた。僕が何時に彼らの家を観察し、何を目撃したか。僕が妻の怯えに心動かされ、夫の暴力に憤慨したことまで、すべて見透かされているかのようだった。「先生は、もっと残酷な結末がお好きなのではありませんか?」と書かれていたこともあった。僕は震えた。これは、誰が仕組んだ罠なのか?
ある夜、僕はついに、自分を監視している人物を特定した。それは、僕が覗き見ていた夫だった。夫は僕の窓を、僕が彼らの窓を覗き見ていたように、冷たい目でじっと見つめていた。視線が合った瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。夫は不気味な笑みを浮かべ、ゆっくりと窓を閉めた。
僕は恐怖で動けなくなった。夫は僕の覗き趣味を知っていただけでなく、僕を監視し、僕の書いた小説さえも読んでいるのかもしれない。妻と娘の怯えは、夫が僕に仕組んだ演技だったのか?それとも、夫は僕の覗き趣味を逆手に取って、僕を追い詰めているのか?僕は警察に通報することも考えたが、僕の覗き趣味が明るみに出れば、作家生命は終わってしまう。僕が覗いていた事実は、僕を一番の容疑者に仕立て上げるだろう。僕は、自らの罪悪感と、夫の巧妙な罠によって、もはや、身動きが取れなくなっていた。
第4章 崩壊する現実
夫からの監視は、日々、エスカレートしていった。僕の部屋の前に置かれた手紙は、僕の小説のプロットを嘲笑うかのような内容になっていった。「次の章は、この方が面白いでしょう?」と、僕のプロットの改変案まで書かれていた。僕は寝ることも食べることもできず、精神は限界に達していた。
ある日、僕はふと、妻が僕の部屋にいるかのような錯覚を覚えた。視線を向けると、窓の外には、妻が微笑んでいる幻覚が見えた。「先生、早く続きを書いてください…」と、その幻覚は囁いた。しかし、その微笑みは、僕を誘うような、不気味なものだった。僕は恐怖に駆られ、窓を閉め、カーテンを引いた。僕の現実と虚構の境界線は、すでに崩壊していた。
そして、僕の日記の中に、こんな一文を見つけた。「最近、幻覚を見ることが多くなった…」「彼らは、僕の小説を読んでいるのではない。僕が、彼らを小説の登場人物だと妄想しているだけかもしれない…」
僕が見ていた出来事は、本当に現実だったのか?それとも、本が売れなくなることへの恐怖から生まれた、僕自身の狂気だったのか?
僕は、彼らが何者かを知るために、彼らのマンションのゴミを漁った。そこで見つけたのは、僕の小説が書き込まれたメモや、「私たちは先生の物語に生きるために生まれてきたのです…」と書かれた日記だった。彼らは僕の物語に、狂気的に執着していた。そして、彼らが僕を監視していたのは、僕が彼らの物語をいつ書き終えるか、いつ僕の物語が完結するかを、知りたかったからだった。
第5章 結末の選択
僕はついに、彼らのマンションの部屋を訪ねることを決意した。彼らと直接向き合い、この悪夢を終わらせなければならない。僕はインターホンを鳴らした。ドアを開けたのは、夫だった。
「お待ちしておりましたよ、伊吹先生!」夫は微笑みながら、僕を家に招き入れた。
「どうぞ、私たちの物語を完結させてください…」
家の中は、僕の小説に出てくるような家具が配置されており、まるで僕の書いた世界に僕自身が迷い込んだかのようだった。妻と娘もそこにいた。妻は僕に深々と頭を下げ、こう言った。
「先生のおかげで、私たちは最高の物語を生きられました。感謝しています…」
すると、無邪気に見えた娘が、大人びた表情で僕に問いかけてきた。
「ねえ、パパとママと私の物語、ハッピーエンドにしてくれるんでしょ?」
その言葉に、僕は背筋が凍りついた。彼らは、僕の次の小説を待っていた。彼らの物語の結末を、僕がどう描くのか。しかし、僕にはもう書く力は残されていなかった。
「もう書けません…」
僕はそう告げた。その瞬間、夫の顔から微笑みが消えた。代わりに現れたのは、僕が小説で描いた冷酷な殺人鬼の顔だった。
「それは困ります。先生が書かなければ、この物語は終わりません。私たちはどうすればいいのですか?」
夫の声が、低い、恐ろしい響きを帯びる。
「妻も娘も、先生の物語のヒロインになりたくて、一生懸命演じていたのですよ。私は、先生が描く、冷酷だが魅力的な悪役になりたかった。ですが、物語が終わらなければ、私たちはただの狂人に成り下がってしまう…」
夫は僕の胸ぐらをつかみ、僕の耳元で囁いた。
「先生、結末を書くか、それとも、この物語の最後の犠牲者となるか、どちらかをお選びください…」
僕は彼らに、物語の結末を強要された。彼らは、僕が書かなければ、僕自身が彼らの物語の犠牲者となると脅迫した。僕の選択肢は二つだった。彼らの望む結末を書くか、それとも、この物語の犠牲者として、消えるか…僕は、自らの覗き趣味が招いた悲劇の渦の中で、最後の選択を迫られた。
その日、警察が駆けつけた時、僕の原稿が机の上に残されていた。表紙には「贋作の家族」とタイトルが書かれ、最終章は、一人の小説家が、自らの物語を完結させるために、狂気に満ちた家族を殺害し、自らも命を絶つ…という内容だった。そして、その原稿の横には、誰が書いたか不明なメモが残されていた。
「ありがとう…先生は、最高の結末を書いてくれましたね。次は、私たちが主役の物語を…」
物語の最終章は、読者の想像に委ねられた。この物語は、伊吹が書いたものなのか?それとも、私たち読者が、彼の覗き趣味を覗き見ているだけなのだろうか?
SCENE#139 贋作の家族 魚住 陸 @mako1122
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