眠る者の遺言

をはち

眠る者の遺言

第一章:忘れられない名前


山田太郎、五十歳を目前にした男は、かつて作家として名を馳せる夢を見ていた。


両親が「必ず覚えてもらえる」と名付けたその名前は、学生時代にはいじりの的だったが、


社会に出てからは何の役にも立たなかった。


いや、社会に出たと言えるかどうかも怪しい。太郎は半ば失敗した作家だった。


代表作『学校の七不思議、数えてみたら百あった』は誰の記憶にも残らず、書店の棚にすら並ばない。


それでも彼はペンを握り続けた。


「ペンを置かない限り、作家は作家だ」と信じていたからだ。


新作の構想は、太郎の心を掴んで離さなかった。


タイトルは『眠る者の遺言』。


主人公は真壁理人、元作家でレム睡眠行動障害(RBD)に冒された男。


夢の中で体が動き、夢を現実に持ち込んでしまう病だ。


物語の核はこうだ――目覚めると、自分の筆跡で書かれた覚えのない遺書がそこにある。


ありきたりかもしれないが、太郎は書き始めることでしか恐怖を形にできないと知っていた。


病気の資料を読み漁り、真壁理人に自分を投影しながら、物語を紡ぎ始めた。


だが、最近、太郎の身に奇妙なことが起こり始めていた。





第二章:夢の残響



ある朝、太郎は尿意に耐えきれず目を覚ました。


トイレに駆け込む寸前、布団の中で「あともう少し」と焦る感覚が夢だったことに気づいた。


「危ねえ、寝しょんべんなんて何十年ぶりだ」と笑いものにしようとしたが、喉の奥に冷たい不安が引っかかった。


翌朝、背中に鋭い痛みが走った。


鏡を見ると、背中は無数の引っかき傷で覆われていた。


昨夜の夢が脳裏に蘇る――毛虫が這う感触、ざらついた不快感が背中にまとわりつく。


ベッドの脇に落ちていた孫の手を見つけたとき、太郎は息を呑んだ。


「これで自分で…?」


夢の中で動いた手が、現実の傷を刻んだのだ。


太郎は自分の小説を思い出した。真壁理人が夢で暴れ、目覚めると身体に異変が起きる物語。


だが、これは現実だ。自分の身に起きている。


「まさか、俺が理人みたいに…?」


不安を振り払うように、彼は原稿に向かった。


書くことで恐怖を制御できると信じたかった。





第三章:現実を侵す夢



数日後、事態はさらに悪化した。


夢の中で、太郎は美容院にいた。


ハサミが前髪に近づき、金属の音が耳に響く。


目覚めると、床に散らばる髪の毛とハサミ。


鏡に映る自分は、子供のようなパッツン前髪になっていた。


「わらえねぇ」と呟く声がかすれ、鏡の中の自分がまるで真壁理人のように見えた。


太郎は震える手でハサミを握り、原稿に書き加えた。


「理人は夢で髪を切り、目覚めると前髪がなくなっていた。」


だが、夢は止まらなかった。


ある夜、太郎は歯医者の椅子に座る夢を見た。


医者が無造作に前歯を掴み、冷たい器具が歯茎に食い込む。


「抜きますよ」と声が響く瞬間、鋭い痛みが走った。


目覚めると、枕元に折れた前歯が転がっていた。


口の中は血の味で満たされ、鏡に映る自分の笑顔は欠けた歯で歪んでいた。


「これ、俺がやったのか?」


太郎は震えながら原稿に書き込んだ。


「理人は夢で歯を抜かれ、目覚めると前歯が折れていた。」






第四章:最後の夢



その夜、太郎は最悪の夢を見た。


薄暗い部屋で、彼は自分の喉にナイフを当てていた。


刃の冷たさが皮膚を刺す。


「動くな、動くな」と叫ぶが、体は言うことを聞かない。


ナイフがゆっくりと横に滑り、皮膚を裂く感触がリアルに伝わってくる。


「やめろ!」と叫んだ瞬間、猛烈な睡魔が襲った。


夢の中で眠る――そんなことがあり得るのか?


だが、太郎の意識は深い闇に沈んだ。


翌朝、太郎の部屋は静寂に包まれていた。


机の上には、乱雑な筆跡で書かれた遺書が置かれていた。


そこにはこうあった。


「私はもう疲れた。この世界に居場所はない。さようなら。」


その下に、一文が加わっていた。


「眠る者は、決して目覚めない。」


太郎の体は冷たくなり、喉には深い切り傷が走っていた。


床には血に濡れたナイフが転がり、まるで夢の続きを語るかのように静かに光を反射していた。


原稿の最後のページには、震える筆跡でこう書かれていた。


「真壁理人は、夢の中で死んだ。そして、私もまた――」

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