わたしが加奈子
@muchimou
わたしが加奈子
私が初めてそれを見たのは、ちょうど手術が終わって四日後の夜でした。歯を磨こうと思って病室を出て、廊下の先にある洗面所へと向かう途中で、私は何かいつもと違うような空気が病棟の中に混じっているのを感じたのです。もっともそれはただの感覚ですから、ハッキリ何が違っていると言えるようなものではありませんでしたし、そもそも私はここに入院してからまだ一週間と経っていないのですから、夜に出歩いて僅かな恐怖心から院内の光景に違和感を覚えるというのも無理のない話でした。
パジャマ姿の私はスリッパをつっかけて手には歯ブラシセットをぶら下げたまま、さっきから無性に気になってしょうがなかった背後をそっとたしかめました。もちろん誰もいません。灯りは既に看護士さんによって落とされていて、細長い蛍光灯の点線が暗闇のなかで沈黙したまま、ずっと向こうの廊下の先まで連なっています。遠くなるにつれて闇の色は濃くなっていって、さらにその向こうで、非常灯ランプが洒落っ気のない緑色の光を放っていました。
私は、豆電球のような緑色の灯りを肩越しにしばらく見つめていました。もちろん見ていてどうなるというものではありませんでした。ただ無性に気が滅入るだけです。それは分かっているのですが、私はさっきから感じている違和感の原因をできるだけ早くなんでもいいから決めつけたくて、その気味の悪い非常灯にずっと視線を向けていました。ああなんて気味の悪い非常灯だろう、と、そう心の中でセリフを吐くとさっさと振り返って洗面所へ向かいました。
私が電気をつけると、小奇麗な洗面所の中が白色灯の暖かい灯りでいっぱいになりました。その明るさが廊下の闇にも食い込んで、リノリウムの床をほんのりと照らします。夜目に慣れていた私は目がくらんで、よけいに病院の中が暗くなったように感じました。早く歯を磨いて病室に戻ろう。そう思って私は流しの前に行き、歯磨きに粉を付けて自分のコップを取り出し、水道の下に置いて蛇口をひねりました。
蛇口から流れ出た水は小さな音を立ててコップの中に溜まっていきます。コップは最初、水を注がれて少し揺れましたが、溜まった水の重さですぐに安定して揺れるのをやめました。私は水が溜まっていく様子を本当にごく短い時間虚ろな目で眺めていましたが、ふと何かに気がついたように視線を前に向けました。そこには当然のように鏡があります。
ですが、そこに映っていたものは当然のようにとはとても言えないものでした。
まだ新しく汚れ一つない鏡の中には、今そこに立っている私自身の後頭部が映っていたのです。
「え」
水色に猫のシルエットが入ったパジャマを着て、肩まで伸ばした髪は寝ぐせで少しだけはねています。そして、その髪の間からちらちらと姿を覗かせているのは、うなじにある大きな黒子。私はこの黒子が嫌で嫌で、それで髪をいつも肩まで伸ばして決してショートにはしないのです。その黒子が、鏡の向こうの後ろ姿にある。ですから、私はそれが自分の後ろ姿だと確信したのでした。
私は驚くでもなく慌てるでもなく、何か腑に落ちないとでも言ったような気持ちでそこに映る自分の後ろ姿を眺めていました。実際、それを見て私が最初にやったことは、ストレッチでもするかのように首を横に倒したり肩を捻ってみせたりと、まったく見当違いのことだったのです。私は、鏡に映る光景が途方もなくおかしなことになっているという事実に気付かず、どうにかこうにかして自分の顔が鏡に映るように身体を動かしていました。奥歯に食べ物が詰まった時になんとかして鏡でそれを見てやろうと大口を開いて顔を左右に動かしたりするのと、考え方としては同じでした。
「……」
ですが、すぐに首を動かすのをやめました。私は気付いたのです。鏡に自分の後ろ姿が映るわけない。こんなおかしなこと、本当なら起こりっこないというごく普通の考えにようやくたどり着いたのでした。そしてその時、さっき廊下の闇の中で感じたいつもと違う空気のようなものが一気に目の前の光景に凝縮され、初めて私の中に「こわい」という思いが生まれました。なぜなら、鏡の中の私の後ろ姿は、腕をだらりと垂らしたまま、ほんの少しも動こうとしないのですから……。
私は右手に持っていた歯磨きを取り落としました。どういうわけか私はその洗面所に一人でいるような気がしませんでした。本当なら、消灯時間がとうに過ぎた今、そこだけ世界が存在するかのように明るい洗面所の中で、私は一人で歯を磨いている。たったそれだけのことです。ですが、その時の私には一人でいる時のような気楽さとほんの少しの恐怖はなく、代わりに、自分の一挙手一投足がとても重要な意味をもっているかのように感じられたのでした。ちょうど、それはエレベーターで見知らぬ他人と二人きりになったような、その感覚に似ていました。
なぜ……
私には分かりませんでした。私の頭が鏡に映っているものに対して説明を加える前に、心の方がとてつもない波を作っているのを感じました。その波が、正常な思考力を奪うことになるだろうということも薄々分かっていました。なぜなら、すぐに私の本能的な部分に訴えかけるからです。
逃げろ、と。
「あっ」
しかし、私はまたしてもどういう気の迷いか、本能の声に従わずに目の前の些細な変化に気を取られました。その変化とはさきほど蛇口の下に置いたコップでした。コップから水が溢れて、びしょびしょに濡れていたのです。私はだいぶ気が動転していたのでしょう、コップのことなどどうでもいいはずなのに「いけないいけない」と慌てて蛇口を捻って水を止めました。その時に、だいぶ長い時間鏡を見ていたと感じたにも関わらず、実はコップに水が溢れるくらいの時間しか経っていなかったのだということに気付きました。
そして私が次に顔を上げて鏡を見た時には、水がなみなみと入ったコップを手に持って明りの中に立っている私自身の顔がそこにあったのでした。
あれはなんだったのだろう、とはあまり考えないように私はしていました。考えてもあまり意味がないことのように思えたのです。一番いい方法は、あれは夢だったのだと記憶を裏切って決めつけることでした。実際、それが一番現実的であるように思えましたし、そう思い込むことによって本当に夢だったのだと感じるようになりました。
でも私の心の底にまだ一抹の不安のようなものがあって、それが時々くすぶって私の口を開かせるのでした。私は看護士さんに付き添われて例の洗面所の前を通った時、ほんの興味本位から、
「あの鏡、なにかおかしくないですか?」
と、そう尋ねていました。とはいっても、私自身何がおかしいのかよくわかりませんし、まさか看護士さんに先日あの鏡で自分の後ろ姿を見た、なんてこと言えるわけがありません。
「おかしいって、何が?」
「いえ、なんとなく……」
看護士さんに聞き返されて、私はそう答えるしかありませんでした。
私がこの病院に入院することができたのは本当に幸運でした。大学へ行く途中に自転車で車と衝突し、複雑骨折をした私は、気がついたらこの病院のベッドの上で寝ていました。その間の記憶は全くありません。聞いたところによると三日以上寝ていたらしいですが、私にはその覚えはありませんから、最初はとても驚きました。それでもあとになって思い返して見ると、とにかくいつもうつらうつらしていたようなことや、自分が事故の後どこか世間と隔絶されたような感じがしたのも、三日間昏睡状態にあったからなのかもしれません。いずれにしても、その程度ですんで私はとても運がよかったのだとお医者様に言われました。
母がお医者様と見知った仲であるというのも、私にとっては幸運でした。お医者様が病床を確保するために手を回して下さらなかったなら、昏睡状態の私はいくつかの病院をたらいまわしにされていたかもしれなかったのです。母は私の病室に来るたびにそんなような話をいつもしていました。
術後、経過を見るためにまだ退院はできませんでしたが、私は今まで生きてきて入院したことがなかったので病院の中を観察するいい機会だと思いました。先日の夜に病室を出て暗い廊下を歩いたのも、そういう好奇心が先に動いたからということもあったのです。実際、夜の病棟を歩くなんてことは、入院するかそういうお化け屋敷に入る時くらいしか体験の出来ないことです。本当に気味の悪いものを見ることになるとは思いませんでしたが。
病院の色々な患者さんと触れあうのも、私にとっては楽しみの一つでした。人間はすることが特にないという状況になると各々の性格がよく表に出るような「何か」をするようになるようで、皆さん思い思いのヒマ潰しで一日を過ごしていました。中でも私がよく話をしたのが栗原さんという中年の女性で、この人は共有スペースのリビングによくいました。そこにはテレビがあってお年寄りが集まっていつも野球を見ているのですが、栗原さんはスポーツ番組には目もくれずにベンチの上に道具を広げて熱心に化粧をしているのです。私はリビングの前を通りかかって彼女の姿を見つけると横に腰掛けて、にこにこ笑いながら挨拶をしました。
「こんにちは。今日はいい天気ですね」
「あら加奈子ちゃん。こんにちは。そうね。いい天気ね。こういう日にずっと病院の中にいるのはもったいないわ」
「ええ。そうですね。もったいないですよね」
「そうなのよ」
栗原さんはそう言って額にかかる茶色の髪を丁寧にかきわけました。私は彼女本人から聞いて知っているのですが、栗原さんの髪は全てカツラなのだそうです。なんでも病気で髪が全て抜け落ちてしまって、それでカツラをかぶっているそうなのですが、何の病気かは私は知りません。そういうことは、普通は聞かないのがマナーですから、私もずっと知らないままでした。
「最近はまた暖かくなってきたわね。ずっとこういう日が続くといいのだけれど。だって私寒がりだから。ほら、前にも言ったでしょう、ここの病院、夜は冷えてしょうがないからって……」
「ええ。そうですね。夜は、冷えますもんね」
私はそう答えながらも、栗原さんのカツラから目を離しませんでした。こういうカツラって、引っ張ったら取れるのでしょうか。漫画みたいに。
でも私はそんなことをやろうとは思いませんでした。やれば必ず栗原さんは怒るだろうからです。そうしたら私はこのリビングに来れなくなってしまいます。チューリップの綺麗な中庭へ出るにはこのリビングの前を通らなくてはなりません。ですから、私はジッと栗原さんのカツラを見ているだけにしておきました。
前に栗原さんと初めて会った時は、彼女は自分からカツラを外して、すっかりツルツルの頭を笑いながら見せたりしていました。でも私が彼女と仲良くなってくると、どういうわけかカツラを外そうとしたりしないようになりました。それどころかカツラじゃないような素振りさえ見せるようになったのです。理由はわかりません。きっと、知り合いにはカツラをかぶっているという事実を伏せたい気持ちがあるのかもしれません。私は彼女の心情を汲み取り、なるべくカツラの話題には触れませんでした。
でもちょうどその時、テレビがだしぬけに「カツラ」という単語を大声で言いだし始めました。
「今週のワイドショーのテーマは、ズバリ、婦人用ウィッグの裏事情。今や老婦人の間ではマナーにもなりつつある『カツラ』の秘密に迫ります!」
私はびっくりしてテレビの方に首を向けました。野球が終わって、お爺さん方がのっそりと自分達の病室へ帰っていく中、つけっぱなしで置き去りにされたテレビはカツラ業界の裏事情について滔々と語りはじめていました。栗原さんも突然の出来事にあっけにとられてその方向を見ていました。テレビの前では、いつも野球中継で一番熱狂する老人の一人が、応援に疲れ切って眠っています。その前で、テレビはまずカツラの原材料となるものについて解説を始めました。材料はずばり人毛でした。画面はやがて中国の貧しい農村の映像に変わり、細い目でカメラを睨みつける中国人女性が映し出されます。彼女の手には切り落とされた長い黒髪が握られていました。それに被せるようにテレビの解説が、中国農村部では生活のために自分の髪をカツラの材料として売る人が増えていると――
私は立ち上がると、寝ているお爺さんの手からリモコンを奪い取ってテレビを消しました。そうして栗原さんの方に振りかえると、彼女はどこか悲しそうな顔をして俯いていました。ベンチの上に置いた口紅をしきりに指先でつついて、転がしています。私はなんと声をかけていいのか分からなくなりました。
ああいうのは、必要もないのにオシャレでカツラをかぶるような人達に向けて作られた番組ですよ。お金を出して作った高級の人毛カツラには、そこはかとない恨みの念がこもっている。今日明日食べるために髪を切って売る貧しい女性達が、埃だらけの路上に素足で立っているのが見える――そういうセンセーショナルな感情を煽るのが狙いの、下品なテレビですよ。
私は口を開きかけてそう言おうとしていました。でも、言えませんでした。そんなこと、栗原さんを前にして言えるわけがありません。私は無言で再び彼女の隣に座りました。
栗原さんは、ふぅとため息をつくとまた作り物の前髪をいじくりはじめ、手鏡で器用に整え始めました。それは前々から彼女のクセになっていたのです。カツラの前髪は、今や栗原さんの本物の毛以上に、彼女にとって大切で身近なものになっていました。ですから、テレビの言葉によってそれがニセモノであると思い出させられたのが悔しかったのでしょうか、またやはりいくら地毛を装ったところでカツラはカツラ、ということに気付いたのでしょうか、栗原さんはおもむろに手鏡を私の手に握らせると言いました。
「あげる」
「え……」
こんな大事な物、もらえません。私はそう言いかけました。実際、前髪と同じくらいにその手鏡も彼女にとって大事なもののように思えたのです。それを私なんかがもらうことは、できません。
「いいから、とっておいて。私には、やっぱり必要無いと思うから」
私が困った顔をしているからでしょうか、栗原さんはそう言って無理やり手鏡を私の方へ押しやりました。その声は笑っていましたが、どこか諦めたような悲しさがこもっていました。私が言葉を失くしてうろたえていると、栗原さんは「じゃ」と軽く手を振ってリビングを去って行ってしまいました。口紅やファンデーションなどの化粧道具も、全てベンチの上に置いたままでした。私はあっけにとられてそれら置き去りにされた彼女の宝物を眺めていましたが、やっぱり返さなきゃと思って立ち上がり、栗原さんが消えた先の廊下を見ました。
そこにはすでに栗原さんの姿はありませんでした。その代わり、取り外されたカツラが床に打ち捨てられるように無造作に転がっていました。私は床に落ちているそれを見て、栗原さんが一番大きな落し物をしたような、それでいて私には彼女にそれを知らせることもできないような、やるせない気分になりました。
生活のために自分の髪を売る人が増えている――
テレビの解説が私の耳に甦りました。さっき何も声をかけられなかった自分のことがとても嫌になります。とにかくこの手鏡を返さなくちゃ、と私が思って視線を手元にやると、またそれを見てしまいました。
手鏡の中に、私の後頭部が映っていたのです。
冗談ではなく、私は驚いて手鏡を落としました。鏡は床に叩きつけられて大きな音を立てて割れ、病室から顔を出した看護士さんが飛んできて、何があったんだと私に問いかけました。
私は気が動転していて、看護士さんの言うことにまともに答えることができませんでした。そうして恐る恐るまた床に散らばった無数の鏡の破片に目をやると、そこには何事もない私のちょっと疲れたような顔がいくつも映っているのでした。
同じ日の夕方に栗原さんが屋上から飛び降りて死にました。
次の日、私は栗原さんのカツラを持ってリビングのベンチに座っていました。今まで栗原さんが座っていたところに、今日は別の人が座っています。それはいつも隅の方のテーブルでジグソーパズルをしているお爺さんでした。お爺さんは栗原さんが死んで席が空いたのをいいことに、そのベンチをまるで前々から自分が占領していたのだと言わんばかりに居座っていました。そこにはもちろん栗原さんはいませんし、彼女の名残のようなものも全くありません。私は初めてそこに彼女の不在を感じ、心を痛めたのでした。
私はカツラを持ってしばらく呆けたように過ごしていました。手に触れる人工毛の感触は、紛れもない栗原さんのものです。私は以前に彼女の頭に触らせてもらったことがあったのでした。その感触が、まさに今私の手の中にありました。ですが、栗原さんはやはりそこにいないのです。その矛盾が、いっそう私を不安にさせるようでした。
私はいてもたってもいられなくなって、お医者様のいる部屋へ向かいました。普段は勝手に入ってはいけない場所なのですが、お医者様はいい人なので、私が相談があると言うと快く話を聞いて下さいました。
「鏡に、私の後ろ姿が映るんです」
私は開口一番そう言いました。手には栗原さんのカツラをくしゃくしゃになるまで強く握って、前にのめり込むようにして不安を打ち明けたのです。
「後ろ姿?」
お医者様はまだ若い男の方です。もしかしたら、私と同い年くらいかもしれません。私は心の奥で自分がお医者様のことを異性として強く想っていることに気付いていました。でも、そんなことは口が裂けても言えません。
「ええ。後ろ姿が見えるんです、時々。どうしたらいいんでしょうか」
「ふむ、そうだなぁ」
お医者様は机の上で書きものをしていて、私の方に目を向けてくださいませんでしたが、私の相談には真面目に答えてくださるようでした。ひとしきり思案したあげく、お医者様はこう言いました。
「それなら、鏡に背を向けて立ってみたらどうだい。それなら、鏡の中の君はこっちを向くんじゃないのかい」
「え……」
私はお医者様の言葉を聞いて、頭のなかでその光景を思い描きました。夜、またあの暗い洗面所の中で、私は鏡に背を向けて立っている。その鏡の中には、青白い顔をした、私とも言えないような私自身が口元を歪ませて笑っている――
「やだ、気味が悪い……」
私はむすっとした表情でお医者様の部屋を後にしました。お医者様が私に対して冗談めいたことを言ったのは初めてでしたし、私がそれに腹を立てて礼もせずに立ち去ったのは、それが初めてでした。
その日から私はよく夢を見るようになりました。あの、鏡の中に映る後ろ姿の夢です。最初にそれを見た夜と同じように、私は水色のパジャマを着て、鏡の前に立っていました。鏡はトーンを落としたように暗い色をしていましたが、だんだんとそこに映るものがはっきりとしてきて、私自身それに魅せられていくのがわかりました。
夢の中の鏡にもやはり後ろ姿がありました。ですが、少し様子が変です。あの嫌な黒子を髪の間から覗かせている、紛れもない私自身の後ろ姿なのに、どういうわけか、顔と向き合っているような気がするのです。私は夢の中で目を擦ることもできずに、じっと鏡を見つめていました。すると、だんだんと例の後ろ姿が私自身の顔と重ね合わさったようになってきて、とうとう、後頭部に目がついているというとても気味の悪いものへと変わりました。それが、充血したような目でこちらを見据えて、ゲタゲタと笑います。私は溶けるように悲鳴を上げました。夢は、そこで終わりです。
私はその夢と、時折見る鏡の後ろ姿について、お医者様に何度も相談しました。まるで、鏡の中にいるわけのわからないものが、どこかから忍び寄ってきて私の身体を奪おうとしているのではないか、と、そう思わずにはいられなかったのです。
けれど、お医者様は真面目に取り合ってくれそうにありません。私はあきらめて、他に相談できそうな人を探すことにしました。でも栗原さんは死んでしまってもういませんし、簡単には見つかりそうにありませんでした。
とぼとぼと私がリビングまで歩いてきて、目に留まったのは、あのいつもジグソーパズルをして遊んでいるお爺さんです。その日もお爺さんはかつて栗原さんがいたベンチの上に陣取って、パズルと睨めっこしています。私は少し離れたところの椅子に腰かけて、その様子を観察することにしました。
お爺さんは歳のわりに背筋が良く伸びていて、白髪もまだたくさんありました。ひょっとしたらもうすぐ退院するのかもしれません。それで、ここを出る前にパズルを完成させてやろうと躍起になっている。そんな風に私の目には映りました。
ですが、よく見ていると、そうではないことに気付きました。お爺さんは、パズルを解いているのではなかったのです。すでに完成しているパズルを、1ピース1ピース取り外して、別の所に移し替えて、またそこに新しく完成させようとしている。そんなことをしているように見えました。
いったい何をやっているのか私は気になりました。近づいて、お爺さんの肩越しからパズルを眺めてみると、それは船の絵をしたものでした。船、といっても豪華客船とかではなくて、ギリシャの戦艦のような、重厚ながらももう少し原始的なものです。お爺さんはじっくりその船の絵と向き合って、ピースを一つ一つ慎重に移し替えていたのでした。
「何をしてるんですか」
私は気になってとうとう話しかけました。お爺さんは、少し驚いたように振り向いて私を見ましたが、少し微笑んでまたパズルの方に向き直りました。
「テセウスの船」
お爺さんは何か含みを持たせるようにそう言いました。私には、テセウスの船と言われても何の事だか見当もつきません。
「この船の絵ですか?」
「お譲ちゃん、この前屋上から落ちて死んだ人の知り合いだろ?」
お爺さんは、私の質問は無視してそう尋ねてきます。私は、突然のことで動揺していましたが、栗原さんと仲が良かったのは本当のことなので小さく頷きました。
「悲しいかね?」
私はまた、今度は大きく頷きました。
お爺さんは、船の帆にあたる部分のピースを外して、それを指先で弄びながら私の方に向き直りました。私を元気づけるように優しく微笑んでいました。
「安心なさいな。そう、悲しむもんでもない。広い意味で言えば、死んだのは別の人だから――」
「どういうことですか」
私はたまらず、言葉を挟んでいました。たしかに、死んだのは栗原さんなんです。それが別の人だなんて、あり得ることではありません。
お爺さんは、また私の質問を無視して、勝手に話を続けました。
「お譲ちゃんに問題を出そう。たとえば、ここに一つの木製の船があったとする。テセウスの船だ。その外板を、一日に一枚ずつ引き剥がして、鉄製の板に変えていく。最終日には全てが鉄製の船が出来上がる。また、この最終日には、剥ぎ取った木材を使用して元の船とそっくり同じものを鉄製の船の隣に完成させたとしよう。このとき我々はどちらをテセウスの船と呼ぶべきか、お譲ちゃんにわかるかね」
「それは……」
私には分かりませんでした。どちらもそうであるように思えたし、どちらもそうでないようにも思えたのです。
「答えは、まぁわからん。人それぞれ。――人間だって同じだよ。身体の細胞は毎日生まれ変わる。我々を形造るものが我々の肉体以外にはないのだとすれば……君は、一年前に『君であったらしいもの』に非常によく似た、まったく別の存在だということになる」
「……」
私にはますますわけがわかりませんでした。こういう哲学的な話は苦手なのです。ですが、お爺さんの言わんとするところは感覚としてなんとなく理解できたつもりでした。要は、死んだ栗原さんは私が仲良く喋っていた時の栗原さんとは物質的に違うものであるということ。とても、人間の考えることとは思えないけれど……
その時、お爺さんが持っていたアルミ製の銀色のコップに、私の姿が反射していることに気がつきました。映っていたのは私の後ろ姿でした。私は微動だにせずそれをじっと見つめたまま、頭の中で考えました。
この後ろ姿も、本当は私じゃないに違いないのです。お爺さんが言う船の話のように、もしくは生まれ変わる身体の細胞の話のように、私のようで私じゃない姿かたちのもの。それが、この後ろ姿なのです。
私は、お爺さんに相談しようかと思いましたが、やめました。どういうわけか、わかってもらえないような気がしたからなのでした。
大事な話がある。そうお医者様に言われた私はどこかうきうきした気持ちで彼の待つ部屋へと歩を進めていました。もちろん、少し考えれば私が期待したような話ではないということは簡単に想像がつきましたが、それでも、私としてはお医者様と二人きりでお話が出来るのは嬉しいことなのでした。
私が部屋に入ると、お医者様はまず私の手に握られている栗原さんのカツラをじっと見つめました。
「それは?」
「これ……栗原さんのものです。これがあると、栗原さんがまだ近くにいるような気がして……」
実際、これは栗原さん自身の頭髪を材料に作ったカツラでしたから、パズルのお爺さんが言っていたテセウスの船の話を引き合いに出せば、こちらのカツラの方が『栗原さん自身』だとも言えるのです。あの、屋上から落ちてペチャンコに潰れた死体の方ではなくて。私はそう考えていました。そう考えると、不思議と悲しくないからです。
「……そう」
お医者様は、特に興味のない様子でそう言いました。大事な話とはなんですか、と私が尋ねようとすると、お医者様は私の言葉を遮るようにして、
「最近おかしなことは起こるかい?ほら、あれはどうなった、あの、鏡に映るやつ」
「ああ、後ろ姿ですか。あれも、最近では怖くなくなりました。よく考えれば、私の後ろ姿だと思うから怖いんです。そうじゃなくて、誰かもっと別の人だと思えば、自然と怖くないといいますか……」
「そうか」
お医者様は自分から話を振っておいてまた興味のない風を装います。ですが、今度は私にある一枚の大判の写真を見せました。それは、誰か女の人の後頭部の写真でした。ひどい怪我をしていて、頭の後ろの皮膚がごっそり削げ落ちてしまっています。もちろん髪の毛も皮膚と一緒になくなってしまって、両の側頭部に残された髪が血で固まって傷んでいました。
「これは……?」
「大事な話、と言ったのはこのことなんだ。これは、君の写真だ。実は、事故の時に君は後頭部に大けがをして、皮膚を移植するという手術を受けたんだ。だから、今の君の後ろ髪は厳密に言えば君自身の髪の毛とはちょっと違う」
「……」
「もちろん、君の後頭部に移植した皮膚は、君自身のものだ。そうでないと、拒否反応が起こるからね。君の太ももの裏から切除した皮膚を移植したんだ。でも、髪の毛に関しては少しだけ違う」
「……」
「脱細胞化処理法といって、他人の頭皮を基盤として頭髪を再生する方法を用いたんだよ。脱細胞化処理法は、高水圧をかけて細胞を破壊した他人の真皮に、君自身の毛包を移植することから始まる。移植された毛包はやがて表皮を作りだすから、それを再び君の頭部に移植する。そして最後に、君の毛乳頭細胞を注射すれば、頭髪の再生に成功するというわけさ」
「……」
「もちろん、毛包から作られた表皮は、他人の頭皮を基盤にしているとはいえ、細胞そのものは君のものだから拒否反応は起きない。でも、まぁ、言い方によっては他人の身体で育った髪の毛とも言えるから、君は嫌がるだろうと思って今まで黙っていた。それに、脱細胞化処理法で使用される頭皮は、ほとんどの場合美容外科整形などで余ったものだから、なんだか、気味が悪いしね」
「……」
私は、何も言い返すことができないまま、じっと黙ってお医者様の顔を見つめていました。私には難しい技術の話はよくわかりませんでした。でも、一つだけお医者様に言いたいことがありました。それは、どうして今こんな話をするの、ということでした。
――今の君の後ろ髪は厳密に言えば君自身の髪の毛とはちょっと違う。
――言い方によっては他人の身体で育った髪の毛とも言える。
――なんだか、気味が悪いしね。
ぼんやりとした私の耳には、お医者様のそう言う声が洞窟の中の音のように激しく反響して聞こえました。焦点の合わない視界は口の端を引きつらせて笑うお医者様の口元をやけに大きく映しだします。私は息が苦しくなったように感じました。そして、なにやら無性に自分の後ろ髪をわしづかみにして引きちぎりたい衝動に襲われたのです。実際、私は自分でも気がつかないうちにそれを実行していました。
「おい!何やってるんだ!」
お医者様が私の腕に掴みかかり、力で止めようとしました。けれど、私はそれを振りきってなおも髪の毛を頭皮ごと引きちぎろうとします。お医者様がまた何か叫びました。けれど、私の耳にはそれがどこか遠くからの声のように小さく聞こえるだけで、頭の中に響くのは私自身の荒い呼吸だけでした。
私は、一刻も早く自分の髪の毛を抜いてしまわないといけない気持ちでいっぱいでした。なぜなら、その髪の毛とは、『私』ではなかったからです。いちど私の元を離れて、他人の身体で育った髪の毛。それは、テセウスの船の外板と同じで、私の元を離れた時点で『私』ではなくなったのです。私以外の何か別の人間を構成するものになったのでした。そして、その髪の毛が再び移植されて私の元に帰ってきた今、『私』を侵食しようとしているのです。美容整形で切除された頭皮、その元の持ち主の魂が、その頭皮で育った私の髪の毛を通じて『私』の中に流れ込んできている。私を侵そうとしている。私を乗っ取ろうとしている。そのことが、今やハッキリとわかったのでした。
お医者様が人を呼んで、看護士さん達が二人部屋に駆けこんできました。私の両腕を取り押さえようとします。私は力いっぱい暴れて、その制止を振り切り、部屋から飛び出しました。もう、お医者様のことも信用できません。なぜなら、あんなひどい話を私に対してしたうえに、私の相談を聞いてくれなかったからです。
私は、夢中で廊下を走っていました。今はすでに日も暮れて、リビングや廊下に出ている患者の人はほとんどいません。時々すれ違った患者さんは皆私に白い目を向けました。私が走りながら自分のパジャマの袖を見ると、キレイな水色だったそれが汚らしい血の色に染まっていました。赤というよりも、くすんだような茶色でした。私の指にはまだ抜けた髪の毛の二三本が絡まったままです。私は虫でも払うかのようにその忌々しい毛を振り落としました。私は泣いていました。おそろしかったのです。とてもおそろしい何かが私の内側から湧きおこって来るような、その感覚を泣くことによって抑えていました。金切り声も上げました。そうしなければ、後ろ髪から伝わって私の中に侵食してくる『誰か別の人』が溢れ出てくるような気がしたからです。そうなってしまったら、私は終わりです。私は私ではなくなってしまいます。私が私です。私が加奈子です。私が私であり、加奈子なのです。断じて、鏡に映る気味の悪い後頭部の『誰か』が私であり加奈子であるなんてことは、絶対にありません。私には一瞬でも早くそのことの証明が必要でした。
私は、薄暗い廊下を走りぬけて、洗面所に辿り着きました。そうです、私が最初に後ろ姿を見た、あの洗面所です。私が荒い呼吸を抑えつつも中に一歩踏み入ると、正面の鏡の中に、まるで待っていたかのようにいつもの後ろ姿がありました。私は息を切らせて肩を上下させているというのに、その後ろ姿はまるで彫像のように少しも動きません。ただ、じっと私に後頭部を見せているだけです。
私はじりじりとその鏡に近づいていきまいた。一瞬、そこに映っているのが何なのか忘れてしまいそうなほどに焼けつくような緊張を胸に抱えていました。ふと見ると、鏡の中の後ろ姿は、血を流していました。ついさっき私が掻き毟った後頭部から、血が滲んで、髪の毛にまとわりついています。普段は綺麗な黒髪も、血糊で固まって、まるで掃き箒のようにごわついていました。パジャマの袖も、血の色で汚れています。私は短く悲鳴を上げると、水道の蛇口をひねって手を洗いました。
鏡の中の後ろ姿が、私と同じように血で汚れているのが、途方もなく嫌なことに感じられたのです。私は急いで手を洗い清めました。そして次に、蛇口の下に頭を突っ込んで、水で血を落とそうとしました。冷たい水の流れがひどく傷にしみて、私はまた悲鳴をあげました。でも、こうすることで私はあの後ろ姿と違う人間だと言えるようになる気がして、すこし安心するのでした。そして同時に、僅かな勇気が湧いてきました。私は、初めて後ろ姿に対して何か言ってやろうと言う気になったのです。
私は突然水から顔を上げると、濡れた前髪が顔に張りつくのもかまわずに叫びました。
「わたしが加奈子!」
私が加奈子であり、加奈子が私なのです。
「わたしが加奈子!」
鏡の中の他人なんかに、私をあげたりなんかしません。
「わたしが加奈子!」
だから、私の中から出てって――
「わたしが」
その時でした。私は自分の目の前にある鏡に、途方もなく不気味なものが映っていることに気がついたのです。それは、前にみた夢と同じでした。後ろ姿の頭に、目が開いていたのです。その充血した瞳が、カッと見開いて私のことを見つめていました。
私は、思わずあとずさりました。とうとう、やってはいけないことをしてしまったような気がしたのです。思えば、鏡の中のそれに話しかけたのがいけなかったのではないでしょうか、そういう後悔にも似た思いが突然に私の頭の中を覆い尽くし、途端にパニック状態を引き起こしました。
「――――――!!!」
私は声にもならないような悲鳴をあげました。その悲鳴も、不思議と自分の耳には届きませんでした。どこか遠くの世界で鳴っている音楽のように、ひどく頼りなげに響いています。それでも、鏡の中の後ろ姿がゲタゲタ笑う甲高い声は、すぐ耳元で笑われているかのようにハッキリと聞こえました。その時感じたのです、もうこの世界には私とこいつしかいないのだと。私は、捕まってしまったのだと。
私は逃げ出しました。腕で這って、砕けた腰を引きずってなんとか洗面所から出ることが出来ました。泣きながら後ろを振り向くと、それは鏡の中でまだゲタゲタゲタゲタ気味の悪い笑い声を上げながら、逃げる私を目で追っていました。私はいよいよ恐ろしくなって前に向き直り、無我夢中で床を這い進みました。
廊下は、さっき私がやってきた時よりも信じられないほど暗くなっていました。人の気配が全然しません。まるで、全く知らない廃屋の中に迷い込んでしまったかのような、そんな絶望感が私の心を打ちのめしました。
私は這ったまま廊下を右に曲がり、ようやく鏡の視線から身を隠しました。その時突然、今まで聞こえていた不気味な笑い声がはたと止み、代わりに身を締めつけるような静寂が訪れました。
何かが、そこにいる。
私にはそれがわかりました。影が、見えたのです。洗面所の入り口のところに、今まで存在しなかった誰かの影が、高く伸びていました。それが、だんだんと近づいてきます。私はそれを見ながらもなんとか先へ逃げようとしました。お医者様を呼ぼうと口を開きますが、渇いた舌が喉に張り付くばかりで声が出ません。やがて、洗面所の壁の陰から、脚が見えました。
私の脚でした。少なくとも、それはそのように見えました。なぜなら、私と同じ、水色の地に猫のシルエットが入ったパジャマを着ているからです。私は、その誰かがゆっくりと壁の陰から姿を現す様子を、開いた目で見つめていました。それから視線をそらすことができなかったのです。
私とそっくりの、私らしき人物が後ろ歩きのまま亡霊のようにゆっくり出てきました。たしかに、顔はこっちを向いていません。かかとをこちらに向けて、後ろ向きに歩いてくるのです。ですが、目はしっかりと私のことを捉えていました。例の、後頭部に開いた目玉が、ギョロリと髪の毛の間から私のことを睨みつけていたのです。
「――――たし」
後ろ向きの化け物が何か言いました。ぞっとするほど慎重に確実に距離を詰めながら、親指が内側に向いた両手を広げて、まるで着せ替え人形のように近づいてきます。
「―――わたし―――こ」
距離が近くなるにつれて、声がだんだんはっきりと聞こえるようになってきました。
「――わたし、が、かなこ」
「―わたしがかなこ」
「わたしが加奈子」
たしかに、目の前の化け物はそう言ったのです。
私はそれを聞いて、最後の悲鳴を上げました。化け物のその言葉によって、私の中の『私』が完全に殺されてしまったような、途方もない没落感が全身を襲ったのです。化け物は、そんな私をあざ笑うかのように言い続けながら、血で汚れた後ろ髪の間から覗く瞳で私の目を射通しました。
「わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが加奈子わたしが
気がつくと、私はいつものベッドの上に横になっていました。身体の上には毛布がかけられています。時間の経過がまったく感じられないほどそれは唐突でした。私は自分の心臓がはち切れそうなほどにまだ緊張しているのを感じていましたが、身体の方は、不思議と汗一つかいていません。
助かったのです。私はそう安堵しました。きっと、お医者様が助けて下さったにちがいありません。あの、恐ろしい化け物から、私を守って下さったのです。御恩は一生忘れませんと、私は目を閉じたまま彼に感謝しました。
「――やはり、駄目でした」
どこかから、お医者様の声が聞こえてきました。よく耳をそばだててみると、病室の外でお医者様が誰かと話をしているらしいのです。私は黙ってその会話に聞き入りました。
「彼女の症状は、悪化するばかりです。記憶障害はおろか、先日は鏡の中に自己像の幻覚を見たとまで言い出したんです。事故のことは発作を引き起こすと思って伏せていたんですが、院長から通達があってこの前本人に話しました」
「で、どうだった?」
「どうもこうもありませんよ。私が予想した通り、やはり発作を起こしてひどく暴れました。やっかいですね、些細なことでも自分に都合がいいように記憶を曲げてます。交通事故は三年も前の話で骨折はもうすっかり治っていることや、ここが精神病院だという事実も認めていません。それになにより――」
お医者様はそこでいったん言葉を切り、嫌な沈黙の間をもたせてから言いました。
「――自分のことを加奈子なんていう別の人間だと思い込んでいる」
「……その、加奈子ってのはどこからきた名前なんだ」
「理由はありません。全て彼女の妄想ですから」
「本当かね?私が彼女に脱細胞化処理法で植毛した際に使用した頭皮サンプルの提供者が、同じ加奈子という名前だったのは全て偶然だろうか」
「あの、教授。私に何を言わせたいのですか?今病室で寝ている彼女は、その提供者とは全く面識がないんですよ。教授が言おうとしていることは、まるで髪の毛のせいで、彼女が自分のことを加奈子だと思い込んでいるとでも――」
「それを解明するのが、君達精神科医の仕事じゃないのかね? 外科医の私には今彼女の心の中に起こっていることは全く理解できない。しかし少なくとも、一つだけ言えることは、同じような精神症状を来した患者は彼女で三人目だということだ。全員、脱細胞化処理法の移植で自分のことを別人であると思い込んでいる。まるで、髪の毛に心を乗っ取られたかのように」
「やめてください。そんなことが、あるわけない。そんなことが――」
お医者様の声は、ひどく疲れているように聞こえました。
そんな彼の声を聞いたのは、私は初めてでした。お医者様の言ってることもよくわかりませんでしたし、初めて聞く話でした。私は、それを聞きたくないと思いました。聞きたくない、そう思うと、不思議と本当に聞こえなくなるものです。人間と言うものは、なんでも考え方しだいなんだと、私はそう思いました。
私は疲れたので、目を閉じて、ゆっくりと眠りに落ちて行きました。
たった一つの、誰にも変えられないことを考えながら、私は眠りました。
それは、こうしてここにいるわたしが加奈子だということです。それは、誰にも変えられません。なぜなら、わたしが加奈子だからです。
わたしが加奈子……
わたしが加奈子……
目が覚めると、あたりはすっかり夜になってしまっていて、口の中がひどく乾いています。私は口をゆすごうと思って、歯ブラシセットを手に取り、パジャマ姿のままスリッパをつっかけて病室を出ました。そうして、暗い廊下の中を歩いて洗面所へ向かいました。
私が初めてそれを見たのは、ちょうど手術が終わって四日後の夜でした。
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます