あとがきがわりの座宴会

 ※本項は『第一回カクヨムWeb小説コンテスト』結果発表後に追記されたものです。

 ―――


 宿の一室。浴衣姿の俺と理渡は、グツグツと煮えたぎる鍋を挟んで打ち上げに興じていた。

「この度は、本作をお読みいただき、まことにありがとうございます」

 理渡が読者への謝辞を述べる。

「本作は、二〇一六年に小説投稿サイト・カクヨムが主催した『第一回カクヨムWeb小説コンテスト』の応募作であり、読者選考通過作です」

 理渡の挨拶を聞きながら、俺はビール瓶の王冠をゆっくりと抜いていく。

「元々は某小説賞へ応募するつもりが、大幅に応募規定のページ数を逸脱しすぎて、丁度告知されていたカクヨムにエントリーすることになったんだよな」

「ええ。ですから文体や改行は、Web小説としては読みにくいものだったと思われます。それでも多くの方々にお読みいただき、また評価をたまわったこと、感謝にたえません」

 理渡は俺が開けたビール瓶を持ち、俺は徳利を持って、互いの杯に注ぐ。

「それでは、かたくるしい話はこれぐらいにして。おつかれさまでした」

「乾杯」

 ビールグラスと盃という非対称な酒器を手に、俺たちは酒宴をはじめた。


 打ち上げの料理をつまみつつ、とりとめもない会話を続ける。

「この物語は本来、第六章の『闇に蠢くもの』が最初にあり、またそれとは別に、『北陸を舞台にしたクトゥルフ』という構想がありました」

「『闇に蠢くもの』は、作者が見た夢を元にしたもので、最初はそれ単体でクトゥルフ短編として書くつもりだった。小ネタとして家永の本棚に魔導書があったり、冒頭部分も俺が家永のところへ平行植物学入門の教科書を借りにいくという、パロディじみたところがあった、と」

「本作の魔導書である『水竜の書』も、他の夢で見たものを、流用しています」

「そのまま持ってきたせいで、クトゥルフ系の魔導書のくせに威厳皆無な名前だがな」

「『妖蛆の秘密』や『屍食教典儀』らと比べれば、確かに、かわいい名前ですね」

 理渡はくすくすと笑う。

「北陸を舞台としたクトゥルフは、これは作中で描かれているように、北陸という地がクトゥルフ神話と親和性が高いことからきています。既存作品でクトゥルーと関連付けられている九頭竜川、伝承に謎の多い菊理媛、日本海側で最も陸地に近い深海を擁している富山湾。もし余裕があれば、金沢の地名の由来となった、金洗い沢の伝承も盛り込みたかったです」

「ああ、金沢では砂金がいくらでも採れる、というやつだな。水と黄金となれば、インスマウスを覆う影に出てきた、オーベット・マーシュ一族を連想する」

「結局、話の本筋に絡めるのは無理でしたから、案どまりでしたけれど」

「俺としては、通ってる大学のある土地が深きものどもの巣窟扱いされるのは御免だぞ」

 言いつつ、酒の肴に鍋をつつく。使われている肉が鶏でよかった、この話の流れでアラ鍋とかだったら気まずいことこの上ない。

「こうした二つの構想を一つにまとめたのが、本作『北陸クトゥルフ紀行(仮)』となります」

「いつも思うが仮タイトルにしてもネーミングセンス酷いな」

「北陸と、クトゥルフの部分は、初見で北陸出身者とラヴクラフティアンの人を呼び込めたでしょう。けれど紀行、すなわち旅行的な要素は、ほぼ皆無。一応、福井、石川、富山と舞台は移っていますし、旅をしたといえば、していますが」

「旅情とは程遠すぎるわ。タイトル詐欺だこんなもん」

「ちなみに、紀行という一文をつけた理由は『なんとなく語呂がいいから』だとか」

「酷すぎんだろ!」


 隣室の宴会騒ぎをBGMにしながら、手酌でビールをグラスに注ぐ。理渡は酒も料理も行儀よく口にしていくが、気負ったところはなく、自然体なあたりに年季を感じる。

「カクヨムのシステムでは、レビュー機能が最もありがたいものでした。もとより、作者でもその知人でもない、第三者からの感想というものは、最高の賛辞となりますから」

「十万文字以上を読んでくれた上で、さらにレビューまで書いてもらった。こんなに嬉しいことはない」

「ただ、カクヨムやツイッターにおける感想の中には、予想外の意見もあったのですが」

 箸を器に置いて、理渡は盃に手をのばす。

「予想外?」

「本作はクトゥルフ神話風である、と」

「風?」

 俺は理渡の盃に酒を注いでやりながら問い返す。

「つまり、これはクトゥルフ神話作品ではなく、クトゥルフのようなホラーであると、そうとらえた方がいたことです」

「……これクトゥルフ神話じゃなかったのか?」

「クトゥルフ神話ですよ。ただ、そう思われたのも無理ないかと」

 ん、と理渡は盃に一口。

「そもそもクトゥルフ神話とは、なにをもって定義されるものでしょう」

 神話の定義条件。

 それはなにか。

「邪神が出てきてSAN値減ればいいんじゃないか? あと触手と海産物。ま、冗談だがな、こんなのが定義だったら『無名都市』なんか邪神も触手も海産物も出てこないからハブられてしまう」

「ふふ、アルハザードの二重連句が出てきた作品ですのにね」

 久遠に伏したるもの死することなく、怪異なる永劫の果てに死すらも死せん。

「じゃあ、その連句のような共通したキーワード、クトゥルフやネクロミコンといった固有名詞が出てくること、か?」

「似て非なる、かと。有名なところでは、名前が出てくるだけの『玩具修理者』を神話作品と見なすべきか否か、あるいは背景の本棚にネクロノミコンが描かれている漫画やゲームはどう見なせばいいのか、そういった話になってきます」

 ただ名前を出せば良いというものでもないらしい。

「じゃあなんだ?」

「世界観が繋がっていること、でしょうか」

 理渡の言葉には自信があまり含まれていない。それだけ曖昧で捉えがたい概念なのだろう。

「クトゥルフ神話は元々、シェアード・ワールド的な広がり方をしました。複数の作者、複数の作品で同じキーワードや事件を共有することで、世界観をふくらませる。すると読者としては、クトゥルフ神話とそれ以外を区別する基準に、何を選ぶでしょう」

「共通するキーワードや事件、か」

「はい。ほとんどの神話作品は、他の作品で言及されたキーワードを引用し、これが単体ではなくクトゥルフ神話という世界の一部なのだと、暗にほのめかしています。逆にどれほどラヴクラフト的であろうと、キーワードがなければラヴクラフト風で終わってしまう。例外はあれど、ほぼこの図式に当てはまるかと」

「ただ固有名詞を借りただけのものは、世界観、つまり共通した事件や概念について言及していないから、単なるパロディにしか見えない、と」

 だんだん頭がこんがらがってきた。クトゥルフ神話は懐が大きすぎるせいで明確な定義がしづらいというのは知っていたが、こう難しい話になると流石に酔った頭では荷が重い。

「ひるがえって本作は、日本独自のクトゥルフ神話を目指すあまり、クトゥルフ神話定番のキーワードをほとんど使っていません。先ほど真舘さんがおっしゃった、触手や海産物も出てこない。読者から見れば、神話作品の手法を使った、伝奇小説と思われても仕方ないのかもしれません」

「伝奇ねぇ……レビューにも書いてあったか」

「書いている時は伝奇なんて、これっぽっちも思ってませんでしたのに」

 一〇〇%純粋なクトゥルフ神話小説。そのはずだった。

「まったく、予想外だなぁ」

 ぼやきながら、俺はグラスのビールをあおった。


「オーガスト・ダーレス曰く」理渡は盃に酒を注ぎながら言う。「『安易に既存の神話を使ってはならない』……この助言を受けた若きラムジー・キャンベルは、後に故郷イギリスを舞台とした神話作品を生み出し、クトゥルフ神話の新たな一面を設けました。その故事に倣おうとして、やりすぎてしまったんですね」

「読み返してみれば確かに、クトゥルフ神話と世界観を共有しているようには見えんな」

「でも、ちゃんとキーワードは、使っているんですよ」

 あらわになっている左半分の顔の上で、理渡の目が悪戯っけを含む。

「特に第八章『古き神』は、クトゥルフ神話の解説を日本風にアレンジしておこなっています。一見してそれとわかりにくいですし、独自の概念も用いているので、まずわからないとは思いますが」

「クトゥルフっぽくもあるけど、夢と現の境界の話はこの作品独自だからな。世界観が共通しているようで、していないようにも見える」

「例の二重連句も、ここで使っているんですよ。五七五の短歌調になってますから、初見時に気づかなかった人もいるかもしれませんが」

 ほのめかしたいのか、したくないのか、よくわからん章になってないか。

「一番わかりやすいのが、六章で真舘さんのお友達が言及していたアクロ語という単語。これは有名な「イア イア クトゥルフ フタグン」の言語だとされています」

 その時、理渡の背後の襖が開かれて、こちらの座敷に赤ら顔の家永がゴロリと倒れこんできた。

「はぁーい、僕が言いましたー」

「イェーイ真舘ー、彼女さんとしっぽり飲んでるー?」

「おまえら、酔うの早いな……」

「ついでにね、僕が再現をこころみた装置の原型を作った「時を見守る者」っていうのはね、いわゆるイースの偉大なる種族のことだよ。ドナルド・タイスンのワンダリング版ネクロノミコンから引用しているんだ」

「元ネタがピンポイントにわかりづれぇ!」

「詠唱の呪文は、リン・カーター他が編纂したエイボンの書の文言を、参考にしていらっしゃるんですよね」

「そうそう。まあニュアンスだけ借りてるから全引用じゃないんだけど。でも呪文かっこいいよね!」

「ああ、いいものだ」

「魔法詠唱は浪漫ー! あははははは」

「帰れ酔っ払いども!」

 すっかりできあがっている家永たちに一喝すると、奴らはヘラヘラ笑いながら自分たちのドンチャン騒ぎに戻っていった。

「悪友どもがすまん……」

「ふふ。良いお友達ですね」

 理渡は目を細めて愉快げに笑った。

「そういえば、彼らの名前も、元々はラヴクラフト作品からの引用だったかと」

「ああ、家永・宵満・山壁の三人は、「バカめそっちは死人だ」でお馴染みハーリー・ウォーランに、フラグ立てまくって見事に酷い目にあったジョウエル・マントン、あと余計なことしたせいで死んだアーネス・K・アスピンウォールの名前をもじってるんだったな」

「どれもランドルフ・カーターのお友達ばかりですね」

「……カーターもしかしなくても疫病神なんじゃないか」

 まあ、そのカーターの名前をもじったのが、俺の名前なんだが。

 そこで襖が再び、バっと勢いよく開かれた。

「俺はー!?」

「ああ坂井。お前は……。お前は。すまん。なんか、その、すまん。実は仮の名前で坂井ってつけておいて後から考えようとしたら、結局そのままになっちまったんだ。すまん」

「ちっくしょー!!」

 バタンと勢いよく襖が閉まり、その向こうでワハハハハという爆笑が巻き起こった。

「……悪友がすまん」

「ふふ、ふふふ」

 理渡はおかしくてたまらないのか、口元をおさえつつ、しかしこらえられずに小さな笑いを零しつづけた。こころなしか目じりに涙まで浮かんでいるような気がする。そこまでツボにきたか。

「楽しいですね」

「ああ」

 ほろ酔い気分で返事をする。

「そういえば、おまえの名前はなんだったかな。ことわりを渡る夢、で理渡夢。というのが名は体をあらわすで良いね、なんて感想もらったが」

「私は、境界の神ということで、究極の門の守護者ウムル=アト=タウィル(Umr at‐Tawil)から、名前をいただいています」

 感想くれた人ドン引きしそうな裏設定だなおい。


 夜は更け、箸は進み、酒瓶は並ぶ。

 肴はあらかたなくなり、俺と理渡は互いの杯に酒を注ぎあいながら、ちびりちびりと酒宴のなごりを惜しむように飲み、とりとめもない話を繋いでいく。

「もし続編があるとしたら、俺たちはどうなるんだろうな」

「さあ。でも漠然とした予測では、真舘さんは神話にまつわる怪事件に遭遇するうち、最終的に燃やしてしまえば良かろうと、火炎瓶や爆弾を使って邪神ハントする「ボンバーマン真舘」になるそうです」

「そんな邪神ハンターいやすぎるわ!」

 理渡の背後にある襖の向こうでは、いまだに笑い声が響く。楽しそうでなによりだ。

 睡魔か、あるいは酔夢が頭の片隅にとりついているが、まだ横になるほどではない。

 それでも、もうすぐこの宴が終わるような、そんな予感はあった。

「あ、切れたか」

 こちらに用意されたビール瓶は底をついた。理渡のほうの徳利はまだ数本残っているようだ。

「真舘さんも、いかがです?」

 差し出された盃を、ありがたくいただくことにする。

 理渡から酌をうけながら、言葉を紡ぐ。

「作中で明らかにされてないが、シラヤマガミとクトゥルフはイコールでいいのか?」

「お読みいただいた方からも、そうした感想をいただきました。シラヤマガミと人間の間に生まれた落とし仔、という記述が出てきますが、クトゥルフ神話で落とし仔といえば『クトゥルフの落とし仔』が有名なので、余計にそう思われたのかもしれません」

 理渡は両手で口に運んでいた盃を降ろす。

「結論としては、異なるものです。詳しい設定は設けてませんが、本作におけるシラヤマガミ、ひいては菊理媛は、クトゥルフと関係なく、また旧支配者でもない、どちらかといえば旧神に分類できるものとして、扱っているそうです」

「どちらかといえば?」

「クトゥルフ神話の神性を、善悪で考えるのは一神教的な考え方で、日本で信仰されているならば、そうした捉え方はむしろ不適格だろう、と。菅原道真が祟り神と学問の神の二面性でもって祀られているように、日本の神性は荒ぶる神であると同時に守護神であり、人々はそれを一方的に祀り上げているのではないか」

「御霊信仰、だったかな」

 災いをもたらす霊をなだめ、もって災いが起こらぬようにする。

「邪神を祀ることで善神となす。一神教で多神教の神々が悪魔に零落させられたのとは、対照的な考え方です。もし、古代の日本に旧支配者がいたとしても、人々はそれを祀り、何がしかの神として崇めていたかもしれない。本作のシラヤマガミは、そうした例の中でも特に邪神としての側面が希薄な、ほぼ善神に近いものとしています」

「ふうん……」

 そういえば、シュブ=ニグラスのように古代においては国単位で信仰された旧支配者もいたか。それらは教団など信奉者による布教や魔術によってなされた、悪しきものだと書く作品もあったが。あるいはそれらは、後世の別の信仰によって歪められた見方ということはあるまいか。一大勢力を築いたバアル信仰が、後に貶められ邪教とされたように。

「考えてみれば、人を食うとか生贄を要求するとか、そういう部分をのぞけば、意外におとなしい神性というのもいるしな。付き合い方を間違えなければ、何もしなかったり、恩恵だけを受け取れるものもいる。日本人なら、そういう連中と付き合っていけるかもな」

 あるいはそれこそが、日本独自のクトゥルフ神話なのかもしれない。

 盃に口をつけ、酒を喉に流し込む。

「あ」

 ついビールのグラスと同じ要領で飲んでしまった。小さい盃では一口でなくなってしまう。

 いよいよ頭がぼんやりしてきたらしい。視界もそろそろ焦点が迷子になりつつある。

「どうぞ」

 言葉に甘える。理渡は自分と俺の盃へ同時に酒を注いだ。

 ……ん?

「どうしました?」

「いや、なんの話だったか……。そう、日本人の信仰、だよな」

 旧支配者を祀り上げる日本人の宗教観。

「古き神も旧支配者も外なる神も、日本人にとっちゃ新しい台風みたいなもの。新しくお祭りする神様が増えたぐらいにしか感じない、か」

「かもしれませんね」

「よく言われるが、そういう日本人に、クトゥルフ神話の怖さは理解できないかもしれないな。ラヴクラフトが描いたコズミックホラー、人間の常識を粉砕する宇宙的恐怖。それも日本人にかかりゃ「当たり前のこと」だ。神は善良じゃないし、どうあがいても台風と地震は襲ってくる。神も仏もありゃしない。そういう国で育ってるんだから」

 クトゥルフ神話が恐ろしいのは、一神教の宇宙観を真っ向から否定するため。唯一神などまやかしで、本当の神は人類など歯牙にもかけない。

 だがその真なる神々の姿こそは、日本人にとって「いつもの神様」に他ならないのだ。

 そんな当たり前をあらためて言われたところで、なにを怖がれというのか。

「さて、それは」

 しかし俺の意に反し、理渡は同意を返さなかった。

「本当に、そうでしょうか」

 酒を飲み干した理渡は、両の手で持った盃に新たな酒を注ぐ。

「……どういうことだ?」

「欧米と日本、たしかに宗教観は大きく異なりますし、一神教の文化を前提として描かれた本家の神話作品は、日本人には恐ろしいと思われないかもしれません」

 くゆらせるように、盃を傾ける。

「けれど。多神教にせよ、一神教にせよ。そして欧米にせよ日本にせよ。その文化や宇宙観は、どこまでいっても人間の生み出したものであることに、変わりはないでしょう?」

 理渡は含みをもたせるように、酒を飲むことで沈黙を挟む。

 それにあわせて俺も自分の盃に口をつけ、相槌を入れる。

「……つまり、根っこの部分は同じ、だと」

 空になった俺と理渡の盃に、また酒が注がれる。

 ふむ、まただ。目がぼんやりして、よくわからないが。

「現代における人類の、特に文明を築き上げた国々に住む人々の世界観は、おおむね共通したものです。日々を生き、昨日と同じ明日を迎え、過去よりも未来に希望を見い出す。自分たちをおびやかす外敵が生活圏から駆逐されて久しく、医療技術の発達によって死すらも遠く、よほどの不運に見舞われないかぎり、自らが危険にさらされることはない」

 現代文明のテクノロジーは、人類という種に安定をもたらした。

 生物としての本来の寿命がせいぜい五十年だったものを、その倍は長生きさせるようになったのだ。

「しかし。だからこそ。人々は考えたりはしない。明日世界が終わってしまうことを、自分が得体の知れないなにかに襲われることを、死よりも恐ろしいものがあることを」

 そして。

「そしてなにより。自分の常識が間違っているということを」

 理渡は微笑む。酔いの心地よさにひたっているように、あるいは意地悪めいた言葉に酔っているかのように。

「それが、宇宙的恐怖か」

「人類が数千年、営々と築き上げてきたものが、単なる砂の城にすぎなかったとしたら。賢人たちが生涯をかけて、いいえ、どこにでもいるごく普通の人でも、その人が努力してきた仕事や、日常や、家族との思い出が、この宇宙の中でなんの価値もないものだとしたら」

 ああ、わかる。それは子どもの頃に、がんばって描きあげた絵が、なんの賞もとることなく、その他大勢の落選作としてあつかわれた時の、無力感だ。努力が無に帰した時のものだ。

「それは人にとって、根源的な恐怖。己という存在に、意味を見い出せなくなってしまう恐れ。生きる希望である、人生のきらめきを殺してしまう怖れ。それはどの国、どの人種、どの文化であろうと変わらない、普遍的なもの。人類の頭上にありて太刀打ちできない存在。宇宙より来たる恐怖」

 コズミックホラー。

 その本質。

 非常識の怪物ではなく、本当の常識を突きつけられる絶望感。

「そういうことなら、日本人であろうと、神話に恐怖することができると」

「むしろ、日本人だからこそ、でしょう」

 理渡の盃は、飲む端から新たな酒が注がれていく。

 ああ、まただ。理渡の両手は盃にそえられているのに、そこに酒を注ぐ腕がいる。

 俺と理渡、四本の腕の他に、別の腕がいる。

 だが、そんなことはどうでもいい。

「日本人だから、こそ?」

 理渡の瞳は盃に波紋を描く水面を見つめている。湖面に映る月のように、瞳が盃の上に反射する。

「私たちは、知っている。日常がたやすく終わってしまうことを。それは台風によって、あるいは震災によって、津波によって、火山の噴火によって。あらがうことのできない強大な存在が、無慈悲に世界を壊すことを、知っている。知らざるをえない国に、住んでいる」

 俺の盃に、背後から腕が伸びて酒を注ぐ。

 それをぐびりと口にし、味わうことなく飲み下す。

「ゆえに。私たちには容易く想像できてしまう。理解できてしまう。自分たちが無力で、人の営みは儚く、文明はもろく、簡単に潰えてしまうことを。日常が突然終わってしまうことを。なぜなら、それは実際に体験したことなのだから」

 理渡は笑む。誰にともなく。ただ笑む。

 酔いにまわる視界の中で、理渡の周囲がおぼろげに歪む。

 理渡は座っているのか、それとも揺れているのか。座敷には俺と理渡しかいないのか、それともウネウネと蠢くなにかがいるのか。

 隣室から響く物音は、友人たちの馬鹿騒ぎなのか、名状しがたいうめき声なのか。

 ここは夢か、現か。

 まあ、どうでもいいか。

「俺たちにとって、神話は現実とそう変わらない」

 夢でも現でも同じこと。

 酔った頭で見る一炊の夢にすぎない。

「だからこそ、同一線上のものとして、現実の延長にあるものとして、神話を理解してしまう。へらへらと、そんなの当たり前のことだと笑い飛ばしているが、裏をかえせば、それは認めているのと同じだ。神話がまったくの絵空事ではないと、無意識に」

 そして恐怖する。

 もしかしたら本当に、正しき星辰揃いし時、人類誕生以前から存在するなにかが目覚めるのではと。

 台風に蹴散らされる民家のごとく、文明が滅びるかもしれない、と。

 親和性が高いとは、このことなのだろう。

「おまえが言いたいのは、つまりそういうことか?」

 理渡は口を三日月に曲げ、満足そうに目を伏せる。

 ぐるぐるとまわりはじめた世界の真ん中で、理渡だけが、冷たい石のように鎮座していた。

「なあ、理渡」

 俺はもう、そろそろ酔夢に負けそうだ。

「おやすみになられますか」

 理渡が暖かな微笑みを浮かべて、いたわるように俺を見る。

 歪み続ける座敷の中、それだけがはっきりと俺にはわかった。まるで夢を見ている時のように。

「俺は、起きているのか、寝ているのか」

 おまえは、本当のおまえなのか。夢の中のおまえなのか。

 その自問に答えるように、理渡の声が耳をなでる。

「私は、夢。あなたの、夢」

 そして最後に、誰かに問いかけるように、彼女はこう言った。


「あなたが見るのは、どんな夢?」

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北陸クトゥルフ紀行(仮) 大滝 龍司 @OtakiRyuji

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