エピローグ


エピローグ


 僕は屋上で自殺した男の人の気持ちがわかると思った。

 だけど、それはとんだ勘違いで。

 今になって気付いた。

 死んだら、何もできない。

 何もできないということが一番の恐怖で。

 そして、残るのは後悔だけ。

 死ねば何もかもから解放されると思っていたけど、強い後悔を抱えた魂はこの世に縛り付けられ、さらなる後悔に苛(さいな)まれる。

 それが自殺者の宿命で、自ら命を捨てた者に科せられる罰だ。

 死んだら、もう絶対に想い人には会うことはできない。

 生きていたら、まだ可能性はある。

けど、死んだら駄目だ。

 彼女がどうなっているか、知ることもできない。

 そんな地獄に落ちそうになっていた僕を、屋上に縛り付けられたその人は助けてくれた。

 僕は全てを津島さんとハルに話すことにする。

 頼れる先輩と頼れる親友。

 土曜日、学校近くのコーヒーショップで落ち合い、僕が体験したこと、僕の考えを二人に聞かせた。

 津島さんは再び静かに頭を下げて、もう二度とこのようなことは起こさせないと誓った。それから僕としらべを、辰巳さんの権力から守ってくれることも約束してくれた。

 そして、ハルは僕が話し始める前から、全てを知ったような顔をしていた。あの夜、僕が電話で告白した時点で、すでにハルは全てを悟ったのだろう。変なところで頭の働く奴。全てを見透かされている。その知性を少しでも学業に向けてくれれば、もっと楽に進級できると思うのだけれど。

 そして水曜日。

 今日まで、僕の身には何も起きていない。

 辰巳さんの仲間とも言うべき後輩たちが、同じクラスにも数人いるわけだけど、特に接触はなかった。津島さんがうまくやっているのか、それともそもそも辰巳さんが動いていないだけなのか、それはわからないが、しらべの方も特に目立った嫌がらせは受けていないと言う。ひとまずは安心だった。

 もう一つ、しらべを救ったあの夜を境に、僕の身に起きていた心霊現象はぴたりと止んだ。

 僕の中から自殺願望が消えたからだろうか。

 それとも、今度はしらべを救うことができたからだろうか。

 どちらにせよ、やはりあの霊は僕を激励していたのだ。

 僕が一歩踏み出せるように。

 僕が羽ばたいて行けるように。

 今日、午前中はいつも通り講義があったのだが、午後の講義はない。午後は学校主催の体育祭が行われるからだ。だから、学内に残っている生徒も少ない。みな、グラウンドに向かうか、帰路に着くか。そのどちらかが多かった。

 部会が終わり、解散の声がかかるとみな帰って行った。

 当然部会には辰巳さんの姿はなく、しらべとダイキの姿もなかった。

 部室。

 グラウンドの方から騒がしい声が響いて来る。

 そんな中、僕と津島さんは部室のパイプ椅子に腰かけて、ハルが返って来るのを待っていた。

 今日は来客がある。

 部会が終わる時間を伝えて、その時間に来てもらうよう伝えてあったため、さほど待つことなく、その人はやって来た。

「こんにちは」

 扉を開けて入って来たのはハルと、三〇代くらいの女性。すらっとした綺麗な人だ。手には花束が抱えられていた。

「はじめまして」

 客人を確認した僕たちは椅子から立ち上がると、頭を下げた。

「では、向かいましょうか」

 用があるのはここじゃない。ここの上だ。

 エレベーターを使って屋上に出る。

 女性の名前は川浦玲奈(かわうられいな)さん。一〇年前に起きた強姦事件の被害者の方だ。

 自殺した宮台裕也(みやだいゆうや)さんの彼女である。

 宮台裕也さん。

 僕を救ってくれた人。

 僕の背中を押してくれた人。

 屋上に立った川浦さんは、フェンスを目の前にして涙を流した。

「ごめんね。待たせちゃったね。ずっと、会いに来たかった」

 事件の後、学校を休み、そのまま退学となった川浦さんは、事件以降一度も学校を訪れなかったと言う。宮台さんの死を知っても、学校に現れることはなかった。

 それはそうだ。

 事件の記憶、好奇の視線。去った学び舎。

 学校に来れば、当時の学生に騒がれただろうし、川浦さん自身、心の傷をほじくり返すことになる。

 この大学を再び訪れるメリットなんて、どこにもなかった。

「お墓には行ったんだよ。でも、あなたはずっとここにいたんだね」

 ぽつり、ぽつりと花弁に雫が落ちる。

 その花を、ちょうど入口からまっすぐに来たところ、宮台さんが飛び降りたその場所の前に置いた。

 宮台さんはずっと一人だった。

 学校に閉じ込められ、愛しい人が今、どうやって生きているのか。そもそもちゃんと生きているのかどうかも分からない状態だった。

「ごめんね。何も言わなくて。だから、こんなことになって。ずっとあたしなんかのためにこんな所に縛られて。でも、大丈夫。もう大丈夫だから。ありがとう。本当にありがとう。ゆっくり、休んで。もう苦しまなくてもいいから。私は、もう大丈夫」

 そして、みんなで手を合わせて瞑想した。

 目を閉じていると、びゅんと僕の横を何かが通り過ぎた。

 僕の肩を叩くように。

 それはただの風だった。

 だけど、その風は大空を目指して舞い上がっていた。

 僕は空を見上げる。

 きっと、これで宮台さんも安心して天国に行けることだろう。

 高く高く、青空は広がっていた。






 部室には戻らず、川浦さんを校舎の下まで送った。

 来た時に比べ、すっきりした顔をしていたと思う。

 きっと、宮台さんの自殺は、川浦さんの心にも棘となって刺さっていたのだ。

 全ての過去を切り捨てて、幸せになれというのは難しい。

 でも、過去を受け入れて、その上で幸せを手に入れることができれば、それはもう不幸ではない。

 津島さんとハル、そして僕はエレベーターに乗り込むと部室へと向かう。

 もう、このエレベーターに閉じ込められることはないだろう。

 研究室とその前に散在している機械や書類の間を抜け、部室に戻る。

 すると、そこには久しぶりに見る顔があった。

しらべがいた。

「あれ、おかえりー」

 僕は固まる。

 なぜ、なぜしらべがここに。

 考えるまでもなかった。

 振り返ると、ハルの口元が悪戯っ子のように歪んでいた。

「ただいま。今、カナタの除霊を済ませて来たところなんだ」

「うん、メールに書いてあったね。これでもう心霊現象に悩まされることはなくなったじゃん。カナタ」

「え、あ、うん、それは、まあ」

 状況が整理できず、頭がこんがらがって、言葉が出て来ない。

 しらべの前でみっともない姿を晒すなッ!

 そうは思っても、うまいこと対応できない。

「で、大事な用って?」

 ハルに向けて首をかしげて見せるしらべ。

 なぜしらべをここに呼んだのか。それは僕も疑問だった。

「カナタの除霊が成功したからね。除霊祝いと行こうじゃないか。酒でも飲みに行こう」

 え、なんだそれ。

 聞いてないぞ。

「お酒っ! 行こう行こう! 津島さんも行きますよね!」

 しらべが津島さんに声をかける。

 が――、

「あれ?」

 声をかけたはずのしらべ本人が、部室中を見渡して、再び首を傾げた。

 津島さんがいつの間にかいなくなってる。さっきまで、僕のすぐ横にいたのに。

「津島さんは製剤研究部の方で用事があるみたいだね。だから、行くのは俺としらべ、そしてカナタの三人――と言いたいところだったんだけど」ハルはわざとらしく頭を掻いた。「しらべを呼んでから思い出したんだ。よく考えたら、俺も今日の夜、ピーチさんと予定が入ってたんだわ。カナタの除霊が成功したのが、あまりに嬉し過ぎて、忘れてた」

「えーっ! 何それ! 超適当じゃん!」しらべは怒ったふりをして笑う。僕は固まったまま動けない。飲み会? しらべと? まだ心の準備が。「じゃあ、どうすんの? あたし、ここに来ただけ無駄だったじゃん! まあいいけどさー。そしたら、あたしはもう帰ろうかな」

 カバンを持って立ち上がるしらべ。

 ハルの顔を見ると、首を振って僕を激励している。

“行けッ! 行けッ!”

 おまえ、無茶やり過ぎなんだよッ!!

 なんで僕に断りもなく、こんな計画を立てるんだッ!

 それでも。

 いつかは一歩を踏み出さなければいけない。

 そして、一歩踏み出したら進んでいかなければならない。

 立ち止まれば、きっとそこから動けなくなる。

 僕は臆病だから、一度振り返ったらきっと足が竦(すく)んでしまう。

 助走をつけなければ、羽ばたけない。

「あ、あのさ!」

 だから、この無茶苦茶な状況だって、僕は踏み出さなければならない。

 声が裏返る。

 まともに発声ができない。

 けど、しらべは振り返る。

「せっかくだから、飲みに行こうよ! 僕の除霊祝いとかじゃなくて! 僕は普通にしらべと一緒に食事をしたい! もっと喋りたい! だから――!」

 しらべは驚いたように目を見開いた後。

 少しだけ優しい目になって。

 そしていじわるな目になった。

「うん」

「やったッ!」

 思わず両手を上げていた。

 声だって、勝手に出ていた。

「その代わり」しらべは言う。「今度は待たなくてもいいお店にしてね」

 ずきり。

 胸が痛むが、そりゃそうだ。

「絶対にいいお店探して、予約しておくからッ!」

「あー……」言いながら、しらべは戻って来て再びソファに腰を下ろした。「でも、やっぱ心配だから一緒に選ぼう。カナタ、変に力が入ると駄目駄目だから」

 好きな子に、僕の駄目さを見抜かれていた……。

 それは悲しいことであると同時に、僕のことを詳しく知っていてくれたんだなという喜びもあった。

 僕は、しらべの前にパイプ椅子を移動して座る。

 まだ、隣に座る勇気はない。

「じゃあ、俺はもう行くよ。ピーチさんを待たせてるから」

 ニヤっと笑ったハルが部室を出て行った。

 部室にしらべと二人きり。

 お店探しを、共同作業。

 何を食べたいかとか、そもそも昨日は何を食べただとか、好きな食べ物は何かとか、じゃあ好きなテレビ番組は何かとか、昨日のあのバラエティは見ただとか――。

 他愛のないやり取りに、幸せを感じる。

 僕はまだ、一人では満足に何もできない。

 今だって津島さんは気を使って立ち去ってくれたし、ハルだってこの飲み会をセッティングして僕としらべが二人になる状況を作ってくれた。そして、何より今日行くお店選びだって、一人ではなくしらべと二人で行っている。

 まだ誰かに背を押してもらわないと動けない。

 でも、ちゃんと動ける。

 僕は頑張れる。

 これからは、少しずつ自立して行こう。

 みんなに心配をかけないように、立派になろう。

 今は無理でも、いつかは一人でできるようになればいい。

 本当に怖いのは、何もできないことだ。

 僕はもう、あんな暗い世界を見たくない。

 飛び立て。

 どこまでも、どこまでも。

 暗い世界から抜け出して。

 大きく羽ばたいた、その先には――。




きっと、幸せな世界が待っている。



 

<完>

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フライトチキン 幽霊 @youray

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