かの哲学者は言いました、人は考える葦である。
かの哲学者は疑いました、我考える、ゆえに我あり。
これらについて、厳密性を求める人たちは、我考える、その考える我が考えるゆえに我がある、と、いたちごっこのような思考実験を続けました。
この世に確定的なものは何もなく、不確定なものが渦巻き、曖昧な認識の下で成立している……それがポピュラーな考えになったのです。
さて、ではひるがえって小説とは?
極論すればありえない物事を描くものだ。例え純文学であっても、それは現実には成立しえない。
そんな小説の中で、この物語は確定性と不確定性を問う。
それは揺らぎのなかでたえず変化するものでありながら、私たち読者に一つの同じものを与えるだろう。
即ち、面白いという感慨である。
是非私は、その感覚を皆さんと共有したいものである。
時折、こういった命題にぶつかることがあります。
相手のためを思い、相手の間違った・もしくは間違っているであろう認識を、正そうとする行為が、相手にとっては迷惑でしかないというパターンです。
本作の場合、上記の行動はあくまで「仕事・作業」として行われますが、多くの人の場合、それはごく何気ない日々の中で起こりうることでしょう。
そこで私は思うのです。もし親友や親族相手に「気付かせなければならない」状況になったとき、果たして私はそれを実際に行うことが出来るのかと。
仕事として、作業として、そして全くの他人相手とはいえ、それらをひっくるめた上で、「気付かせる」ことを完遂した主人公に、私は敬意を抱かずにはいられません。