第三節 「落日ノ終・狂騒」




 閾を遥かに超えた驚愕に感情が停止し、思考が白く染まる。

 目の前の光景を信じることが出来ず、クラウスは言葉と喜色を失った。

 五臓六腑を抉り刺し、素首を斬り落とした。疲労が圧し掛かる重い腕と、浴びた血の記憶がその証明である。


 明確な死を見た。生の可能性を狩り尽くした。その筈だった。

 なのになぜ、黒の王は何事も無かったかのように呵々大笑しているのか。クラウスの脳裏には混乱だけが渦巻く。

 何故、何故、何故、と。真白く染まった思考は中身も答えも無い自問を延々と繰り回す。――――気が、狂ってしまいそうだった。


「な、んで……」


「くはははァ! だから貴様は愚かなのだよ死にぞこないィィ!!! 問うたら答えが返って当然であるかァ? あははははァ――――度の過ぎた白痴は最早喜劇の域であるなァ! は、あはは、はははははははァ!!!」


 酷薄に笑い飛ばすユーグの体は宙に浮いている。それは魔法行使の証左に他ならず、クラウスは更なる混乱に陥れられる。

 抑制の魔法陣は利いているはずだ。なにせクラウス自身も今魔法が使えない状況にあるのだから。だというのに、どういうことだ。何がどうなっているのか。

 混乱にかぶりを振るクラウスへ、ユーグは冷ややかな視線を向ける。――――笑いをぴたりと止め、黒の王は平然とのたまうのだ。


「余は死なぬ。。そうであろう? 余の望まぬことが起きるなど、そんなものはではないか」


 それは屁理屈にすらなっていない究極の独善。望まぬことは起きなくて当然などと、狂人にしても性質が悪い思考である。

 そんな荒唐無稽を現実にしてしまう存在であるからこそ、黒の王は悪魔なのであり。その絶対の権威と暴威は最早超常の域にある。

 仲間であった少女の死体。叫喚し逃げ惑う観衆。戸惑いと焦りを隠せない旅楽団の仲間。劇場は狂乱の渦中に叩き込まれ、皆が絶望へと引き込まれていく。そしてクラウスは己の間違いをようやく悟った。


 黒の王に触れるべからず。人の身でかの悪魔に触れようなどと笑止千万。その真実を今この瞬間、青年は嫌と言うほど理解して――――


 皆、逃げろ――――――――――――



 その言葉が事実に、クラウスの思考は完全に空白となった。



 混乱と絶望は表情となって現れ、それを見たユーグは再び高らかに笑い出す。あまりにも酷薄に、喜色を示して。


「ほう、逃げぬか? なるほどつまりは逃がさぬと、そういうことだなァァ! ははァ、貴様も大概な悪魔であるなァ、ミシュリーヌゥゥゥ――――?」


 放たれた王の言葉にクラウスは、欠けていたパズルのピースが嵌り込む音を聞く。


 ああそうか――――


 昨日の内に――接触を図ってきたミシュリーヌによって――魔法を仕込まれていたのだ。……恐らくは『言語制限』の精神魔法を。

 限定された意味を持つ言葉の発音を封じる魔法。暗示や催眠に近い『言語制限』は、効力や持続力に難がある代わりに、ひとつの長所が存在する。


 ――――『秘匿性』だ。一定の意味を持つ言葉を放たなければ、魔法が掛けられている事実に気付くことすら出来ない。


 命令の意を含む逃走の指示。封じられたのはその辺り。汚い仕事を続けてきたクラウスは直ぐ様にそう予測をし――――

 その瞬間、舞台の上に立っていた楽団員のひとりの頭が、花火のように弾け飛ぶ。――――それはこれより始まる悪夢の知らせか。

 初動が致命的に遅れてしまった。今この時に逃走を指示出来なかった。――――その時点でクラウス達の命運は潰えているのだから。


「――――クラウス! 皆に指示を、早く!」


 マルレーネの悲痛な声も、どこか遠くからの残響にしか思えず。


「ミシュリーヌよォ! その手際の悪辣さに余は敬意を表すぞ、大義であるゥ! うはははァ――――!! 

 故に余も、貴様の意を汲んでやろうではないかァ……! 貴様の愛し子には手を出さずにおいてやるゥ、喜べェ!! あっははははァァ――――!!」


 最早ユーグの放つその言葉の意味すら把握できずに、クラウスは呆然と立ち尽くす。

 たとえ成し遂げてもその先に未来は無いとわかっていた。それでも突き進んで来れたのは偏に復讐心からだった。

 かつての『劇団』の仲間。『聯隊』や『結社』の顔馴染。あの時自由都市に居た仲間全ての仇を取るために、赤の帝国に頭を垂れてまで進んできたのだ。

 仲間の中には命を惜しんで復讐に難を示す者もいた。そんな彼ら彼女らに頭を下げ、無理矢理説き伏せてまでクラウスは『トロイメン旅楽団』を率いてきたのだ。


 ――――隠された真実を公にし、王に罪を償わせる。ただそれだけのために。


 命を賭けた。仲間を賭けた。持てるもの全てを賭して挑んだのだ。

 その結果が、今だと言うのか。……ようやく届いたと、至ったと確信して掴んだそれは悲願などではなく。

 掌の中には虚無だけが在って。目の前に広がるのは純然たる悪夢と理不尽。――――『廃都』の焼き増し。老女の忠告が今更になって去来して。

 

 足掻く気すら、起きなかった。抑制の領域は今も劇場を覆い、誰しもが魔を封じられている。

 だというのに黒の王は当然の如く魔法を振るい、ひとり、またひとりと楽団員を血に染めていく。

 マルレーネが自分の代わりに皆に「逃げろ」と叫んでいる。その光景をクラウスは、眩む視界で薄らと感じ取り。


 ああ、全てが終わってしまう。胸に穴が開いたようだった。

 力が抜けていく。全てが失われてしまう。真実など、終りなど、救いなど何も訪れず、ただただ虚無へと還りゆく。

 例え今この瞬間に意識が闇へ落ちたとしても、絶望は確かに続いていくのだ。

 仲間達は死ぬ。一人残らず死ぬだろう。悲劇は定められた結末へ向けて転がっていく。時計の針は止まらない。


 苦痛に胸を抑えようとして――――そこにある筈のものに、クラウスは触れることが出来なかった。

 胸元で空を切る手。掴んだのは虚無。何も無い、ああ、それは当然のことだった。何を今更とクラウスは自嘲する。



 、触れられないのは当然のことなのだ。



 痛みも苦しみも何もなく、クラウスは虚無へと落ちていく。


 無意識に空へと伸ばした手は、やはり何も掴むことなど出来ず。


 済まない、と。言葉にすら出せない己を悔やみながら、次の瞬間には思考すらも虚ろに堕ち。


 復讐に生きた青年は、ついぞ何も残さぬままに無へと還る。




 ――――落日は成らず。その手は黄昏色に届かない。




 ◇




 その後のことを語る必要などないだろう。


 黒の王に背いた者がどうなるかなど、敢えて言葉にせずとも明らかなのだから。


 予定調和である。血が流れ、骸が転がり、死が満ちるのは必然であった。


 誰一人として逃れられなかった。不義は罪、不敬は罪、即ち死罪なのであるからして。


 結果として残ったものなど何もない。彼らの行動から生まれたものなど皆無である。


 黒の王の畏怖、それを為す逸話の一つと成り果てただけ。正しく『廃都』の二の舞である。


 全ては無為。何も生まれず、何も果たせず、何も変えられず、新たな悲劇の一幕と化しただけ。


 故に絶望は続く。虚無なる日天は沈まない。人々はそれを仰ぎ見る度に畏怖を抱くことだろう。


 黒の王ユーグ、頂に坐す。揺らぐことなどありはしない。


 何故ならばそう、王自身が斯くあれかしと望んでいるのだから。


 欲望は力。妄執は力。祈念は力。求めよさらば与えられん。――――全ては無色の理故に。


 怠惰の支配者は今宵も笑う。この世の全てを玩弄するかのように。



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