終章:深淵からの反響
あれから半年が過ぎた。
俺と陽菜は街のアパートに住んでいる。陽菜はすっかり元気になり、以前よりももっとおしゃべりになった。俺は仕事に復帰した。もう音の欠落に悩まされることはない。
あの家はその後、原因不明の倒壊を起こしたと聞いた。まるで、その建物自体が、飽和した音のエネルギーに耐えきれず、崩壊したかのように。倉田稔という男が、その家族と共に三十年前に失踪したという事実だけが、記録として残っていた。だが、その記録も、やがて歴史の闇に埋もれていくだろう。
全ては終わった。俺はそう信じていた。信じようとしていた。
ある晴れた日曜の午後。俺は新しく買ったカメラで、公園で遊ぶ陽菜の写真を撮っていた。陽菜は満面の笑みでこちらに手を振っている。その笑顔は、かつて美咲が見せてくれた、あの笑顔にそっくりだった。
家に帰り、撮ったばかりのデータをコンピュータに取り込む。完璧な一枚が撮れていた。幸せそのものを切り取ったような、最高の写真だ。
俺は、その写真をデスクトe-toppuの壁紙に設定した。
そして、気づいてしまった。
写真の、右下の隅。ほんのわずかな領域。
そこだけ、色がほんの少しだけ、薄い。
まるで、そこからゆっくりと、世界の色が抜け落ちていく、その始まりのように。
俺は耳を澄ました。何も聞こえない。賑やかな街の音だけだ。だが、その音のさらに奥、鼓膜のもっと内側。
そこには今も、小さな「無音」の領域が、静かに、そして確実に存在している。それは、俺の存在そのものと、一体化しているかのようだった。
俺の体が、時折、陽炎のように揺らぐ。陽菜の笑顔の奥に、時折、深い空白が見える。
あの家は、俺に呪いをかけたのではない。
あの家は、俺に、「静寂」の存在を教えてくれただけなのだ。そして、その静寂の深淵に触れた人間は、もはや元の世界には戻れないということも。
それは、どこにでもある。全ての音の裏側に、全ての言葉の隙間に、全ての記憶の果てに、口を開けて待っている。
俺は、それに気づいてしまった。
もう二度と、本当の静けさを安らぎとして感じることはないだろう。
そして、陽菜も、いずれ、この「静寂」の真実に気づくのだろう。
俺の命が尽きる時、俺は静かに、その深淵に吸い込まれていくのだろう。そして、次の誰かを、そこへ誘うために、俺自身が、新たな「音のない家」となるのかもしれない。
俺の耳の奥で、微かに、何かが囁いている。音のない、言葉のない、記憶のない囁き。
『私は、ここにいる』
(了)
音のない家 クソプライベート @1232INMN
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます