4 終わらない私の

 いつものように朝の澄んだ空気の中、学校への道のりを歩いていく。

 今日で本当に一年になる。

 眠っていて覚えていないけど、今日が私の再出発の日。時の道を抜けた日だ。

 ここから、全てが変わった。


 いつからか、気付いていた。

 事あるごとに、自分がまるで自分ではないようなことを思い、行動していることに。

 以前がどうだったのか。

 どうあれば自分らしいのか。

 こういうときはこうするとか、こんなときはこう思ったとか、物事に対してどんな反応をしてどう捉え、何を選択していたのか。

 そういうものが、特にとっさのときや重要な決断のとき、必ずといっていいほど私の中から消えてしまうことに。


 後先や余力なんて、大人になってからは何をするにもまず念頭にあったことなのに、ビーを助けたときも、マラソンのときも、まったく考えなかった。

 全力だった。


 保守的な人間だと思っていたのに、目立つことも率先することも決断も怖かったのに、そんな私が雪合戦のとき、安全な場所から飛び出した。

 銀ちゃんの静止も耳に入らず。


 どうして、そんなことができたのか。

 毎回、やってしまってから、あとで分からなくなった。

 無茶で、無謀。

 ここに来てからだ。思えば、最初からだった。

 今考えてみても不思議だ。この姿で、ここで生きていくことを、すんなり受け容れたあのときから、私はもう大人だった自分ではなくなっていたのかもしれない。


 そしてそれからも、この小さな体が「私」を形作っていったのだろう。

 常に見ている、低い目線からの景色。

 自分の耳でも分かるほど、高くなった声。

 小さな手、足、その先に生えた爪。

 子ども特有の、猫っ毛の髪。

 見事にぺちゃんこの胸と、棒みたいな腕、体。

 力の、弱さ。

 小学校に通い、たくさんの子どもの中に埋もれて、誰からも子ども扱いを受ける日々。

 鏡を見ればいつも、小さな女の子がこっちを見ていた。


 大人と、子ども。何が本当の自分なのか。

 きっと――――どれも、私。

 迷い、戸惑い、驚きもするけれど、もうそれでいいと思った。

 それも、受け容れるしかないのだろうから。

 今が、大事だと思うなら。


「結、おはよう」


 道の先を歩いていた結を見つけ、駆け寄る。

 振り向いた結が、笑顔で答える。


「おはよう、寧」


 そう、この、今が大事なら。 




「なあ、どんなニンジンぶら下げたんだよ」

「へ? ニンジン?」


 この日、アシュリーが聞いてきた。

 私の頭の中は、ハテナでいっぱいになる。


「だから、エサだよ、ご褒美のエサ。今さら聞くのも何だけど、あの説明会の前の日に、リュカにぶらさげてくれって頼んだだろう? あれから急に機嫌がよくなって、今でも鼻歌とか歌ってさ、何か変なんだよ、前以上に。原因は、寧しか考えられない」

「あ……ああー、あれ……」


 あれは……何て言ったらいいか……


「何? 私も聞きたい」


 結も乗ってくる。

 昼休みの屋上に、三人でいるときだった。


「いや……つまりその………………ごにょごにょ……ってことで……」


 私の声が、小さくなる。


「え? 何だって? 聞こえないよ」

「う…………。だから、あの………………リュカが……結婚するんじゃなきゃ、言うこと聞かないって……」

「…………何――――っ! 結婚――――――……」

「わっ! やめて! 声が大きい!」


 私は、アシュリーの口を塞いだ。


「あのときは私もかなり参ってて……それに、リュカが行ったら大変だと思ったし、だから、その……それに、子どもの口約束って言うか、すぐに忘れるだろうし、それで……何て言うか……」


 許婚が、できてしまっていた。

 誕生日にくれた絵本。中身は、リュカと私の結婚の話だった。

 開いてすぐ閉じ、もう一回包み直して、引き出しの奥にしまった。

 ちゃんと読んではいない。

 読めなかった。


 アシュリーが深刻な顔になる。


「まずいぞ、寧。それは、まずい。リュカは、思い込んだら止まらない」

「うん。私もそう思う。リュカは本気だよ」


 結も真剣だった。


「そ、そんなこと言わないで……」

「何ー? 寧ちゃんとリュカは、結婚するのー?」

「わあああああ! 阿尊くん!」


 忘れていた! 壁に耳あり、屋上に、阿尊くんあり!


「言わないで! 聞かなかったことにして! 頭から消して――――っ!」


 私は必死だった。


「えー、言わないけど、頭から消すのはどうやったらいいのかな?」


 阿尊くんが首を傾げる。


「……諦めろ、寧。年貢の納め時だな」


 と、アシュリー。


「寧……リュカはいい子だし……大丈夫だよ」


 と、結。


「そ……そんな……」


 波乱の予感。

 こんな調子では、この先何が起こるやら。

 私は早くも心配でならなくなった。

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三雲の目継ぎ―1年目 鷹山雲路 @kumoji

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