第四節 二 「権謀と旧交のディヴェルティスマン」
この雨が、全てを洗い流してくれればと。そんな老女の願いは虚しく溶けゆく。
雨具が意味を為さない程の豪雨。けたたましい雨音が響いて止まない。その勢いは弱まる気配を見せず。
不夜城から見下ろす雨の街並みはどこか仄暗く、ミシュリーヌは暗澹たる思いと共に息を吐く。
「愛する街に溜め息を吐くかァ? くはは、民が悲しむぞォ、ミシュリーヌ」
硝子のタンブラーに並々と注がれた蒸留酒を煽り、心底愉快気に話すのは黒の王。
酒気を取り込み上機嫌に、ユーグはソファへと深く腰掛けている。深い赤に彩られた整然たる学園長の執務室には、とてもではないが似つかわしくない。
これは一体何杯目か。数えるのも億劫になるほどに黒の王は酒に浸っていた。テーブルの上には、蒸留酒の空瓶が何本も転がっている。部屋に漂う酒気などは、鼻をつまむほどだ。
だというのに、ユーグの顔は気味が悪い程に蒼白で。白蛇を思わせるその相貌は、およそ酩酊など匂わせない。
――――あるいは、酩酊こそが王の常態であるが故に。黒の王ユーグは常と同じように呵々と嗤う。
「何を憂う、何を求める我が旧友よォ? 脅威は消え去り、貴様のいとし子達の命はどれ一つとして欠けておらぬ。上々の結末ではないかァ?
――――全ては貴様の思うがままに、事が運んだのだろう?」
「……否定は、しないわ」
そう、可能性として在り得た――『予知』として聞こえた――未来の内、最も望ましいものをミシュリーヌは手に入れていたのだ。
端的に言えば、トロイメン旅楽団には初めから、生の可能性など一厘たりとて存在していなかった。彼女の『予知』がそう告げていたから。
故に――――ミシュリーヌにとっての『避けるべき事態』とは、王立学園の学生達の命が脅かされること。全ての行動の理由はその一点に帰結する。
第一に、王の機嫌を損ねてはならなかった。故に西方騎士館へと依頼し、最上の礼を以てユーグを出迎えさせた。
第二に、事態を必要以上に広げてはならなかった。故に警備計画を密に詰め、旅楽団員らの逃走を完全に阻止した。
第三に、王の機嫌を盛りたてねばならなかった。故にクラウスら主犯格の元へと赴き、『言語制限』という卑劣な罠を仕掛け、その存在を敢えて王へと匂わせた。
全ては、王から民を護るために。
万一――――万一彼の『異言』など顕れようものなら、王立学園は真に第二の『廃都』となっていただろう。
だからこそ。非道と罵られようと、ミシュリーヌは止まることなど決して出来ず。
後悔が過らないわけではなかった。他にやり方があったのではないか、トロイメンの団員を犠牲にしない方法が見つかったのではないか、と。
だが、時計の針は止まらないのだ。妙案を名案をと考えて居られるほどに、時間の波は穏やかではなかった。
――――決断するより、他に選択肢など無かったのだ。
苦渋に満ちた表情でミシュリーヌは俯く。幾ら悔いても足りはしない。
守るべきものを守れたことは誇りであるのかもしれないが……見方を変えれば単なる見殺しに過ぎないのだと、老女は己の行動を省みて。
紡ぐ言葉を探せなかったミシュリーヌの様子に、ユーグはその白貌を悍ましく歪ませ、嗤う。
「何だ、未だ善であろうとするかァ、ミシュリーヌゥ? 貴様も大概酔狂よなァ? 余も貴様も至って久しいがァ……だからこそだァ。その辺り、貴様のことが理解出来ぬのだよォ」
「当然でしょう。人を越え人であることを辞めた貴方に、分かることなんて何もないわ」
「はははァ! 余はそう思わんのだがなァ? 少なく貴様のことは、他の誰を置いても理解してやっている自信があるぞォ?」
「……私は、貴方とは違う。人であることを諦めたりは――――」
「諦めておらぬだけ、であろう? どれ程否定しようと同じことだ。貴様は既に人ではないのだよォ……余と同じくなァ?」
喜悦を深めてユーグは高らかに嗤う。その勢いのままにタンブラーに注がれた蒸留酒を飲み干せば、狂った嘲笑はさらに激しさを増していく。
「このような世界、正気を保って何となるのかァ!? 無為であろう、無味であろう? 例外なく無意味であろうがよ!!
なあミシュリーヌよォ、貴様も余と同じものを見た筈であろう? それでいて何故『人』たらんとするのだ、何故世界を迎合しようとするのだァ?」
「…………その問い、いくら繰り返したことか。飽きはしないのかしら」
「飽きぬさ! 例え千繰り返しても飽いたりはせぬよォ! そもそもだミシュリーヌよォ、そのようなことは些事であるゥ。
昨日の余は今日の余ではなく、無論明日の余とも異なっておるのだァ。故にそう、『此度こそは理解できる』と、そういった可能性もあるではないかァ。く、はははァ」
「なら、何度でも繰り返しなさいな。私が返すことのできる答えなんて、いつでも一つだけよ。――――守らなければならないから。ただそれだけ」
「ふ、ははははは――――変わらん、変わらんなァ! 貴様の言葉も、その訳の分からなさも! そうかそうか、何一つ変わらぬかァ、くはは、くははははははァ――――!」
何が可笑しいのか、黒の王は腹の底から笑い倒す。その理由などミシュリーヌは理解したくも無かった。
結局は相容れないのだ。……それは何も、この場にいる二人に限った話ではない。人を越え何かに至った者達は、その全員が己の思想を絶対視している。
極致の頂。そこからの景色は不変であるが、辿り着いた各々によって感じ入るものは千差万別。つまりはそれだけの話なのだ。
ユーグは世界を玩弄する。それは彼が頂の景色をそう捉えたからに過ぎず。……故に、ミシュリーヌとユーグは相容れない。そして――――
「そういえば此度の件――――ヘルマンの影が見えておるなァ?」
ユーグが戯れに零したその名もまた、ミシュリーヌにとっては拒むべき存在であり。
彼が――――『瘴気』が動いた。その事実に老女は緊張を奔らせる。まさか、と思うと同時にやはり、と。とうとうなのかとも感じ入り。
「あやつも大概、諦めの悪い男よなァ?」ユーグは口の端を吊り上げ嗤う。「大方の思惑は想像が付くがァ……敢えて奴の絵図に乗る必要もあるまい。今はまだ、なァ?」
「……彼が動いたということは、赤も」
「さァて。あやつがヨハンの坊主を上手く唆したのかもしれんがァ……どこまで考えておるのか、何を仕掛けてくるのかァ……くふひひィ、楽しみでならんなァ……!」
ユーグの言葉の意味。それを租借したミシュリーヌは、募る危機感に目を伏せ歯噛みする。
つまるところ、トロイメンの件は明確な、あまりに明確な挑発だ。――――釣られることなど無いと分かった上での、ヘルマンからのアプローチ。
これが単一の偽計であるなどと、ミシュリーヌは決して思わない。『瘴気』が真に動いたのなら、それは全てを疑うべきであり。
「悪いけれどユーグ、今回の一件はこちらから働きかけて有耶無耶にさせてもらうわ。暗殺に関しても、抗議はしないつもりよ。……いいわね」
「ああァ、ああァ、好きにすると良いぞォ? 無駄な努力を見るのは嫌いではないからなァ? あはははははァ――――」
大笑するユーグを余所に、ミシュリーヌは己の知恵を全て行使し、来たるべき危機に対する策を練る。
生半な施策では意味が無い。『瘴気』が――――赤の帝国の頭脳が動くのだ。それはつまり、百年もの間続いてきた三国の均衡が破られるかもしれないという、未曽有の危機を意味しており。
今宵の豪雨があるいは、来たる暗雲と嵐の激しさを表しているのか。ユーグは窓の外を眺め、酒を煽りながら呵々と嗤っている。常と同じように、嗤い続けている。
「雌伏は終わりと、そういうことだろう? なぁ、ヘルマンよォ――――」
狂気の言葉は、けたたましい雨音に掻き消されていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます