第13話
俺はひとつの決意をした。
夜、娘が眠るのを待って、話があると声をかけると、サーシャは困惑したように視線を泳がせた。
リビングのソファに並んで座って、落ち着かないふうに身じろぎをする彼女の手を握った。嫌がられるかもしれないと思ったが、サーシャは何も言わなかった。
いつまでも肉のつかないその手の、爪の形が、そっくりクローディアに遺伝していることに、急に気がついた。そういう、毎日目にしているはずなのに気がつかないでいることが、他にもたくさんあるような気がした。
どれだけのことを見落としたまま、限られた時間を漫然と過ごしているのだろう。月日は待ってくれないというのに。
「ずっと前から、考えていることがあるんだ」
小さくひそめた声で、俺は話しはじめた。
卒業セレモニーの日の出来事が、俺を慎重にさせていた。今度こそ、決行のそのときまで、誰にも自分の計画について話すつもりはなかったし、他人に頼るつもりもなかった。自分の胸の内だけに留めて、ひとりで何もかもやり遂げるつもりだった――これまでは。
いまも、こうしてサーシャに話しながら、自分がひどく愚かなことをしているような気がした。だが、どうしても、黙ったままではいられないと思った。
家の中が盗聴されていないと、保証するものは何もない。いちいちすべての個人住宅まで監視するほど、行政府は暇ではないだろうという、根拠というには薄弱な憶測があるだけだ。
だがその曖昧な可能性に、俺は賭けることにした。どのみちそこまで盗聴が徹底しているくらいなら、俺が書いているプログラムだって、とっくに監視カメラによって筒抜けになっているだろうから。
「いま、地球との国交は、ほぼ断絶してる。わずかな物資のやりとりがあるくらいで――それも、月では手に入らないような資源を、最低限輸入しているだけだ。地球で暮らす連中は、月に人類が暮らしていることさえ、ろくに意識していないかもしれない」
地球の状況については、まともに耳に入ってこない。行政府の人間は、おそらくそれなりの情報を持っているのだろうが、そうしたことが報道されることはなかった。
歴史の教科書で、地球時代の項に乗っているような国々が、いまもそこに形を変えずに存続しているのか。彼らがどういう技術を持ち、どの程度の水準で生活をしているのか。いまでも戦争や内乱は絶えずに起こっているのか。文化はどのていど発展しているのか。
「俺たちの先祖が月にやってきた時点で、地球の人口は、百億を超えていたらしい。それくらいの規模で、人間がいまも暮らしているのなら、きっと彼らは月よりも進んだ技術を持っているはずなんだ――医療も、工学だって」
なぜ行政府は、そうしたことを隠したがるのか。
彼らが情報を掴んでいないとは、とても思えない。卒業前に俺が作ったような子供だましの受信機でさえ、理論上は軌道衛星からの電波をそれなりに拾えるはずなのだ。
地上で長時間作業をする技術者や研究者の中には、好奇心から同じことをやる者もいるという。ネットワークに書き込まれても、いつの間にか消されてしまうたぐいの噂話。
なぜ行政府は、情報を秘匿したがるのか。なぜ地球との国交を頑なに閉ざしたままでいるのか。
変化を、恐れているからだ。彼らにとって都合のいい、いまの社会を壊すかもしれない要因――地球からの干渉を。
「確証があるわけじゃない。もしかしたら何か、俺たちの知らない大きな災害や何かがあって、それこそ文明が退行しているようなことだって、考えられないわけじゃないし――だけど、そうじゃないと確かめられたなら」
一度言葉を切って、息を吸った。ずっと自分の頭の中だけに秘めていた考えを、口に出して人に聞かせることには、自分で思っていたよりも、はるかに抵抗があった。「地球の連中の目を、月に向けさせたいんだ」
手の中で、サーシャの指がぴくりと震えるのがわかった。
「地球の医療技術がどれくらい進んでいるかわからない。だけど、もしかしたら――」
月ではこの二百年から停滞している、例のウイルスについての研究に、何かしらの進展があるかもしれない。
それは、都合のよすぎる甘い考えなのかもしれなかった。口に出してしまえばなおさら、自分の考えていたことが、子供の空想じみて聞こえた。
月面で発生したウイルスのことは、当時の地球でも、大きなニュースになったに違いなかった。それを考えれば、これまでの二百年に、地球側のほうから、何かしらのアクションがあってもよさそうなものだった。それがないのは、なぜか。彼らにも、どうしようもなかったからではないのか。それも、充分にありそうな話だった。
だが――いまでもそうだろうか? これほどの時間が経っても?
最初に出た渡航禁止令は、地球に感染力の強いウイルスを持ち込ませないための措置だっただろう。だが渡りに船とばかりに、当時の月はその動きを歓迎して、宇宙港を完全に封鎖した。その状況が続くうちに、やがて地球は月のことを忘れた――そういうことだったのではないのか。
それはテキストには載っていない、俺の憶測に過ぎなかった。だがそうでも考えなければ、説明がつかない。二百年前の当時でさえ、地球の技術は進んでいた。それこそ軍事力だって、月とは比較にもならないはずだ。彼らさえその気になれば、月に連絡を取る手段も機会も、いくらでもあったはずなのだ。それをしなかったのは、政治的な理由ではないのか。
研究者が渡航することは許可されておらず、病原体のサンプルを入手する機会もない――ウイルスを地球上に持ち帰って、万が一にもそれが漏洩すれば、見込まれる死者の数は月の比ではない。そんなリスクは犯せない。
だから双方で、都合の悪いものに蓋をしたのだ。そのうちに、遠い空の上での出来事は、地上の人々から忘れられてしまった。人間は、見たくないものを見ようとはしない生き物だから。
だが――果たしてすべての人間が、そうだろうか?
どこか遠くで苦しんでいる女たちの存在に、見て見ぬ振りをし続けることに、良心の呵責も覚えないでいられるような人間ばかりだろうか。
地球全体に――可能な限り広い地域に、多くの人々に、月の現状を訴えて、技術協力を請う。
それが俺の計画だった。
SOSは、あっけなく無視されるかもしれない。遠く離れた、これまで二百年から国交も途絶えていた見知らぬ相手のために、腰を上げる人間が、どれだけいるかわからない。仮に彼らの中のいくらかがその気になったところで、具体的に何がどうできるのかも。途中でなにがしかの横槍が入らないとは思わない。そもそも地球の医療技術は、俺が期待するほど進んではいないかもしれない――
だからこれは、ただの賭だ。それも、ひどく他力本願な。
だがそのほかに、賭けられる目を、俺は持っていない。月の人口は、年々減少し続けている。技術力も、ほとんどあらゆる分野で、ゆるやかに衰退しつづけている。
このまま何もしなかったとしても、月人類はゆっくりと数を減らし続けながら、あと何百年かを生き延びられるかもしれない。そのあいだ、それなりの技術の保たれているかぎり、女たちは量産され続け、死に続ける。
自分のやろうとしていることが、どれくらい分の悪い賭なのか、わからない。わかっているのは、行政府にはその目に賭ける意思がないということだけだ。彼女らをいまの境遇から解放できるかもしれないという曖昧な可能性よりも、自分たちの安心を選びつづけるということだけ。
俺が話し終えても、サーシャはしばらく黙っていた。ずいぶんと時間が経ってから、ようやくのことで、彼女はおぼつかないような声を出した。
「地球って、本当にあるの……?」
それは、予想しなかった反応だった。サーシャは戸惑ったような顔のまま、つないだ手を見下ろしていた。
どう答えていいかわからずにいる俺を、おそるおそるというように見上げて、サーシャは続けた。
「全部、つくり話なのかと思ってた。天の国とか、エデンの園とか、そういうものと一緒で――」
それが、聖書に出てくる言葉だということには、遅れて気がついた。
うなずきながら、そういうものかもしれないと思った。センターで彼女らが受ける教育の中身を、俺は知らない。だがいつか、サーシャの端末で見たライブラリの制限を思えば、察しはつくような気がした。
「クローディアは」
サーシャは、何度か瞬きをしたあとで、ようやくいくらかはっきりした声を出した。彼女が何を訊こうとしているのか、皆まで言わないうちに察しがついて、俺は唇を引き結んだ。
「あの子が生きているうちに、間に合う……?」
彼女の青い瞳を見下ろしたまま、俺はためらった。
間に合わせると、俺は、そう言うべきだった。きっと間に合わせてみせる、何も心配はいらないと。その言葉が嘘になるかもしれなくても。あとどれだけの時が残されているかわからない彼女のために、嘘をつくべきだった。
「――わからない」
だが実際に口から出たのは、本音だった。
何も、わからなかった。地球がどうなっているのか――望むような技術があったとして、彼らの協力が得られるのか。そもそも計画自体、本当に実行に移すことができるのかさえ、何の確信も持っていなかった。
嘘をつき続けることのできない自分の弱さを、俺は憎んだ。だが口は勝手に動いた。
「もしうまくことが運んでも……結果が出るまでには、時間がかかるかもしれない――それが何年かの話なのか、もっと長い時間なのかも」
言いながら、俺はいったいなんのために、彼女にこの話を打ち明けているんだろうと、そんなことを思った。
無力感がどっと押し寄せてきた。あいまいな、かえって残酷な期待を持たせるだけの、何の約束も伴わない話。
俺はただ、彼女に弁解をしたかっただけなのかもしれなかった。あるいは懺悔を。
何の懺悔だ? 他人事のように、見て見ぬ振りをするだけではないと――だから許してくれと? そんな言い訳に、いったい何の意味があるというのか。
サーシャがゆっくりと、瞬きをした。その表情に失望の色が浮かび上がるのを、俺は待った。だが彼女は、かすかに唇を開いて、
「――ありがとう」
かすれた声で、それだけを言った。
言葉を失って、俺は彼女の頬を涙が伝うのを、ただ見ていた。
「何をしても、同じだと思ってた。怒っても、大人に逆らってみせても、全部無駄で、これから先も、何一つ変わらないんだって」
ありがとうと、サーシャはもう一度繰り返した。それから、かろうじて聞きとれるかどうかというような、かすかな声で囁いた――これで、希望を持って死んでゆけると。
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