第四節 絶え入りそうに
第四節 一 「秘匿と信頼のトニカ」
突如、途切れた意識が繋がって。視界に入ったのは見慣れた自室の天井だった。
数度の瞬きは驚愕の表れ。寝台に仰向けに寝ていたクレールは、自分がなぜこの場所に居るのかが分からなかった。
額に手を当てて、経緯を思い出そうと試みる。……そこで初めて彼は、自分の右腕がしっかりと存在していることに気付いて。
「何が、どうなって……」
上腕あたり、捻じ切られた部分に触れれば、服越しに僅かな傷痕が感じられた。
魔法による治療を施されたのだろうか。痛みも無ければ違和感も無く、故にかクレールは己の記憶を疑い始める。
本当に自分は、腕を捻じ切られたのだろうか。
そもそも、それ以前に。
あの光景は、現実に起きたものなのだろうか。
疑いを持つには十分である。記憶に残るその情景は、あまりにも現実から乖離していた。
千切れた腕を治せても、流れ出た血を補えても――――失った命は戻らない。死は決して覆ることなどない。その筈なのだ。
だというのに、黒の王は――――
「――――っ、ぐ」
瞬間、クレールの頭に鈍い痛みが奔る。あの、時計の針が巻き戻るかのような悍ましい光景を想起したからか。
目の奥、頭の中心から響くように、あるいは染み渡るように鈍痛が広がっていく。視界が眩み、嘔吐感が総身を苛んだ。
クレールは口元を抑え、頭痛と吐き気にじっと耐える。……長く長く感じられたその不快の波は、その実一分すら数えておらず。
やがて波が収まると、クレールは苦悶と安堵の入り混じった息を吐いた。
呼吸が落ち着いて冷静さを取り戻した彼はふと、視界の端になにかを見つける。
「…………ん?」
見えたのは、寝台の傍らで椅子に座り、己の両腕を枕にうつ伏せとなっている誰かの姿。
クレールに掛かったブランケット、その端の方に上半身を乗せて寝息を立てているのは、亜麻色の髪の少女だった。
……安らかな寝顔の彼女、キトリーのその姿を見て、クレールは安堵の息を吐く。
あの時、劇場で気を失って倒れた彼女。助けようと死力を尽くしたがそれも叶わず。
結局のところ、自分では何もできなかった。助けることも、共に逃げることも。クレールは自身の無力を痛感する。
だが……今はそんなことなどどうでもよかった。彼女が無事でいてくれたと、その事実だけが大切で。
もぞもぞと動き出す亜麻髪の頭。ゆっくりと顔を上げた彼女の、そのつぶらな瞳は赤みを帯びていて。
涙の筋が細い跡を描いていた。目の下には薄らと隈も見える。それは恐らく、彼女の優しさの証で。
『クレール、くん……? 意識が……』
「ああ、戻ったようだ。……心配を掛けたみたい、だな。済まない」
『…………っ、ぅ』
クレールの言葉に、キトリーは何も返せず。代わりに瞳には涙が浮かび。ああやはり、とクレールは感謝と罪悪感に胸を締め付けられる。
やはりキトリーは、こんなにも優しくて。僕はそんな彼女を、守り切ることが出来なくて。
『よか、った……ほんと、に……』
安堵に泣いてくれている彼女もまた、悲しい思いを、痛い思いをしたはずなのに。
僕は唯、その優しさに甘えることしか出来なくて。……クレールは様々な思いを込め「ありがとう」と呟いた。
その後しばし、少女のすすり泣く声がクレールの自室に響き。
『……本当に良かったです、クレールくん』
落ち着きを取り戻したキトリーが背筋を伸ばし、やや力無くも笑みを浮かべて言う。
「キトリーも、無事で何よりだ」
『いえ、わたしは……わたしは、大したことないんです。クレールくんに比べたら、わたしなんて……』
つぶらなその目を伏せ、キトリーは語尾を弱める。それは何か、後ろめたさを感じているような言葉であり。
『結局わたし、迷惑かけてばっかりです。……気を失う前、クレールくんに助けて貰った光景が、うっすらと記憶にあって。
クレールくんが傷つけられているのも、見えてて。でも、何もできなくて。……治療だってリナちゃんとアンブルちゃんがやってくれて、わたしは何もしていなくて』
少女の声は震え、潤みを帯びてくる。後悔と無力を噛み締めるように、キトリーは念話を絞り出す。苦しげに、懸命に。だから。
『それに……それに、今回の件も、元を辿れば、わたしの――――』
「違う! それは違う、キトリー」
それだけは否定しなければならないと、クレールは語気を強めて発した。
確かにキトリーの『声』が一種のきっかけになったことは確かかもしれない。けれども今回の一件の責が彼女にあるなどと、そんなことは万に一つだってあり得ない。
元の原因など明白だ。――――トロイメン旅楽団、それに黒の王。クレールもキトリーも、彼らの諍いに巻き込まれたに過ぎないのだ。
「君のせいじゃない。僕達は偶然巻き込まれただけだ、今回の件で君が負うべきものなんてなにも――――」
『違うんです! そうじゃない……わたしは――――わたし、何も言えていないんです! 全部全部隠してる、話そうとすらしてない!』
反論するキトリー、その言葉の激しさにクレールは驚愕する。頑なな言葉にはどこか恐れと拒絶が感じられて。
そんなクレールの表情を見て、キトリーは言葉を詰まらせるも……振り絞ったその感情を、少しずつ念話へと変えていく。
『今だって、わたし、言葉にしようとすら、してない……! 気付いているのに。気付いて、いたのに……!
――――クレールくんが歩み寄ろうとしてくれてたって、わかってて。でも、それでも……何も言えなくって!』
再び涙を流し始めるキトリー。先ほどの安堵とは違い、そこには深い悲哀が感じられて。
堰を切ったように、少女の感情が溢れ出す。強く強く、己を責めるように、亜麻色の髪を振り乱して少女は声無く叫ぶ。
『言わなきゃいけない……! だって、歩み寄ってって言ったのはわたしだから! 貴方の気持ちに応えなきゃいけないのに! 察して、語るべきなのに……!
言葉に出来ないんです! わたしの記憶を、あの過去を、外に放とうとすると心が、体が、その全部が震えて、拒んで……なにも、できなくなって……!
変わらなかったのかもしれない、わたしがクレールくんに過去を語れていても意味なんてなかったのかもしれない! けれど、けれど……!
こんなことになってしまって、またわたしのせいで誰かが傷付いて……なのに、わたしは、それでも……言葉に出来ない、語れない……それが、悔しくって、悲しくって……!』
吐き出し切った言葉も、彼女の心を安らげるには足りず。キトリーはただただ、滂沱の涙を流し続ける。
起こってしまったことへの悲しみと、誠意を示せなかった自身への怒りと。複雑な思いを抱いているのだろう少女は、圧し掛かる重みに耐えきれず潰れかけている。
その原因の一端が、自分にもあるということをクレールは自覚して。だからこそ彼は。
「キトリー」
努めて優しく、柔らかな声色で、少年は少女へと語りかける。
「ひとつだけ。たったひとつだけでいい、僕と約束をしてほしい」
その言葉が余りに突然だったからか、キトリーは泣き腫らした目を見開いてクレールの言葉に聞き入る。
「話せるようになったら。……いつか僕に、君の話を聞かせてはくれないか」
『それは……っ、出来るなら、今すぐにでも――――』
「いいや、構わない。『話さなければ』なんて義務に駆られて語る言葉は、お互い辛く感じるだけだ」
知りたくないのかと言われれば嘘になる。理解を深めたいからこそクレールは一歩踏み出そうとしたのだから。
踏み込む以上は覚悟をしろと、テオは言った。問うことで彼女が傷付くかもしれないことは、クレールも分かっていた。それでも踏み入ろうとしたのだ。
だが、先ほどのキトリーの言葉を聞いて、クレールは思い直す。
――――罪悪に駆られて、焦燥に追われてまで放たれる言葉に意味など在るのだろうか、と。
あるいは我儘なのかもしれない。彼女を無為に傷付けたくないというエゴであることは否定できない。
だが、とクレールは思うのだ。『話さなければ』と後ろめたさで語られた言葉で交わされる、その苦々しい会話の後に一体何が生まれるのか。
話したくは無かったけれど話さざるを得なかった。話したくない事を無理に話させてしまった。……互いにそのようなしこりが残るだけではないのか。それを本当の理解と呼んで良いのか。
クレールはその疑問に首肯することが出来なかった。だから望むのだ、本当の理解を、納得を得ることのできる機会を。
いつか、いつの日か。それで構わないから、本当に向き合える日に話がしたいのだ、と。
「話してもいいと、話したいと、そう思った時で良いんだ。僕に語って聞かせて欲しい。――――約束、してくれるだろうか」
祈る様に、クレールは問う。それはただのエゴで、我儘で、キトリーが振り絞ろうとしていた勇気を振り払う言葉かもしれなくて。
だが、思ってしまった。苦しみながら、喘ぐように、念話を紡ぐ彼女の姿なんてこれ以上見たくはないから、と。
そして、数瞬の沈黙があって――――
『……はい、約束します。必ず、クレールくんには、いつか、話すって……!』
涙を振り払うように懸命に返したキトリーの表情を見て、クレールは喜びと共に安堵する。「そうか。それは、よかった」と、本心からの言葉が漏れ出した。
この選択が正しいのかはわからない。歩み寄ることから目を逸らしているだけなのかもしれない。
しかしクレールは、己の心を偽ることが出来なかった。だからこそこの行動に後悔などしないだろう。
例え何も知ることが出来ていなくても。――――今ここに、彼と彼女の心の距離は縮まったのだから。
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