第15話

 その一件の後、サーシャは物思いに沈むことが増えた。

 以前のことがあったから、しばらくのあいだ、気がけてなるべく目を離さないようにしていたのだが、それについては俺の考えすぎだった。

 少なくとも、彼女があの頃のように不安定になるようなことはなかった。ただ何かの拍子にふっと、真剣な横顔を見せて、考え事をしているようなことがよくあった。

 クローディアの誕生日まで残り三ヶ月をきったあたりから、俺あてにカレッジや市民センターから、今後の手続きや進路に関する連絡が入るようになっていた。

 前後して、娘の準備についての連絡も入り始めた。センターでの暮らしに向けて、いまから身につけさせるべき生活習慣が、アドヴァイザーから散発的に指示されるようになった。

 五歳になったらセンターに移って、ほかの同い年の女の子たちと一緒に生活をするのだという話は、早いうちからたびたび言って聞かせていた。だがそこに行くのは自分ひとりで、俺もサーシャもついてはいかないのだということを娘が理解するまでには、時間がかかった。残りひと月を切るころになって、クローディアはようやくその事実を、はっきりとのみこんだらしかった。

 どうして別れ別れにならなくてはならないのかということを、幼い娘に理解させることは難しかった。それも当然かもしれない――自分自身も納得していないことを誰かに信じさせようというのだから。

「センターになんて、いかない。ずっとおうちにいる」

 このごろ言葉がずいぶん達者になったクローディアは、短い足をせいいっぱい踏ん張って、俺たちを睨め上げた。

 ずっと聞き分けのいい利口な子だったのだが、母親譲りの気の強さが、どうやらこのごろ表に出はじめていた。普段はそれもほほえましく見ていられたのだが、このときばかりは手を焼かされた。

「だけど、お父さんもお母さんも、ここから出て行くんだよ。それでもお前、ひとりで残るかい」

 そう言うと、クローディアは顔を真っ赤にして両目いっぱいに涙をたたえた。

「どうして、いっしょに行けないの」

 どうしてなんだろうなと、つい言いそうになったのを飲み込んで、どうにか言葉をすり替えた。「女の子にしか行けない場所なんだよ」

 それがあまり賢い切り返し方ではなかったことには、言いながら自分でも気がついていた。案の定、クローディアは即座に切り返してきた。「じゃあ、おかあさんは?」

 どう説明したものか、途方に暮れてサーシャのほうを見上げると、彼女は目を伏せて、ゆっくりと首を振った。

「――お母さんには、ほかの場所で、しなくてはならないことがあるの」

 サーシャの口調は、大人に向かって話すときのような、手加減のないものだった。そのことに気を呑まれたように、クローディアは顎を引いたが、すぐにぱっと顔を上げた。

「じゃあ、ディアも、いっしょにてつだう」

 言ってから、自分で名案と思ったのだろう。期待に目を輝かせながら、クローディアは母親を見上げて返事を待った。

 ふっと目元を和ませて、サーシャは笑った。屈みこんで娘と視線を合わせ、

「ありがとう。だけど、お母さんがひとりでやらなくちゃいけないことなの」

 そんなふうに言った。

 納得できたはずもないだろう――それでもクローディアは黙り込んで、唇を曲げた。

 泣き出す、と思った瞬間、ぱっと身を翻して、娘は子供部屋に走って行ってしまった。

 サーシャは子供部屋の前まで行って、いっとき中の様子を伺っていたが、しばらくしてリビングに戻ってきて、肩を落とした。

「ほかの人たちは、どんなふうに言って聞かせているのかしら――あなたの子供のときは、どうだった?」

「どうだったかな……」

 実のところ、覚えていなかったわけでもないのだが、俺はとっさに言葉を濁した。

 七歳のとき、早く家を出たくてしかたがなかった。家の中はいつも落ち着かなかったし、登校すればしたで、クラスメイトたちはは学寮での生活に慣れ始めていて、俺はその中でひどく浮いた。自分たちはむりやり親元から引き離されたというのに、どういうわけか特別扱いを受けている子供がいるというので、皆は面白くなかっただろう。

 ほかの家ではどうしているのか――旧友の誰かに連絡して聞いてもよかったが、おそらく、参考にはならないだろうという気がした。納得がゆくまで言い聞かせることなどできないまま、その日を迎えることのほうが、多いのではないだろうか。

 どのみち納得しようとしまいと、無理矢理連れてゆかれることは変わらないのだ。別れのときに心残りを少なくしたいというのは、しょせん親の勝手な都合だという気がした。

 だが、彼女にそう言うのも気が進まなくて、俺は話題を変えた。「ところで、君の、やらなきゃいけないことっていうのは?」

 サーシャが自身のことに関して、先の話をするのは、このときが初めてのことだった。

 彼女にはこの時点で、まだセンターから何の連絡も入っていなかった。結婚初日のことを、俺は思い出さずにはいられなかった。あのとき俺は花嫁の名前さえ、当日にならなければ知らされなかったのだ。

 サーシャはすぐには答えなかった。しばらく迷うように視線を揺らしていたが、やがて顔を上げて、

「償い――になるのか、わからないけれど」

 小さな、けれど、はっきりした声で、そんなふうに切り出した。

「自分がしてきたことの、報いを、受けなくてはならないと思うの」



 それから一週間ばかりが経つころ、サーシャあてに通信が入った。

 彼女は少し迷って、手元の端末ではなく、リビングのディスプレイにその通話をつないだ。俺も話を聞いていいということだろう。

 昼間のことで、その場にはクローディアもいた。娘はまだ機嫌をなおしてはいなかったが、お母さんの話を邪魔してはいけないよと言い聞かせると、不承不承といったふうにうなずいて、ソファの上でぬいぐるみを抱きしめた。

 ディスプレイに映し出された女性は、変わった格好をしていた。

 尼僧服――歴史映画のなかでしか見たことのなかったような、その仰々しい服装を見て、俺はちょっと面食らった。サーシャがいつか、神様がどうのと言っていた理由が、やっとわかったような気がした。

 シスターはサーシャと、それから母親の影に隠れようとするクローディアとを交互に見て、まあ、と明るい声を上げた。そのあとで俺に向かって、丁寧に頭を下げた。『突然の失礼をお許しくださいませね』

「いえ」

 短く答えながら、まだいくらか気を呑まれていた。ずいぶんと年老いた人物だった。目が悪いのかもしれない――年のせいか、あるいは何かの病気なのか、瞳が半ば、白く濁りかかっていた。

『久しぶりですね、サーシャ。あなたとまたこうして話せて、嬉しいわ』

 ひどく感慨深げな口調だった。サーシャは困惑したように視線を揺らしたが、すぐに顔を上げた。「わたしもです――シスター・マリア」

 シスターは、なぜだか驚いたように、軽く目を瞠った。それからひどく嬉しげに、相好を崩した。

『あなたがよい出会いに恵まれたようで、何よりです――こんなに嬉しいことはないわ』

 画面の向こうの老女は目を閉じて、何か、祈るような仕草をした。その枯れたような皺ぶかい指を見ながら、この人も、例の措置を受けて永らえた人なのだろうかと、つい考えずにはいられなかった。

 ゆっくりと目を開けて、シスターは微笑んだ。

『今日は、今後のことを話したくて、連絡したのです。あなたの身の振り方を相談したくて』

 シスターがみなまで言うのを待たずに、サーシャは緊張した声を出した。

「いまからでも歌を学ぶことは、許されますか」

 画面の向こうで老女はかすかに息を呑み、短い沈黙が落ちた。サーシャは何かの言い訳をするように、口早に続けた。「前にシスター・メリルが、そういう話をされていたんです。わたしが希望すれば、声楽の先生をつけてもらうことも、できるかもしれないと」

 シスターはまじまじとサーシャの顔を見て、それから、確認するように言った。『それは、教師として聖歌の授業を受け持つ意思があると、そう受け取っても?』

「はい――もしわたしに、それだけの時間が残されているのなら」

 はっきりと、サーシャはうなずいた。

 緊張に強ばったその横顔を見ながら、それが彼女の言っていた、償い、なのだろうかと思った。

 画面の向こうで、シスターは何かに感じ入ったように目を閉じた。再び彼女がまぶたを持ち上げたとき、濁った緑の瞳は、涙でかすかに潤んでいた。

『歓迎します、サーシャ。――あなたはきっと、いい教師になるわ』

 サーシャはかすかに眉をひそめて、それから少しばかり唇の端を上げた。「わたしはいい生徒ではなかったでしょうに」

 その声は皮肉の色をはらんでいたが、シスターは何もかも承知しているかのように微笑して、ゆっくりとうなずいた。

『だからこそです』

 その返答がよほど予想外だったのか、サーシャは言葉を失って、いっとき黙り込んだ。やがて彼女は疑いの色を目に残したまま、慎重な口ぶりで問いをかさねた。「――神様を信じていなくても?」

『メリルもそうでしたよ』

 その名前は、彼女にとってどんな意味を持っていたのだろう。

 いまにも泣き出しそうに、サーシャのまつげが震えるのを、俺は口を挟むこともできず、ただ見ていた。

 だがサーシャは泣くことなく、ディスプレイに向かって頭を深く下げた。

「感謝します、シスター」

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