オータムフェストと忘れ物

@yoll

オータムフェストと忘れ物

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 オータムフェスト。

 北海道は札幌市で催される所謂グルメイベントだ。札幌中心部の大通公園4丁目から11丁目を使い、無数の出店でみせが全長約1㎞にも渡って並ぶその姿は壮観だ。

 そして広い北海道の各地から集められ(勿論道外の食材もあるが)、選りすぐりの食材で作られた料理を楽しむことが出来る。

 勿論お祭り価格であり、の覚悟をするか、初めにアルコールで財布のひもを緩めないことには、そのお値段に尻込みをしてしまうのだが。


 俺はそのオータムフェストの喧騒がやや遠くから聞こえる、大通り1丁目にあるテレビ塔の下にあるベンチでぼんやりと星空を見上げていた。

 時間を潰すために少し昔のことを思い出しながら。




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 彼女と別れ話を始めたあの一日は、何時もと同じように始まった。

 その時はまだ大学を卒業して社会人2年目の俺は、気怠さを覚えることにようやく少し慣れてきた月曜日の朝、彼女の声で何時ものように起こされた。

 何時ものように大きなあくびをしながら、彼女の入れてくれるコーヒーを飲むためにソファーに座りぼんやりとしている。そして、湯気を立てる二つのマグカップを持ち、隣に座る彼女に「おはよう」と言った後でマグカップを受け取り、濃いめのコーヒーをゆっくりと口に含む。


 テレビに映る番組は何時もと同じ。エンタメニュースや昨日のスポーツの結果が次々に消費されてゆく。二人してそれに対して好き勝手なことを言い合い、彼女が一人暮らし時代からお気に入りで使っているオーブンレンジが、メロディを鳴らすのを待っている。

 マグカップのコーヒーが少し温くなってきたころ、彼女はテレビを見ながらオーブンレンジに向かう。星座占いが11位を発表し始まるころ軽快なメロディが部屋に響き、彼女がオーブンレンジの扉を開け、溶けたバターの乗ったトーストをCorelleの皿の上に乗せる。

 一寸そそっかしい彼女が何度落としても割れないこのブランド物も、彼女が一人暮らし時代からお気に入りで使っていたものだ。

 湯気を上げるトーストを彼女が俺の前のローテーブルに置く。


 その日の俺の星座の順位が1位で、彼女は残念ながら最下位だったことを覚えている。最後まで残っているお互いの星座は一体どちらが1位なのか、何時もより少し盛り上がった。

 彼女はその結果に文句を言いながら俺の前に座り直し、すっかり冷めたコーヒーを飲み始める。俺はそれを眺めながらトーストを平らげる。


 コマーシャルが始まった頃俺はトーストを食べ終わり、Corelleの皿を流し台に置き、洗面所へ向かう。顔を洗い、タオルで顔を拭き、歯を磨き、襟元が水で濡れたパジャマを隣の洗濯機へ放り込む。ついでにタオルとパジャマの下も脱いだ後に洗濯機へ。

 都合、下着一枚の俺は茶の間を通り寝室へ向かうが彼女の視線はテレビの方に向いている。付き合い始めの頃はチラチラとそんな俺の方を見ていたこともあった。


 寝室で仕事着であるスーツに着替え、「行ってくる」と声を掛けると「行ってらっしゃい」と彼女が俺を見て言ってくれる。その時にキスをしないようになったのは何時の頃からだったか。


 時の流れは少しずつルーティンを変えてゆく。



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 その日、会社で小さなミスをした。

 いや、正しく言うならそんなミスは何時ものようにやらかしている。因みに言うと今でもだ。あの頃から比べればその回数はだいぶ減ってはいるが。


 小さなミスとは例えば、机の引き出しに入っているネームプレートを付け忘れたり、タイムカードを押し忘れたり。些細と言えば些細だが、積もり重なると上司から小言が始まる。小さく溜息を吐かれながら。

 今では少なくても部下を持つようになった自分は、あの頃の上司はよく我慢していたもんだと尊敬する。あの溜息は俺にではなく、小言を言わなければならない自分の立場に対して吐いたのだろう。そう思える程度には成長したつもりだが、当時の俺にはそんなことには気付くことは無かった。


 馬鹿な俺はぶつぶつと文句を言いながらも仕事を続けていた。

 そんな時に悪いことが続くのは良くあることで、会社では小さなトラブルが発生。俺はそれに対応するために件の上司と駆り出される羽目になった。結局トラブルを解消して退社することが出来たのは、時計の短針が12の文字を過ぎたころだった。

 

 上司の運転する車で自分のアパートまで送ってもらうと、2階にある俺の部屋の明かりがまだ点いていた。

 短くお礼を言って上司の車から降り、階段を上がる音を立てないよう注意して2階へ上がる。小さく「ただいま」を言いながら部屋に入ると、彼女は椅子に座りテーブルに頭を乗せて小さく寝息を立てていた。

 テレビはコマーシャルを映していた。


 今度はもう少し大きな声で「ただいま」と言うと、彼女は少しびっくりして体を揺らす。そしてゆっくり体を起こすと椅子から立ち上がる。少しふっくらしている頬は片方だけ赤くなっていた。


 きっと、多分。彼女は長い間俺のことを待っていてくれてたのだろう。

「おかえり」と言う彼女は少し疲れた顔をしていた。


 馬鹿な俺はその時、無駄な残業までして疲れた帰ってきたのに眠っていた彼女にくだらない怒りを覚えたのだろう。帰るのを待ってくれていた、その優しさに気付かずに。


 慌ててコンロの上の鍋を温め始めた彼女の背中に向かって俺は、何時ものように少し困った顔をして許してくれるだろうと勝手に思い込み、馬鹿な言葉を吐き出した。



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 どんな言葉を交わしたのかは記憶にない。

 覚えているのはショートカットの黒髪を震えるように揺らし、大粒の涙をこぼした彼女が寝室に一人入って行く光景と、そして一週間以内にこの部屋を出ていくという言葉、そして微かなカレーの匂いだけだった。



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 次の日、俺は彼女がつけるテレビの音で目覚めた。ソファーで眠ったせいで首と腰が少し張っていて、体を起こすとあちこちが悲鳴を上げていた。

 シャワーを浴びずに昨日は寝てしまったため、皺が付いたスーツをソファーの背に乱暴に脱ぎ捨てると風呂場へと向かう。

 彼女は俺がいなくなったソファーに腰を下ろし、赤い目をしてエンタメニュースをぼんやりと眺めていた。


 熱めのシャワーを浴びながら俺は昨夜の事を考える。どう考えても悪いのは俺だ。謝らなければと考える。でも、きっと二、三日もすれば何時ものように変わらない日常に戻れるのだと、そんな都合の良いことも考えていた。


 風呂場から上がり、バスタオルで体を拭き洗濯機へ放り込み、部屋干し用の洗濯物干しに掛かっている下着を穿いて茶の間を通り、寝室へ向かう。

 タンスの中からワイシャツを手に取り袖を通した後、少し考えてから茶の間に戻り皺のついたスーツを着直した。

 ソファーに座る彼女は俺に背を向けて、赤い目のまま占いの順位を眺めている。


 その背中に謝ろうと口を開くが、くだらないプライドが邪魔をして、どうしようもない思い込みが更にその背中を押し、思わず言葉を飲み込んでしまった。


 そして無言で部屋を出ていく。


 致命的なまでにルーティンは壊れていた。


 それから5日後、彼女は荷物をまとめて部屋から出て行った。



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 仕事から帰るとがらんとした部屋が待っていた。幾つかの家具と小物たちが無くなっていた。

 そこに残されたものを呆然として確かめながら、俺は初めて後悔していた。彼女が出ていくまでの5日間、声を掛けるタイミングは幾つでもあった。謝る時間は幾らでもあった。


 食器棚には一人分のCorelle。お揃いのマグカップの片割れ。

 オーブンレンジは重かったのか残っていた。


 寝室に向かうと彼女の衣類はきれいさっぱりと姿を消していた。


 俺は力なくソファーに座ると、冷蔵庫のビールを飲もうとその扉を開ける。

 一人向けのその小さな冷蔵庫内には2本のビールと、ホーロー鍋だけが入っていた。


 ホーロー鍋を引っ張り出してみると、蓋にはポストイットが貼られていて、「最後に作ったよ。食べてね」とだけ書かれていた。


 蓋を開けると、あの日食べ損ねたカレーがたっぷりと入っていた。

 涙が流れたのは、あの日から初めてだった。

 ああ、俺は彼女が好きだったんだ。 



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 月日が経つのは早いもので、彼女が出て行ってから2年がたった。光陰矢の如しとは良く言ったものだ。社会人も4年目に突入した俺は仕事にも慣れてきて、それを認めてくれた上司が簡単な肩書を付けてくれた。

 数人の後輩と数人の部下がが出来て、上司の苦労を多少なりとも感じる様になることも出来た。上々の成長だと自分では思っている。

 任せられる仕事も増え、やりがいも分かってきた。少しだけれど給料も増えた。


 その間に1人の女性とお付き合いをした。けれども長くは続かなかった。

 何となく、付き合う前からそうなる気がしていた。それからは時々女性と良い雰囲気になることはあったが、付き合いたいと思うことは無かった。あの時の彼女の背中と、謝れなかった罪悪感がこびりついて離れなかった。

 あの時付き合った女性には本当に悪いことをしてしまった。


 古くからの友人に彼女と別れたことを伝えた時は、烈火のごとく怒られた。結婚式の友人代表で使うネタまで考えていたのに何を馬鹿なことをと、物が無くなったままの部屋で酒を一緒に飲みながら、そう言ってくれた。その気持ちが有難かった。


 ある日、仕事から帰りシャワーを浴びた後でビールを片手にソファーでくつろいでいると、ローテーブルに放っていたスマートフォンが短く揺れた。


 なんとは無しにスマートフォンのロックを解除して見ると通話アプリではない、キャリアメールのアイコンが表示されている。

 最近多い詐欺メールかと思い直ぐに消去しようと思ったが、送信されたアドレスを良く見てみると一瞬にして記憶がフラッシュバックする。


 やや個性的なアルファベットで綴られるそのアドレスは彼女の物だった。

 大学時代、付き合い始めに念のためと交換したまま、忘れていたやつだった。



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 早鐘を打つ心臓に急かされるように開いたそのメールは始め、とりとめのない挨拶と近況が短く書いてあった。その後に通話アプリはブロックされているのではと思い、念のためにキャリアメールを使ったこと。

 そして、部屋に忘れ物がありそれを取りに行きたい、都合の良い時間がないかの確認だった。


 俺は直ぐに返信を送った。今からでも大丈夫、と。


 通話アプリと違い、既読の確認が出来ない時間をもどかしく感じながらスマートフォンを握り締めていると、割とすぐに新しいメールが届いたことを示すアイコンが表示された。


 流石に今からは無理だとだけど明日の夜なら大丈夫という内容に、俺は自分でも呆れるくらい素早く了解のメールを返信する。すると彼女からも直ぐに、じゃあ明日の夜に、と返事が返ってきた。


 メールはそれきりだった。

 俺はじっとりと汗をかいた掌をソファーで拭い、ビールを喉に流し込んだ。



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 情けないことに次の日は仕事が手につかなかった。久しぶりに上司からの小言を頂いたくらいだが、それでも上の空だった。終業時間が近づくたびに心拍数が上がってゆく。

 そして終業時間を迎えると同時にデスクの片づけを始め、5分ほどで退勤する俺のことを上司や後輩、部下たちが驚いた目で見送っていた。後で何か言われるだろうがこの時の俺には関係が無かった。


 会社の駐車場においてある、一人になってから買った中古の軽自動車に乗り込みアパートへ急ぎ向かった。部屋に戻ると今まで見たことのない時刻を時計が示していて、思わず笑いが込み上げてきた。彼女がいたころにはここまで急いで帰ってきたことも無かったというのに。


 冷蔵庫の扉を開けてペットボトルの水を取り出し乾いた喉を潤すと、スーツの上着とネクタイをソファーの背に放り投げる。それでも落ち着かない俺はコーヒーでも淹れようとやかんでお湯を沸かすことにした。


 火に掛けられたやかんの蓋がカタカタと音を立て始めたころベルが鳴った。慌ててコンロの火を止めるとインターフォンのモニターを確認する。


 そこには見覚えのあるバッグを持ち、見たことのない長い髪をした彼女が映りこんでいた。



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 玄関先での短いやり取りの後部屋に上がってもらった彼女は懐かしそうに茶の間を眺めると、食器棚のCorelleとあの頃から少し汚れたオーブンレンジを目にして、「まだ使ってるんだ」と少しびっくりした表情で言った。俺は何も言わずに一度頷いた。


 それから久しぶりに二人でソファーに座ると、最初はとりとめのない話から始まった。

 仕事の事、最近見たドラマや映画の事。美味しい食べ物の事。

 不思議と。いや、当たり前のようにお互いの話題は重なり、何時までも続いて行く。時間を忘れ、取り戻すかのように楽しい会話が続いた。

 その時間は本当に楽しかった。

 

 お互いにあの日のことは触れなかった。

 

 陽が傾きそろそろ明かりが必要な時刻になった頃、彼女は思い出したかのようにソファーから立ち上がり寝室の忘れ物を持っていきたいと言った。


 寝室のドアを開けると彼女はゆっくりと寝室の中に入ってゆき、ベッドの横においてあるナイトテーブルで少し埃をかぶっていた少女漫画の本を1冊手にすると、茶の間に戻ってくる。

 正直、古本で探せばどこにでもあるタイトルのそれを、大事そうにバッグの中に入れる。俺はそのバッグを見て思わず「まだ使ってるんだ」と声を上げた。彼女は何も言わずに一度頷いた。


 付き合い始めてから、彼女の初めての誕生日に送ったそれほど高くもないバッグ。ところどころ持ち手や角の合皮が少し痛んでいるが、大事に使ってくれていることが嬉しかった。


「じゃあそろそろ」と彼女が言った。俺は「会えて良かった」と返す。

 彼女はもう一度茶の間をゆっくりと眺めた後、玄関へ向かった。


 その背中に、俺はあの時言えなかった言葉を伝えた。

 彼女はゆっくりと振り返ると、あの頃と同じ笑顔を浮かべた後、静かに部屋を出て行った。


 やかんのお湯はすっかりと冷めており、コーヒーを飲むためにもう一度コンロに火を点けた。


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 オータムフェスト最終日。

 彼女と初めてデートをしたあの日と同じ時間、その待ち合わせ場所で、何の約束もないまま俺は馬鹿みたいにベンチに座っている。あの時より少し大きくなった喧騒を遠くに聞きながら。あの時の、2年前の夜のことを思い出しながら。

 

 あの時、彼女は少し遅れてやってきた。

 今、この時と同じように。


 あの頃とは違う長い髪を揺らして、彼女は俺の前にやってきた。

 

 俺はベンチから立ち上がり、君へ伝える。


「大好きだよ。もう一度一緒にいて欲しい」

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