禁忌の崖
をはち
禁忌の崖
岸谷岩雄は、盆栽ハンターと呼ばれる男だった。
山奥の険しい崖に分け入り、岩肌にしがみつくように育つ希少な苗木を採取する。
その命がけの仕事は、ただの生業ではなく、彼の血に刻まれた業だった。
師匠から受け継いだ技と教え、そして何よりも「決して足を踏み入れてはならぬ崖」の掟。
それが岩雄の人生を縛る全てだった。
だが、その日、岩雄は禁忌の崖に立っていた。
依頼主から頼まれた苗木が見つからなかったのだ。
かならず依頼主の期待以上の成果を出してきた岩雄にとって、それは許されぬ事であった。
師匠の声が脳裏に響く。
「あそこには行くな。どんな苗木があろうと、命を賭ける価値はない」と。
しかし、目の前に広がる岩肌には、息をのむほど美しい盆栽の苗木がひっそりと根を張っていた。
その姿は、まるで彼を誘うように風に揺れていた。
岩雄の心は揺れた。
師匠の教えを破る罪悪感と、盆栽ハンターしてのプライドがせめぎ合う。
だが、結局、プライドが勝った。
彼は慎重にロープを腰に巻きつけ、崖の表面を滑るように降り始めた。
陽はまだ高く、岩雄の手は次々と苗木を摘み取った。
どれも見事なものだったが、彼の目はさらに貪欲に次の獲物を探した。
日が傾き始めた頃、ふと足下を見ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
崖の斜面に、まるで自然が作り上げたひさしのように突き出した岩棚。
その上に、岩雄が見たこともないほど完璧な苗木が立っていた。
幹は力強く、葉は生命力に満ち、まるでこの世のものとは思えない美しさだった。
「これだ」と岩雄は呟いた。
今日採取した全ての苗木を捨てても、この一本を持ち帰る価値がある。
そう確信した瞬間、彼の心は決まった。
ロープの長さを確認し、岩雄はひさしへと降り立った。
足場は狭く、風が容赦なく吹きつける。
それでも彼は慎重に、まるで神聖な儀式のように苗木を手に取った。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
まるで崖そのものが彼の存在を拒むように、かすかな振動が足下を揺らした。
だが、岩雄は気づかなかった。夢中だったのだ。
苗木を手に、満足げに岩雄は帰路につこうとした。
だが、その時、彼は異変に気づいた。
ロープが、いつもより遠くにある。
手を伸ばしても、指先が届かない。
見上げると、ロープの先が風に揺れ、まるで嘲笑うように彼から離れている。
岩雄の心臓が早鐘を打った。
「そんなはずはない」と呟きながら、彼は何度も飛び跳ねてロープを掴もうとした。
だが、その距離は絶望的だった。
そこでようやく、岩雄は気づいた。
自分の体重だけではない。
漁るように収穫した苗木――その予想外の重さが、ロープをいつも以上に伸ばしていたのだ。
背負った袋には、今日採取した苗木がぎっしりと詰まっている。
それら全てが、彼を崖の底へと引きずる重石となっていた。
冷や汗が背中を伝う。
陽はすでに山の稜線に沈み、薄闇が崖を覆い始めていた。
岩雄は叫んだ。
「誰か! 助けてくれ!」だが、禁忌の崖に人の足音が響くことはない。
師匠の言葉が、まるで呪いのように頭をよぎる。
「あそこには行くな。行けば、帰れぬ。人の判断を狂わせる場所じゃ――」
風が強さを増し、岩雄の声は虚空に呑み込まれた。
苗木を握る手が震え、足場の岩が軋む音が聞こえた。
まるで崖そのものが生き物のように、彼を飲み込もうとしているかのようだった。
岩雄は気づいていた。
この苗木を手放せば、もしかしたらロープに手が届くかもしれない。
だが、その考えは彼の心をさらに締め付けた。
この苗木は、彼の全てだった。盆栽ハンターとしての誇り、命そのものだった。
夜が迫る中、岩雄の叫び声は次第にか細くなり、風に溶けていった。
禁忌の崖は静寂を取り戻し、ただ、苗木だけが月光に照らされてそこに佇んでいた。
岩雄の姿は、誰にも見られることなく、崖の闇に沈んだ。
禁忌の崖 をはち @kaginoo8
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