第16話
その日は、あっという間にやってきた。
娘がセンターに入ったあとは、金輪際、連絡を取ることは許されない。アドヴァイザーから聞かされた説明によれば、パーソナルコードまで新しいものに変わるという念の入れようだった。電子的に接触がブロックされるだけなら、ネットワークに侵入する方法もあると、頭の隅ではそんなことを考えていたが、そう単純にはいかないようだ。
センターの機密上の問題というのが、その理由だったが、クローンの子たちのほうが多数派を占めるセンターでは、親から連絡があるというだけで特別扱いになってしまうのだという話が、言い訳のように付け足されていた。
機密保持が最大の理由だから、当然のようにサーシャに対する通信も禁じられる。こちらについては、パーソナルコードの話はなかったが、サーシャ自身が、連絡しないでほしいと言った。
彼女が何を思い浮かべているのかは、わかるような気がした。あの素っ気ないメッセージが、まだ目に焼き付いていた。――NOT FOUND。
思うところはあったが、結局、俺はうなずいた。俺自身にとっても、そうするほうがいいような気がした。少なくとも、例の計画を実行に移してしまうまでは。いつか、もしも何もかも間に合わなかったと知ったときに、自分がくじけないでいられるかどうか、わからなかったから。
何度も話し合って、結局、クローディアの手術はしないことにした。
例の計画は、たしかな約束を出来るようなことではないと、俺は念を押したが、サーシャはそれでいいと言った。
手術を選んで、シスターになるための教育を受けさせるよりも、他の子たちの間に混じって、同じように暮らさせたいと。
迷いは最後まで消えなかったが、最終的には俺も同意した。その選択が正しかったのかどうかはわからない――後になれば、きっと悔やむだろうという気がした。自分たちが間違った判断をしたのではないかと、そう思わない日は、これから先、おそらく一日たりともないだろう。
その後悔を持ち続けることだけが、唯一この先、俺が娘にしてやれることだった。
別れの日の朝、やけに早くに目が覚めた。
サーシャはまだ眠っていた。起こさないように、つめたい頬にそっと触れて、涙のあとをぬぐった。朝の白い光の下で、相変わらず白い肌には青い血管が透けていたが、それでも出会った頃の病的な顔色に比べれば、いくらか血色がいいように見えた。
足音を立てないように寝室を出て、隣の子ども部屋のクローディアの様子を見にいくと、こちらもまだ眠っていた。泣きはらした跡のある目元にそっと触れると、枕がまだ濡れていることに気がついた。
そっと頬にキスをすると、クローディアは目を覚ましかけて、このごろ急に長く伸びた手足をもぞもぞさせたが、すぐにまた寝入ってしまった。
子どもは眠らなけりゃいけない。ぎりぎりまで寝かせておこうと思いながら、そのことで恨まれそうな気もした。だが、それでいいとも思った。
センターへの私物の持ち込みは禁止されているというので、朝からクローディアには、前もって送られてきていた標準服を着せた。
せめて気に入りの服でも着せて送り出してやりたかったが、規則だからと、あえなく一蹴された。他の子が持っていないものを、その子だけが与えられているとなれば、喧嘩の原因になるからと。
これからこの子は、クローンのほうが多数派を占める子供たちのあいだで暮らすのだ。子供にも嫉妬はあるんですと、そう言われれば、引き下がるほかにどうしようもなかった。
せめてと思って、この頃クローディアがいちばん気に入っていた形に、髪を編んでやった。嫌がるかとも思ったが、娘は怒った顔のまま、黙ってさせた。
もう少し大きければ、自分でもできるように教えてやれただろうかと、考えてもしかたのないことを思った。
頑なに背中を向けてうつむいているクローディアに、笑顔を見せてくれないかと声をかけても、娘は黙ったまま、ずっと顔を背けていた。その耳が赤くなっているのを見て、俺は引き下がった。自分が無理を言っているということはわかっていた。
二人組の係官がやってきて、いよいよ家を出ないとならないとなったとき、それまでずっと黙り込んでいたクローディアが、一転、顔を真っ赤にして大泣きした。
最後だからと係官に断って、もう一度だけ、ふたりで代わる代わる娘を抱きしめた。だが、泣き止むまで待ってやることは許されなかった。
嫌がる娘を、係官は慣れた手つきで俺から引きはがして、手足をばたつかせて抵抗するのをものともせずに、軽々と肩の上に担ぎ上げた。
思わず安心したのは、彼らが鎮静剤でも持ち出すのではないかと思っていたからだ。効き目の弱いものであっても、薬は怖い。思わぬ副作用が出ることがある。
係官はいくつかの連絡事項を伝えると、さっさと歩き出してしまった。その背中を追いかけて、殴り飛ばしてでも娘を連れ戻したいという衝動を、むりやり押さえ込みながら、クローディアの声が届かなくなるまで、じっと耐えていた。暴れたところで、警備ロボットがやってきて、それこそ鎮静剤でも打たれるのが関の山だというのはわかっていた。
姿の見えなくなったあとも、いっときその場に留まって、娘の連れてゆかれたほうを見ていた。サーシャがうつむいて、涙を堪えていた。
自分の父親のことを思い出した。暴れて取り押さえられ、連れてゆかれる俺に手を伸ばして半狂乱で泣きわめいていた父――いまごろ彼はどうしているのだろうと思った。
サーシャの出発のほうが、半日だけ遅かった。クローディアが連れてゆかれたその日の午後、数えるほどもないわずかばかりの私物をまとめて、彼女は俺のほうを振り返った。
その唇が何かを言おうとして迷い、言葉を探しそこなって、閉じた。
「――元気で」
ほかにどう言いようもなくて、それだけを言った。
あとどれだけ生きられるかもわからない相手に向かって、それは適当な文句ではなかったかもしれなかったが、サーシャは怒らなかった。ふっと、目を細めて、
「あなたも」
そう囁いた。
少し考えて、手を差し出した。サーシャはわずかにためらってから、その手を握り返してきた。
この先に待ち受けている、彼女の償いとやらがどういうものなのか、詳しい話はついに聞けずじまいだった。自分がひとりでやらなくてはならないことだと、そう言ったサーシャの声だけが、まだ耳に残っていた。
すでに係官がやってきて、彼女の支度が終わるのを待っていたので、よけいなことは口に出来なかった。必ず間に合わせると、とうとう口に出して言うことのできなかった言葉の代わりに、握った手に力を込めて、そっと離した。
六年あまりを過ごした家を出て、カレッジの寮に移ると、目に見えて時間の流れが変わった。
教程をひとつずつこなしながら日々を過ごしていると、あまりにも当然のように、平穏に一日が過ぎてゆくことに、俺は気がつかされた。
妻を失った痛手からまだ立ち直れていないようすの男たちも中にはいたが、彼らの大半は一心不乱に学業に打ち込むか、あるいは人の輪を外れて殻に閉じこもることを望んだ。そして、それ以外のほとんどの人間は、おそらくそうした時期を、すでに通り過ぎつつあった。
考えてみれば、当然のことだったかもしれない。多くの男はもう何年も前に妻に先立たれているはずだったし、それからの数年間を育児に忙殺されてきたのだろうから。俺のほうがむしろ例外だったのだ――それもおそらくは、かなり幸運な部類の。
世界は、一見したところ平和だった。とりあえずの生活に不安はなく、将来はゆるやかに保証され、その気になれば学ぶべきことも、打ち込めるような趣味や娯楽のたぐいも、目の前にいくらでも用意されていた。
そのかりそめの平穏が、俺には恐ろしかった。家族を失った痛手を癒やし、過ぎたことは忘れて、ただ提示される道を選んでいけば、これから先の人生を間違いなく穏当に歩んでゆけるのだと、暗にそう訴えかけてくる、見えない圧力のようなものが。
進学してから、セオとはまたしばしば会う機会が増えた。学部は違っていたが、同じ講義をいくつか取っていた。
何度か連れだって出かける機会もあったが、例の計画のことは、まだ打ち明けていない。卒業セレモニーのときの一件を、セオは俺の一時的な好奇心だと思っているはずだった。あのとき、地球の通信を傍受するということは話したが、それが何のためなのかということは伝えなかったから。
いつか時期が来たら、この友人には何もかも話そうと思っている。
セオは工学部を選択していた。いずれ医療機器の開発のほうに進みたいと、友がそう口にしたとき、その目に落ちた影と、それからその奥ににじむ決意の色に、俺は気がついた。
何をしても未来は変わらないのだと思っていたと、いつか、サーシャは言った。
そうではないと、もう一度、彼女に言って聞かせたいと思った。もしも俺の計画がうまくいかなくて、何も変わらなかったとしても、いつか他の誰かが――セオのような人間が、もっと違う手段で世界の不条理に挑みかかるだろう。たとえ、どれだけ時間がかかったとしても。
同時に恥じ入りもした。この途方もないような問題に、地道に、正面から現実と闘おうとしている友の選択に比べて、自分の考えが子供じみた、短絡的な思いつきのような気がして。
俺のしようとしていることは、ひどく愚かしいことなのかもしれなかった。成功するかどうかもわからない――計画自体が成功したとしても、その先どう転ぶかも、まだわからない。途中でことが露見したときは、監獄にぶち込まれるだけで済むかどうかも。何もできないまま、たとえば人知れず消されることになったとしても、俺は驚かないだろう。
だが諦めるつもりはない。
教員に向かっては礼儀正しく、級友らには愛想良く振る舞って、人に付き合って方々に出歩きながら、目立たないように機材を集める。部屋で一人きりになると、違法に作った端末の画面をにらみつけて、想定しうる障害の対策を練り、可能性をひとつずつ潰してゆく。
ひとりで作業をしているとき、よくサーシャの横顔を思い出した。画面の向こうを鋭く睨みすえていた、あの、炎のようなまなざしを。
プログラムのデバッグを続け、発信すべきメッセージを練りながら、行政府という姿のない怪物に向かって、繰り返し胸のうちで囁きかける。
今に見ていろ。牙を忘れた狼ばかりではないぞと。
クローズド・アクアリウム 朝陽遥 @harukaasahi
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