メタファは脳漿のように

わきの 未知

メタファは脳漿のように

 メタファは脳漿のように蔓延していた。


 それはいやに正確な比喩だった。香りに乏しい透明な液体に、東京じゅうの脳が漬かっていたのだから。相違があるとすれば、メタファは生理的な液体ではなく、このごろ流行りの麻薬の一種であるという点だけだろう。

 煙草を吸おうとして、俺はベランダに出る。薄汚い冬日の空気を部屋に迎え入れると、俺は小さく笑って呟いた。


「脳漿、脳漿か。いい例えだ」

「あなた、ちょっと静かにして。今からメタファを打つの」


 瑠璃が口をとがらせる。メタファは静脈注射の直前に、言葉を込めて活性化する必要がある。液体に混ぜこんだ比喩でトリップするのだ。活性化の際に汚い比喩が入り込むと、うまく酔えないらしい。

 アンプルを手のひらのなかで転がすと、メタファがちゃぷちゃぷと音を立てて揺れる。切り口に指をかけて、瑠璃は思いついた世界を唱えるのだ。


「私たちは季節外れの鈴虫。若さゆえの監獄につまずくように、孤独の海に耳を澄ませば、天使のような犬の遠吠え……ねえ、つまらないわ。語彙力が足りないの、なにか別の比喩を教えて」

「じゃあ、狂詩曲のような犬の沈黙」

「それがいいわ。ありがとう、好きよ」


 瑠璃は早口に言うとアンプルを割る。注射器にメタファをいっぱいに吸って、ぎこちない手付きで空気を抜いた。慌てて静脈に針を突き刺すと、メタファを勢いよく静脈に注ぎ込む。小さく息を漏らして、軽く四肢を揺らす。

 瑠璃は比喩の恍惚に堕ちていった。やがて遠くから犬の吠える声が聞こえるたびに、睫から自堕落な涙が落ちるようになった。瑠璃は澄んだ声でりいんと鳴いた。

 俺は瑠璃と違って、メタファを試したことが一度もない。快楽には飢えていたが、なぜだかその薬物には微塵もそそられなかった。先ほど電話で呼び出された脳出血の緊急手術について考えながら、肌寒いベランダの隅で、窮屈に座り込んで煙草をふかした。

 

 *


 脳出血の患者は手遅れで、術中に死んだ。

 瑠璃の用意した夕飯のカレーライスは冷たくなっていた。いい加減な時刻に作って置いておいたのだろう。いつ食べても変わらないから、ベランダに煙草をふかしにいく。


「煙草、やめなよ」


 寝室で横になっていた瑠璃が、俺の腕をつかんで部屋に引っ込めようとした。俺が机に並ぶ注射器とアンプルを指さすと、瑠璃はさも可笑しそうに口答えをする。


「メタファは合法だもん」

「煙草だって合法だろ」

「どうでもいいわ。ねえ寝つけないの。詰めて、詰めて、詰めて」


 懸命にねだって、瑠璃はメタファのアンプルを俺に差し出した。

 このごろ俺は、瑠璃のために代わりにメタファを活性化する比喩を作らされていた。こういう手術で疲れた日に限って、俺は詩人になってしまう。脈絡のない単語が口をついて出てくるのだ。


「バターキャラメルのような冬の朝、男女はかぶと虫になって鐵色の東京を舞う。軍隊のごとく進む時計台の針に止まれば、俺たちは甘いアカシアだった。クラリネットがそよぐ秩父の森に、十六夜の月が感謝している……」

「あなたって本当に天才」


 瑠璃は俺にキスをして、首筋を指でなぞった。胸鎖乳突筋。俺はさっきの単語の羅列に意味を感じていない。


「こんなのが本当に良いのか」

「あなたの比喩ってキラキラよ。麻酔みたい」

「麻酔薬って麻薬なんだぞ。くだらない」

「そうなんだ。じゃ、取って置きのを活性化してあげる」


 そう言うと瑠璃はアンプルのひとつを取り上げて、自信ありげにはきはきと、メタファに比喩を詰め込んだ。


「青い薔薇のような人生」

「短いな。それでいいのか」

「これは短くても、何度でも効くのよ」


 瑠璃は注射器で八割がたの液を吸って俺に手渡し、俺が躊躇いつつシリンジを押すのを見守った。それから別の注射器を出し、


「私も味見」

 と言って、わずかにアンプルに残った薬を吸い上げ、続いて俺が活性化したメタファも同じ注射器で吸い上げた。混合した液を左腕の血管に注ぎ込むと、瑠璃は両拳を突き上げる。


「ああ。最高」


 それが瑠璃の、この晩の最後の言葉だった。彼女は朗らかに笑って寝室を踊り狂った。

 俺は動揺していた。

 用量の八割を打ったのに、何も感じなかったのだ。ただなんとなく、俺の人生は青い薔薇のようだという気づきが、ぼんやりと頭の中に灯った。それで瑠璃が踊れる理由はわからなかった。早く煙草が吸いたかった。


 *

 

 瑠璃のメタファ中毒は日に日に悪くなっていく。このごろは物忘れも多くて、食事も俺ができあいの品を買ってくる機会が増えた。

 ちょうど瑠璃と同じ齢ぐらいの女性患者から脳腫瘍を切り出した日の夜、外科部長に捕まって、浴びるように酒を飲まされた。このごろ彼も比喩遊びを少しだけ始めたのだという。雪道は風が強くて、メタファ中毒の物乞いたちが歩道の隅で凍えていた。

 前後不覚で部屋に帰ると、瑠璃はベッドに横たわって、

「待ちくたびれたわ」

 とこぼし、間抜けなあくびを二度繰り返した。


「ねえあなた、『幸せ』でメタファを活性化して」

「はあ?」

「お願い、お願い。大好き」

「じゃあ、『脳腫瘍のように幸せ』だ」


 俺はアンプルを握り締めて唱えると、それを瑠璃の手に握らせて、さっさとシャワーを浴びようとした。

 ほとんど嫌がらせのつもりだったが、驚いたことに瑠璃は満足げに微笑んだ。

「最高よ」

 と呟くと、俺の煎じたメタファを打って、しどけなく身もだえた。


「おい瑠璃、脳腫瘍は幸せか」

「幸せよ、とっても。いく」


 この返答は耳に残った。

 俺はその晩、拳で浴槽を力任せに叩いて流血した。それから冷静になって、あくる日の晩に瑠璃と性交しようと決めた。それがこの堕落の終わりだと知っていたから。


 *

 

 アンプルはガラスが薄いから、握りしめるとすぐに人肌の温度になる。俺は愛の知識を呟くのだ。


「髭」

「乳房」

「唾液」

「愛撫」

「ためらい」


 一切の比喩を脳裏から排除しなければならない。頭を空っぽにして手順を思い出すと、俺は久しぶりに激しく欲情した。

 

 寝室の扉は建て付けが悪くて、背中が触れるとギイギイときしんだ。扉の奥の女の息遣いに耳を澄ませて、ひとときも俺の興奮に同期しないのを聞く。失敗すれば須らく瑠璃を犯さねばならぬと肝に念じて、何食わぬ顔を繕って寝室に入った。


「あなた、何のメタファを活性化したの」

「秘密さ。一緒に打とう」

「一緒に? うふふ。ねえ、伝染病があったら針でうつっちゃうね」

「うつらないさ」


 俺は注射器をとると、瑠璃に肘の関節を見せて、メタファをしっかりと静脈に打ちこんだ。半分だけシリンジを押して瑠璃に渡すと、瑠璃はおぼつかない手つきで、自分の静脈を狙ってぶすりと針を刺す。手がぶるぶる震えて痛いだろう。俺は自分が外科医であることに感謝する。

 

「さあ」

 注射器を放り出してから、瑠璃はぼうっとしていた。半ば強引に押し倒す。


「効いてきたか」

「ううん」


 瑠璃はそのまま小さく息を始めた。滑らかな頬に汗が照っていた。

 髪を指で掻き上げて彼女の腰に腕を回すと、瑠璃は便宜的に俺のベルトに手をかけて、そのまま腕を落とした。紫色の唇が、漿液性の涎に濡れた後、片側だけかすかに震えた。双眸が俺に向かって一点にとどまる。


「あいぶを。ためらい。あいぶ? あいぶ?」


 脳漿に入った比喩のない単語を、瑠璃は繰り返し再生した。それは死戦期呼吸に似て、横隔膜の弛緩をほとんど伴わなかった。それから急にのけぞって、背筋を収縮させたまま、ベッドの上で空虚に痙攣した。

 その唇の色合いは俺に、青い薔薇のメタファを思い出させた。身もだえて跳ね回る瑠璃の横で、俺は今日も薬に無反応だ。極めて不快だった。無垢であるはずの両乳房に触れるか迷っているうちに、瑠璃の全身は仰向けに硬直したまま、じっとりと汗ばんで萎れた。


 勝ち誇っていたのだ。

 どうしても今すぐやりたいことがあって、瑠璃の頸動脈にも触れないまま、バスローブを羽織ってアパートのベランダに飛び出した。

 時雨れていた。何千万の男女が屋根の下でメタファにふけっているだろう。俺に微塵も効かなかったのは、それこそ脳腫瘍のようだ。

 俺は思わず苦笑した。考えてみると、俺はそもそも薔薇が嫌いだった。紙煙草を一息に吸いきって、死ぬなら肺癌で死にたいと願った。

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メタファは脳漿のように わきの 未知 @Michi_Wakino

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