『魔王』と呼ばれるヤクザと、それを退治する『勇者』と呼ばれるアウトローの物語。
現代社会を舞台にしていながら、『魔王』や『勇者』や『アーサー王』などファンタジーな要素も取り入れた面白い舞台設定もさることながら。
そのキャラクター一人一人の魅力で、ぐいぐいと引き込まれていきました。主役級はさることながら、脇役の一人にいたるまで魅力的。
主人公の一人称で語られる物語ですが、その主人公が強いのに完ぺきではなくて欠点やアラも多く、どこか親しみが持てるところが一番引き込まれる要因かなと感じます。
その語り口調が、コミカルでなんとも面白味があります。
続き、楽しみにしています。
個人的には、《嵐の柩》卿と主人公の関係が気になります!
テンプレと王道の違いはどこだろう? 読みながらついそんなことを真剣に考えてしまった。ハイテンポで進むストーリー、派手で痛快なアクション。ダークでシビアな世界観。斜に構えた主人公と、彼を慕う美少女たち。ライトノベル、それも流行り物の要素をたくさん持っている。それでいて少しも安っぽくない。
主人公のヤシロがとてもいい。自分や仲間のことをどうしようもないクズの人殺しだといい、口が悪く、粗暴で、性格はねじまがり、安っぽいチンピラのように振る舞う。だけど芯のところに捨てきれない理想を持っている。お人好しで、熱いところがあり、だけどそれを自分では認めたがらない。
読んでいて胸の熱くなる作品。
本作は、「エーテル知覚」と呼ばれる感覚を用いて異能を操る人間たち(これを「魔王」や「勇者」と呼ぶ)が描き出す、戦いと希望の物語である。
ただし、ここで描かれるのは、たいへん硬派で地に足の着いた戦いと、あまりにも軟弱で浮ついた理想論じみた希望である。
「エーテル知覚」には、使用者本人にしかその正体を知覚できないという特性がある。逆に言えば、異能の正体を知られてしまうことは戦士として致命的な弱点となる。こうした設定から生まれる彼我の異能の探り合いはもちろんのこと、武器術や格闘術から口八丁によるブラフまで、戦闘に関する知略を広く深く用いた骨太のバトルをわれわれ読者は堪能できる。
本作の主人公である「勇者」、《死神》ヤシロは、クズである。勇者以外の何者にもなれなかった社会不適合者、ケチなチンピラそのものであり、それを取り巻く友人たる勇者たちも、彼と同様に何らかの破綻を抱えた者しかいない。ヤシロは己がクズであることを大いに自覚しつつ、しかしクズなりのプライドを胸に抱いて日々を生きている。
そしてわれわれ読者は、ヤシロという勇者が帯びる破綻者ゆえの悲哀を直視せずには居られない。
「勇者なんてのはクズのやる商売だ」という言葉をヤシロはしばしば口にする。そして、ヤシロ以外の様々な勇者のありさまを目にするわれわれ読者は、彼の言葉を「全くもってその通りだ」と思う。なぜならこの作品に出てくる勇者たちは本当に尽くクズばかりだからだ。「勇者とはクズのやる商売である」という当たり前の事実を、ヤシロはやはり当たり前の事実としてわれわれに提示しているにすぎない。
そして、だからこそ、最終盤の彼が放つとある言葉に、われわれは胸を打たれずには居られなくなる。勇者以外の何者にもなれなかったヤシロが語る希望を、少なくとも私は笑うことができなかった。ケチな勇者が見せてくれた意地が、プライドが、私の目には最高に格好良く映ったのだ。彼が果たして何と言ったのかは、ぜひ自分の目で確かめてほしい。
「勇者」という言葉に憧れたことのあるあなたなら、最後にはきっとヤシロの虜になってしまうだろう。
本格派の異能バトルに彩られた、誇り高きクズの英雄譚である。
「俺はクズだ」って言ってるやつはテスト前に「俺ぜんぜん勉強してねーわ」って吹いてるやつくらいに信用できないと思っていて、何でかってそいつら大体、ちょっとプラスなことをしたときに「クズのくせにやるじゃねーか」って思われたい、期待値を低くしておけばどんなことをしても褒められる!って打算して「クズだよ」ってプラカードをぶらさげて歩いてるファッションクズなんだよな。
とくに異世界もの中心のネット小説で主人公の性格が悪いやつ、なんだかんだで善いことをしてるしなんだ捻くれてるけど善性じゃん可愛げあるじゃん別に許せるじゃんみたいなのが多い。そういうの見るたびに俺は心の中でそっと「こんなんクズの安売りだわ」って言ってきたし半額シールをそいつに貼ってきた。
けど勇者のクズの主人公はプレミアがつくレベルに高値のクズ。
強くて冷静で機転がきいて、相手の動きも仲間の動きもよく見て戦況をコントロールできる、やると決めたことをやり通す意志力もある、無敵ではないんだけどどんな状況でも頼れる高汎用性の能力も持ってる、憧れられてもおかしくないスペック、されど間違いなくクズ。心の底から友達になりたくないと思った。こんなのが隣に居たら正義を飾って自分の価値をアピールするとかできないよ。こっちのがクズだけど頼れるもん。
本編は可愛い勇者候補少女三人組がそんなプロのクズに「クズとはなんたるか」を体験学習で教わっていくお話。勇者はクズなので事実上この世界における「勇者とはなんたるか」というのが分かるようになっている。敵の魔王についてもいろいろと分かる。勇者と魔王と聞いて夢いっぱいでやってきた読者は吐きそうなほどに濃い泥臭さで描かれるこの世界の現実に「うわあ……」ってなることうけあい。こいつらファンタジー用語でVシネマやってるよ、とドン引きするかもしれない。
魔王に《卿》がついてるとか能力が《エーテル知覚》って名前だったりとか、用語そのものは中二心をくすぐられるだけに、子供の遊びがそのまま大人の世界に交ざっちゃったみたいな恐さがある。空から落ちてきた美少女勇者の首筋に注射痕が並ぶシーンが一話から来る。この世界じゃ物理的に薬をキメないと戦いのステージにすら立てないという。
ひどい、容赦がない。そこからも良い所を見せようとしたやつからむごい目に会う。ヒロインの一人はどこまでも物語の中の良い勇者でいようとして馬鹿を見て、クズの主人公はそいつを鼻で笑い続ける。こんな横暴があっていいのか。あっていいらしい。だってクズでもないと生き残れないからだ。
最終的に分かるのは、「手段を選ばずに最後まで生き残ったやつが言いたいことを言えるしやりたいことをやれる」みたいな、ひどく当たり前の事だったりする。そういうことができるやつでも社会の波とか役割とかに勝ててなかったりして世知辛いが。確かにそれが世界の真理で、勇者と魔王が居ようが居まいがきっとそれは変わらないのだろうと思う。
それでも、そうした――クズの所業、勇者の商売をやっている主人公が、自も他も読者もきっと認めるクズが、騒動の最後の最後に恥も外聞も整合性も捨てて吐く言葉に、とにかく心を打たれた。
なんというか、読んでる自分の中にあったなにかがその言葉で守られたような気がした。救われた気がした。
読んでよかった。みんなも読んでほしい。番外編も楽しみだ。
「勇者なんて、最低のクズがやる商売だ」ーー主人公・ヤシロは事ある毎にそう口にする。勇者でありながら《死神》などという縁起でもない二つ名を持ち、常にドライでシビアな価値観で物事を捉える割に、少年のような青臭さを捨てきれない男。その青臭さは彼の言うクズ以下の存在に堕ちない為の線引きでもある。血生臭い抗争の最中でも、ヤシロがその矜持を手放す事は無い。それが意味する所は、なし崩し的に三人の弟子を取るに至り、嫌々ながら成長を助ける過程において、彼自身も自覚していく事となる。
だからこれは、現代の勇者譚である。例え過剰な暴力で武装したヤクザとチンピラの抗争の体を成していても、根底を流れるテーマは古式ゆかしい御伽話と通じている。即ち勇気と希望の物語だ。生き馬の目を抜く勇者業界にあって、それらを胸に戦い抜く事にどのような覚悟が、あるいは狂気が必要なのか。ヤシロの言う「クズ以下」に堕せば、もっと簡単に安全に世を渡って行ける事だろう。だからこそ、悪態を付きながらも自身の設定した最低限を護り抜く彼らの戦いは心を打つのだ。
この作品は非常に硬派な作品である。
キャラクターはエーテル知覚と呼ばれる「自らの幻覚を現実に降ろす」異能を持つが、作中で行き交う戦闘技術は、精緻で堅実な剣術、体術が多い。
異能にしても、万物を爆破する能力があるかと思えば、数メートルの高度優位を得る能力が極めて厄介に働き、戦闘前会話では隙あらば主導権を奪い合う。シビアな戦闘哲学がある。
異能力者の犯罪者が『魔王』と呼ばれ、魔王狙いの賞金稼ぎのクズが『勇者』と呼ばれる世界。ただの珍しい異名にしか思えない『魔王』と『勇者』の名が、後半になって作品全体を貫く意味を持つ。深い感慨なしには追うことは出来ない。
一方で、この作品はエンターティンメントである。凄腕の勇者であり最強のチンピラであるヤシロの下に転がり込む三人の女子高生。
クール無愛想系美少女印堂、サラブレッド系世話焼きヤンキーのセーラ。正義に燃えるメインヒロイン(自称)(婉曲表現)城ヶ峰。
こんなキャラクター達が、『最強のチンピラ』『元ダフ屋の今ホームレスの剣豪』『他人が背中を見せると襲い掛からずに居られない神父』などと共に、惨死した主人公の友人(倒した魔王の断末魔の声を録音するのが趣味)の真相を巡り戦うのだ。
本来混じらわざる複合的なエンターティンメントの神髄がここにある。君も今すぐカードゲーム、ビール、ピザを用意して、クズではあるがクズ以下ではないヤシロ達の活躍を目に焼き付けるべきだ。