第五章:静寂の真実、そして同化

最初に放たれたのは、陽菜の産声だった。

増幅され、加工された赤ん坊の絶叫が、家中のスピーカーから一斉に鳴り響いた。びりびりと空気が震える。壁が、床が、家そのものが未知の音に驚いたように、激しく振動した。

家の静寂が、抵抗を始めた。

音が歪む。スピーカーから放たれる音が、まるで水中に沈められたかのようにくぐもって聞こえる。この家が、音を喰らい始めたのだ。吸い込み、消化し、自らの糧としようとする。

「負けるか!」

俺はフェーダーをさらに押し上げた。美咲の笑い声、俺の叫び、公園の喧騒、波の音、風の音、鳥の声、車のクラクション、街の雑踏。幾重にも重なった記憶と、世界中のあらゆる「音」の層が、津波となって静寂に襲いかかる。

ガタガタガタ!

ミキシングコンソールが激しく揺れる。ラップトップの画面がノイズに覆われ、明滅する。静寂が、俺の武器を直接攻撃してきた。それは、音を打ち消す、根源的な力。

ヘッドフォンから、倉田稔のテープで聞いた、あの「音の死骸」が聞こえ始めた。空気が軋む、空間が歪む不快な低周波。それは聴覚ではなく、俺の脳髄を直接揺さぶり、思考を停止させようとする。記憶が、美咲の顔が、陽菜の笑顔が、砂嵐のようにノイズに紛れていく。

「う…あああああ!」

頭が割れるように痛い。俺は誰だ? ここで何をしている? 美咲は? 陽菜は?

その時、混沌とした音の洪水の中から、一つのクリアな音が俺の耳に届いた。

『あなたなら、大丈夫。私たちは、ここにいる』

美咲の声だった。ハードディスクに保存されていた、生前の彼女の声。そして、陽菜の、かすれた声も。

その一言が、俺の意識を繋ぎ止めた。そうだ、俺は、陽菜を助けるんだ。俺たちが、ここにいたことを、思い出させてやるんだ。この静寂の怪物に。

俺は最後の切り札を使った。マイクのスイッチを入れる。そして、スピーカーから出力された全ての音を、そのマイクで拾い、再びミキサーに戻した。

ハウリング。フィードバックループ。

キイイイイイイイイイン!

耳を劈くような、凄まじい高周波ノイズが発生した。それはもはや記憶の音ではない。音そのものが己を増幅させ続ける、無限のエネルギー。存在そのものが、己を肯定し続ける、最後の絶叫。

家が、悲鳴を上げた。

ミシミシ、と梁が軋む。壁に亀裂が走り、壁紙が剥がれ落ちる。漆喰の壁の中から、さらに奥の、真っ黒な、何かが見える。それは、空間の歪みそのもののようだった。

静寂が、音の暴力に耐えきれず、飽和状態に達したのだ。

そして。

パリンッ!

けたたましい音を立てて、リビングの窓ガラスが粉々に砕け散った。ガラスの破片は、まるで時が止まったかのように、宙に静止している。

その瞬間、全ての音が一度止んだ。

俺はヘッドフォンを外し、呆然と仕事部屋からリビングを見渡した。砕けた窓から、生温かい夜風が吹き込んできている。虫の声が聞こえる。遠くを走る車の音が聞こえる。

音が、戻ってきた。

世界に、音が戻ってきたんだ。

「陽菜!」

俺はソファに駆け寄った。陽菜はそこにいた。透けていない、確かな実体を持って。彼女はゆっくりと目を開けた。その瞳には、かつての色彩が、わずかながら戻っているようだった。

「……パパ」

陽菜の唇から、はっきりと音が紡がれた。

涙が溢れた。俺は陽菜を強く、強く抱きしめた。

「出よう。この家から」

俺たちは砕けた窓から這うようにして外に出た。振り返った時、家はただの古い建物として、闇の中に静かに佇んでいた。だが、その壁には無数のヒビが走り、まるで巨大な何かの皮膚のように、脈動しているように見えた。

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