十一話 暗い暗い闇の中で
十一話 暗い暗い闇の中で
それから僕は、何をやっても楽しくなくなった。
いつも劣等感を感じるようになって、それが不安で、友達といる間はそれも忘れていられるけれど、家に帰って一人になると発作的に全てを投げ捨てたい衝動に駆られた。
僕にできることは何もない。
僕がいることで生じる意味もない。
無価値で空虚。
身体の中には、活力の代わりに濁った黒い重い物質で満たされていた。手足が重いのは気のせいじゃない。確実に筋肉が弛緩していて、身体は生体から物質へと変化しつつある。
世界は平穏だった。
元通りの生活が戻って来ていた。
あれから、何の変化もない。
僕は学校へ行き、ゼミがないので他のみんなよりも一足先に帰宅し、本を読んだり、昼寝をしたり、インターネットをしたりして、日々を過ごした。
しらべもきっと、何事もない毎日を過ごしている。
何も知らないまま、幸せに暮らしている。
僕の望んだ世界。
これは、まさに理想の結果じゃないか。
何が不満なんだろう。
誰も傷つかず、何も失わないで全ては解決した。
不満。
考えるまでもない。
わかっている。
僕はどこまで行っても津島さんには敵わない。
そのことがわかってしまったから。
何をやってもあの人には敵わないと知ってしまったから。
だから、何もやる気が起きないのだ。
鮮やかだった。
僕が抱えていた問題をものの一時間足らずの内に解決してしまった。
僕が思い描いた展開通りに事を運んでくれた。
誰も傷つかず、何も失わず。
最悪の状態を最善の形で終結させた。
引っかき回すことなく、問題点のみを排除した。
それに比べて僕はなんだ?
ただただいじけて。
辰巳さんには強い物言いをすることができず。
解決策は頭の中で思い描くだけ。
行動には移さず、気持ちだけ一人前。
挙句の果てに導き出した答えは、辰巳さんを殺すと言う幼稚極まりない方法。
そんな奴、誰も頼りにはしない。
僕は誰からも必要とされていない。
携帯が鳴る。
気づけば、僕はまたベッドの上で深い深い思考の底へと沈み込んでいた。
意識は暗い闇の中。
それは底なし沼で。
呼吸すらもままならない。
携帯のディスプレイを確認する。
『34204040556930293504』
映っているのはめちゃくちゃな数列。
またか。
電話に出ると、ずず……ずず……というノイズ音が聞こえて、すぐに切れた。
これだけが僕の日常に踏み込んで来た非日常。
唯一の変化。
間違いなく、心霊現象の一端だった。
とうとう僕のプライベートにまで踏み込んで来るようになった。
幽霊からの電話。
けれども別に怖くない。
携帯が鳴るだけ。
変なものが見えたりもしなければ、部屋に閉じ込められたりもしない。
不利益があるとすれば、それは無意味な着信による鬱陶しさなわけだが、しかし頻度はそれほどでもないので、以前受けた迷惑メールの被害に比べれば幾分マシ。
僕の思考が深みにハマって行き、戻って来れなくなる一歩手前で呼びかけるそれは、むしろ僕にとって命綱の代わりにもなっていた。
……このことは、まだハルには言っていない。
あいつはあいつで、過去にあった自殺について調べているようだけど、新たな情報は得られていないようだった。
留年して自殺した男性。
自殺の原因は留年したことにあるのか。
それとももっと別の理由があるのか。
今は、それを考えているようだが、何もわかっていない。
当然だ。
自殺の原因なんて、当時の友人だってわからないだろう。
人が心に、どんな闇を抱えていたかなんてそう簡単には見えたりしない。
不可視だから、誰もその闇を解消させてやることができず、爆発して自らの命を絶つ。
それが自殺だ。
授業中や休み時間に聞かされるハルの話を僕は話半分にしか聞いていないのだけれど、耳にしっかり染みついていた。
あいつ、熱意のあることは何度でも繰り返し話す。
いい加減、耳にタコだが、話したいのならば話させてやろう。
下らない質問をして、僕の内面に干渉して来ないだけ、まだいい。
明日も学校に行って、半日で帰って来る。
最近は学校に行くのも面倒くさい。
学校に行けばハルがいて、ともすれば他のミス研メンバーにも会い、運が悪ければ津島さんに遭遇する。
できれば会いたくない。
今まで美化されていたミス研の思い出も、今では悪夢の積み重ねでしかない。
楽しかった。
たくさん笑った。
でも、それだけ。
僕は楽しかったが、僕はあの中に必要だっただろうか?
ハルがみんなの知らない蘊蓄(うんちく)を披露して。
ダイキが下らない馬鹿騒ぎをしてみんなに笑われて。
サンゴクの馬鹿みたいに明るくてあけすけな態度がみんなの気分を盛り上げて。
ゆうの一言一言が場の空気を和ませて。
そして、しらべのおっちょこちょいが僕たちをを微笑ました。
僕はみんなのそれらを見て、笑っていただけ。
だから、みんなの心には僕の姿なんか残っていない。
居ただけ。
空気と同じだった。
“しらべは僕のこと、好きだろうか?”
あほらしい。
しらべにとって、僕の存在なんて無に等しかったのだ。
人見知りなしらべは、得体の知れない存在には近付かない。
だから僕は無視された。
僕は今まで何をして来ただろう?
思い出してみても、誇れることは何一つしていない気がする。
だから、いざというとき、何もできない。
目を閉じてみる。
僕は今の今まで、何一つ満足にできなかった。
肝試しでしらべを誘おうとして、結局ペアを組むことが出来ず、その挙句に津島さんたちから助けを求める声があったにも関わらず、僕は暗闇を前にして足を止め、ただ立ち尽くした。
合宿では何一つ、いいところを見せられていない。
夏休み。僕はしらべを遊びに誘った。断られた。だから、僕は夏休みをバイトと読書をして、一人で過ごした。けど、しらべはハルと映画館に行ったり、津島さんたちと肝試しに行ったりしていたのだ。誘った。誘っただけで満足して、それから先に進むことに頭が行っていなかった。
何が“しらべを誘うことができた。これは大きな進歩だッ!”だ。
“正直に言えば、しらべにメールを送ったことがこの夏休み中の最大のイベントだった”?
好きな子を遊びに誘うなんて、まともな人間であれば、当たり前にやってることで、それを“最大のイベント”とか言ってる時点で、終わってる。僕の人間としての器が知れるってもんだ。
しらべと飲みに行ったときだってそうだ。
しらべとデートができると思って、その時点で舞い上がってしまって、計画も満足に練られてなかった。誘った人間が動かなくてどうすんだ。すごい人が並んでる。どうしよう? 他のお店に行こうか? でも、他のお店って言っても、僕、いいお店知らないし。とか言ってる間にしらべが店の予約を済ましてしまう。その後、どこで時間を潰すかとかも、全部しらべが決めてくれる。しらべは引っ張ってってくれる男が好きなのに。そのしらべにリードしてもらってどうすんだ。茶番もいいとこだ。苦笑いも出て来ない。
その上、しらべを酔い潰してしまうし。家がわからないから、電話をかけてゆうにも迷惑をかけた。しらべは、普段あまり絡みのない僕なんかに身体を支えられて不愉快じゃなかっただろうか? 僕なんかに家を知られてしまったことに危機感を感じてないだろうか? もう、飲みになんて誘えない。僕の役立たず具合を知られてしまった。何のプランも練れない男と二人で飲もうだなんて思わないだろう。チャンスを無駄にしたどころか、汚点を残した。
でも、僕はしらべを守りたい。
酒で潰れたしらべを介護してやって、馬鹿なことをやってしまったしらべを優しく窘(たしな)めてやって、最終的には幸せになってもらいたい。
そう思ってたのに、しらべは辰巳さんに汚されていて、僕はそのことで辰巳さんに何も言えず、事件そのものの解決だって津島さんに頼ってしまった。
頼りがいのある男どころか、みんなに助けてもらわなければ、僕は生きていけないじゃないか。
ミス研の人たちを見るたび、僕はこの人たちに助けられて、生かされていることを知る。
それが辛くなっちゃった。
やっぱり大人になるにあたって、一人で生きていけないと駄目だよな。
存在価値って言うのは、誰かの役に立って初めて生まれるもんなんじゃないのかな。
しらべのために恐怖に立ち向かえる人間になりたかった。
しらべのために美味しいお酒の席を用意してあげたかった。
しらべを辰巳さんの魔の手から救ってやりたかった。
守れなかったら守れなかったで、せめて事件を僕の手で解決したかった。
何一つ満足にいっていない。
今まではやろうとも思っていなかったこと。
けど、やろうと思ってみてもうまくいかない。
行動に移しました。
うまく行きませんでした。
でも、行動に移したことは評価してください。
それじゃ、あまりに虫がよ過ぎる。
結果が伴わなければ意味はなくて。
マイナスはあくまでマイナスだ。
行動した結果がマイナスにしかならないなら、静かにしている方が安全で。
でも、何もしないなら無価値で。
価値がないなら死んだ方がいい。
プルルルル、プルルルルル。
再び携帯が鳴って意識の深海から浮かび上がる。
危ない危ない。
窒息するところだった。
こんな風に沈んでいくことに酔っている自分に、また嫌気が差す。
無限ループ。
また明日学校だ。
学校に居る間は気分が落ち着いている。
かと言って、学校に行きたいかと言うと、また別の話だけど。
横になろう。
身体が重い。
眠ると夢を見る。
辰巳さんを怒鳴りつける夢。
論破して、殴りつけて、土下座させて、しらべを救うんだ。
そしてしらべと手を繋ぎ、二人で歩いて行く。
邪魔はさせない。
全てからしらべを守ってやる。
しらべが僕の隣で笑っている。
一緒に並んで歩いている。
そんな素敵なハッピーエンド。
夢の中は、幸福で満ちている。
◆
そして、そんな夢を見た朝はゲロを吐きそうになる。
息も満足にできなくて、咽喉の閊(つか)えが吐き気を助長する。
今日は水曜日。
部会だ。
みんなに会いたくない。
母さんには体調が悪いと言った。
実際に鏡を見ると顔色は真っ青だった。
そりゃそうだ。
気分が悪いのは嘘じゃない。
朝食も摂らず、お茶だけ飲んで再び布団に入る。
またしらべの夢を見る。
幸せな夢だ。
しらべが隣にいる充足感。
浅い眠りから覚めると、そんな幸せは霧散して、現実を叩きつけられる。
夢の世界では僕は理想の自分になれる。
だから、また寝る。
似た夢を見る。
終わってる。
最悪だ。
これは麻薬だ。
逃避だ。
津島さんに勝った。
夢の中なら勝てる。
それは麻酔だ。
神経を眠らせる。
頭の上で音がなる。
携帯が鳴っている。
僕は起き上がると、携帯を開いた。『新田陽馬』の文字。頭の先にある置き時計に目をやると、すでに一時を周っていた。午前中の講義が終わり、ちょうど昼休みの時間だ。
あまり気乗りはしなかったが、出てやる。
きっと、心配をして電話をかけて来たのだろう。
「もしもし」
『おう、カナタ。どうしたんだよ、学校休んで。寝坊か?』
寝坊よりもひどい。僕は自ら進んで夢の世界に逃げ込んでいるんだから。
「寝坊なわけないだろ。僕は祝日だってこんな遅い時間までは寝てないよ。少なくとも一度は目を覚ます。朝から体調が悪くてさ。ずっと寝てたんだ」
『熱があるのか?』
僕は一瞬躊躇した後、答える。
「……三九度近くあるよ」
嘘だ。朝測った時は三七度すら行ってなかった。
嘘を吐く必要もないだろうが、しかし熱もないのに学校を休んではハルが変な勘ぐりを働かせないとも限らない。
『……何で嘘吐くんだよ』
僕はドギリとする。
「嘘なんか吐いてねえよ。何で僕がそんな嘘を吐かなけりゃいけないんだよ」
『一瞬、答えるのに躊躇しただろ。おまえが嘘を吐く時のクセだ』
「嘘じゃないって言ってんだろ。……まあ、いいや。別に信じてもらわなきゃいけない理由もないし。そう思いたいなら、それでいい」
『…………』
受話器越しに険悪なムードが流れる。
何かを言おうか迷っているような、そんな思い空気。
もしかして、しらべのことを知ってしまったのだろうか。
津島さんから聞いたのか?
あの人は、他の人間に人の秘密をベラベラと喋るような人ではないが、しかしあの事件は隠しておくにはあまりに大きな出来事で、しらべと親しい間柄であるハルには知っておくべきことして話したのかもしれない。
あるいは、僕の挙動を不審に思い、事件の存在にたどりついたとか。
ハルの沈黙に、僕も黙り込んでしまう。
互いに相手の動向を窺う。
そして、ハルは声を低くして言った。
『……おまえ、それ、霊障じゃないだろうな?』
肩の力が自然と抜けるのがわかった。
霊障。
はは、思わず笑いそうになった。
どこまでお気楽なんだ、こいつは。
心霊現象のことしか頭にない。
「ふは、何だよ、霊障って。ただの風邪だよ。おまえが言うように熱はないけどな。だからって、霊的なことが原因で学校を休んだわけじゃない。あれからそういうオカルト的なことは何も起きてないよ」
全くの嘘だけどな。
おまえが望むようなことは、毎日起きてる。
異常な電話番号からの無言電話。
どうしようもないくらい完全に憑かれてる。
でも、それをハルには教えてやらない。
必ず除霊しなきゃとか、会おうだとか面倒なことを言い出すに決まってから。
それに何も知らずに楽しく幽霊について調べている能天気野郎に、わざわざ油を注いでやる必要もない。
勝手に一人でやってくれ。
そして、僕も一人にしてくれ。
おまえの探偵ごっこに付き合ってる余裕は、今の僕にはない。
必要のない情報に耳を傾けるのも、勘弁だ。
「……本当に風邪なんだな? おまえの言葉、信じるぞ」
「しついこいな。そう言ってるだろ」
「ふん」ハルは笑いを含んだため息を吐く。「はいはいわかったよ。そこまで言うなら信じましょう」
「話がそれだけなら切るよ。そう言えば、まだ僕、昼飯を食べてなかったんだ。ちょうどおまえに起こされたから、今から食べて来る」
「寝てるところ、悪かったな。でも、もう一つだけいいか?」
「何だよ」
「元気のないおまえに、元気が出るようなおまじない、かけてやるよ」
「は?」
それから、ゴソゴソという音。
何をするつもりだろう。
下らないギャグでもやる気か?
「もしもし」
女の声。
「……もしもし?」
女の声?
思わず、返事をしてしまったが、
この声は。
「あー、もしもし。あたしあたし。しらべだけど」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
叫び声を共に、僕は携帯を壁に投げつけていた。
絶叫。
そして携帯の衝突による衝撃。
壁に激突した携帯は衝撃でバラバラになった。
「何? どうしたの!?」
僕の断末魔にも等しい声を聞いて、慌てて母親が駆けつけて来た。
扉を開けて立つ、母と眼が合う。
「……ああ、ゴ、ゴキブリが」
「ゴキブリ?」
不審そうに部屋を見渡したが、母は「……あまり大きな声を出さないでよ。びっくりするし、お隣に迷惑だから」と無理やり納得して、階段を下りて行った。
リアルなしらべの存在。
僕を現実に叩きつける。
無理だ。
今はもう、しらべに会うこともできない。
会いたくない。
どうせこの気持ちが報われないなら、忘れてしまいたい。
全てをなかったことにしてしまいたい。
身体がどっと重くなる。
このまま沈んで沈んで、死の世界に身を落としてしまいたい。
バラバラになった携帯のパーツを集めたら、単にカバーが外れてバッテリーが飛んだだけだった。バッテリーをセットして、電源を入れたら、きちんと起動して、別に壊れてなかったが、再び電源は落とした。
もう、余計な連絡はいらない。
何も知らない連中は、僕の傷を抉(えぐ)るだけだ。
まだ心の傷は癒えない。
まだ、あいつらには会えない。
知ってる顔を見たら、きっと僕は色々思い出して、その断片がさらに僕を傷つける。
静かに心を癒そう。
何も考えず。
何も見ないで。
◆
――それから、僕は沈んでは浮き上がってを何度も繰り返した。
光が消えそうになる時、見知らぬ番号から電話がかかって来る。
ぷるるるる。ぷるるるる。
携帯の電源は落としているはずなのに部屋に着信音が響き渡る。
さすが心霊現象。
電源のオンオフまで自由自在か。
笑いそうになる。
携帯を手に取ると、やっぱり勝手に電源が入っていて、その幽霊からの着信とは別に留守電が残されている。
ハルからの着信だった。
幽霊の着信があるたびに携帯を確認すると、新たな『着信あり』の表示が浮かび上がていて、ハルからの連絡が繰り返し行われていることを示している。
きっと、僕が悲鳴を上げて携帯を切ったものだから、心配しているのだろう。
折り返し電話をする気などない。
僕は僕の周りの世界との繋がりを断つ。
おやすみ。
毛布にくるまると、もう馴染んだ世界へとゆっくり呑み込まれていった。
◆
世界が真っ暗なのは、僕の視覚に異常があるからじゃなくて、夜だからだ。
自転車を漕ぎ、駅へと向かう。
今日でもう一〇月だ。夏の終わり。湿った涼しい風が僕の顔を無遠慮に撫でつけた。
今日は金曜日で、学校を仮病で休み始めてから二日が経っていた。
水、木、金と僕は三日連続で学校に行っていない。
当然、ハルからの電話は続いていたが、僕は常に電源を切っているので着信を煩わしく思うことはなかった。
人が溢れる駅に着く。僕は指定の駐輪場に自転車を止めると、改札を定期券を使って抜けた。いつものエスカレーター。昇って行くとホームに出る。
午後八時。上り線のホームは空いていた。人の姿はまばらで、並ばずに白線のすぐ手前に立つことができた。
線路を見る。
電車が駆け抜けるその瞬間に一歩踏み出せば、それでこの世界から旅立つことができる。
身体の中心から熱くなるのを感じた。
この不愉快なだるさを、激突の衝撃は吹き飛ばしてくれるんじゃないか。
きっとそれは、激痛すら快感だ。
でも、僕は一歩もその場を動かずに電車がホームに入って来るのを見守った。
僕が死ぬのはこんなところじゃない。
ドアが開いて降りて来るスーツの人たちと入れ替わるようにして僕は電車に乗り込んだ。幸い、席は空いていて腰掛けることができた。
乗換駅までの二十分を僕は目を瞑って過ごす。
眠たくはない。ただ、物思いに耽りたかった。
なぜ、僕は学校に向かっているのだろう。
それは自分でもわからなかった。
現在は午後八時。どう考えたって授業は終わってる。ミス研の部室にだって残ってる人はいないだろう。
僕は死のうとしている。
頭の中がごちゃごちゃして、衝動的に叫び声をあげてみたり、物をぶん投げてみたり、笑ってみたりした。でも、一向に何も見えて来ないで、霧は濃くなるばかりだ。
カーテンを丸めてひも状にして輪を作る。
窓から見えるマンションの屋上を見上げる。
家にある錠剤をテーブルに並べてみた。
ライターに灯した火を、ずっと見ていた。
浴槽の中に沈んで永遠に感じる時間を過ごした。
今だって、線路への一歩を踏み出そうと思った。
でも、全て途中でやめた。
まだ死ぬべきではない。
ここで死ぬべきではない。
そう感じて、今の今を生きている。
なぜ、学校に向かっているのだろう。
今はまだわからない。
でも、きっと学校に着けばわかる。
いや、本当は今もわかっている。
うすうす想像はついていた。
そこが、僕の死に場所なのだ。
どう死ぬつもりなのだろう。
少なくとも僕は、縄も持っていないし、薬も持って来てはいない。ライターだって持ってないし、水を溜める容器もない。
僕に選べる死に方は……自ずと絞られて来る。
トンネルを抜けると、僕の乗り換え駅で、次の電車に乗る。
この電車に乗って一〇分。そこからバスに揺られて行けば僕の通う大学がある。
九時少し前。ちょうど学校へ行く最終バスが来る頃だ。予想通り、駅前で待っていると見慣れた白のボディにえんじ色のライン、スクールバスがやって来る。学校から乗せて来た生徒や教授たちが全員降りるのを確認した後に僕は乗り込む。駅から大学へ向かう者は僕以外誰一人としていなかった。
「大学から駅へのバスは九時半が最後なので、お気をつけください」
学校に着いた時、運転手さんに言われた。
わかってる。
そもそも、家に帰るつもりなどない。
恐らく、もう二度と。
僕の足は、まっすぐに研究棟に進んでいた。
もう迷うことはない。
学校に来たということは、つまりそういうことだ。
研究棟二号館、僕はエレベーターのボタンを押し、乗り込むとRを押す。
今回は止まらない。
当たり前だ。
僕を屋上へと連れ込もうとしている本人が、その邪魔をするはずがない。
こんな時間に屋上に人がいるわけなどなくて。
そもそも、校内にだってどれだけの人が残っているだろう。
エレベーターの扉ががらりがらりと音を立てて開き、僕は屋上に出る。
足を進めて僕はフェンスの前に立った。
風が冷たくなって来た。
空を見上げると、漆黒の中にいくつかの灯りが浮かんでいる。
月が綺麗だ。
巨大な月が真っ二つになっている。
半分のお月様が黒を背景に見下ろしている。
手を伸ばす。
フェンスを掴んでみる。
余裕で昇れそうだ。
自殺防止のためのフェンス。
こんなの、本気で死のうとしている人の前では無意味だ。
フェンスに顔を近づけて見たら、大学全体が見渡せた。
基本的に窓は黒で塗りつぶされていたが、中には明るい部屋もある。楽しそうに笑っている生徒の姿も見えた。
大学生活を振り返ってみると、楽しいことばかりだったな、と思う。
辛いこと、苦しいことも多々あったが、それも今はよい思い出。必死になっていた自分を思い出して、可笑しくなる。
空気は澄んでいて。
同じように僕の心も澄んでいくのを感じた。
静かだ。
夜の大学。
星明りの下の屋上。
しっとりとした夜風。
これから自分自身が消えゆくのを感じる。
命の火が、風で揺らぐのを感じる。
僕は自殺する。
この身体を地面に叩きつけて、命を絶つ。
僕はこれから死ぬ。
でも。
だけど。
だけれども。
心はずっと前から死んでいた。
しらべに相手にされていないということに気付いた日から、僕の心はゆっくりと壊死していった。
そして、津島さんが全てを解決してくれたあの日。
あの日を最後に、心は機能することをやめた。
ずっと前に、一番怖いものは何かという問いを、自分にしたことがあった。
そのとき僕は、次から次へと怖いものを上げていった。
お化け。災害。事故。殺人鬼に不良。
今ならどれも怖くない。
自分の命を惜しいと思わないから。
怪我も損益も今の僕には関係のないことだから。
死ぬ間際になって、臆病な自分を捨てることができた。
笑える。
たまらない。
今更って感じだよな。
死ぬ気になれば何でもできると人は言う。
確かにその通りかもしれない。
けど、本当に死ぬ直前ってのは、何もする気が起きないものだ。
気持ちはどこまでも穏やかで。
凪いでいて、静かな心。
これが、幽霊の力だろうか。
人を死に導く力。
霊が人を取り殺す瞬間を、僕は身を持って体験しようとしている。
――そういう話、しらべに聞かせてやれたら、喜ぶだろうなぁ。
死んだはずの心がずきりと言った。
でも、その“ずきり”を僕は客観的に受け止めることができた。
はは、胸が痛んでるな。
僕はしらべのことが好きだった。
フェンスを握る。
がしゃん。
これが最後の壁だ。
簡単に越えられてしまうような、網の壁。
足をかける。
そのときだった。
ぷるるるるるるるる。
ポケットが鳴る。
電源を切っておいたはずなのに。
ならば、それは人知を超えた力が働いたということで、
最後の最後に霊からの別れの挨拶か?
……それとも、歓迎の祝砲か。
ディスプレイに表示された文字列はしかし“新田陽馬”。
最後の最後に、ハルからの電話。
電源を切り忘れていたのか?
でも、このタイミングだ。きっとこの電話にだって意味はあるのだ。
僕は出た。
「もしもし」
『え、あ、おい、カナタか』
「僕の携帯にかけて来てんだろ。僕以外の誰が出るんだよ」
フェンスを前にして、気分は落ち着いていた。
冷たい空気が鼻腔を抜け、肺を満たし、身体の不要な熱を取り去ってくれた。
『……おまえっ、何で電話に出ないんだよッ』
「ちょっとね、いろいろあってね。おまえの相手とかしてる余裕がなかったんだよ」
『何があったんだ。先週から、ずっと様子がおかしかっただろ、おまえ。三日も学校を休んで、何考えてるんだ』
「体調が悪かったんだ。これはマジだよ。めちゃくちゃ身体が重くて、何もする気にならなかったんだ。つっても、講義を一回ずつ休むくらい、平気だろ? 成績には影響しないよ」
『俺が心配してるのは単位の話じゃない。先週の水曜日、心霊現象にあってからのあの急激な変化、俺はそれが心配なんだ。……おまえの身に何が起きてる?』
気分がよかった。
どこまでも澄み渡っていた。
心地よい。
ハルと話しているのは、とても気持ちがいい。
「さあな。でも、少なくともおまえが思っているようなことは起きてないよ。何らかの心霊現象のせいで、僕が学校を休んでいると思っているんだろ? 残念だけど違うよ。おまえが期待するような展開にはなってない。僕は、別の理由で少し一人になる時間が欲しかっただけなんだ」
だからおまえの電話にも出なかった。暗にそう伝える。
『……よく聞けよ』ハルの声が急に低くなる。『おまえにはもう、一〇年前に自殺者が本当にいたってことは伝えたよな。留年したことを苦に自殺した男がいたって話』
あくまで霊にこだわるか。
この押しの強さがハルのいいところでもあり、悪いところでもある。
相変わらずだなぁ。
少し笑うが、ハルの言葉に頷いて耳を傾ける。
『それからもう一つ、同じ年にレイプ事件があったという話もしたよな。最初はその被害者の女性が自殺して、悪霊になってみたいに俺らは思ってたけど、調べてる内にこの女性は死んでないということがわかった。これも、この前おまえに話した』
最初は聞きたくないのに無理やり聞かされ。
その後も、授業中や休み時間に延々と同じ話を繰り返した。
きっと、寝てたってあれだけ話されたら頭に残るだろう。
「覚えてるよ。ずっと言ってたもんな」
僕は頷いた。
『昨日、その事件の被害者の女性に会って来た』
強姦事件と聞いても、もう胸はざわつかなくなっていた。
でも、被害者に会って来たと聞かされ、僕は息を飲んだ。
「……よく、コンタクトが取れたな」
『今、大学で起きてる心霊現象のことについて調べてるって言ったら、受け入れてくれたよ。そりゃ、最初は渋ったけどさ。その当時、飛び降り自殺した男性が怨霊になって生徒を襲ってるって話をしたら、会ってくれることになった』
「は?」
何で被害者の女性が、学校で起きている心霊現象に興味を持つのだろう。実はオカルトが大好き? それにしても、自分の忘れたい過去を掘り返してまで、知りたいことだろうか。
そして、当時自殺した男性の怨霊だって?
僕に憑いているのは、留年を苦に自殺した人の霊?
断定したということは、ハルは何らかの有力な情報を掴んだのだ。
『ずっと、疑問だったよな』ハルは言う。『ずっとわからなかった。留年して自殺。確かにありえそうだけど、それだけじゃ死のうとは思わない。留年するというのが一つの大きなトリガーにはなり得ても、その人の命を奪うほど銃弾にはならない。自殺に至るまでには、色々な背景があって、それらが重なって重なって、そして最終的に自らの命を絶つ。その男性は確かに留年した直後に自殺をしたよ。でも、それは背景の一つにしか過ぎなかった。もっと大きな傷を、その人は抱えていたんだ』
心の傷。
様々な背景。
僕も心に傷を負っている。
そういう点では、僕もその人に似ているのかな、とちょっと思う。
その人が負った傷は、どんなものだろう。
僕は、何もできない自分が嫌になった。
しらべを守ることができなくて。
辰巳さんの手からしらべを守れなくて。
レイプまでは至ってはいないものの。
しらべが受けた被害は決して小さいものではない。
何もできないなら、死んでしまいたい。
そういう無気力な状態に、その男性もなったのだろうか。
何があったんだろう。
何が、その人をそこまで追い詰めた?
僕の頭はぐるぐると回転して。
不意に、今までのハルの話が繋がった。
ちょっと待て。
ちょっと待てよ。
女性のレイプ事件。
そして、その直後の男性の自殺。
何か、僕は流れの様なものを感じた。
嫌な、冷たい、黒い奔流。
僕は尋ねる。
その男性が抱えた、大きな傷について、尋ねる。
「……その、大きな傷って言うのは……?」
声を絞り出す。
ハルの次の言葉に、全身全霊を向ける。
そして、その言葉はゆっくりと電波に乗って僕に届いた。
『恋人がレイプされたんだ』
繋がった。
全てが繋がるのを僕は感じた。
だから、取り憑いたのだ。
だから、僕なのだ。
加害者でもなく協力者でもなく。
同じ境遇のこの僕に取り憑いた。
事件に関われなかった第三者のこの僕に。
大切な人を守れなかった苦しみ。
何もできなかった自分の無力さを呪い。
何もかもを無に帰したくなる気持ち。
僕はわかる。
この屋上から身を投げた、そのときの気持ちが。
『被害者の女性は学校を辞めた。加害者の男たちも学校を退学になった。一人だけ学校に残ったその彼氏の男性はしかし、勉強なんかに集中できるはずもなく、学校を休みがちになり、最終的に留年した。そして、何もかも失ったその人は研究棟二号館の屋上から飛んだ』
学校を離れて行ってしまった者にはもう手を出せない。
彼女はきっと、心を守るために外界との接触を絶っただろう。
加害者の人間だってわざわざ学校の人間に近付いたりはしない。
彼女の心の傷を癒すために尽力することもできず。
彼女を襲った暴漢共をその手で罰することもできず。
ただ、怒りと悲しみを抱えて毎日を送るだけ。
何もできない。
感情が身体の中で膨張して。
やがては制御できなくなり。
最終的に感情は壊れる。
「はは……はは……」
まるで僕自身の話を聞いているようだ。
同じような苦しみを抱えた人間が一〇年前にもいたのだ。
その人は苦しみに耐えかねて自殺した。
そして、まだここに縛られている。
なんて悲しいんだろう。
なんて話だろう。
本当に反吐(へど)が出る。
『二人は隠れて付き合ってたらしいから、二人の関係を知る者はほとんどいなかった。だから、自殺の本当の理由もずっと水面下に隠れていた』
その男性がそうしたように、僕も同じ道を歩むのか。
でもそれもいいかもしれない。
この苦しみから解放されるのであれば。
その人は、そうやって全てを絶ち切り、飛び立った。
そして、同じ境遇である僕の苦しみを自分と同じように取り払おうとしてくれているのだ。
だから、招かれた。
ならば、その意思に従おう。
僕が無力で何もできない人間であるということを、この幽霊は見透かしていたのだ。
ははは、笑える。
思い通りになったってわけか。
僕は自分の運命を変えることができなかった。
何もかも、僕の望んだようには進まない。
うまく行かない。
僕は一人では生きていけない。
誰かに助けてもらって。
津島さんに。
ハルに。
ゆうに。
僕はしらべのために行動しようって言ってるのに、結局はこの僕が他の人に頼ってしまう。
しらべ本人にも頼ってしまう。
一人じゃ何もできない。
けど、僕は一人だ。
一人じゃ何もできない僕は、ずっと一人だ。
人を頼りにして何もしない人間は、いずれ愛想を尽かされる。
がしゃん。
左手が金網を掴んだ。
一人でこれからを歩んでいくのは辛い。
だったら、今、まだ希望があるうちに。
『ちょ、ちょっと待て……っ! おまえ、今の音……どこにいんだよ、今ッ!』
「ああ、今? 屋上だよ。部室の上。研究棟二号館の屋上」
『屋上って……おま……っ!』
咽喉に物が詰まったかのように。
ハルのうろたえは受話器越しでも伝わって来た。
『おまえに何があったかは知らないけど、自殺なんかやめろッ! 死にたいと思ってるなら、それはおまえの気持ではなくて、悪霊がおまえを殺そうとしてるせいなんだよッ! 落ちつけッ、一度、俺と会おう!』
僕が死のうとするのを止めてくれる。
ハルはどこまでも素晴らしい友人だ。
本気で僕の心配をしてくれている。
だから、僕が電話に出ないとわかった後も、何度も、何度も僕に電話をかけて来てくれた。
「駄目だよ。おまえと会ったら、たぶん僕の決意は揺らぐ。安心しろ。いや、これを聞いたら逆に安心できないかな。どちらにせよ、僕は幽霊に憑かれてるから自殺しようとしてるわけじゃないよ。これだけは、はっきりと言える。これは僕の意思だ。僕は、自分の意思で今ここにいる」
『取り憑かれてる奴の言い分なんか聞けるかッ! 今すぐ、そっちに行く。タクシーを捕まえて、一直線にそこに向かう。だから、それまでは部室で茶でも飲んで、落ちついてろッ!』
「来る必要なんてない。おまえん家からタクシーでここまで来たら、とんでもない額になるだろ。おまえにそこまで迷惑をかけたくない」
『おまえが死んだ方が迷惑になるわッ! だから、自殺なんかやめろ!』
「おまえはいいよな。何でもできて。一人で何でもできるタイプの人間だ。そういう奴は誰からも好かれる。社会に出たって、おまえみたいな奴は重宝されるさ」
『何言ってんだよ、いきなり卑下してんのか? それって、単にネガティブになってるだけだろ。おまえにはおまえの良さがある』
「僕の良さって何さ?」
『人の気持ちを考える力。何事にも慎重でまじめ。本に対する愛情だったら人に負けないし、何より仲間思いなところがある』
「おまえならそういうだろうと思ったよ。口はうまいからな」
『お世辞じゃない。実際、そうだろ』
「そこがおまえの上手いところだ。確かにそうだなぁ、と思わせる。だから僕はおまえと会いたくない。おまえと会うと、勇気づけられて、この先もきっと何とかなるって勘違いする。けど、絶対にどうにもならないんだ。どうやったって、どうにもならないことはどうにもならない。それはこの数ヵ月、僕は変わろうと思って、色々頑張ってみて、でも上手く行かなくて、むしろマイナスで、変わろうとしたって変われないってことを、僕は身に染みて感じた。……だから、僕はもうこの先の人生が嫌になったんだ」
努力をすれば、しらべが振り向いてくれる。
そう信じてた。
でも現実は違う。
僕の努力はどこまで行っても無駄なもので。
僕はしらべにメールを送るのだって必死だった。
しらべを食事に誘うのだって、勇気を振り絞らなければならなかった。
僕はこれらを努力だと言うけど。
他の人から見れば、ただ当たり前のことで。
けど、僕はそのときは本当に努力していると思っているのだ。
だから、それが当たり前だったってことに気付いた時、僕は今まで何をやっていたんだろうと思って、自分に何もないことに気付く。結局は、本当の意味での努力なんて、僕はできないのだ。めんどくさいとか、辛いとか言ってるんじゃない。僕のする努力は人から見て、努力じゃないのだ。間違った努力。僕が必死になっても、いい方向には作用しない。
『この数カ月の努力……ひょっとして、しらべのことか?』
「さあね」
近くで見ていればわかるだろう。
僕がこの数カ月、どれだけ必死だったか。
しらべに振り向いてもらうために、柄でもないことをし続けた。
根本的に女の子を何かに誘うということをしたことがない僕。
だから、誘うってだけで、僕にとっては勇気のいる行為。
けど、その報いがこれだ。
必死に考えて、勇気を振り絞って行動に移して。
結果的にから回っているだけ。
『しらべに嫌いって言われたのか? そう言われたわけじゃねえだろ。嫌いな奴とは二人で食事に行ったりはしないからな。特にしらべは“付き合い”で食事なんか行ったりしない。おまえとなら二人で飲みに行っていいと思えたから、おまえの誘いに乗ってくれたんじゃないのか? だったら、もしフラれたんだとしても、まだ可能性はある』
勝手に僕がフラれて落ち込んでると考えてるようだけど。
でも、まあ、そのようなもんだ。
駄目だ。やっぱり、ハルと話していると、勇気づけられる。
涙が出て来る。
しらべは僕のことが嫌いなわけじゃない。
押せば、まだ可能性はあるだろう。
しらべと付き合える。
人からそう言われると、それが本当に実現可能なことのような気がして来て、気持ちよくなる。
本当にそういう未来が来ればいい。
そういう幻想を抱いて、胸が苦しくなる。
でも、駄目なのだ。
絶対に。
「嫌われてないってだけじゃ付き合ってもらえないよ。おまえだってわかってんだろ」
僕だって、ミス研の連中のことはみんな嫌いじゃない。
一年女子も、ゆうも、サンゴクも、ピーチさんも。心から信頼のおける仲間だと思っている。
でも、付き合いたいとは思わない。
つまりは、そういうことだ。
ハルが言っているのは詭弁。
『今はまだ恋愛感情がなくったって、これから何度も二人で遊びに行ってればもっと仲良くなれる。大事なのはこれからだ』
今、好かれていないなら、好かれるような努力をしろ。
もっともな意見だ。
僕はまだ、全然駄目で、そういう意味ではまだ成長の余地がある。
そう楽観的に捉えてみる。
けど、仮に成長したとしても。
「……僕のずっと上には津島さんがいる」
絶対に敵わない存在。
いつも完璧で、卒なく物事をこなす。
男からも女からも慕われ、頭がよくて、オシャレで大人なかけがえのない先輩。
勉強すれば、学年でベスト一〇に入れるだろうか?
ファッション雑誌を読めば、町でスカウトされるくらいのオシャレさんになれるだろうか?
努力すれば、女性のエスコートを完璧にできるようになるだろうか?
それだけじゃない。
僕がしらべと付き合うためには、津島さんより魅力的な人間にならなければならない。
「……津島さんを超えるように頑張れ、なんて言うんじゃねえぞ。僕は頑張って来た。今日まで、全力で頑張って来た。でも、駄目だったんだ。もうどうしようもない。ここが僕のステータスの限界値だ。これ以上はどうしたって上がらない」
もう何をすればいいのかもわからない。
また、しらべを飯に誘えばいい?
遊びに誘えばいい?
しつこくしつこくしらべを誘っていれば、いずれは僕のことを好きになる?
馬鹿げてる。
『……話はわかった。要はこういうことなんだな? “頑張ってみましたが、しらべと付き合えません。もう嫌になったので、死にます”ただのだだっ子じゃねえか』
ハルが呆れたように言った。
とうとうハルにまで見限られてしまった。
その通りだ。
僕はしらべに振り向いてもらえないから心に傷を負った。
そして、そんな一人相撲をしている自分が嫌になった。
ハルにそれを指摘されて、酷く落ち込む
けれど、そんな感情と怒りも沸き起こる。
ハルは何もわかってない。
僕が自殺する理由は、振り向いてもらえないからだなんて単純なものじゃない。
僕はしらべを守ることが出来なかった。
自分の無力さを呪って、自らを殺すのだ。
僕の気持ちを、何も知らないくせに。
表面ばかりで僕の価値を判断しやがって。
「僕はしらべと付き合えないから死ぬんじゃない。そんなの、直接の理由じゃない。僕は無力だ。何をやってもダメだから。根本的に人に頼ってしか生きられないから。僕は、そんな自分が嫌になったからここから飛び立つんだ」
『だったら、やっぱり俺の言ってることであってるじゃねえか。おまえが言ってる何をやってもダメってのは、しらべにいくらアプローチをかけてもダメだったから、自分のことをダメな奴だって言ってんじゃねえのかよ? 一年の時は、自分のことをダメな奴とか言ってなかったじゃん。じゃあ、逆に聞くぜ? 仮に、おまえがしらべにアプローチをかけて成功してたら? 失敗したときと同じようなアプローチのかけ方で成功していたとしたら? そしたら、おまえは今、そこに立ってたかよ? 自殺しようと思ってたか? しらべと付き合えていたら、おまえはそこに立っていたのか? 立ってねえよな? しらべと付き合えてたら、自分をダメな奴とか言ってないで、今頃二人で仲良く食事でもしてるはずだよな? おまえは自分のことをダメな奴だと思ってるから死にたいんじゃない。そんなの、上辺(うわべ)を取りつくろってるだけの言い訳で、本当は、しらべにフラれて悔しくて悲しいから、死にたいと思ってんだ。よく、自分自身を見てみろ!』
しらべと付き合っていたら?
確かにそうかもしれない。
僕は幸せの絶頂の中にいて、死ぬなんて考えることすらありえないだろう。
同じ僕でも、しらべと付き合えてたら幸福の中にいる。
なら、僕は自分自身が嫌になったわけではないのか?
ただ単にしらべが僕に気がないことを知って、傷心しているだけなのか?
一瞬、ハルの言葉を呑み込みそうになる。
けど、最後の最後に僕の心の奥底には闇が眠っていた。
仮に、僕がしらべと付き合っていたとしても。
辰巳さんからしらべを守れなかった事実が存在すれば、やっぱり僕は自殺しよう思っていただろう。
しらべは辰巳さんの手により穢された。
僕はフラれたから死にたいんじゃない。
大切なものを守れなかったから、その償いをしたいんだ。
「……ありがとう」
『わかったか? そりゃ、好きな人にフラれるのは辛いけど――』
「僕の気持ちは変わらない。今まで本当に世話になったね。最期の最期まで、僕のためにありがとう」
『は?』
やはり、決意は固い。
もう、ハルの言葉では揺るがない。
自分の気持ちを整理することができた。
死を目前にして、僕は嗚咽する。
近くに何者かの存在を感じる。
振り返ってみたが誰もいない。
忘れてた。
僕は一人じゃない。
同じ気持ちを背負って、ここから飛び立った人がいる。
何もできなかった悔しさを抱えて。
最期に、ハルからの電話が繋がったのは偶然なんかじゃない。
きっと、仲間たちに別れを告げるための霊の粋な計らいだったんだ。
僕の自殺の原因は、きっと誰にもわからない。
もしかしたら、津島さんはわかるかもしれないけど、その情報は絶対に広がったりはしないだろう。
「今なら、自殺したっていうその男性の気持ちがわかるよ」
『カナタッ!』
「僕も大切なものが守れなかった」
『大切なものも何も、おまえはまだしらべと付き合ってもねえだろうが。何言ってんだよ。変な感情移入はやめろ』
「付き合ってなくても、大切なものは大切なんだよ! 僕はしらべを守れなかった。しらべを、守ってやることができなかった!!」
『ああ? 何言ってんだッ!』
本当は黙っていなければいけないのに。
最期の最期まで僕はそれを胸に抱えて飛ばなければいけなかったのに。
あまりに悲しくて。
僕はついつい言ってしまう。
「しらべが辰巳さんにレイプされたんだ。僕はそれを阻止することができなかった。それが僕の自殺の理由だ」
相手が親友だったから。
感情を留めておくことができなかった。
絶対に言ってはいけないことなのに。
しらべのために、黙っていなければいけないことなのに。
最期の最期まで、僕はしらべの役に立てない。
でも、ハルはべらべらと人に言うような奴じゃない。
親友に“あいつは女にフラれたから死んだ”なんて思われて逝くのは、さすがに辛すぎる。
真実を伝えておきたかった。
『おまえ……ッ』
「……じゃあな。詳しくは津島さんから聞いてくれ。僕はもういく。最期に、おまえと話せてよかった」
これがハルからの電話のわけ。
真実を伝えてから旅立つことができる。
幽霊なりの、粋な計らいに感謝をしながら。
僕は、携帯を耳から離した。
離して通話を終えようとした。
終えようとしたんだけど。
『ちょっと待て』
ハルの声が震えている。
突然。
なぜ?
『それがマジなら、しらべは警察に通報しているはずだろう!』
動揺?
そりゃそうか。
別に恋愛対象ではなくても、部員がレイプされていたとしれば、受ける衝撃は大きい。
もう少しだけ。
もう少しだけ、付き合ってやろう。
「本人が知らないんだ。しらべが寝ている間の犯行だから」
『寝てる間って! 辰巳さんはしらべの家にでも侵入したのか!?』
「違うよ。辰巳さん家で宅飲み。いつものように酔い潰れたんだ」
そして、潰れたしらべは絶対に起きない。
ミス研部員であれば、それは共通の認識。
ハルがごくりと唾を呑んだ。
『お、お、おい、ちょ、ちょっと待て、そ、それじゃあ――!』
何かに気付いたよう。
でも、もう僕には関係ない。
おまえの探偵ごっこに付き合うのも、これが最後だ。
「何だ? どうした?」
もう終わりも近い。
そう思っていた。
でも、僕にはまだ、やるべきことが残されていた。
『しらべ、今、辰巳さんの家だ。また、宅飲みやるって――』
音が無くなる。
時間が止まる。
宅飲み。
辰巳さんの家での宅飲み。
また、始まる。
また、始まろうとしている。
僕は何やってんだ。
僕がすべきことは、自殺なんかじゃないだろ。
命で償うだなんて、馬鹿か、僕は。
僕がすべきことは、なんだ?
しらべを守り抜くことだろッ!!!
辰巳さんから。
全ての危険から。
大切なものを守り抜くのが、僕の役目だろうッ!!
携帯をしまう。
振り返る。
灯りの乏しい屋上の上で。
蛍光灯の光が輝いていた。
ボタンも押していないのに、すでにエレベーターが到着していて。
扉を開いて僕を待っている。
違った。
霊は、僕は殺すためにここに呼んだんじゃなかったんだ。
自分にできなかったことを。
僕に大切なものを守るチャンスを与えるために、ここに呼んだ。
僕は死ぬために呼ばれたんじゃなくて。
しらべを守るために呼ばれた!
迷いはなかった。
全てを悟った僕は。
エレベーターに飛び込んだ。
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