第14話

 三歳をすぎた頃からはクローディアが病気をすることも減り、時間ができた俺は、部屋に籠もって傍受プログラムの仕上げにとりかかった。

 それと並行して、発信するメッセージの文案を練る。これは想定しうる地球の情勢にあわせて、何パターンでも用意しておいていい。

 検討すべき要素はいくらでもあった。いま俺たちの使っている平文の英語が果たしてそのまま向こうに通じるのかということから、まず心配しなくてはならない。

 どういう形で送ればより多くの人の目に触れさせることが出来るのか、あるいはどの地域をターゲットに据えるのか。タイミングも重要になってくる。そうしたことを見極めるためには、情報収集が必要だった。月面で手に入る過去の情報から推察するには、二百年という隔絶は、あまりに大きすぎた。

 メッセージを向こうに届ける手段についても考えなくてはならなかったが、こちらはそれほど悩まなくてすみそうだった。何も地球まで直接電波を届けなくてはならないわけではない――彼らの人工衛星を経由すればいいのだから。こっそりやろうと思うと難しいが、発信するだけなら、遠距離通信のための装置は身の回りにいくらでもある。

 情報収集の方は、前もって何度も繰り返す必要があるし、そのためには誰にも知られず、できることなら痕跡も残さずにやらなくてはならないが、発信の方はそういう気を遣う必要はない。内容とタイミングさえ誤らなければ、最悪一度きりの、一方的なものになってしまっても用は足りる。何なら身許がばれてもかまわない。

 作業を進めながら、焦りがいつも胸の底にくすぶっていた。

 これまでに同じようなことを考えた男が、どれくらいいただろう。こんなことが、自分が初めて思いついたアイデアだとは思えなかった。これまでに何度も試みられて成功しなかったことなら、俺にできるという保証は、何もない。

 それでも、できることをやるしかないのだ。

 一日の時間の大半を、そちらの作業に割くようになって、クローディアに寂しい思いをさせているという自覚はあった。俺は自分の父親と、まるきり同じことをしていると思った。

 それでせめてもの埋め合わせのように、毎朝クローディアの髪を俺が結ってやるのが、新しい習慣になった。

 その頃、娘は急に女の子らしい、明るい色の服を好んで着るようになって、散歩に出かけるにも、気に入りの服でなければ駄々をこねることがあった。散歩中によその家の女の子を見かけると、その髪型をうらやましがって、自分もとせがんだりする。

 ライブラリでやり方を調べながら、昔、妹がよく母親に髪を編んでもらっていたのを思い出した。

 言葉が遅かった一歳のときが嘘のように、この頃クローディアはやたらに口が達者になった。ことあるごとに大人の口まねをしたがり、意味もよくわかっていない言葉を使って、俺たちを笑わせた。

 間に合わせてみせる――

 口では大人びたことをいうくせに、すぐに甘えて膝に乗ってくる体温の高い体を、腕の中に抱えて揺すってやりながら、何度となく胸中でそんなふうに呟いた。だが、その言葉を口に出して言うことは、どうしてもできなかった。



 内心では、いつかその日がやってくることにおびえ続けていたが、幸いなことに、サーシャが大きく体調を崩すことはないまま、月日は過ぎていった。

 それがどれほど奇跡のようなことだったか――娘の五歳の誕生日までの残り日数を数えながら、二人でその成長を見守ることができるということが。

 統計をそのまま信じるならば、二十歳まで生きられる女性は、少ないとはいえ、何十人かに一人の割合でいるはずだった。だがその数に、例の処置を受けた女たちが含まれているのだとしたら、そうでないサーシャがいまここにいることが、いかに稀なことなのか――

 だが、その日が近づくにつれて、彼女は浮かない顔をすることが増えた。

 それは当たり前と言えば、当たり前のことかもしれなかった。その日がやってくることは、そのままクローディアとの別れを意味しているのだから。

 だが彼女の表情や、何気ない態度からにじみ出る不安は、どうも、それだけが原因ではないように見えた。

 彼女は何かを恐れているようだった。さっきまで笑っていたのに、ふと気がつけば手許の端末をじっと見つめて、何か思いにふけっているということが増えた。そういうとき、娘が心配して袖を引いていることにも、サーシャはなかなか気がつかなかった。



 正午すぎのことだった。

 ちょうど食事を終えてクローディアを昼寝に追いやり、俺は食器を片付けているところだった。何かが落ちる音がして振り返ると、サーシャの手から離れた小型端末が、床に転がっていた。

 近くにあったテーブルに、取りすがるようにして、サーシャはかろうじて体を支えていた。

「どうした。気分が悪いのか」

 駆け寄って顔をのぞき込むと、サーシャは唇を引き結んで、首を振った。血の気のうせた白い顔の中で、青い瞳だけが、爛々と輝いていた。彼女がこんな顔をするところを、前にも見たと思った。クローディアが生まれたばかりの頃――

 とっさに床に落ちた端末に視線を向けると、画面には、短いメッセージが表示されていた。

 NOT FOUND――

 そのあとに続く文字列は、誰かのパーソナルコードらしかった。

 何が起きたのか、察しはつくような気がした。おそらく彼女はセンター時代の友人に、連絡を取ろうとしたのだ。いや――実際に連絡するつもりがあったのかどうかはわからない。だが、とにかく通信画面を呼び出して、誰かのコードを検索した。

 言葉もなくうずくまったまま、自分の胸をかきむしるようにして、サーシャは、嗚咽を堪えていた。何か、声をかけたいと思った。だが情けないことに、かけるべき言葉が何も思いつかなかった。

「どうして、」

 掠れた声で、きれぎれに、サーシャは叫んだ。「どうして、わたしなの――」

 言葉の意味を取りかねて、目で訊ねようとした。だが彼女は俺と視線を合わせようとはせず、うなだれたまま呻いた。

「おかしいじゃない――皆、死んでしまったのに、なんで、わたしだけが」

 その言葉の続きを聞きたくなくて、とっさに彼女の体を抱きすくめた。

 サーシャはいつか、死にたいわけではないと、そう言った。

 だが、死にたくないとは一度も言わなかったのだ。そのことに、いまさらになって、俺は気がついた。

「君が――」

 声が震えた。「君が、生きていてくれることが、俺には、」

 腕の中で、サーシャの強ばった薄い肩が、小刻みに震えていた。

「俺には、どれだけ――」

 だがそんな言葉が、彼女にとっていったい何の救いになるだろうと、そう思ったら、もうあとが続かなかった。

 NOT FOUND。

 その人物は存在していないと、画面は告げていた。まるではじめから居なかったもののように。

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