蝋の悪魔

木園 碧雄

蝋の悪魔

 よくいらしてくださいました。

 私のような、老い先短い老婆の昔話に興味を持っていただいて幸いですわ。

 さあ、早くお入りになって。

 帽子と上着は、そちらにお掛けください。

 春分の日は過ぎたとはいえ、まだまだ外はお寒うございましたでしょう。すぐに温かいお茶を用意いたしますわ。どうぞこちらにお掛けになって。

 え?

 あら嬉しい。お若い方に私の見てくれを褒めていただけるとは思いませんでしたわ、お世辞がお上手ですわね。

 さ、お茶の用意が出来ました。どうぞ召し上がれ。今日はマドレーヌも用意いたしましたのよ。

 ……ふう、座ってもよろしいかしら? ありがとうございます。

 この籐椅子、使い始めてから三十年が経つのに、どこも壊れず坐り心地の良さも変わらないままですのよ。中国製でも、その道に優れた専門家が作り上げた上質なものなら、国産にも引けを取らないものなのですね。

(老婦人と筆者、しばし閑談)

 ……それではそろそろ、ご用件についてお話しさせていただきましょうか。

 こんな世捨て人同然の生活を続けている老婆の話を信じてもらえるかどうか。

 いえ、生活困窮者がますます増えているようなこのご時世に、私のような生活能力皆無の女が、伴侶を失ってから半世紀もの間、このような立派な屋敷で働きもせずに安穏と暮らしていられることについては、亡き夫にいつも感謝しておりますのよ?

 ですが、やっぱり世間との交流の機会というものが少ないんですの。

 例えば、ひと月の間に顔を合わせるのも、ホームヘルパーの方を除けば亡き夫の代理として遺産管理を行っていただいている方々の報告くらいなものですし、積極的にご近所の方々に声をかけようとは思うのですが、あの噂が知られているのではないかと思うと、どうにもかけづらい気持ちの方が先に出てしまいますの。

 でも、こうして独りで生き続けておりますと、自分の悩みや苦しみを相談できる相手がいないというのは、実に不幸なことだと痛感いたします。

 いえ、お金の面では何も不自由はございませんの。

 ですが、やはり自分自身の身勝手さから他人との交流を敬遠し続けてきた手前、今更のようにこちらから話しかけたところで、色よい返事というものは簡単に得られるようなものではございませんでしょう?

 ですから、貴女の申し出には非常に感謝しておりますのよ?

 フリーライターというお仕事柄、様々な方から様々なお話を聞いて記事になさっているのでしょうけれど、何の役にも立たない、誰もが妄想の産物だと嘲笑するような与太話をぜひ聞きたいというFAXを受け取ったときには、そちらの冗談だと自分に言い聞かせている自分と、ようやく真剣に聞いてくれそうな人が現れてくれたという喜びの余り、卒倒しそうになっていた自分がおりましたもの。

 この年齢になって、つくづく思い知らされましたわ。

 老人にとっての真の地獄とは、貧困や老衰ではなく、深夜に独りで部屋に佇み、己の罪を数え思い出しては、誰からも慰められずに悔悟かいごし続けなければならないという、孤独な生活なのです。

 死という刑の執行を待つ日々を送るだけの牢獄です。

 ことに、私のように伴侶を若くして失った女には、辛い辛い日々でございました。

 夫と出会い結ばれたことには、不満はございませんのよ?

 それどころか、夫との愛に満ちた幸せな時間の想い出があるからこそ、別れた後の虚ろな人生を生き抜いてこれたのです。

 ええ、そうです。夫は結婚五年目を迎える直前で亡くなりました。

 もちろん最初は疑われましたわ。

 億万長者で他に身寄りもなく、私以外に遺産を相続する者はおりませんでしたし、何より夫が倒れて救急車がこの屋敷に到着するまでの間、その場にいたのは私だけでございましたから。

 もちろん私は夫を殺してなどおりませんが、私が無罪放免となったのは夫の死因とそれまでの状況が、現代医学ではとても想定できないものだったからなのです。

 そして、たった独りで社会に放り出された私はマスコミ――失礼、貴女もそのお一人でしたわね――による懐疑の追及から逃れるため、夫の遺した会社を引き継いでいただいた方々のご厚意により委譲されたこの屋敷に、すがりつくように閉じ篭ったまま、遺産として遺された貯金の利子と持ち株の配当で、どうにか今まで無事に暮らしてまいりました。

 仮に私が夫の後を継いで会社経営に乗り出したところで、無力で無能な私ごときの采配ではせっかくの大企業をあっけなく倒産させ、夫にとって大事な社員の方々を路頭に迷わせてしまうのは、目に見えておりましたから。

 ですが、私も既に白髪すら薄くなりつつある老婆。いつ記憶が衰え、過去の思い出すら曖昧なものになるか知れたものではございません。

 その日が訪れる前に、たとえ笑われたとしても、話せるうちに話せることは話しておくべきであると決意し、夫の会社の方から人づてに頼み込んで、聞いてくださる方を探しておりましたの。

 ええ、ええ。私自らが手記で遺すという方法も考えましたし、試してもみました。

 ですが、私には文才などございませんし、せっかく膨大な時間をかけて推敲すいこうを繰り返し書き上げたとしても、誰も読んでくださる方なんていらっしゃいませんわ。

 そうなると私が死んだ場合、遺されたその手記は誰の目にも触れず老人の戯れとしてひっそりと葬られるであろうことは、想像に難くありませんし、第一、その手記が、隠遁生活を続けた挙句精神に異常をきたした老婆の妄想の産物として片付けられるのには、我慢がなりませんの。

 せめて一人、一人くらいは私の話を直接聞いてから判断していただきたくて、今回のような所業に至ったのだとご理解いただければ幸いです。

 それでは老婆の荒唐無稽な、ですが私にとっては真実であるところの物語を語らせていただきます……記録のご用意は、よろしいでしょうか?

 それと、物語に登場する人物、会社、及びその他の名称は、私の旧姓も含めて仮称ですので悪しからず。



 今で言うところの、昭和時代のお話です。

 私がまだ木暮こぐれではなく石坂いしざかという旧姓だった頃の世間は、まだバブル景気の生み出す狂気染みた活気に踊り狂い、その先に待ち受ける陥穽かんせいと泥沼に気づきもせずに、虚飾にまみれた日々を送っていた時代のお話です。

 今でこそ年老いたばばあですが、当時の私は女子大を卒業間近にして、ポジティブな自分の未来像を己の内面に描きつつ将来という当てのない道を、溢れ出んばかりの希望を胸に突き進もうとしていた、世間知らずの小娘でした。

 社会に出て勤め人として充実した青春を過ごしたいと思う反面、理想的な旦那様と出会い結婚して幸せな家庭を築きたいという願望を学生時代からの友人と語り合う、そんな夢見がちな少女のような気持ちも抜けない年頃でしたわ。貴女にも覚えが有るでしょう?

 両親が私にお見合いを薦めてきたのは、その時分のことでした。

 今でこそお見合い婚は珍しい、一部の特権階級の中でしか見られなくなったものになってしまいましたが、当時は一般家庭でも割とありふれたものでございましたわ。

 それに私は、いわゆるひとりっ子でしたので、婚期が遅れたり変な男に掴まったりするよりは、信用できる相手とお見合いさせた方が本人も幸せになれるだろうと考えたのでしょう。その英断には今も感謝しております。

 もちろん自由な恋愛が謳われるのは当然の時代でしたから、お見合い写真を見るまでは私も大いに不満ではございました。ですが、そこに写っていた木暮の写真を見て考えを改めましたわ。

 いえ、端整な顔立ちとか、いわゆる二枚目というわけではございませんの。

 貴女も私について色々と調べている間に、木暮の若い頃の写真をご覧になったのでございましょう?

 二十代半ばにして後ろに撫で付けているせいか広く見える額。

 角張った鼻と薄い唇。

 カリフラワーのように膨らんだ耳に尖った顎。

 無理しているのが一目瞭然な引き攣った作り笑い。

 ええ、決して美男子と呼べるものではございませんでしたわ。

 けれどもあの眼、まるでこれから起こることをすべて見透かしているかのような、自信に満ち溢れている木暮の両眼に、私はすっかり心奪われてしまったのでございます。

 私も恋愛というものに早熟ではないにしろ鈍感だったというわけではございません。確かに高校は女子校、大学は女子大と、異性との出会いには縁遠い学生生活を送ってはいましたが、初恋は小学校で体験しておりますし、失恋の痛みも恋する乙女の満ち足りた幸福感も、語れる程度には経験しているつもりです。

 ですが、木暮との出会いはそのような観念的なものではございませんでした。その時はただ、この人に直接会ってみたい、どんな男性なのか知りたいという、欲望にも似た強い好奇心だけが私の精神を支配しておりました。

 お見合いの場は、私の実家があったS市の晩成庵ばんせいあんという料亭でしたわ。

 貴女も良くご存知のM製薬で広報を任されていた頃の木暮は、お見合い写真通りの引きった笑顔とは裏腹に、意外なほどりんとした態度で私に交際を申し込んでくれました。

 私の方はといえば、まず木暮に直接出会えたという不可思議な感動と、その口から発せられるテノールのような日本人らしくない声に惹かれ、ただただ頷くばかり。

 大学卒業後の進路よりデートの日程を重視してスケジュールを調整する、といったありさまでしたわ。

 木暮の出世は、私との交際が始まってすぐのことでした。

 当然会社内の地位が上がれば仕事も増えますし、新しい付き合いというものも増えて忙しくなるでしょうから私との仲が疎遠になってしまうのではないかと心配しておりましたが、その忙しい合間を縫って木暮は私をデートに誘ってくれました。

 行き先は港や美術館、親密になってからはスポーツクラブやボーリング場などでした。もちろん健全で健康的な大人しい場所ばかりで、いつも安心しておりましたが、その反面で当時流行していたディスコなどには誘ってくれないことを不満に思ってもいた、そんなはしたない小娘時代でしたわ。

 そしてデートを重ねるうちに私は、木暮の徹頭徹尾紳士的な態度の裏に、何か他人には言えないような後ろ暗い秘密を隠し持っているのではないかという不安が湧き上がってまいりました。

 それは、出世街道を矢のように邁進し、また副業として続けていた投資も上昇気流に乗っていた木暮が、果たして私のような、家柄以外に取り得のない小娘にいつまでも熱を上げ続けているだろうかという、誰に対する嫉妬でもない、むしろ自分自身に対する自信の無さから出た不安だったのだと、夫を失った後でようやく気づきましたが。

 その負の感情を私の知らぬうちに読み取ったのか、はたまた親として同じような不安を抱いていたのか、父は私に木暮は後ろ暗いところのない誠実な青年であると語ってくれたのです。

 父が密かに身辺調査を頼んだ三人の探偵によると、幼い頃に家族を失い親戚に引き取られた木暮は、叔父叔母に迷惑をかけない為にも一心不乱に勉学に励み、会社勤めになっても女性との付き合いは皆無ということで、その報告を聞いた私はほっと胸を撫で下ろしたのを今でも鮮明に覚えております。

 三人の探偵の他に身辺調査を頼んだ父の友人が失踪していた……という話を聞いたのは、結婚してからのことでございましたが。



 木暮からのプロポーズを受けたのは、お見合いから半年経った早春の時節でした。

 プロポーズの言葉は、木暮らしく簡潔なものでしたわ。

「私の妻になってくれ」

 いかがです? 木暮の声真似ですわ。

 生前は良く本人の前でこれをやって笑いあったものです。似ているかどうかは、今となっては確かめようもございませんが。

 話を戻しましょう。

 その言葉と共に差し出された婚約指輪を見て、私はそれまでの人生の中で最も感激いたしましたわ。

 その婚約指輪がこちらです。

 あら、やっぱり婚約指輪の石に黒水晶は意外だったかしら?

 それと、こちらが結婚指輪になりますわ。黒水晶とまったく同じサイズ、同じカットのダイヤモンドです。ほら、色以外はそっくりでございましょう?

 もっとも、この婚約指輪は二代目なんですの。夫がわざわざ新しいものを作り直させたのです。

 初代はどうなったのか、それもお話いたしますが、まずは続きの方を優先させていただきますわね。

 婚約してからの私の人生は、まさしく輝ける薔薇色の日々でございました。

 友人には驚かれながらも祝福され、木暮の会社の方々にも婚約者として紹介され、忙しくも充実した、自分が歩いている未来が輝かしいものであると確信が持てるような日々でした。

 唯一心残りがあるとすれば、木暮が私に専業主婦を懇願したことくらいでしょうけど、今は逆にそれで良かったと思っております。あのような恐ろしい体験をした私には、心を許すことが出来ないような不特定多数の他人と無理しながら接するのは、苦痛にしかなりませんでしたから。

 婚約記念日とほぼ同時期に、私の身辺を不信な影が付きまとうようになりました。

 今で言うところのストーカーみたいなものでしょうか。一人の男性がスーツ姿で尾行しているときもあれば、また別の日に散歩しているアベックの振りをして実家を何度も周回している時もありました。

 恐ろしくなって電話で木暮に相談したところ、落ち着き払った声で彼はこう答えました。

敏子としこさん。それは僕が雇ったボディガードだよ」

 それから彼は、私を尾行した男の人相やアベックの服装について、こうではなかったかと語ってくれたのですが、まさに彼の言う通りでした。

 木暮からすれば、いわゆる成り上がりの自分の業績に嫉妬した輩が私に何か危害を加えたりはしないだろうかと心配する余り、私に無断で彼らを雇ってしまったと言うのです。それが私をかえって不安にさせてしまったのだと気づいた彼は、すぐ私の実家に赴いて謝罪してくれましたわ。

 もちろん私は彼を許しました。

 彼が誠実な人間だということは承知しておりましたし、ボディーガードを雇ったのは彼なりの善意のフライングというものだ、と納得できましたから。

 それに、こちらとて父が探偵を雇って身辺調査を行ったという後ろめたさがあったので、それを打ち明けてお互い様ということにいたしましたわ。

 それから結婚式までの間は身辺警護が続きましたが、いかに納得していたとはいえ、やはり誰かに見られ続けている生活というものは気分的に良いものではございませんでした。

 その大きな理由は、私に危害が与えられないように護衛しているというより、まるで私が勝手なことをしないようにと監視しているように思えたのでございます。これが婚約者の依頼でなければ、間違いなく警察に訴え出ていたでしょう。

 ともあれ、私が女子大学を卒業してから私達は結婚し、披露宴が行われたのでございます。

 挙式の詳細については貴女がお望みの場面とはほとんど無関係ですし、一旦語り始めればそれこそ一晩語り明かしてしまいますので割愛させていただきますが、一つだけ関係ある部分を抜き出させていただきます。

 式の前日、木暮は私を自宅、つまりこの家に招待してくれました。

 木暮は各部屋の隅々まで案内してくれたのですが、最後に招き入れてくれた彼の寝室で、いつになく真剣な表情で、あの猛禽類のような鋭い眼差しで私をきっと見据え、薄い唇を戦慄かせながら奇妙な質問をしてきました。

「敏子さん。貴女が今までどういう人生、どういう青春と恋愛経験を経ているのか、失礼ながら僕は僕なりに調べ上げてきたつもりだ。そのうえで、今から君を疑い侮辱するような質問をさせてもらう……君は疑いなくと神に誓えるかい?」

 私がその意味を理解するのに、しばらく時間を要しました。

 その真意に気づいた私の頬が徐々に熱を帯び、視界が急にぼやけてしまったのを、今でもはっきりと覚えております。もしその場に第三者がおりましたら、蒼白になった彼と紅潮した私の対照的なたたずまいに、何かしらの芸術性を見出せていたかもしれません。

 私は、初めて彼の前で怒りの感情を露わにし、はっきりとこう言いました。

「お疑いなら産婦人科の先生でも呼んで、今すぐこの場で確認してもらいましょうか? もちろん貴方もお立会いの下で」

 本当に、はしたないったらありゃしない。この発言は記事にしないでいただけますか?

 それで、私の剣幕に木暮も納得したらしく、何度も繰り返し謝罪した上で私への永遠の愛を誓ってくれました。

 その時の私はといえば、質問の意図は男性が女性に求める一種独特の支配感と道義的な貞操観念の表れなのだろうと強引に自分を納得させ、その裏に隠されたには愚かにも気づいてはおりませんでした。

 新婚旅行はヨーロッパを北から南へと縦断いたしました。

 海外旅行は家族で何度か経験しておりましたが、夫となった木暮と二人きりで二週間も使っての巡遊は、何もかもが新鮮で楽しく、愛と希望に満ち溢れたものになりました。

 ただ、その時は不可解だった点が二つございました。

 一つは夫が決して私と同衾しなかったことです。

 新婚旅行なのに夫婦が初夜を迎えなかったのは不自然だと思ったのですが、出発前に夫が語ったところによると、新婚生活が慌しかったせいで妻が流産したという先輩が会社に居り、その点が気がかりなので、子供は新婚生活が落ち着いてからでも遅くはないだろうと考えていたそうなのです。

 もう一つは、旅行の合い間に度々夫の姿を見失ってしまうことがございましたの。

 ちょっと目を放した隙にふらりと姿を消し、やれトイレだ切符を買ってきたと遅い説明の繰り返しでしたが、異国の地で夫を見失い混乱した私は夫との再会にひたすら安堵と感激の涙を流すばかりで、その行動に少しの疑問も持ちませんでした。

 せいぜいが、新婦である私の中に自分という存在をしっかり刻みつける為の、愛情の裏返しとも言える些細な悪戯なのだろうとしか考えていませんでした。

 その二点を我田引水の解釈で乗り越えた私にとって、新婚旅行は私自身の記憶の中でも幸せの絶頂と呼べる時間を過ごしていた時期でしたわ。



 すべてが変わってしまったのは、そう、結婚してから初めて皆既月食かいきげっしょくが起こった、八月の夜のことでございます。

 その日は日曜日ということもあり、私は午後からじっくりと時間を掛けて夫の好物のスペアリブを焼いておりました。

 それというのも、その日の午後から夜にかけて外出の予定は一切立てないでくれと、半月前から夫に頼まれていたのでございます。

 その時の夫の顔は、何やら思いつめているような、でもいつも以上に強い決意をその両眼に秘めておりましたわ。

 仕事で夕食を共にできないことも多かったうえに、久しぶりのスペアリブとあって、午後一杯は自分の書斎に篭っていた夫はとても喜んでくれましたが、夕食の後片付けが終わるとまた思いつめた表情に戻ってしまい、リビングのソファにどっかと腰を下ろしてしまいました。

 私もその隣に腰を下ろし、そのままお互いに何も言い出せないまま、ただ時間だけが過ぎ去っていきました。

 九時を告げる鐘の音が鳴り終わると、急に立ち上がった夫が私の顔を正面からじっと見据え、ようやく口を開いてくれました。

「敏子。これから僕がいう話は、僕が生きている間は絶対に誰にも言わないと約束してくれるかい?」

 誰より何より愛する夫の頼みです。どうして断ることが出来ましょう。

 立ち上がった私は夫の視線から目を逸らさず、はっきりと頷きました。いつもなら強い意志と自信を具現化したかのような輝きを放つ彼の両眼は、その日に限っては、戸惑いと焦燥が色濃く浮かび上がっておりました。

「僕が幼い頃に両親を事故で、直後に姉を病気で失ったことは君も知っているね」

 私を再びソファに落ち着かせてから語り始めた夫に、私は黙って頷きました。

「それから叔母夫婦の家に預けられた僕には、君に出会うまでの間、人に対する信用というものが決定的に欠けてしまった。父も母も、姉すら勝手に僕から離れて僕を一人ぼっちにしたのだと結論づけてしまった。叔父も叔母も優しかったけれど、いつ僕の元から無断で消えてしまうのだろうかと、不安でさえあった。僕が叔母夫婦の家でひたすら学業に励んでいたのは、もちろん期待に応えようという意図もあったが、いついなくなるかわからない人間などに心を許さず、自分自身の成功だけを常に考えなければ幸せになれないという当然の摂理からで、その為に成すべきは何より知識と勉強だと信じていたからだ」

 当時は両親もまだ健在で、一人っ子だった私には、彼の心の闇と苦悩を理解するのは困難な試みでしたが、それでも慰みの言葉がないかと考えを巡らせている間に、彼はまた語り始めました。

「その考えは僕がまだ幼い頃、正確に言えば姉が死んだ直後に湧き上がり、僕という人間の内面を作り上げた。そして中学に上がる直前、僕は県立図書館の開架書棚から、偶然にも天啓を見出した」

「天啓? つまり聖書ですか?」

「逆だ。オカルト」

 貴女はこの言葉に、どんなイメージを抱きます?

 当時の世相もあるのでしょうが、その時の私はてっきりUFOや宇宙人や超能力のことを差しているのだと早合点してしまいました。言い訳になりますが、いかにも小中学生が興味を持ちそうだなと、自分勝手に解釈してしまったものですから。

 しかし夫の話しぶりでは、オカルトへの傾倒は上辺だけの好奇心に留まるようなものでは決してございませんでした。

 学校で真面目に講義を受ける傍ら、深夜や休日といった余暇を徹底的に利用して、夫は手に入れられるだけの知識を己の脳髄に納めていたのでございます。

 そして彼は、表向きは海外視察を兼ねた大学卒業の記念旅行という名目でヨーロッパやエジプトを歩き回り、さらなる知識を得て帰国した後、密かに実践してみたというのでございます。

 それを聞いた時、私は愚かにも夫の研究とは占星学、つまり単なる占いなのかと勘違いし、むしろありきたりすぎて拍子抜けいたしました。

 夫の思いつめた顔と、それにそぐわないと私が思い込んでいた内容とのギャップに半ば呆れておりましたが、それを今になって何故打ち明けてくれたのかという当然の疑問が浮かび上がってきたのでございます。

 私がそのことについて尋ねますと、夫は今なら理由があるからと答えてくれました。

「今までは僕一人で誰の手も借りずに続けてきたが、それも限界に近付いてきた。これからは、どうしても君の協力が必要なんだ。手伝ってくれるね?」

 頷きました。

 頷いてから、しかしそれならば占星術を辞めてしまえば良いのではないかという当然の疑問が浮かび上がりましたが、それを口に出すよりも先に夫が私の手を引いて立ち上がらせ、私をリビングから連れ出していたのです。



 私の手を取った夫が向かった先は、階段の裏にある物置場に隠された地下室へと通じる秘密の抜け穴でした。

 大人ひとりがどうにか通れる程度の、狭く暗い抜け穴の最奥部で私を待ち受けていた部屋の広さは、十二畳間を超えていたと思います。

 懐中電灯片手にその部屋に入った夫が上着のポケットからマッチを取り出し、右手に置かれていた燭台に火を灯すと、ほのかな輝きにより部屋の内装が明るみに浮かび上がってきたのですが、その時の私の驚愕は言葉では上手く言い表せません。

 薄ぼんやりとした蝋燭ろうそくの灯を反射しているのは左右に鎮座する西洋風の棚の上に置かれた、大小様々な台座とそこにめ込まれた宝石。

 右側の棚には火を灯したばかりの氷の燭台、西洋の手鏡、山羊の頭を象った青銅製の仮面。黄金の大皿らしい祭器に満たされた暗褐色あんかっしょくの液体。赤、青、黒の小さな卵を乗せたエッグスタンドが三つ。

 左側には異国のものらしい彫像と装飾のない仮面、大人の腕ほどもある棍棒と、とても使い物にはなりそうにもないほど歪に歪んだナイフ。

 さらに、こちらにも液体で満たされた純銀の大皿がありました。

 そして部屋の奥、剥き出しの床には白の塗料で二重の円が描かれ、その内側には西洋の文様やら奇怪な動物の絵やら図形やらが何らかの規則に従っているかのように整然と並んでおりました。

 天井からはビロードらしき暗黒幕が垂れ下がり、四方の壁はすべて極彩色に塗りたくられ、床の二重円と装飾品による混沌を否応なしに加速させる室内のありさまは、私の夫に対する印象のすべてを根本から覆すには十分なものではございましたが、ふと気づくと肝心の夫の姿がどこにも見当たりません。

 まるで夫がこの部屋そのものに吸い込まれ、そのまま溶け込んで一体となってしまったかのような錯覚に襲われた私が必死に彼の名を何度も叫ぶと、暗い赤紫色のローブを羽織った怪人がいきなり戸口に現れました。

「僕だよ、敏子」

 危うく金切り声を上げそうになった私を正気に戻してくれたのは、聞き間違えようのない、今までどんな時でも私に安心を与えてくれた夫の声。

 ですがその容貌は、私の安堵を一瞬で不安に変えてしまいました。

 白いドーランを顔一面に塗りたくり、その上から奇怪にしか見えないけばけばしい化粧を施し、口紅まで塗っていたのです。それに下は裸足で両腕には金のブレスレット、首から下げたペンダントには人間の目のような刻印が彫られていました。

 おかしい、明らかに普段の夫ではない、まさか別人による変装ではないだろうか。

 それとも自分はどこかで夢の世界に入り込み、囚われ逃げ出せないまま悪夢の住人となった夫に会っているのではないか?

 そう考えてしまうほど異様な姿になってしまった夫が差し出してきた手を見て、私は反射的に後ずさってしまいました。

「敏子、落ち着いてくれ」

「これが落ち着いていられますか。嫁に入った身とはいえ、自分の家にこんな不気味な地下室があったことを知ったばかりなんですよ?」

「すまない。だが教えなかったのには理由があるんだ」

「理由?」

「ああ。しかし今は説明している時間が無い。とにかく君はここに立っていてくれ」

 そう言うと夫は私を二重円の前に立たせ、自分は右手側の棚から青銅の山羊の仮面を手にして顔に当て、後頭部に紐を通して固定しました。

「雅夫さん。この床の二重円は何なの? それにその恰好は」

「この円は魔法陣というものだ。絶対に踏まないでくれたまえよ」

 自分の格好には一切触れず、夫は右手側の祭器に両手一杯の粉末を投げ込むと、中の液体はみるみるうちに乳白色に変わり、そこから立ち込める陽炎の異様さに、私はじっと目を凝らしたまま声も出せず硬直していました。

 さらに三つのエッグスタンドの傍らに置いてあった小さな鎚を振り下ろし、赤青黒の卵を次々と叩き壊すと、どうやら腐っていたらしい卵たちの中から腐臭が立ち込め、あっという間に部屋中に充満しました。

 私は思わず呻き声を上げ、両手で鼻と口を覆ったのですが、夫は私を気にかける素振りも見せず、右手に西洋鐘、左手に黒い革製の表紙の本を携えて魔法陣の前――私の隣に立つと、右手をゆっくりと上下に振って鐘を鳴らしながら、朗々とした声で異国の言葉を紡ぎ始めました。

 ええ、私もそれなりに外国の言葉は知っているつもりですが、覚えている限りではその発音からして英語でもドイツ語でもフランス語でもありませんでしたわ。

 それでも朗々とした夫の言葉を理解しようと耳を傾けていた私の姿など目に入らないのか、ひたすらに鐘を振りながら書物を読み続ける夫の姿は確かに異様ではございましたが、同時に何者をも寄せ付けない一種独特の荘厳さに満ちておりました。

 その不思議で幻想的な時間が流れていくうちに、夫が言うところの魔法陣に大きな変化が起こりました。リノリウムの床から光沢のある白い液体が少しずつ染み出し、さながら溢れるように内側から膨れ上がったかと思うと天井に向かって伸びあがり、ぶるぶると蠢きながら――次第に、屈んだ人の姿に変わったのです。

 え? あまり怖くなさそうだ、ですって?

 そうかもしれませんね。あの時は仰天よりも恐怖の方が上回って声も出せなかったのですが、夫に先立たれ家族もいない寂しい生活を送っている今となっては、たとえどんなに恐ろしいものであっても、私が生きてきた人生の中にある大切な記憶ですもの。そのうち懐かしさの方が強くなる日が来るのかもしれませんわ。

 ええと、どこまでお話ししたかしら?

 ああ、『蝋の悪魔』が現れたところからでしたわね。

 え? 『蝋の悪魔』? ああ、あの怪物に私が勝手に名付けただけですわ。

 さて、その蝋のように白い塊は、屈んだ男性の姿になりました。

 まるでギリシャのディオニューソス彫像と見紛うような、見事な肉体美でしたわ。

 その像は自然な動きで独りでに立ち上がり、力強くも端正な顔をこちらに向けました。

 もうこの歳になると昔の記憶ですら薄れがちになるものらしいですけれど、多分あの顔を見た時の衝撃は、お墓に入るまで残っているのでしょうね。

 髪も唇もすべて蝋のように真っ白なのに、二つの眼窩には宝石のような瑠璃色の眼球が嵌め込まれていました。

 その彫像が私たちに、いえ正しくは夫に向かって日本語で語りかけてきました。

 いえ、唇は動いていないのに、声だけははっはりと聞こえるのです。

「久しいな」

「君に時間の感覚が有ったのか」

 明らかに現実と常識の限界を逸脱した状況にありながら、私の目に映る夫は毛ほども取り乱すことなく、さながらパーティーで知人に会った時のように気さくな態度で返答しました。

 その内容から、二人の邂逅は既に済んでいることぐらいは、その時の私の凍り付いた頭でもすぐに理解できましたわ。

「有るとも言えるし無いとも言える。人間が四次元以上の空間を把握できないのと似たようなものだ」

「その御託は前回聞いた」

 仮面越しの夫は鐘を右手側の棚に戻し、左手側の棚に置かれた棍棒を手にしました。

「その魔法陣から出ることを 禁ずる。またこいつを喰らいたくはないだろう?」

 巻きつけるようにお札が何枚も貼られた棍棒を力任せにびゅうびゅうと振る夫を恐れているのかいないのか、蝋の悪魔は魔法陣の中心で肩をすくめるような仕草をしました。

「忠告を受け入れてそいつを手放していれば、今頃は面白いことになっていただろうに。我を再びこの現世に呼び寄せたということは、与えた力の報酬を支払う気になった、ということだな?」

「無論だ。五年前に交わした契約の報酬を、今こそ支払ってやる」

 山羊の仮面を外した夫は、『蝋の悪魔』を睨みつけながら右手で私の左手首を掴みました。

 その直後に強い口調で発した一語一句、今でもはっきりと覚えております。

「悪魔よ、受け取れ。貴様が求めて止まない処女の人妻だ」



 それが私の聞き間違いであれば、どれだけ嬉しかったことでしょう。

 しかし現実は冷たく無慈悲で、かたくなでした。

「セント・ジョン・ドゥ」

 仮面越しに夫の唇から漏れた低い声は、蝋の悪魔に向けられた名前らしきものでした。彼が名付けたものなのか、それとも蝋の悪魔が自ら名乗った名前なのか、結局私は夫からそのことを聞き出せませんでしたが、あの恐怖の一夜が過ぎ去った後になって思い返すたびに、不思議と「聖なる名無し」という回りくどい異名が妙に似合っていたものだ、と奇妙な納得が心を過ったものです。

 夫は私の肩に腕を回し、恐怖と裏切りの衝撃で硬直していた私の身体を少しずつ前へ、前へと押し出します。

 ひんやりとした幽かな冷気を漂わせる蝋の悪魔――セント・ジョン・ドゥの爪の無い白い指先が私の首筋へと延び、せめてもの抵抗にと私は目を瞑り、心の中で両親への感謝と別れの言葉、そして神様への救いを求める祈りの言葉を繰り返し唱えていたその時、奇跡が起こりました。

 それまで夫の力で少しずつ少しずつ前へと押し出されていた私の身体が、ぐいっと後方に引っ張られたのです。

 何事かと閉じていた目を見開いて振り返ると、私を後方の現世へと引き戻した人物が私の肩を強くつかんで、自分の方へと引き戻していたのです。

 それは、今の今まで私を悪魔に売り渡そうとしていた夫自身でした。

「ようやく……魔法陣から出てきたな」

 勝ち誇る夫の視線を追うように再びセント・ジョン・ドゥの方へと向き直ると、私を捕まえようとして前のめりになっていた悪魔の右足が、確かに夫の言う通り、魔法陣の中心に描かれた円の外に出ていました。

 夫は片手で私を抱きかかえ、片手で棍棒を頭上高く掲げ、さながら地下室に突如として誕生した太陽のように輝いた表情で宣言しました。

「契約解除だ、旧き友よ。貴様の方から約束を破ったのだからな」

 私の肩から離れた夫の左手が棚に伸び、純銀の大皿の縁を掴むと、今にも夫にとびかからんと身構えるセント・ジョン・ドゥの身体に大皿の中の液体を浴びせかけました。

 その液体の正体について、私は何も存じ上げません。キリスト教における聖水のような効果を持つものだったのかもしれませんし、あるいは科学的に損傷させるために用意した強酸だったのかもしれません。

 いずれにしろ、液体を浴びたセント・ジョン・ドゥの身体から紫色の蒸気が立ち上り、獣の唸り声にも似た咆哮が私の耳を襲ったことは確かです。

 次いで夫は仮面を外し、私を突き飛ばさんばかりの勢いで左側の棚に駆け寄ると、放り捨てた棍棒の代わりに歪なナイフを握り、新たな仮面を被ると、怯んだセント・ジョン・ドゥの顔めがけて振り下ろしました。

 刃は咄嗟に顔を庇ったセント・ジョン・ドゥの右腕に当たりましたが、傷らしいものは見当たりません。

 しかし、どうしたことでしょうか。

 刃を受けた悪魔の右腕が、まるで火の点いた蝋燭のように溶け始め、それがじわりじわりと右腕全体へと広がっていったのです。

 猛獣のような唸り声と共に、セント・ジョン・ドゥの明瞭な声が地下室にこだましたのは、その時でした。

「裏切りか。やってくれたものだ」

「お前の言いなりになったまま生き続けていれば、どう足掻いても待っているのは破滅だけだからな」

 仮面の奥から聞こえてくる夫の声。

「我の導きに従ってきたからこそ栄耀栄華の道を歩んでこれたというのに、これからは誤った茨の道を歩むつもりか?」

「独りで歩めば、待っているのは破滅だろう。だが二人で歩み続けるのならば、その先に光を見いだせるかもしれん。私はその道を歩みたいのだ」

 答えながら、夫は再び私の肩を抱きました。

 今度はそれまでのどこか固く強張った余所余所しいものではなく、心底から私のことを気遣っている愛情と、こちらも迷いなく身を委ねることが出来る安心感に満ち溢れた優しいものだったというのは、私の思い過ごしなどでは決してございません。

「だから罠を張って、我を追い払う算段を立てたのか」

 セント・ジョン・ドゥの身体は既に半分以上が溶けて床に広がり、魔法陣全体を覆い隠してしまいました。

「愚かな。悪魔との契約を破棄した者に、幸福など訪れぬ。いや、しばらくは幸福であろうが、必ず裏切りの報いは災厄となり、その身に降りかかるであろう。逃れられぬ命運だ」

「悪魔の落とし子か? 僕たちが子をもうけず養子をもらえば済むだけの話だ」

「浅薄だな」

 もはや頭部しか残らず、その頭部も頸の辺りから溶け広がりつつあるセント・ジョン・ドゥの口元が初めて嘲笑うかの如く歪み、左右の眼窩に嵌め込まれた瑠璃玉に瞳孔を思わせる白星が浮かび上がると、それは私たちの方を睨むかのように動きました。

「予言してやろう。貴様は幸福の絶頂から一瞬で奈落の底に叩き込まれ、醜く膨れ上がった姿で我の足下に参上するであろう。終焉を知らぬ苦悶と狂気の中でのたうち悲鳴を上げながら、我の退屈凌ぎとして永久に在り続けるのだ」



 時間はまだ深夜のはずなのに、まるで待ち望んでいた夜明けが訪れたかのように思えました。

 私が呆然としている間に、衣装を着替えてから予め用意しておいたらしき清掃用具一式で床の蝋を全て削ぎ落とし、それでも床にこびり付いて残っている蝋や塗料などを洗剤で洗い流し終えた夫は、晴れ晴れとした笑顔で空のペンキ缶にそれらの残骸を投げ込んでから、私の方へと向き直りました。

「さて、どこから話したものかな」

 その時の私は、あまりにも現実離れした今までの光景と、愛する者と未知なるものに振り回されたショックからか、聞きたいことは山ほどあるというのに声が出ず、それでも自分の意図を伝えようと震える指先でペンキ缶を指さしました。

「あれは本物の悪魔だ。自分で名乗っていた通り、名前はセント・ジョン・ドゥ。僕を相手にするときは蝋の彫刻みたいな姿だったが、別の人間が召喚したときには角と翼を持ち直立した蜥蜴のような姿だったらしい。オカルトに傾倒していた学生時代の僕が現世に召喚し、契約を交わした相手だ。家族を失い親類の冷たい反応に憤っていた当時の僕は、彼らを見返すには社会で成功してみせる以外に方法は無いと考え、ありとあらゆる手段を模索していた。悪魔の召喚も、実際はその手段の一つに過ぎなかった。そしてセント・ジョン・ドゥが未来を予知する力と幸運を授ける力を持っていると知った僕は、すぐさま彼を召喚して契約し、僅かな蓄えを元手にして株式投資を始め、今いる会社の人事担当とのコネを作った。悪魔が授けてくれた幸運があったから、面接から入社までの流れもスムーズに進んだ」

 夫はセント・ジョン・ドゥを呼び出したときに被っていた仮面を手に取り、懐かしそうな表情でその表面を撫で回しました。おそらくその仮面こそが、彼が最初に悪魔を呼び出した際に使用し、そのまま保管していたものなのでしょう。

「それから先は、まさにトントン拍子だった。セント・ジョン・ドゥを呼び出したことで未来を予知し、正しい選択が行えるようになった僕に、失敗や判断ミスは有り得なかったからね。取引先との交渉も上司との付き合いも、悪魔が授けてくれた幸運が功を奏して、トラブルの類は一切起こらなかった」

 過去の成功を述懐していた夫の顔に、初めて暗い陰りが生じました。

「しかし、いつまでも悪魔と手を組んでいたのでは、待っているのは破滅だけだ。それに、僕はセント・ジョン・ドゥを召喚してから五年後、つまり今日のことだが、その日を期限に彼が望むものを与えなければ命以外のすべてを失うという内容の契約を交わしていた。期日までに条件を満たせなかったが故に悲惨な最期を遂げた人間の中には、日本ではあまり知られていない歴史上の重要人物も含まれていることを知っている僕にとって、どうしても必要な生け贄だ。そこで選ばれたのが、君だった」

「そんな……」

 ようやく喉の奥から絞り出した声が、夫の表情をさらに曇らせました。

「悪魔に純潔の人妻という矛盾した存在をささげ、次の期間まで未来予知の力と幸運とを引き続き使用しながら、悪魔と完全に手を切る安全な方法を模索する。その計画は、君との出会いで脆くも崩れ去ってしまった」

 仮面と棍棒をペンキ缶に投げ込んだ夫は、私の顔を真剣な眼差しでつかみ取り、離そうとしません。

「紹介された君と付き合っていくうちに、君の優しさと温かさを知り、悪魔に売り渡す算段が完全に消え失せてしまった。むしろ君を守りながらこれからの人生を共に歩んでいきたいと考えるようになった、本気で愛してしまったんだ」

 そこまで一気に捲し立てた夫は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してからまた言葉を続けます。

「そうなると、僕に残された道は、一か八か悪魔退治を仕掛けて成功させ、セント・ジョン・ドゥとの契約を破棄することだけだ。ただし僕の方から一方的に契約を破棄すれば、契約内容に記された罰則に従い、僕の身体がセント・ジョン・ドゥの最後のように溶けて死ぬことになっていた。だから契約破棄が可能になる条件の一つ『召喚された悪魔は魔法陣の内円から出てはならない』という項目を実現させなければならない。悪魔の方から契約破棄をし、自衛の為に悪魔退治を行うのであれば、契約違反を犯さずに契約を破棄できることになっていたのだからね。さて、万が一の可能性を考えて、予めある程度は用意しておいた悪魔退治の道具だけど、もっとも必要とされる破魔の刻印が施された隕鉄いんてつ性のナイフだけが、どうしても手に入らなかった。そこで君との新婚旅行の最中にそのナイフが奉納されている建物にお邪魔して、ちょっと拝借してきたわけだ。せっかくの新婚旅行なのに、一時的とはいえ君を置き去りにしたことは今でも済まないと思っているが、もし僕の身に危険が及んだ場合、君にまで被害が及ぶかもしれなかったからね。あのナイフは出来るだけ早いうちに返しておかないといけないな」

 夫の説明を聞いているうちに、私の魂の奥底から抑えきれないほどの憤怒の炎が燃え盛ってきました。確かに彼が切羽詰まっていたのは事実でしょうし、破滅の運命から逃れる為の致し方ない行動だったとはいえ、その晩の私に対する仕打ちを考えれば当然の感情だったと思います。

 当時の夫は、そんな私の憤りにも気づかず、計画の最終章を語り続けておりました。

「そして今夜、僕は悪魔セント・ジョン・ドゥを罠に掛け、ようやくかねてからの悲願を果たすと共に悪魔との契約という戒めから解き放たれ、晴れて自由の身になれたわけだよ」

「その代償が、私からの信頼だとしても?」

「君には、本当に済まないと思っている。心から信じていた夫が自分を囮に使った事実は否定のしようが無いし、僕の今までの行動に不信感を抱いたとしてもおかしくはないだろう。しかし」

 私の両肩に温かみのある両手を置いた夫の瞳には、偽りようの無い熱意と真剣さが込められておりました。その熱意と真剣さを、妻である私がどうして疑うことが出来ましょう。

「今ならわかってもらえるはずだ。僕は君を最初から守り通すと心の中で誓っていたんだ。傷つけるつもりなんて毛頭無かった。あの悪魔を自発的に魔法陣の外へと踏み出させるには君の存在がどうしても必要だったが、もし君が計画を知っていたら協力してくれたかい? 仮に協力してくれたとしても、悪魔を騙し通せる自信はあったかい? もし君が生まれながら天才的な演技力の持ち主だったとしても、たとえ僅かにであっても不自然な動作一つで悪魔はたちまち感づいてしまう。君に真実を伝えるわけにはいかなかったんだ。それに、予知能力も幸運も自ら手放した僕がこれからも幸せに生きる人生は、君無しには考えられない。君をセント・ジョン・ドゥに引き渡していたら、どのみち僕は破滅の道を歩まなければならないことに変わりはなかったんだよ。悪魔の影を完全に切り払わない限り、君を僕の破滅の道に巻き込んでしまうかもしれない。だからやむなく……」

 悪魔退治を行った時の勇ましさはどこへやら。

 ひたすら腰を低くして弁明を続ける夫の姿に、それまで自分の身体から噴き出さんばかりに燃え盛っていた私の怒りは急に収まり、ふっと漏らしたため息が最後の残り火までも踏み消してしまいました。

 確かに彼の言う通り、結果としては私の愛情と信頼を裏切らず最後の最後で助けてくれたのは事実ですし、何よりその時は一刻も早くベッドで熟睡したいという気持ちで一杯でしたので、それ以上気を張って言い争いを続ける余力などありませんでした。

「あなたのお気持ちは、私なりに理解しましたし、今夜の件であなたへの愛情が失われてわけでもありません。でも、一つだけ、今すぐ私に誓ってください。それで今まで通りですわ」

「何を誓えばいい?」

「今後一切、私に隠し事をしないこと」

 夫は頷こうとしたものの寸前で動きを止め、物をねだる子供のような顔で訪ねてきました。

「せめて、お互いにって加えてくれないか?」



 あの晩の悪夢が過ぎてからというもの、夫が今まで抱えていたかげりや鬱屈が消え去ったこともあるのでしょうか、私たちの間の絆は新婚直後よりもさらに深く硬いものに変わりました。

 夫婦としての夜の営みも当然ございましたが、夫がセント・ジョン・ドゥに言い放った言葉の意味をお互いに理解していたせいでしょうか、子宝には恵まれませんでしたが、それはいずれ養子縁組行うことで解消されるだろうと信じておりました。

 それまで勤めていた会社を辞めて独立した夫は、今で言うところのベンチャー企業の走りとも言えましょうか、そういう事業を開始いたしましたが、具体的な仕事の内容までは伺っておりません。夫の死後に人づてで説明を受けた時には、ただ貿易に関わっているというだけしか理解できませんでしたわ。

 けれど、その起業が夫自身ですら思いがけないほどの成功を収め、大企業と肩を並べるほどに成長したというのは、多分事実なのでしょう。

 そんな忙しくも充実した夫と、彼を支えながら幸せな日々を送っていた私の元へ、あの残酷な運命が音も立てずに忍び寄っていたのです。

 その日に限っては、普段は忙しい夫の仕事が予想以上に早く終わり、私達はこの自宅のこの居間で夫婦水入らずの時間をたのしんでおりました。

 その頃には、例の地下室は夫が業者の片に依頼して、コンクリートで埋めてしまいましたわ。

 跡だけになりますが、後程のちほどご覧になられますか?

 それはともかく、まだ日付が変わっていない時刻だったと思います。

 夫はソファに腰掛けたまま愛用のパイプを吹かし、向かいに座った私が編み物をしている姿を眺めておりました。

 バチッという音がしたかと思うと急に視界が失われ、目の前が真っ暗になってしまったのです。

 最初は何が起こったのか私の頭では理解出来ず、叫び声を上げそうになったのですが、暗闇からぽつりと聞こえてきた夫の呟きが、私に平静を取り戻させてくれました。

「停電かな?」

 落ち着いて考えてみればそれ以外有り得ないわけで、私は自分のうろたえ振りが恥ずかしくなってきました。もしすぐに明かりがついていたら、私の顔は耳まで真っ赤に染まっていたことでしょう。

 ソファのスプリングの軋む音、さらにカーテンが引かれる音。

「あなた?」

 ほんの僅かな星明りの下でうごめく影法師。

「あった」

 居間のテレビ台にしまっておいた懐中電灯を手にした夫がスイッチを入れると、室内にくっきりと光の帯が生まれました。

「ヒューズが落ちただけだろう。ちょっと配電盤を見てくる」

「あなた、私も一緒に」

「いや、僕一人で十分だろう。ここで待っていてくれ」

 それまで私の足元に向けられていた光の帯が急に傾き、天井に光の円を映し出しました。

「そうか。この部屋の灯りが要るな」

 夫がそう言うと光の輪が天井からテレビ台へと移り、その下にある生成きなり色の袋をその輪の中に捉えました。

 それは災害等の非常時に備え、常に救急箱と一緒にその場所に用意しておいた非常袋だったのです。

「懐中電灯だと部屋全体が明るくならないから、蝋燭にしよう。幸い、キャンドルホルダーもこの袋に入っているからね」

 夫が非常袋から取り出した蝋燭とキャンドルホルダーを見た時、私の心の中で奇妙な不安と違和感が生じました。

 その蝋燭とキャンドルホルダーに、まるで見覚えが無かったのです。

 今でも、それを先に夫に伝えておけばと後悔することがあるのですが、あの時はただ無窮むきゅうとも思えるような暗黒の恐怖から逃れたいという気持ちで一杯でしたので、他のことを考える余裕など無かったのです。

 その蝋燭は非常袋に入っていたのが不思議に思えるほど巨大で、大人の前腕ぜんわんほどの太さがあったのです。

 またそれを乗せる台というだけのキャンドルホルダーは銀色のつたが無秩序に絡み合ったかのような、災害時にはそぐわないような工芸品でしたわ。

 夫は絡まる蔓のキャンドルホルダーをテーブルの上に置き、その中央にぽっかりと空いた円形の空間に蝋燭を立て、パイプを吹かすために常備していたマッチで生糸きいとのように白い芯に点火いたしました。

「よし、これで」

 仄かな赤いともし火が居間全体を照らし出し、その輝きを眺めていた夫の顔が私の方へと向けられた瞬間、それは起こりました。

 牛の大腿骨にも似た白い蝋燭が溶けるように蠢き、思い出したくもない記憶を無理やりにでも思い出させる形、あのセント・ジョン・ドゥの顔がぽっかりと浮かび上がり、それまで赤々と輝いていた蝋燭のともし火が青緑色に変わってしまったのです。

「あっ!」

 異変に驚き蝋燭へと向き直った夫。

 その視線が蝋燭の顔へと向けられ。

 確かに、確かに蝋燭の顔が、あのセント・ジョン・ドゥの顔が、嘲笑うかのように醜く歪んだのです。

 恐怖に凍りついた夫の身体は一瞬にして風船の如く球形に膨張し、そのまま転がるように床に倒れました。

 失礼ではございますが、私が持ち合わせております知識と表現力の全てを費やし、その時の私の恐怖と衝撃をいかに説明したところで、おそらく完全には理解してはいただけないでしょう。この感情を抱いたまま孤独の中で老い朽ち果てるのが、私に課せられた罰であり報いであるのだろうと解釈しております。

 それでも可能な限り説明いたしますと、最初は頭の中が真っ白になって、夫が倒れてからは赤と黒の液体が頭の中で渦巻きながら一つに混ざり合うような映像が流れておりましたが、とにかく病院だと居間を飛び出し、玄関口の電話にしがみついて救急車を呼び出しました。

 暗闇だというのに、どうやって私は電話の受話器を掴んで電話番号を押せたのか、今でも思い出せません。

 居間に戻ると室内の照明はちゃんと点いており、入れ替わるかのように燃え尽きた蝋燭だけがテーブルの上に置き去りにされ、先ほどよりは萎んだものの全身が浮腫むくんでいるかの如く膨れ上がっている夫が、仰向けのまま血走った眼を天井に向けておりました。

 痛ましいことに、救急車が到着し夫が病院に運ばれ、集中治療室に入ってから息を引き取るまでのおよそ半日間、彼の意識ははっきりと保たれていたそうです。

 夫が亡くなった時の悲しみは、半世紀が経った今でも忘れることはありませんが、後に担当医の方から伝えられた夫の死因も、悲しみとは別の形で忘れることが出来ないものでした。

 夫の全身の筋肉は、どういうわけか全て骨からきれいに引き剥がされており、それにも関わらず夫の意識と痛覚は死の直前まで正常に保たれ、麻酔注射も効かなかったそうです。

 そう、まるで命のともし火が燃え尽きる瞬間まで死の苦しみを与え続けられるが為の、刑罰のように。


                              (了)

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蝋の悪魔 木園 碧雄 @h-kisono

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