第12話

 サーシャがとつぜん体調を崩したのが、その少しあとのことだった。

 その日の朝から、微熱があるといって、彼女は寝室から出てこなかった。

 彼女が自身の体調のことで弱音を吐くことなど、それまで一度もなかっただけに、俺は動揺した。クローディアが異変を察して不安がるので、慌てて笑顔を取り繕いはしたものの、すっかり板についたはずの作り笑いがいやに引きつっているのが、自分でもわかった。

 それでもどうにか離乳食を食べさせ、満腹になった娘がうとうとするのを待って、ようやく寝室のほうに向かった。ドアを開けるために壁のパネルに伸ばした指が震えて、見当外れの場所を叩いた。手がひどく冷たくなっていた。

 サーシャはまだ寝台の中にいた。

 ぐったりとしたその姿をひと目見たとたん、足がすくんだ。いまさら動揺するというのは、ひどく馬鹿げたことだった――いつかそのときが、ほとんど確実にやってくるだろうことも、それがもういつであってもおかしくはないことも、俺は、知っていたはずだった。それだというのに、いまさら何を慌てる必要があるというのか。

 俺の顔色は、よほどひどかったのだろう。サーシャは目を開けて俺のほうを見るなり、怪訝そうな顔をした。

「どうかしたの」

 まさか、そうなのかとは、とても聞けなかった。黙り込んで立ち尽くす俺をいっとき見上げたあとで、サーシャは誤解に気がついたようだった。

「ただの風邪よ。たいしたことはないと思うけれど、クローディアにうつるといけないから、しばらくこっちの部屋にいるわ」

 引いていた血の気が戻るのが、自分ではっきりとわかった。

 熱を取り戻した指先がしびれ、心臓の音がいやに耳についた。寝台のそばに歩み寄りながら、自分の足が床を踏んでいないような気がした。

 床に膝をついて彼女の前髪を払い、手のひらで額に触れると、たしかに少し、熱があるようだった。

「ほんとうに――」

 例の病気ではないのかとは、口に出すことができなかった。だが察したのだろう、サーシャは小さく肩をすくめて、呆れたように言った。「風邪よ。症状が違うわ」

 安堵のため息が漏れるのをどうすることもできなかった。

 安堵――何を安心するというのだろう? それは滑稽なことだった。だが、そういう自分の愚かさを笑う余裕もなかった。

 いいかげん、覚悟を決めなくてはならなかった――とっくに決めていなくてはならなかったのだ。

 そんなことが可能だと思っていた過去の自分が、信じられなかった。

 怪訝そうな彼女の視線を振り切るように、小さく首を振って、まったく違うことを口に出した。「薬をもらってくる。何か食べられそうか」

 サーシャはいったんは首を振りかけて、思い直したように、小さくうなずいた。それからふいに、くすりと笑った。前によくそうしていたような、皮肉っぽい笑い方で。

「どうした?」

 聞き返すと、彼女は首をすくめて、小声でささやいた。

「――今度こそ、わたしの番かと思ったのに」

 どこか醒めたような、乾いた声だった。

 食べ物と薬を取りにゆくはずが、いつまでも動こうとしない俺を見て、サーシャは眉をひそめた。

「何?」

 返す言葉は、すぐには出てこなかった。

 熱のせいか、サーシャの顔色は、かえっていつもよりいいくらいだった。そのかすかに上気した顔から目をそらせないまま、ようやく俺は口を開いた。

「そうだったらよかったと、言っているように、聞こえたから」

 声が掠れた。

 サーシャは片眉を上げて、小さく首を振った。「別に、死にたいわけではないわ」

 どうでもよさそうな声で言ってから、彼女は、ふいに気がついたように、何気なく顔を上げた。「でも、あなたには、そのほうがよかったんじゃない」

 冷や水を、浴びせかけられたような気がした。

 それが、彼女の皮肉だったならよかった。無関心だった俺を責めるための言葉だったのなら――だが彼女の声音には、皮肉の色はなかった。その声は、当たり前のことを言うような、淡々とした調子をしていた。

「――どうして」

 それ以上続けることができなかった。我ながら白々しい、答えのわかりきった問いかけだった。

「だって、そういうものでしょう。変に情がうつる前に、さっさといなくなったほうが、気が楽――」

 サーシャは途中で言葉を止めた。それから、困惑したように、二度、瞬きをした。「どうしてそんな顔をするの」

 俺は、どんな顔をしていたのだろう。

 とっさに片手で顔を覆って、うつむいた。表情を見られたくなかった。

「はじめのうちは――」喉につっかえる声を、無理に押し出すようにして、俺は言った。「そう思っていた。君に会ったばかりの頃は」

 それは、懺悔だった。だが、口に出す端から、自分で嘘だと思った。俺はつい先ほども、似たようなことを考えたばかりではなかったか。

 彼女と目を合わせきれずに、俺はうつむいた。目の奥が熱かった。言葉が喉に絡んだ。

「――もう、遅い」

 うつむいたまま、敷布の上に、サーシャの影が揺れるのを見た。

 その手が、ためらいがちに伸ばされてきて、やがて俺の頬に触れた。かすかに汗ばんだ、細い指――とっさにその上に、自分の手を重ねてから、その頼りない感触に、俺は怯えた。

 手放すことに耐えられないようなものを持つのは、愚かなことだと思っていた。

「どうして、泣くの」

 わかりきったことを、彼女は聞いた。途方に暮れた、子供のような声で。

 顔を見られないまま、俺はサーシャの体を引き寄せた。抱きしめたというよりも、ほとんど彼女にすがりつくように。そうしながら、震える息をかみ殺そうとした。

 痩せて骨張った体は、熱かった。それで、相手が病人であることをようやく思い出して、俺は体を離した。

「悪い。――薬、取ってくる」

 サーシャの返事を待たずに、部屋を出た。振り返ることができなかった。




 母が死んだのは、俺が四歳のときだった。

 顔も声も、もうよく覚えてはいないが、妹といっしょくたに俺を抱き寄せる腕のやわらかさと、抱きしめられるたびに髪が頬をくすぐったその感触は、いまでも覚えている。

 愛しているという言葉を、口癖のように言う人だった。ささいなことでも声を立てて笑った。部屋を飾り立てるのが好きで、よく花や動物の絵を父に探させて、それをリビングの壁に映していた。

 母が死んだ日のことは、はっきりと記憶に残っている。

 体調を崩しがちになったのは、もっとずっと前からのことだったと思う。少なくとも、ぐったりと横たわる母を心配してそばをうろつき回ったことが、一度や二度ではなかったのは確かだ。

 いつからか、俺たちを安心させるために明るく振る舞う余裕もなくして、母は硬く目をつぶり、痛みに耐えかねてうめくようになった。そんなとき、俺と妹はおびえて父親を呼びに走ったが、彼はたいてい自分の作業に没頭していて、俺たちが取りすがっても、気もそぞろの様子で、うるさそうに手を振ってみせた。

 端末を使ってアドヴァイザーにコールする手段を、そのころ俺たちはまだ教わっていなかった。泣きながら寝室に戻ると、母は無理に笑って、大丈夫、じきに治るからと嘘を吐いた。

 ある朝起きたら、母はリビングで冷たくなっていた。

 父が、その体を固く抱きしめたまま、言葉もなく床に座り込んでいた。その顔には、涙の流れたあとが幾筋もついていた。

 母がもう目を覚まさないということを、俺たち兄妹が理解するのには、いくらかの時間がかかったように思う。父は市民センターに通報することもせず、長いこと母の亡骸を抱えて、放心していた。俺たちが話しかけても、返事はなかった。

 ずいぶん経ってから、父はようやく顔を上げて俺を見ると、壁のパネルの赤いボタンを押すようにと言った。

 言われたとおりにすると、画面に係官の顔が映った。父が何か言うと、いっときして、知らない男たちが家に押しかけてきた。彼らは無言のまま、淡々と母の体を担架に乗せた。母がどこかに連れてゆかれるのだということを、ようやく理解した俺たちが、慌てて担架に駆け寄ると、係官は顔をしかめたが、怒鳴るようなことはしなかった。

 動かない母の手にふれると、その指はひどく冷たかった。

 やがて母は連れてゆかれ、あとにはまだ呆然としている父と、おびえて泣いている妹だけが残った。

「お母さん、どこ」

 妹からそう聞かれたところで、俺に答えられるはずがなかった。唯一、その答えを知っていたはずの父は、口を開こうとせず、いつまでもへたり込んでいた。

 あんなに悲しむのだったなら、と、後になって、よく思った。どうして母が生きているうちに、もっと彼女に優しくしてやらなかったのかと。

 いつも端末にかじりついているばかりで、母が話しかけても、生返事ばかり返していた父――そのくせ、いざ母をうしなったとたん、おかしくなったあの男。



 父のようになりたくないと言いながら、俺は彼と同じことをしようとしていた。

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