第三節 「落日ノ四・夜想」
王の死とは、真に空前絶後の事態である。人々が生み出す沈黙の空隙はその驚愕の大きさを表し。
重傷を負ったクレールですらもほんの一時、腕からせり上がる激痛を感じなくなった。――――そして訪れる混沌の渦。悲鳴と慄きが劇場中を掻き廻す。
霞む視界でも、薄れた意識でも、現状の異様さは嫌と言うほど理解できて。地に伏すクレールの思考は、血濡れた王の骸に塗り潰される。
捻じ切られた腕の痛々しさなど、そこから溢れて止まらない血液など。目の前に転がる『人であったモノ』の惨状に比べれば、なんと真面なことか。
人の所業とは思えなかった。青年クラウスの凶行は王の非道にすら比するものであった。
見方を変えるならば身から出た錆、過去の王の非道があってこその此度である。
故に、クラウスの行動が凄惨さを帯びるのも致し方の無いことなのかもしれない。
数日前に街中で見た穏やかな面影など欠片も残さず、青年クラウスは狂ったように笑い続ける。
「俺は、お前達が望んで望んで止まなかったことを達成してやった! 黒の王を、非道の権化を! あのユーグを亡き者にしてやったんだ!
ほら喜べ、喜べよ! もうこれで誰も悲しまない! お前達が恐れていたモノは俺達が取り除いてやった! お前達が俯いて怯えている間になァ!!
膝を抱えて震えてることしか出来なかったお前たちとは違う! 俺は、俺たちは、トロイメンは――――お前達とは違うんだよォ!!」
血に塗れた青年の哄笑が劇場に響く。最早日常とは懸け離れた異次元の惨劇を、クレールはただ呆然と見ていることしか出来ず。
「……そ、うだ。キトリー……!」
我に返り、左腕一本で無理矢理体を起こして彼女が居るはずの席の方を見る。――――亜麻髪の少女は気を失い、だらりと力無く席へもたれ掛っていた。
「キトリー―――――」
瞬間、痛みを根性で振り払ったクレールは、千切れた右腕から血を流しつつもキトリーの傍へ駆ける。
少女の顔は蒼白に染まっており、ほとんど生気が感じられない。一目で危険な状態であることが理解できた。
拙い、早く何とかしなければ。しかしながら治療をしようにも今この場では魔法が使えない。
トロイメンが仕掛けた抑制の魔法は今も尚効力を及ぼしている。ともすればキトリーどころか、クレール自身の命すらも危うい状況。――――にも拘らず少年は。
「ぐっ、う――――」
残った左腕だけで気を失ったキトリーの体を何とか抱え、引き摺る様に歩き出す。
出口だけを目指してひたすらに。痛む腕など気にしていられなかった。一刻も早くこの場を抜けなければならない。
歩みは遅い。牛歩と呼ぶことすら憚られる。しかしながらこれしか方法が無いのだ。他の観客は眼前で起きた事態を呑み込み切れておらず、平静な者などただの一人も存在しない。
だから、助けなど期待できないのだ。ならば己の足を信じる他無いだろう。混乱の最中にある劇場を、真直ぐに出口へと進むクレール。そこへ――――
「――――あれあれ、どこへ行く気ですかぁ?」
ふざけた声色が響く。いつの間にか目の前には、キャスケットを被ったオーバーオール姿の少女が鼻歌交じりに立っており。
「……シェルム、と呼べばいいのか」
「ええ。トロイメンの切り込み隊長こと軽業師シェルムに御座います。……お客様、観劇中の退席はご遠慮願えますでしょうか?」
「どけ、ふざけている場合じゃないんだ! 早くしないと彼女の容体が――――」
「あはは! そんなもんコッチの知ったこっちゃありませんよ、お客様」
嘲弄と共にシェルムは、どこから取り出したのか二本目の曲刀をぶんぶんと無造作に振る。その笑顔には、どこまでも卑劣で狡猾な彼女の性根が表れているようで。
「少々厄介なことになりましてねえ……王国側の警備が思ったよりも厚いようで。ここからワタクシ達が上手いことトンズラぶっこくには、貴方がた人質の存在が非常に重要なワケですよ。
そんな状況でひとりふたりでも勝手に逃げられると、こちとら商売あがったりでして。申し訳ありませんが――――」
口の端を吊り上げ腰を落とすシェルム。侮蔑と害意を籠めた双眸は確かにクレールの灰色の瞳を射抜き、そして――――
「少し、大人しくしていてもらいますよ?」
瞬間、視界が鮮明さを帯びる。魔力が瞳へと流れゆく感覚。周囲の景色が鈍化していく。
反射的な『目』の発動。それで以てクレールは超常的な反応を見せ、シェルムがすれ違い様に放った曲刀の峰を難なく躱す。
「な――――」
驚愕の声はどちらのものか。事実クレールも、キトリーを抱えたままの自分がこれほどに動けるとは思っていなかった。
そもそも今は魔法が使えないのではなかったのか。その疑問を抱くと同時に、燐光放つ灰色の目はさらなる魔力を吸い取って――――
――六属性併用、静的領域。各属性に合致する動的魔法効果の全てを大幅に抑制する――
――各種属性に対応する六つの静的魔法を連携させた術式。枠組みに嵌らない魔法は抑制の対象外――
つまり恩恵は例外ということか。納得と共にクレールは振り返り、再びシェルムを視界に入れる。
「避けますか、なるほどなるほど。流石、直々のご指名なだけのことはある、と言うことでしょうかねえ?」
「……何の、話だ」
「さて、何の話でしょう?」
意味ありげにニヤつくシェルムの様子に疑問を持つクレールであったが、再び主張を始めた右腕の激痛に耐え切れず、思考を放棄して顔をしかめる。
意識が薄れてきている。体から力が抜けていく。最早肉体は限界であり、精神力を絞り出してどうにかキトリーを抱えている状態であった。
弱り萎んでいく己の心身。しかしながらそれに反し、視界は気味が悪い程に鮮やかで。
生命の危機に瀕し、クレールの『目』は当人の思考など意にも介さずその魔の力を発露させる。
それはかつて、黒狼エクリプスとの二度目の遭遇の際にも味わった感覚。まるで『目』が意志を持つかのように。
余裕の表情で曲刀を弄うシェルムが見える。哄笑を上げて狂い倒すクラウスが見える。
悲鳴や叫び声を上げて逃げ惑う観衆が見える。観客を逃さぬよう舞台の上から飛び降りて道を阻む旅楽団員が見える。
広い客席のひとつひとつが見える。床に敷かれたカーペットの模様が見える。舞台上の大道具の仕掛けや継ぎ目までが見える。
だからこそ。
クレールは恐らく、その異変にいち早く気付いた。――――床に広がっていた血の染みが、徐々に引いていることに。
時を巻き戻すかのごとく、ゆっくりと。鮮血が元在った場所へと還っていく。見間違いかとクレールは二、三瞬きするも、見える光景は何も変わらず。
止まらぬはずの時計の針が、どころか左回りに戻りゆく。故に舞台はピリオドを迎えることなく、先へ先へと進みゆく。
絶望は終わらない。悲劇は幕を下ろしなどしない。都合の良い終わりなど訪れない。
あるいは黒の王国の民衆は、本能の内に気付いていたのかもしれない。何故ならば彼らは誰一人として喜びを示さなかったのだから。
怯え、叫び、逃げ惑う。惨劇を前にした反応としては凡庸だが、圧政者の死に立ち会ったにしては些か以上に喜色が足りない。
つまるところ、民にとって王とは人ではなく悪魔なのである。
――――刺して殺して容易く死ぬモノを、人は悪魔などと呼んだりはしないのだからして。
血液が躍る。生首が宙を舞う。抉られ尽くした肉体が音も無く浮き上がる。
流れ尽くしたはずの血液が肉体へと舞い戻り、形を留めぬほど刺され尽くした上半身の傷が生々しい音と共に塞がっていく。
超常の光景に哄笑が止み、悲鳴が止み、全ての音が殺された。――――死が戻る。生が戻る。さながら壊れた玩具を直すかのように。
己の耳と目と肌と舌と、ともかくクレールは全てを疑った。……なんなのだ、これは。一体何が起きている。
激情に満ちていた狂乱は、黒の王の酷く悍ましい大笑によって全てが呑まれて掻き消された。
誰しもが見た筈だ。かの王が胴を幾度も幾度も刺され、その鮮血が飛び散るのを。
見た筈なのだ。かの王の首が斬り落とされ、命が尽きるその場面を。――――だというのに。
――――死が戻る。生が戻る。さながら壊れた玩具を直すかのように。
――――所詮、その程度なのである。黒の王にとってみれば、自他の死生すら暇を潰す手慰み。
超越者、怠惰の支配者。百年王とは人に非ず、黒の王には触れるべからず。神秘すら纏う悪魔の異称、その意味を正しく理解している人間がどれほど居ようか。
そして当たり前のように胴と首とが繋がって。白黒の反転した目に冷ややかな生気が宿り、白蛇を思わせる相貌が凄惨な笑みを浮かべる。
彼の王道は潰えない。誰彼からもあれを阻めと願われながらも、誰彼も王の眼前に立つ者など居らず。
玩弄は絶えず、嘲弄は続く。故に絶望は終わらない。手始めにと弄ばれたのは――――曲刀振るう軽業師。
「――――――――が、ぁ」
一瞬にして、シェルムの腹に穴が開いた。風通す真円は間もなく鮮血に満ち、少女は力なくその場に崩れ落ちる。
生気は瞬時にして失われた。瞳孔の開いた少女の目が、疑いようのない死を語る。――――そう。人間と言うのは元来、こうも容易く散るものなのだ。
故に彼は悪魔なのであり、全ての民から畏れられている。――――黒の王ユーグ、他に比する者無き死生の支配者は、大笑を以て恐怖を撒き散らす。
「赦せんなあ、許せんなあァァ。大逆の罪ィィィ――――死を以て詫びよォォォオ、あははハハハハァァァァァア―――――――!!!!!」
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