十二話 フライトチキン
十二話 フライトチキン
走る。
走る走る走る走る。
走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る。
息ができない。
苦しい。
けど、苦しくない。
今までの苦しみに比べればこんなのは疼き程度にもならない。
むしろ、身体が熱い。
その熱をしんとした夜が奪う。
軽い。
どこまでも走って行けそうだ。
道はわかる。
津島さんの後に付いて、一度だけ行ったことがあったから。
頭に残る小奇麗なアパート。
それが見えてくる。
部屋の前。
辰巳というネームプレート。
ドアチャイムは押さなかった。
ノックもしなかった。
扉のノブを捻ると、あっけなく開く。
鍵はかかっていなかった。
土足のまま上がり込む。
キッチンを抜け、ガラス戸を開けると、
仰向けで眠るしらべと、その胸をまさぐる辰巳さんの姿が目に飛び込んで来た。
その勢いのまま、辰巳さんの顔面をサッカーキックする。
「げえッ」
顔がボールのように浮き上がり、そのまま頭から座卓に突っ込んだ。机の上のグラスや日本酒のビンがはじけ飛び、けたたましい音を立てる。
悲鳴が上がると思ったが、聞こえたのはうめき声だった。
「あ……っ、んがっ……」
鼻から大量の血を噴き出し、視線は何もない空間を彷徨っていた。
これ以上の顔面への攻撃はヤバイと思った僕は、思い切り脇腹を蹴飛ばした。
「えあッ! おおッ、ええええッ!」
くの字に折れ曲がったと思ったら、今度は鼻から吐瀉物が噴出した。
まるで大道芸。
全然笑ってやる気にはなれないけど。
汚いので、足のこうを使って、顔をこちらに向けさせ、声をかける。
「辰巳さん」
「あんが、んっだ、めえ」
極度の鼻づまりのよう。
何を言っているのかまるでわからない。
「しらべは連れて行きますね」
焦点は辛うじて定まっている。
どうやら睨みつけているようなので、僕だということも認識しているようだ。
「二度とこんな下らないことはしないでください」
「はのふなんななァ! んなのだだッ!」
やっぱり何を言っているかわからない。
僕は辰巳さんの言葉を無視して続けた。
「それから。辰巳さん、どうせ下らない脅しをかけて来るんでしょうから、先に言っておきます」
そして僕は、靴の底で思いっきり辰巳さんの顔面を蹴り飛ばす。
漫画の詰まった本棚に後頭部を激しくぶつけた。
「もう下らないことはしない方が賢明ですよ。僕がいつまでもあんたにヘコヘコしてると思ったら、大間違いだ」
答えはなかった。
どうやら脳震盪を起こしたらしい。
それとも別の原因だろうか。
わからない。
わからないけど、別にどうでもいいや。
しらべを見る。
服が乱れてはいるものの、まだ脱衣はされていない。
ほっとして、服の乱れを直してから声をかける。
「しらべ!」
反応はない。
床に転がる日本酒のビンは半分以上減っている。
完全に泥酔状態だった。
仕方がないので、僕はしらべの脇の下に腕を通すと、抱きかかえた。
「あん?」
部屋を出ようとして、壁に寄りかかるようにして倒れている、もう一つの影を、僕は見つける。
ダイキだった。
意識を失っている。
一瞬、酒を飲んで潰れているだけかと思ったけど、その目元には、大きな青あざがあった。よく見ると、頬も脹れている。
何があったか、推測できなくもないが、僕は黙って行くことにした。
下駄箱まで移動して、しらべにスニーカーをはかせる。
しらべの物と思われる荷物は一つだけで、財布や携帯が入っていることも確認する。
いつものバッグに、必要最低限のものしか持ち歩かない。
それがしらべだ。
部屋を出ても、野次馬は沸いてなかった。
あれだけの騒ぎを起こせば、住人が様子を見に来ると思ったが、我関せず。
さすが東京。
あるいは、すでに僕の登場の前に、何か一悶着があって、それでもう住民は我関せずを決め込んでいるのだろうか。
とにかく、このまましらべの家を目指すことにする。
一瞬、駐輪場が目に着いたが、仮に自転車で来ていたところで、僕はしらべの自転車がわからない。それに、この状態で自転車を運ぶことは不可能だろう。
後日、一緒に取りに来よう。
そのまま、住宅街を歩く。
酔ったしらべを抱きかかえながら。
ときどきサラリーマンや大学生と思しき人たちとすれ違うが、こちらに目を向けたりはしない。これも東京。酔っ払いとそれを送り届ける奴なんて、世の中にはたくさんいる。
そして、こうやって支え合う男女の姿も珍しくない。
幸い、しらべの家の位置もわかる。
少し時間はかかるがこのまま歩いて行こう。
しらべの酔い冷ましにもなるだろう。
澄んだ冷たい空気が僕の鼻を抜けた。
静かな夜道を、しらべを支えて歩いて行く。
鼻の奥で海のにおいがする。
僕たちの大学は山の上にあって、海も湖も近くにはない。
でも、潮のにおいがする。
歩いているのに、走って来た時よりも息が苦しい。
何でこんなに苦しいんだろう。
しらべを支えているからだろうか。
「んん……」
寝がえりを打つように、しらべが声を漏らした。
安心するように。
とてもとても安らかに。
もう駄目だった。
堪えられなかった。
僕は大声で泣いた。
風を感じながら。
しらべを感じながら。
潮の匂いが僕を包み込む。
大きく黒い空に、僕の泣き声がただただ響いた。
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