わだつみの宝石 5

 どこからか子守唄のような波音が絶え間なくしている。寄せては返す波音が心地よく、口元を緩めていると、頬をめいっぱい左右に引っ張られた。


「やめ……やめよ! 頬がもげる!」


 思わず声を上げると、両頬を引っ張っていた相手がさかさまに視界に映りこんだ。イチである。


「なぜ、そなたはいつもかさねの頬を引っ張って起こすのじゃ! ときめきがない!」

「おまえを起こすのになんでときめきが要るんだ」

「どきどきして目を覚ましたいではないか!」

「こっちはおまえが溺死しかけたせいで、別の意味ではらはらしたんだ」


 見れば、かさねは浜に座るイチの膝のうえに頭をのせていた。

 身体が重い。溺死しかけたというイチの言は嘘ではないらしい。


「ウネめ、かさねを溺れさせる気か……」

「いや、あれはおまえがわるい。波はちゃんと陸に向かって寄せているのに、おまえが妙な動きをするせいで勝手に溺れだしたんだ」

「そなた、なぜかさねでなくウネの肩を持つ!」

「ほんとうのことを言っただけだ」


 むぅと頬をふくらませ、かさねはイチの腕を借りて身を起こす。

 反対側から肩に上着をかけられたので瞬きをすると、紗弓だった。紗弓の背に隠れるようにして流もいる。夜の浜は月のひかりが白い砂を弾いて明るい。


「ちなみにあんたのことを助けたのはイチじゃなくてわたしだからね」

「おお、それはかたじけない」

「べつにいいけど」


 上着の衿を引き寄せようとすると、ひらいた右こぶしから月色の石が落ちる。

 しずくのかたちをした小指ほどの大きさの石だ。砂のうえに転がったそれを拾い上げ、「もしやこれが……」とかさねはつぶやく。


「よかったじゃない。人魚の涙、ほしかったんでしょ?」

「うむ」


 淡くひかる石を月のほうに透かす。見た目は黄水晶に似ている。石の内部に生じたひかりが、中で複雑に屈折するせいか、波のように揺らめいて見えた。かさねはもうただびとであるけれど、この石が何がしかの力を秘めていることはわかる。

 石を一度握りしめてから、かさねは流を手招きした。まだすこしおびえたようすの流の手のうえに月色の石をのせる。


「これはそなたにやろう。人魚の涙は持つ者に長寿をもたらすという。まことかはわからぬが……そなたが元気に大きくなれますように。かさねの祈りもこめておいたぞ!」

「い、いいわよ! それはあんたのでしょ!」


 なぜかあわてたそぶりで紗弓が声を荒らげる。


「えいえんの愛? とかそういうの欲しかったんでしょ。なんでもほいほいひとにあげるんじゃないわよ。たいへんな思いをしたのはあんたなのに」

「まあよいではないか。次に会うたとき、流が健やかであればかさねもうれしい」


 それに、とかさねは胸を張ってわらった。


「えいえんの愛など、かさねはとうに手に入れておるもの!」



 ***


 

 ウネの成人の儀と人魚の涙については解決したが、かさねにはもうひとつ据え置きになっている問題があった。海水を洗い流した髪をイチに拭いてもらいつつ、かさねはううむとしかめ面をして考え込む。


「何を考えてるんだ?」

「いや、そなたとの初夜をまるで覚えていない件なのだがな」


 ふつうに続けてしまってから、「あっ」とかさねは声を上げる。


「いま、かさねは何か声に出して言ったか?」

「……初夜の件について?」

「言っているではないか!」


 しまった、ととたんに血の気が引く。頭にかぶせられていた布の端を両手で持ち、かさねはずるずるとそれで顔を隠した。自力で思い出すつもりだったのに、イチがあまり自然に訊くから、ぽろっと答えてしまった。


「じつは」


 退路を断たれ、かさねは重々しい口調で切り出した。


「かさねはなぜだか祝言の夜のことをまるで覚えていないのだ……。旦那さまにとって忘れがたい夜であったのなら、ほんにすまぬ……」


 なんとか終わりまで言い切って、「だがしかし!」とかさねは顔を上げる。


「はじめてだとか二度目だとかは些事にすぎぬ! ふたりの夜ならこれから何度でも! ともに積み重ねていけばよいとかさねは思う!」


 男の手を取って真摯に訴えかける。

 しばし見つめ合ったすえ、イチはなぜか視線をそらした。その肩がちいさく震えている。わらっているらしい。怪訝な顔をしたかさねに、「たしかに忘れがたい夜ではあったな」とイチがつぶやいた。何か口調と表情にかさねの認識との齟齬を感じる。


「ええと、かさねはそなたと……」

「あの晩、おまえは部屋に入るなりつんのめって柱に頭をぶつけて気絶したんだ」

「えっ」

「怪我はなかったし、そのまますやすや寝ていたから放っておいたんだが」

「そ、そうなのか!?」

「起きたとき、平気かって訊いただろう。痛むようなら森の古老を呼ぶかとも」


 そういえば、訊かれた。訊かれた気がする。

 頭もなでなでしてもらった気がする。むしろはじめは何かを確かめるように触れていた気がする。


(あれはいちゃいちゃではなく介抱のほうだったのか!?)


「なんということじゃ……」

「それは俺の台詞だ」

「そ、その節は……」

「いまさらだろう」


 確かに今さらすぎる。

 うう、と頭を抱えてかさねはうなだれる。

 イチに幻滅されたらどうしようと思っていろんなことが訊けなかったのに、とっくにふつうだったら幻滅されるようなことをしでかしていたとは思わなかった。


「なぜそなた相手だとかさねはうまくいかないのだろう」

「誰が相手でもうまくやってはいないだろ」

「それはそうかもしれないが! かさねだってすこしくらいはイチによいところをみせたいのに」


 ぶつぶつ文句を言っていると、「よいところ」とイチはおかしそうに繰り返した。


「そう、よいところじゃ!」


 話の途中なのに、自然と伸ばされた手が額のすこし上にかるく触れた。そのあたりがぶつけたところなのか。さすがにもう腫れは引いているようすで痛まない。痛まないらしいと確かめた手がそばにあった髪をいらう。ねだって撫でてもらうのは好きなのに、相手のほうからそうされると、かさねはいつもわけもなく逃げたいような気分に駆られてしまう。こそばゆくて胸がふわふわして落ち着かなくなるのだ。


「あー……えーと、えーと、りんけい! 燐圭はいまどうしているとおもう!?」

「いきなりだな」

「べつにあやつのことなど、かさねもどうだっていいが。いやそうではなくて、えーとえーと、あっ! イチは碧水では貝がへんなかたちでこうび――」


 さなかに、ひらいた口をべつの熱で塞がれる。

 唇を触れ合わせたまま、かさねは瞬きをした。自分が話している最中なのに断りもなく。不満に思ったものの、大きな手が後頭部にまわって髪に指をくぐらせられると、安心して力を抜いて目を閉じた。かるく触れるだけのくちづけを何度か繰り返される。くすぐったくて、ふふっとわらいだすと、もうすこし深まった。あたたかな海の浅瀬と深みをたゆとうようなくちづけ。

 それでも唇が離れると、かさねはなんとなくふくれ面をしてイチの指を引っ張った。


「いま、かさねがだいじなはなしをしている最中だったのに!」

「貝がへんなかたちで交尾するはなしがか?」

「そっ――」

 

 言い張ろうとしたけれど、さすがに無理があった。ううう、と呻いて、引っ張った指をまわす。悔しい。もっと神妙そうなはなしをするのだった。


「ひとつ、俺も言いたかった」


 かさねの口元にそっと指を添わせつつ、イチが言った。


「おまえはなんでいつも、しゃべらなくていいときにてんで関係ないことをしゃべりだすんだ?」

「しっ、失礼な!」


 亜子にも同じことを言われた気がする、と思ったが、かさねはとっさに言い返す。


「そなたまで黙っているかさねのほうが愛らしいなどと言うのか!」

「そうは言ってないだろう」

「じゃ、じゃあなんだと……」


 唇をなぞった指の背が頬に触れる。こめかみのあたりをいとしげに撫ぜられる。視線を横にそらして、「あああー! あー!! もう!!」とかさねは叫んだ。


「この沈黙が、くる、くるぞ、くる、というかんじがして埋めたくなるのだぁああああ」

「埋めないでくれ」

「埋めたい!」


 顔をしばし両手で覆ったあと、かさねは大きく息を吐きだした。

 わかった、と白旗を掲げて手を上げる。


「じゃあ、気合を入れてすこし黙るから、そのまえにかさねも言っておきたい」


 目を合わせると気がくじけそうだったので、イチの胸に顔を押し当ててしまう。


「かさねのことは、すごく大事にしてほしい」


 上衣の布を握ってつぶやくと、すこしの間のあと、ちいさな笑みの気配が返った。


「――はい」


 そこでやさしい声を出すのはずるい。

 口を閉じていようとがんばったけれど、こらえきれなくなり、かさねはイチの胸から額を離した。自然と目が合う。なにかを言おうとしてから口元に笑みをのせると、かるく背伸びをして、いとしい男に自分から手を伸ばした。


 

 ***



「忘れものはなさそうね?」


 尋ねた紗弓に、「うむ!」とかさねは元気のよい返事をする。

 白の小袖に茜の括り袴、肩にかけた大小の行李。いつもどおりの旅装である。

 初夏に差し掛かった碧水の海は、緑がかって穏やかな波が打ち寄せている。半月ほどの逗留ののち、旅立つことになったかさねとイチを紗弓と流が見送りにきてくれたのである。


「莵道にまた帰るの?」

「そうじゃな。ただ、途中で常野の土地に呼ばれていたから、すこし立ち寄るつもりじゃ」

「相変わらず東へ西へ忙しいことね」

「まあ、しばらくふたりのあいだはそれでよいだろう」


 すこし離れた場所を歩くイチの背に目を向けつつつぶやくと、紗弓はなぜか「おや?」という顔をした。「うん?」と首を傾げたかさねに、「べつにぃー」と髪をいじりながらそっぽを向く。


「すべて解決したようでなによりって思っただけよ」

「うむ。ウネは成人の儀を果たせたし、流も咳がおさまったようであるし」


 にこにことうなずいて、かさねは紗弓を振り返った。

 碧水の街門が遠くに見え始めている。イチが足を止めたので、ちょうど追いついて横に並んだ。


「紗弓どのも身体に気をつけるのだぞ。また文を書く!」

「あんたもね。――かさね。あとはイチも」


 かさねの両手を取って紗弓は微笑んだ。祝福の龍声が鈴のように転がる。


「おしあわせに」

 



 わだつみの宝石/完

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白兎と金烏 @itomaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説