第四節 三 「彼女と彼女のフェルマータ」(二章・終)




 降り続いた雨が止み、空には虹が弧を描いている。

 悲劇は傷痕として残りつつも、痛みは引き。王立学園には日常が戻りつつあった。


 南門通りを歩くクレールの表情は柔らかい。

 二、三日振りに握り締める魔銅杖は、やはりよく手に馴染んでいて。クレールは純粋にロロットへの敬意を抱く。

 しかめ面で謙遜の言葉を吐く三つ編みの彼女の顔が思い出され、口元が綻ぶ。本当にいつもいつも、いい仕事をしてくれている。 

 杖を折ったのはこれで六度目だった。……毎度毎度激昂させているのは申し訳ないなとクレールは思いつつ、けれども彼女に任せれば万事問題無いという安心感もあり。

 遠慮も無しに武器を振るい、訓練に打ち込めているのはロロットのお陰だ。そう改めて感謝を抱くと共に、いやしかしとクレールは苦笑う。


 ――――感謝するくらいなら折るな、とでも言われるかもしれないな。


 ぐるりと軽く振り回せば、風を切るのは魔銅の杖。手元に無ければ落着かない程度には、愛着が湧いて来ていた。

 クレールがバルタザールの武器店で杖を手に入れてから、およそ三ヶ月。彼が魔銅杖に触れない日は――杖が折れていた期間を除き――殆ど無かったと言える。

 魔法や学問に幅広く興味を持つ彼であるから、武器術や戦闘術にも同じように関心を示した。それは間違いない。

 また、心身共に未熟な己を成長させるための訓練、という意味合いもあるにはある。しかしながら、それ以上に――――


 強くならなければ、と。差し迫るかのような思いが胸中にあることも、クレールは自覚していた。


 何故かは分からない。理由など知れたものではないが、心の奥底で強く思う。

 生きなければ、強くならなければ。あるいは使命とでも呼べばいいのか、そのような感情が時折精神の底から声を上げるのだ。

 それはまるで、あの時の――――


「ん?」


 ふと、ふくらはぎ辺りを何かに軽く突かれる感覚。目線を下げればいつの間にやら、クレールの傍に黒い狼が侍っていた。

 そうだ、彼女――――黒狼エクリプスと出会った時に似た感覚。自分ではない何かが、強く強く声を上げているような。

 この感情は、僕の過去に関係があるのだろうか。未だ失われたまま何一つ戻らない己の記憶に、クレールは思いを馳せる。 


 新たな手掛かりが無いわけではない。ただ、それを考察するのはあらゆる点で気が引けてしまっていた。

 黒の王、ユーグ。彼が甦ったその瞬間に、クレールは己の『目』に魔力を喰らい尽くされていたのだ。 

 気を失って眠っていたのもそれが原因だった。限界を超えて稼働した『目』の恩恵魔法に、彼は意識を奪われて。


「――――あれは」


 少なくとも。ユーグの骸が再びの生を帯びた時、過稼働していた『目』の魔法はしかし何の情報も齎さなかったのだ。

 正確に言えば、読み取れなかった。雑音交じりの情報の奔流は、クレールの脳では処理できない程に膨大な嵩を誇っており。

 分かったのは、唯一つ。ユーグの蘇生は魔法に区分されるモノとはまったく別種の異能である、ということだけで。


 あるいはそれも、己の記憶を知る上での足掛かりになるかもしれない。……しかし、とクレールは躊躇せざるを得なかった。

 彼もまた、百年王の呪い染みた信仰に染まり掛けており。――――黒の王に触れるべからず。その言葉の意味を真に理解するにあたり、先のトロイメンの一件は十分過ぎた。

 あのような男に、迫らなければならないのなら。脳裏に甦る血の光景に、クレールは未だに怖気を拭えずにいた。 


 心配を表すように、エクリプスがか細く鳴声を上げる。そこで初めて彼は、己の顔がこわばっていることに気付き。


「……済まない、心配を掛けたか」


 クレールはしゃがみこみ、エクリプスの艶やかな毛並を撫でる。それだけで幾分か気分が晴れていった。 

 ……今は、自分に出来ることをしよう。再び訪れるかどうか定かではない恐怖に、いつまでも竦んでいられないのだから。

 立ち上がり、クレールは空を見る。蒼天に掛かる大きな虹。その終端が何処なのかは、少なくとも彼には分からなかった。

 

 

 

 ◇




 赤煉瓦の壁が目印の喫茶『クレマチスの風車』は、今日も盛況な様子であった。昼下がりのカフェは学生の賑々しさに包まれており。

 落着いたティータイムとはいかないが、こういった明るい雰囲気の中で味わう紅茶もこれはこれでいいのかもしれない。


 クレールはストレートで紅茶を味わいながらしみじみと思う。――――正面には、何かを味わう余裕など欠片もなさそうな、黒髪の少女の姿があった。

 何かの資料らしき紙束とにらめっこをしていた彼女――リナは、無意識にか右に流した髪をくるくると忙しなく弄い、しばらくして。


「っだあ――――! もうイヤ、もうダメもう無理! 何なのこの論文、読み辛いったらないっての! 頭カタい人の文章ってのはこれだからさぁ!」


「リ、リナ、あまり店内で大きな声を出すのは、その、良くない」


 クレールの言葉にハッと焦りの表情を浮かべたリナは、周囲の視線に気が付き一瞬で顔を紅潮させる。

 か細く「ご、ごめんなさい」と謝った彼女は、手に持った紙束をテーブルに置いて縮こまった。


「……少し、休憩にしたらどうだろうか」


「うん、そうする……うう、ハズいぃ」


 赤らめた顔を何とか落ち着かせるためか、リナはミルクティーをちびちびと啜る。

 ……トロイメンの一件で長く続いた全校休講。その穴を埋めるため、との名目でリナは今、幾つか宿題を課されているようだった。

 彼女に課題を提示したのは、錬金と調薬を専門とする女教師ゼナイドである。冷厳さを感じさせる鋭い眼光とは裏腹に、彼女が中々の学生思いだということはリナもクレールもよく知る所だった。

 今リナに課されている宿題もまた、そんなゼナイドの教師としての優しさの表れなのだろう。……その量はさておき、であるが。


「くぅぅ……相変わらずサドいよゼナ先生、課題の難易度高すぎるぅ……」


「まあ、難解な課題でもリナならこなせる、と信頼しているんじゃないだろうか。ゼナイド女史も」


「そうかもしれないけどぉ……きついのはきついしぃ……」


 リナはクレームブリュレにフォークを立てる。焦げたカラメルの層がぱりっと小気味の良い音を立てて割れた。

 フォークにカラメルとクリームを纏わせて口に運び、ゆっくりと味わうリナ。すると、萎んでいた気分が一気に甦ったのか、彼女の頬はあからさまな緩みを見せた。


「ふひひぃ、うまうま。クレマチスのクレームブリュレは鉄板だねえ」


「…………立ち直りが早いな」


「なんたって女子だからね、ボクも! スイーツは万能薬みたいなもんだよ!」


「そ、そうか。まあ、気分が晴れたのならそれでいいのか」


 エクリプスが気まぐれを発揮して街へ消えて行ったその後、偶々道端で会ったリナが随分と難しそうな顔をしていて。

 気分転換になればと『クレマチスの風車』へ誘ってみたのだが、どうやら目論見自体は成功したらしい。……過程が若干腑には落ちないが。クレールは微妙な感想を抱きながらも安堵する。

 機嫌の良くなったリナは、満面の笑みでクレームブリュレを味わいながら、ふと言葉を零した。


「あ、そういえばさ、ツィスカって覚えてる? ちょっと前に街中で追っかけっこした、あの眼鏡の子」


 突然の言葉に、クレールは顔を強張らせる。ああ、リナと暮していれば『彼女』の話は避けられない。いつか真実を言わなければ。

 そう感じていたことは確かだが、まさかこんなに機が早く訪れるとは。クレールは何か言葉を発しようとして――――


「こないだあの子、『旅烏の梢亭』に来てね。なんでもあのイケメン、クラウスさんだっけ? あの人から離れてこっちで暮らすことになったんだって。

 お世話になりますー、ってわざわざ挨拶に来てたよ……って、どしたのクレール?」



 ――――何気なく話すリナの言葉が、にわかには信じ難く。

 

 ――――クレールは驚愕に言葉を詰まらせる。周囲の景色から色が失われた。


 ――――彼女は知らない。クラウスがトロイメン旅楽団の長だったという事実を。



 元々彼は役者として舞台には立っておらず、観客の前に姿を現したのは例の萌芽劇場の一件が初めてであった。

 故にリナは知りようが無いのだ。あの時のツィスカの保護者が、トロイメンの楽団長であったなどとは。

 そして――――そして同時に、クレール以外の誰にも知りようが無い事実が、もう一つだけ存在していた。



 ――――



 クレールが持つ『目』は、魔法だけに留まらずあらゆる事象を分析し、その情報を得ることが出来る。

 故に彼は理解することが出来た。いつかの時、逃げていたツィスカを『目』で捉え、情報を引き出していたその時に。

 逃げ惑う眼鏡の少女と、オーバーオールとキャスケットが目印の道化師が、全くの同一人物である、と。『目』の恩恵を持つクレールにしか見えなかったそれは、嘘偽りの無い真実。

 魔法ではなく、純粋な変装。万人を騙し得る完璧な擬態。それによってツィスカはシェルムとして――あるいはその逆かもしれないが――正体を誤魔化していたのだ。


 だからこそ有り得ない。クレールは激しい混乱に頭を抱える。

 あの道化――――シェルムは、クレールの目の前で確かに死んだはずだった。胸に大きな穴が開き、血を撒き散らして息絶えたはずだ。


 ――――ならばなぜ、ツィスカは生きているのか。


 なぜ生きていて、あまつさえクレールが暮らす『旅烏の梢亭』を訪れたのか。


 疑問符が止め処無く湧き出る。何だ、一体何が起きている。リナの前に現れた『ツィスカ』は一体何者だというのか。

 リナの心配の声が遠くに聞こえる感覚。思考は混乱の海に沈みつつあり、目の前に広がるのは果ての見えない混迷。

 

 降り続いた雨は止み、空には虹が弧を描いている。傷は既に癒え痛みは引いて、かつての日常は戻りつつあり。

 しかし、傷痕は残り続ける。悲劇の記憶は残滓と言えど確かにそこに在り、やがては時折古傷の痛みとして、その存在を主張するのだろう。

 

 しかし。

 

 考えなければいけないのは、残る痛みが古傷のモノであるか、否か。

 あるいは傷から病の風が体へ染みたと、その可能性も決して否定は出来ず。


 ――――古傷か、病か。


 苛む恐怖は、その痛みの正体はまだ、誰にも分からない。



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やがて色付く異世界幻想 畳屋 嘉祥 @Tatamiya_kasyou

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