短編小説|枯葉の湿度

Popon

冒頭

ある楽曲をもとに広がった物語。

旋律に導かれるように、ページをめくるたび新しい景色が立ち上がる――それが「香味文学」です。



***


そこに着いたころには、外はすっかり薄暗くなっていた。

建物のまわりには灯りがほとんどなく、駐車場の白線だけがぼんやりと浮かんで見える。

靴音をひとつ鳴らすたびに、ひやりとした風が足もとへ沈んでいった。


誰に案内されるでもなく、廊下の奥の襖をそっと開けた。

畳の匂いと、かすかな消毒液の匂いが混じって鼻をかすめる。

部屋の中では、母と叔母、兄、いとこたちが小さな声で話していた。


十畳ほどの部屋の真ん中に布団が敷かれ、その上で祖母が眠っている。

頬にほんのりと色が残り、目を閉じている顔は、まるで昼寝をしているみたいだった。

一歩だけ近づき、立ち止まる。


テーブルの上には、湯呑みと、いくつかの菓子が並んでいた。

その中に見覚えのある透明な袋がひとつ、光を反射している。

ミックスゼリー。


あのころ、祖母の家のテーブルの上にもいつも置かれていたもの。


「……これ、おばあちゃん、いつも私のために買ってくれてたやつだ」


つぶやくように言って、母と叔母の顔を見た。


「そうだった?」と母が首をかしげ、叔母は曖昧に笑う。

兄もいとこたちも覚えていないらしい。

「へえ、そうなんだ」と一言だけ返して、また別の話題に戻っていく。


テーブルの上で、袋がかすかに揺れた。

誰も気づかないその小さな音だけが、胸の奥で静かに響いていた。






湯呑みに注がれたお茶の湯気が、畳の上でゆっくりとほどけていく。

母と叔母は、向かい合って弁当のふたを開けていた。

兄といとこたちは、箸を動かしながらもほとんど口を開かない。


「施設にいたころは、よく電話くれたのよ」

叔母がそう言って、箸の先で弁当の白身魚をつついた。

「それも最初の一年くらいでしょ」と母が返す。

「後はほとんど、こっちからだったじゃない」


叔母は少しだけ笑って、「そうだったかしら」と言った。

笑っているのに、声の奥に小さなとげがある。

母もそのとげを見て見ぬふりをして、お茶をひと口飲んだ。


「お金のことも、最後はどうなったの?」

「もう全部使い切ってたわ。年金もぎりぎり」

「まったく……あの人らしいわね」


会話が続くたびに、部屋の空気が少しずつ乾いていく。

黙って湯呑みを両手で包み、温度だけを感じた。


祖母の話なのに、どこか知らない人の話を聞いているようだった。

“おばあちゃん”という言葉の響きだけが、自分の記憶の中の人と少し違って聞こえる。


兄が気を紛らわせるようにリモコンを取ってテレビをつける。

天気予報の音声が、機械的に部屋に流れた。

誰も画面を見ないまま、箸の音とニュースの声だけが交互に響く。


それきり、誰も何も言わなかった。

まるで時間が部屋ごと止まってしまったみたいに、沈黙だけが残った。






叔母が時計を見て、「明日早いから、そろそろ帰るわ」と言った。

いとこたちもそれに続いて立ち上がり、ひとりが「また明日、火葬場で」と小さく言う。

母と叔母は短く言葉を交わし、それきり深くは話さなかった。


廊下に靴音が遠ざかり、襖が静かに閉まる。

部屋に残ったのは、母と兄と私だけになった。


母は背筋を伸ばして座ったまま、ふう、と小さく息を吐いた。

昼からの手続きや、慣れない段取りでずっと気を張っていたのだろう。

湯呑みを持つ手が少し震えているのが見えた。


兄がその様子に気づく。

「今日はもう帰ろう。明日も早いし。俺、車出すよ」

母が返事をする前に、兄は続けた。

「疲れてるでしょ。家で休んだほうがいい」


母は短くため息をついて、「……そうね」とうなずく。


玄関へ向かう前に、兄がこちらを見た。

「おまえはどうする?」


少しだけ考えてから、母の方へ視線を向ける。

母は「泊まらなくてもいいのよ」と静かに言った。


「私は残ろうかな」


母は何も言わず、うなずいた。

兄が鍵を預けて出ていき、襖がまた静かに閉まる。


残された部屋には、冷たい空気と、祖母の寝息のような静けさだけがあった。






襖が閉まる音がして、部屋の空気がぴたりと止まった。

さっきまであった人の声の温度だけが、まだ畳の上にうっすら残っている。


湯呑みを片づけ、背筋を伸ばして深呼吸をした。

少し湿った息が肺に入り、身体の奥で静かに広がる。


テレビがついたままになっていることに気づき、リモコンを取って音量を下げた。

画面の光が、畳の縁をうっすら照らしている。

その明るさだけが、この部屋の中でかろうじて動いていた。


冷蔵庫のモーターが低く鳴り、布団のそばからはドライアイスのかすかな音が聞こえる。

耳を澄ませ、ひとつひとつの音を確かめるように聴いた。

どの響きも弱々しく、けれど確かに生きているようだった。


冷蔵庫の中から缶チューハイを取り出し、プルタブを静かに引く。

短い破裂音のあと、炭酸の泡が小さく弾けた。

ひと口飲むと、喉の奥が少しだけ痛む。

その冷たさが、いま生きているという感覚をやっと思い出させた。


布団のほうを見る。

祖母は静かに目を閉じていた。

まるで短い夢の途中で、ほんの少しだけ休んでいるように見える。


「こんな静かな夜、あったかな」


つぶやいた声が、自分のものとは思えないほど小さく響いた。






窓の向こうで、建物が小さくきしむ音がした。

風が吹いているのかもしれない。

その音が耳に届いた瞬間、どこかで似たような音を聞いたことがある気がした。


ぼんやりとしたまま、缶を手の中で転がす。

中の炭酸がわずかに揺れて、小さな泡の音を立てた。

その細い響きが、いつのまにか別の季節の風の音に変わっていく。


──河原だった。

乾いた草の上を、風が強く吹き抜けていた。

まだ背の低かった私が、祖母の手を握って歩いている。

手のひらは少しざらついていて、でも温かかった。


「これはね、木枯らしっていうの」


祖母が空を見上げながら笑う。


「木の葉っぱを全部吹き飛ばして、木を裸にしちゃうんだよ。

 だから秋は終わり。これから冬が始まるの」



***



※この作品は冒頭部分のみを掲載しています。

続きはnoteにて公開中です。

👉 noteで続きを読む:https://note.com/poponfurukata/n/n20d2a0747f28

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