アンダー・ザ・ウォーター
マゼンタ_テキストハック
アンダー・ザ・ウォーター
アクリル板の向こう側で、女は退屈そうに爪を眺めていた。メディアが「鬼」と名付けた女。前科四犯、保険金殺人容疑。私の前にいるのは、小太りで、どこか幼ささえ感じさせる女だった。
「先生も、私が殺したと思ってるんでしょ」
初めて交わした言葉は挑発的だった。だが、その声は雨音のように湿っていて、乾いた敵意は感じられない。私は淡々と答えた。
「事実を積み上げ、法廷で証明するのが私の仕事です」
調査は困難を極めた。女の供述は二転三転し、感情の起伏は嵐のようだった。世間では、女の『稀代の悪女』という虚像が日に日に固められていく。だが、私が接する彼女は、その虚像の縁をはみ出すように、不意に子供のような顔で笑ったり、絶望に打ちひしがれて泣きじゃくったりした。そして、時には秘めた凶暴性をみせ、パイプ椅子をひしゃげさせたりもした。
私は、彼女が嘘をついていることに気づいていた。しかし、それは殺人を隠蔽する嘘ではなかった。何か、もっと根源的なものを守るための、不器用で必死な嘘。
女は資産家の夫ともに、車ごと海に飛び込んだ。夫は死に、女は助かった。保険金の受取人だった女は殺人の容疑で逮捕されたが、無実を主張していた。
何度目かの接見。私は切り出した。
「旦那さんは自殺だった。そうね?」
それは弁護士としての一線を越えた言葉だった。
女は初めて、射るような視線を私に向けた。長い沈黙の後、彼女の唇が震える。
「あの夜、運転していたのは夫よ。死にたいって、あいつが言ったの」
すでにこれまでの供述とは食い違う。被告人の主張は事故だ。
「……でもね、先生。あいつ、手前で怖気づいたの。ブレーキを踏もうとしたのよ!」
彼女の瞳が、暗い水底のように揺らぐ。
「だから、私が……その足の上から、アクセルを踏んであげたのよ」
それは殺人か、幇助か、それとも歪んだ愛の形か。法廷で語ることのできない、二人だけの真実。
私は、法廷で「事故死」を覆した。証拠をそろえて「夫の計画的な自殺」という筋書きを立証してみせた。女は完全に無罪になった。
釈放の日。冷たい雨が降る中、拘置所の門から現れた女に、私は傘を差し出した。彼女は私の隣に寄り添い、小さな声で囁いた。
「ねえ、先生。これから、どこへ行くの?」
私たちは雨に濡れたアスファルトを歩き始めた。車のキーは、私のポケットに入っている。どちらがハンドルを握るのか、まだ決めてはいなかった。
アンダー・ザ・ウォーター マゼンタ_テキストハック @mazenta
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