記憶を喰らう家

をはち

記憶を喰らう家

霧が町を覆う夜、古びた洋館はひっそりと佇んでいた。


黒ずんだ石壁に絡まる蔦は、まるで生き物のように脈打ち、館全体を覆い尽くしていた。


重い鉄扉が軋む音を立てて開くと、ヒロシは埃と湿気に満ちた空気を吸い込んだ。


背後で扉が閉まる音が、闇に呑まれるように響いた。


ヒロシは全てに絶望していた。


家族との確執、裏切られた恋、積み重なった後悔――それらが彼の心を蝕み、生きる意味を奪っていた。


「記憶を食べる家」と呼ばれるこの洋館の噂を耳にしたとき、彼は初めて希望を見た。


訪れた者の記憶を奪い、空白の魂を残すというこの場所は、ヒロシにとって救済だった。


記憶を失えば、痛みも消える。


過去を捨て去れるなら、それが自由だと信じた。




一夜目:薄れゆく記憶


玄関ホールは薄暗く、剥がれかけた壁紙が風もないのに揺れていた。


階段の先、廊下の奥から微かな足音が聞こえる。


ヒロシが顔を上げると、白いドレスをまとった少女が立っていた。


長い黒髪が顔を半分隠し、彼女の瞳は鋭く、どこか悲しげだった。


「ここに来てはいけない」と少女は囁いた。


声は冷たく、しかし切実だった。


「この家は、記憶を奪うだけじゃない。あなた自身を飲み込んでしまう。」


ヒロシは鼻で笑った。


「それでいい。俺には、この記憶は重荷でしかない。」


少女は名を凛と名乗った。


彼女は洋館に住む唯一の住人で、記憶を守るためにここにいると言った。


「この家は生きている。記憶を食べて力を得る。奪われた記憶は二度と戻らない。


あなたが失うのは、ただの過去じゃない。自分が何者だったかも忘れてしまう。」


ヒロシは彼女の言葉を無視し、館の奥へと進んだ。


廊下の突き当たりには古びた鏡があった。


鏡に映る自分の顔は、すでにどこかぼやけている気がした。


記憶が薄れる予兆だった。


その夜、ヒロシは異変に気づいた。


朝食に食べたコンビニのサンドイッチの味、子どもの頃に遊んだ公園の風景、母の笑顔――それらが頭の中で霧のように溶けていく。


代わりに、奇妙な軽さが胸に広がった。


過去の重荷が消えるたび、彼は自由になっていく気がした。


だが、同時に、得体の知れない空虚さが忍び寄っていた。




二日目:凛への疑念


二日目の夜、ヒロシは書斎で古い日記を見つけた。


ページには見覚えのない名前や出来事が綴られていたが、なぜか胸が締め付けられる。


まるで自分の記憶が、知らない間に紙の上に流れ出し、別の誰かの物語に書き換えられているようだった。


凛はヒロシの側に現れ、静かに語った。


「記憶はあなたそのもの。失えば、ただの抜け殻になる。この家は再生なんて与えてくれない。ただ奪うだけ。」


ヒロシは苛立ちを隠さず尋ねた。


「なら、なぜお前はここにいる?」


凛の目が揺れた。


「私は…大切な人を忘れたくなかった。この家に閉じ込められた記憶を守るために、ここにいる。


でも、時間がない。あなたも私と同じになる前に、逃げて。」


だが、ヒロシは彼女の言葉に疑念を抱き始めた。


凛は本当に存在するのか? 彼女の声、悲しげな瞳――それすらこの家の幻ではないのか?


記憶が薄れる中、ヒロシは自分が何を信じていいのか分からなくなっていた。


凛の姿が揺らぎ、まるで霧のようにぼやける瞬間があった。


彼女は本当にそこにいるのか、それともこの家が作り出した罠なのか?


廊下を進むたび、壁の肖像画が彼を睨みつけ、目が動いているように感じた。


階段を駆け下りるたび、足音が追いかけてくる。


振り返っても誰もいないのに、背後に冷たい息遣いを感じた。


凛の声が聞こえるたび、それが自分の頭の中の幻聴ではないかと疑った。




三日目:迷宮と恐怖


三日目の夜、ヒロシの記憶はほとんど消えていた。


自分の名前すら時折曖昧になり、かつての恋人の顔も、家族との諍いも、ただの靄のような断片に変わっていた。


だが、奇妙なことに、彼は凛の顔や声を鮮明に覚えていた。


彼女の悲しげな瞳が、頭から離れない。


「なぜだ?」ヒロシは呟いた。


「お前を覚えているのに、俺自身を忘れていく。」


凛は静かに答えた。


「この家は、強く願うものを最後まで残すの。あなたは私を覚えていたいと、どこかで願っている。だから、私の記憶だけが残る。」


だが、ヒロシはその言葉すら信じられなかった。


凛は本当にそこにいるのか?


彼女の声は、館の囁きと混じり合い、まるで家そのものが彼を操っているように感じた。


記憶を捨てるために来たはずなのに、その目的すら曖昧になり、


ただ「逃げなければならない」という本能だけが彼を突き動かしていた。


ヒロシは館の最深部へ向かった。


巨大な扉からは黒い霧が漏れ出し、まるで生き物のように蠢いていた。


凛が言った。


「ここには家の心臓がある。壊せば、記憶は戻るかもしれない。でも、失敗すれば、私たちは永遠にこの家の一部になる。」


ヒロシは迷った。


記憶を取り戻すことは、過去の痛みを再び背負うことだ。


だが、凛の存在――それが本物かどうかも分からない彼女を失うことには、耐えられない感情が湧いていた。


彼女の手を握り、ヒロシは扉を押し開けた。




最後の夜:闇の心臓


中には、闇そのものが蠢いていた。


無数の声が囁き、断片的な記憶が浮かんでは消える。


母の怒鳴り声、恋人の冷たい目、友の笑い――それらが彼を飲み込もうと襲いかかってきた。


凛の声が叫んだ。


「目を閉じて! 自分を信じて!」


だが、ヒロシは目を閉じても、凛の手の温もりが感じられなかった。


彼女は本当にそこにいたのか?


それとも、この家が作り出した幻だったのか?


闇の中で、ヒロシはただ一つ、自分が何を失い、何を守ろうとしているのかを考え続けた。


だが、その答えすら霧のように溶けていく。


やがて、轟音とともに闇が砕け、静寂が訪れた。




結末:幻の果てに


朝日が差し込む洋館は、もはやただの廃墟だった。


ヒロシは倒れ込み、息を切らしていた。


記憶の一部は戻っていた。


痛みも、後悔も、断片的に彼の胸に蘇っていた。


だが、なぜ自分がこの家に来たのか、どうやってここから脱出したのか、それらの記憶は永遠に失われていた。


そして、凛の存在もまた、曖昧だった。


彼女の悲しげな瞳、冷たい声、手の温もり――


それらが確かにあったのか、それともこの家が作り出した幻だったのか、ヒロシには分からなかった。


胸の奥に残る、彼女の記憶らしきものは、まるで夢の残滓のようにぼやけていた。


ヒロシは立ち上がり、廃墟を後にした。


過去を捨てたかったはずなのに、彼は自分が何を失い、何を守ったのかすら理解できていなかった。


記憶の断片を抱え、彼は霧の中に消えていった。


その姿は、まるで自分の存在すら忘れた亡魂のようだった。


洋館は静かに崩れ始め、霧の中に溶けた。


まるで、ヒロシの人生そのものが幻だったかのように。


彼が守ったのは、記憶の一部だった。


だが、それは彼がかつての自分を失った代償に得た、哀れで曖昧な残骸にすぎなかった。


凛という少女がいたのかどうか、それすらも、永遠に霧の中に消えていた。

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