わだつみの宝石 4

 朝のひかりが白く波が立った海面にきらきらと反射している。

 庵の外で、イチが寝具にした筵を干していると、沖のほうできらりと銀の鱗がひかった。龍の尾のようである。

 朝の海を悠々と泳いだあと、やがて人身に戻った女は、緩やかな黒髪を裸身にまとわりつかせながらこちらに向かってくる。母親になってもこういうところは変わらない。嘆息して、イチは脱いだ上着を紗弓に向けて放った。


「あんたはなんで着物を持って歩くということをしないんだ」

「ひかりと風を存分に感じたいのよ」

「俺に朝から不快なものを見せるな」

「不快ぃ? この造形美をまえにして?」


 見せつけるように胸をそってから、紗弓はもらった上着の袖に腕を通す。紗弓は女にしては身の丈があるので、脚のあたりは隠せていないが、もうどうだっていい。


「流は?」

「まだ寝ているわ。かさねは?」

「まだぐーぐー寝てる」

「ふうん……」


 そのまま立ち去るかと思ったが、紗弓は意味深な間をあけて、庵の縁側に腰掛けた。所在なく足をぶらつかせてから、肩にかかった髪をいじる。


「あんたってさあ……」

「なんだよ」

「夫婦が夜に何をするかを知らないってことないわよね……?」

「は?」


 藪から棒の質問に胡乱げな顔になる。ばつが悪そうに頬を赤らめる紗弓の表情で、昨晩女たちのあいだで交わされたらしい会話を察した。


「あの娘があんたに何を話したかは訊かないが」


 イチはたなびく筵から庵のほうへ目を移す。


「いいか。あんたはあんまり知らないだろうけど、あいつは赤子並みにおそろしく寝つきがいいんだ」

「え、そうなの?」

「そのうえ、一度寝ると朝まで起きない。頬を引っ張ったくらいなら、すやすや寝続けてるし、どこでだって熟睡できる。特技なんじゃないか?」

「そういえば、デイキ島でもよく食べて寝てたわよね……」


 かさねはよくイチを朴念仁だのなんだの言うけれど、かさねのほうもだいぶひとの気持ちを知らないし、緊張感がないのである。昨晩だって、腕のなかに抱き込んで、目を閉じて次に目をあけたら、もう口をあけて寝ていた。試しに頬をつつくとふにゃふにゃわらいだしたけれどまるで起きる気配がない。いつもこんなかんじなので、あの娘のほうこそ男心がさっぱりわかっていないと思う。


「べつに一度くらい起こしてもいいと思うわよ」

「よく眠っているのに?」


 かわいそうだろうと思って返すと、「こっちもこっちでこういう男だった……」と紗弓がこめかみを押さえた。

 そのとき、庵の雨戸がかたんと揺れて、渦中の人物が顔を見せた。

「おや」と紗弓とイチがそろっていたことにきづくと、かさねはたっぷり寝てつやつやの顔をますます輝かせた。


「おはよう。朝からふたりで何を話しておったのだ?」



 ***



 満月の晩、碧水の波間には月がつくるひとすじの道が生まれた。空と海を分ける水平線までまっすぐ伸びたほの白い道である。

 己の装いに目を落とし、「何度目ましての花嫁衣装かのう……」とかさねは息をつく。

 ウネの成人の儀につきあうため、かさねは今、群青から淡い水色に移ろう袿を重ね、髪は一部を結って珊瑚や真珠の飾りを挿している。手にした籐籠のなかの炎が揺れた。月が天頂にちかづく頃、ウネが浜辺までかさねを迎えにくるという。


「寒くないのか」


 吹きつける潮風を気にしたのか、イチが訊いた。


「袿を重ねておるゆえな」


 さすがのかさねも、もうどの花嫁衣装がいちばんかわいかったかなどとは訊かない。

 ふうん、と相槌のような返事をして、イチはかさねの手を取った。指ですこしさすって温めてくれる。この男はときどきこういうことを自然にやるので、かさねは無性にこそばゆくなる。何かをしてほしい!とねだるのは得意なのだが、不意打ちでされるとなんとなく困るのである。けれど、べつにやめてほしいわけではない。


「い、イチ!」

「なんだ?」


 ほのかに白んだ水平線を見つめながら、かさねは数日のあいだ、ずっと考えていたことを口にした。


「かさねは決めた。こういうのは、もうこれを限りにやめる」

「こういうこと?」

「なにかの花嫁になるとか……ちゅ、ちゅうとかも……。イチ以外とはしない。かさねはもうイチのお嫁さまになったのだし!」

「ふうん……」


 なんだ、喜ぶかと思ったら意外と反応が薄い。

 かさねは片手を包んでいる男にちらりと目を向けた。

 ――もしやこの男、かさねが誰と何をしてもどうでもよいのか?


「おまえがやっているのは神しずめだろう。必要ならすればよいし、やりたくないならしなくていい。これまでもそうだったし、これからも」

「まあ、それはそうなのだが」


 そう物分かりがよいと逆に物足りないというか、意地悪い気持ちになる。


「じゃあ、イチはかさねがイチ以外のものに嫁ぐ衣装を見てもまるでかまわぬというわけか」


 なんだか底意地の悪いことを言ったかさねに、イチは瞬きをひとつした。

 ……いまのはさすがにひどい。

 やっぱり謝ろう、と思い直して口をひらくと、ちいさくわらう気配が返った。


「おまえは俺に嫁いだときがいちばん愛らしかった。なぜほかと比べる必要があるんだ?」


 あけた口を閉じるのを忘れ、かさねは呆けた顔をする。

 まるで背後から突然、落雷を受けた気分だった。


「た、たしかに……」


 ぎくしゃくと動きだすと、頬を染めてうなずく。もう一度噛みしめるように首を振り、何度もうなずいた。


「かわいい。いちばんかわいかった。というより、イチといるときのかさねがいつだって天地でいちばんかわいい! かさねもすごくそうだと思う!!」

「ならいい」


 そのとき、水平線の向こうで銀の鱗がきらりとひかった。

 月の道を音もなく泳ぐうつくしい人魚が現れる。ウネだ。

 つないでいたイチの手を離して、「ようし」とかさねは袖まくりをした。


「さあウネ! この麗しき乙女がそなたを大人にしてやろう! ふふふふふっ、今夜のかさねは最高に気分がよい!!」


 どんとこい、というつもりで胸を叩くと、「気合がおかしくない……?」と若干引いたようすでウネが頬を引き攣らせた。しかし、かさねは今なら天くらい軽くのぼれそうな心地なのである。イチがかわいいと言った! イチが天地でいちばん! かさねがかわいいと言った! いや、天地がどうのと言い出したのはかさねか? もうどちらでもよいし、今晩は最高に気分がよい。

 ウネが差し出した両手をかさねは取った。

 岩のうえから、えいと海面に飛び込む。意外に深い。はじめこそ爪先くらいは足がついていたけれど、すぐに足が離れた。かさねは泳ぐことが不得手だが、ウネが手を引いてくれるおかげで月のひかりが落ちた波間をぐんぐんと進んでいく。

 頬を撫でる潮風が心地よい。身体にまとわりつく袿は、ふしぎと重さを感じず、低いはずの水温も気にならなかった。人魚たちのひみつの道を使っているためだろうか。


「そなたは泳ぎがうまいのう、ウネ」


 肩下をさらっていく波に目を細めつつ、かさねはつぶやいた。海面の下にあるひれを使って、ウネはうまく海流を操っているらしい。


「水魔の成人の儀は、この道を果てまでまっすぐ進むこと――だったな?」

「そうだよ。ただ、途中で『妻』に手を離されたら失敗になる」

「ほう?」


 かさねのほうからウネの手を離すことはないだろう。案外、儀式の手順が簡単そうでかさねは安心する。

 いつの間にか浜からだいぶ離れて、沖まで出ていた。横から押し寄せた波にのみこまれそうになったのを、ウネがひらりとかわす。砕けた水飛沫が頬にかかる。一緒に海水をすこし飲んでしまって、かさねは軽く噎せた。


「こわくはないの?」

「……うん?」


 訊かれた問いの意味がとっさにつかめず、かさねは眉をひそめた。


「俺が手を離したら、かさねは海のもくずだよ」

「ウネはそういうことはせんだろう」

「どうかな。水魔の恋情はひととはちがうらしいから」


 すこしまえを泳ぐウネのすがたがにわかに変化しはじめたことにかさねはきづいた。銀の鱗がみるみる少年の上半身を覆い、月のひかりを弾く。つないだ五指が鋭い爪に変わる。手のひらに痛みが走って、かさねは顔をしかめた。


「神事というのは嘘で、実はかさねを食べてしまうだけかもしれないよ?」


 さあ、と風の音に似た響きに変化したウネの声がかさねに問う。


「ここで手を離す?」


 月に照らされたウネは、もはやかさねが知るウネのすがたをしていない。

 銀の鱗にびっしり覆われた巨大な影がこちらを見下ろしている。月を背にした逆光のなかで、ウネとおなじ青の双眸がぎらりとひかる。

 瞬きを幾度か繰り返したあと、かさねは口の端を上げた。


「――なるほど、きれいな龍じゃ」


 つまり水魔の成人の儀とは、龍への転身を意味していたのか。

 銀の鱗に覆われた長い胴をくねらせ、頭をもたげると、龍は思慮深そうな青い眸をかさねに向けた。六海の龍神よりもだいぶちいさく、まだ幼い龍であるようだが、同じものにはちがいない。


「月の道を行くことで、そなたらは龍への転身を果たすのだな」


 ウネたち水魔を率いていた海神も、確か龍であったはずだ。碧水近郊の海を治める海神は、水魔のなかでもひときわ強く、長生きなものが選ばれて成るのだろう。

 転身したばかりの龍はしばらく風の音に似た吐息を漏らすだけだったが、やがて口をひらいた。


「……手を離さないの?」

「無論、離しはしない。そなたの儀式につきあうとはじめに言っただろう」


 堂々たるすがたに似合わぬ不安を声の奥に感じ取って、かさねは微笑む。


「それに、かさねがまずいことになったときは、だいたいイチがどうにかしてくれる。ゆえ、そなたもそう案じるでない」

「丸投げじゃないか……」


 呆れたように息を漏らして、ウネは一度眸を閉じた。


「成人の儀で、なぜ『妻』を連れていく必要があるか知っている?」

「いや、なぜなのじゃ?」

「途中で変化に恐れを抱いた相手が手を離すと、ふたりで海のもくずになるんだ。だから、儀式のときは自分をいっとう信じてくれるものを選ぶ。古く、成年の儀が婚姻を意味したのはそれゆえなんだ」

「な、なるほど……」


 結果として手を離さなかったからよかったが、実は危ない綱渡りしていたようで冷や汗をかく。ウネもそうと知っているならはじめから言ってくれればよいのに。秘されたうえで完遂するのが儀式というものなのかもしれないけれど。


「かさねを選んだのは、かさねだったらきっと最後まで俺の手を離さないと思ったから」

「なら正解じゃ。かさねはちゃんとウネの手をつかんでいたろう」

「うん、でも……。そういうかさねの手を最後までつかんでいるのはあの男のほうなんだろう」


 ――だから、かえしてあげる。

 それまで波の下で揺らめいていた龍の胴が水面に現れる。水しぶきを上げて、月にのぼっていく龍をかさねは水面から仰いだ。


「最後にひとつ」


 くすっと笑みを含んだ声で、ウネは言った。


「龍に成るのは、三百年ほどを生きた水魔だけだよ」

「さんびゃく!?」


(――つまり、ものすごく年上ということか!?)


 十二、三歳ほどの愛らしい見た目をしていたので、自分より年下の水魔だとばかり思っていた。だが、ほんとうは龍に成るほど力のある、長命な水魔だったというわけか。とんだ謀りを受けたような気分になり、「だまされた……」とかさねは呻く。それから、水上に取り残されてしまった己にはたときづき、声を上げた。


「待て、ウネよ。かさねを陸までかえせ! あと人魚の涙はどうしたのだ!」


 かさねの声に返事をするように、龍が天地にこだまする鳴き声を上げる。龍が呼ぶ風に応じて押し寄せた波がかさねを陸のほうへ導いていく。しかし、だいぶ手荒い。四肢をばたばたと動かしているうちに天地がひっくり返り、ふいうちで海水を飲み込んだ。身体にまとわりつく袿が急に重くなる。

 だれか、と呼ぶまえに体勢が崩れ、かさねは波の下に沈んだ。

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