十話 事件解決
十話 事件解決
辰巳さんを殺そう。
しらべが味わった屈辱以上の苦しみを与えて。
学内における権力もなければ、権力に代わる財産もない。
僕にできることは辰巳さんをできるだけ惨(むご)いやり方で殺すくらいだ。
それはいい。
殺すのは別に構わない。
辰巳さんを相手取るに限って、僕の倫理観は働くことを放棄し、むしろ脳みそは如何(いか)に人権を無視したやり方で蹂躙(じゅうりん)するかを考えている。
問題はしらべのセカンドレイプだった。
辰巳さんのことだ。データが入っているのは携帯だけではないだろう。家のパソコンにだって保存してあるだろうし、その他の記録媒体にも残してある危険性がある。
殺して、携帯を破壊するだけではやがてしらべの事件が明るみに出てしまう。
どのような形であれ、僕が発端となってしらべが傷つくようなことだけは避けたかった。
辰巳さんの脈動と共に、全てのしらべの写真をこの世から抹消する方法。
たった一つしか思いつかない。
放火。
辰巳さんの家に火をつければ、どこに隠していようと関係ない。
炎が全てを燃やしつくしてくれる。
家の中に、何らかの形で拘束して、ガソリンをぶっかけて、懇願を無視して火をつける。
死に方の中でも焼死は最も苦しい部類に入るということを、何かの小説で読んだことがある。
皮膚は焼き爛れ、眼球の表面は涙が沸騰し熱で爆発する。呼吸をすれば肺が焼き爛れ、息も満足にできないまま息絶える。
辰巳さんが苦しむ様を思い浮かべると、その陰惨な光景とは裏腹に僕の心は安らぎに満たされた。
怒りの矛先は決まった。
どのような方法で辰巳さんを殺すか。
これからの僕の人生はそのためだけにある。
辰巳さんを殺して、全てを闇に葬ったら、僕も死のう。
計画を練る。
一番まずいのは失敗して、さらに捕まることだ。
幸い、僕はミステリー愛読者。
計画犯罪はお手の物。
とは言っても、犯行までは日常生活を送らなければならない。
僕は授業に戻るべく、気持ちを落ち着けると教室に入った。席に着くと、僕を見たハルは眼を剥いた。
「お、おま、それ」
「ああ」散々泣いたせいで、瞼は脹れていた。研究棟からここまで戻って来るまでの間で引くほど、生易しいものではなかった。「またエレベーターに閉じ込められたんだよ。しかも、今度は一人で」
嘘はついていない。これは事実だ。
しかし、ハルは勝手に閉じ込められた僕が、幽霊に怯えて泣き喚いたのだと勘違いした。
訂正はしない。
勘違いを正さないのは、嘘を吐くのと一緒だと言う話をどこかで聞いたことがあったが、嘘だってかまわない。
しらべのことで泣いたことは誰にも知られたくない。
「それで、おまえ、パニックにはならなかったのか!?」
心配して尋ねてくれるハル。
「怖いとかいう依然に泣いてたからね。ずっと蹲(うずくま)って泣いてたら、いつの間にかドアが開いてた」
あのとき、恐怖はなかった。
霊の存在なんてどうでもいいものになっていた。
恐怖の反対は安心でも喜びでもない。怒りだ。
下劣な辰巳さんに対する怒り。
無力な自分に対する怒り。
それらが支配する空間では、それ以外のものは無に等しい存在となる。
「……あれから、心霊現象が起こったのは初めてだよな。誰かが霊を目撃したという話も聞かない。っていうと――狙われてるのはカナタってことになる」
適当に頷く。
今は、このハルの心霊調査も煩(わずら)わしいだけだ。
もう僕には必要のない情報。
しらべの気を引く必要なんてもうない。
僕にそんな資格はない。
辰巳さんの手でしらべを汚させてしまったのだ。
なら、この命に代えても穢(けが)れの起源を絶たなければならない。
「何か、思い当たる節はあるか?」
なぜ、急にあのときになって霊が動き出したのか。
仮説ならいくらでも挙げられる。
僕の殺意に同調したのか。
それとも自殺願望を感じ取ったか。
精神の乱れだけは確実にあっただろう。
きっと霊も、そういう人間を狙って取り憑くはずだ。
けど、そんな内面の吐露をここでするわけにはいかない。
「僕が霊的なもん嫌いなの知ってるだろ。わざわざ自分から首を突っ込むようなまねはしないよ。霊に取り憑かれるようなことは何もしてない」
「ふふん、そりゃ、そーだ」と笑う。「……ま、安心しろよ。その霊については俺が詳しく調べておいてやる。明日は木曜だけど秋分の日で休みだし、土日はまた人と会うことになってる。何について調べればいいか、だんだん的を絞れて来たからな。今は、その自殺した男についてだ。その男が何者なのか。そして、心霊現象を起こしているのが、その男の人なのか。今考えるべきはそこだな」
どうでもいい。
男でも女でも、僕の邪魔にならない程度であれば取り憑いてたって構わない。もはや、恐怖はない。むしろ、仲間意識すら芽生える。
どうせ悪霊なら力を貸してくれ。
僕の命などくれてやるから、辰巳さんを呪い殺す力を。
直接手に掛けずに済むのであれば、それがベストだ。
一人で死んでくれれば、しらべには余計なことを知られないで済む。ただ、その場合は写真の処分が問題になるけれど。
「とにかく、まずは部会だな。そこでおまえの体験した心霊現象は詳しく聞くよ」
部会。僕は心の中で舌打ちした。
その存在をすっかり忘れていた。
そう言えば今日は水曜日。昼休みに部会がある。
心霊現象のことを話してしまった手前、みんなに情報を伝える義務が生じてしまった……。
仕方ないか。そのくらいしか僕の泣き腫らした顔の説明はできなかった。別にへまをしたわけでもないだろう。
そんなに時間のかかる話ではない。前回と同じように、ただ閉じ込められて部屋全体がドンドン鳴っただけ。
ぱっと話して、すぐに帰ろう。午後の授業はない。
先ほどの件もある。出来るだけ一人の時間が欲しかった。
できるだけ早く、あの男を殺す必要がある。
放っておけば、また下らないことを言いだし、さらにもっと僕の世界を汚染するかもしれない。
殺人計画は繊細な作業だ。
じっくりと集中して、慎重に作戦を練らなくては。
確実に人を殺す方法。
こんなにも部会が煩わしく感じたのは、初めてだった。
◆
昼食はいらない。
弁当を買いたいというハルに付き合って、購買まで付いて行ったが、僕は一〇〇円のカロリーメイトを買うだけで買い物を終えた。
「あれ、おまえ、飯それだけ?」と聞くハルに対して僕は「あんな体験した後だからかわからないけど、食欲がない」と答える。
食欲がないのは本当だったが、それは心霊現象によるものではない。怒りと焦り。それに、もし仮に食欲があったとしても今は和気あいあいとランチを楽しむ心の余裕がなかった。部会をさっさと終え、家に帰りたい。部室に着く前に早々にチョコレート味のそれを、朝に買っておいたミルクコーヒーで流し込む。
研究棟に着くと、僕の足は迷わずにエレベーターの方に向かっていた。むしろ、エレベーターとは反対方向に歩いて行くハルを訝しんだほどだ。
「ん? おいおい」ハルの不審な表情を見ても、まだ僕は何がおいおいなのかわからない。「おまえ、エレベーター大丈夫なの?」
「あ」
そうだった。
僕は心霊体験をしたことになっているのだ。
いや、実際に体験したわけだけど。
その前にあった出来事の方が強烈過ぎて、心霊体験そのものが思考の彼方に消えていた。
「……大丈夫かよ、ホントに。ボケっとしてんじゃねーよ」
「うん。なんか無意識の内にエレベーターを使おうとしたわ」愛想笑いを浮かべる。余計な勘ぐりを入れられるのは勘弁だ。「ひょっとして、霊に呼ばれてたりして」
しかし、僕のユーモアに対してもハルは表情を変えなかった。むしろ、厳しくなる。
「……本当に大丈夫か? 行動が支離滅裂だぞ。いつものカナタなら絶対に心霊現象が起きた場所なんかには近付かないはずなのに」
支離滅裂か。そうかもしれない。
でも、僕の中では筋が通っているのだ。
辰巳さんをどのようにして消し去るか。
それ以外はどうでもいい。
それが今の僕の中に走っている一本の道。
僕たちは階段を使って、五階まで上がる。ぶっちゃけ、霊とか怖くなかったので、エレベーターを使って上がりたかったが、そんなことを言ったら、またハルは見当違いな妄想を繰り広げ、僕を無駄に心配する。
ことが終わるまで、目立つ行為は控えたかった。
いつも注視されていたら、殺害計画にも支障を来たす。
あくまでいつも通りの僕で。
でもできるだけ殺害計画に時間を割いて。
それが、これからの僕の方針だ。
足に疲労を感じながら長い階段を上り終えると、雑然と研究室の資料やら試料やらの並んだ道を抜け、部室にたどり着く。
中に入ると、基本メンバーはすでに揃っていた。
窓の前で座って読書をしているのが一年生のサゴとカラス。
ソファにはピーチさんとゆうが座り、向かいのパイプ椅子には津島さんが座っていた。
ダイキと辰巳さんの姿はない。それにしらべも。
普段、この三人は部会に来ないのだけれど、もしかしたらと警戒していたのだ。今、顔を合わせたら、確実に気持ちが乱れる。そして、その乱れは空気を介してみんなに伝わる。
ふうーっと息を吐くと、緊張していた気持ちをほぐした。
ピーチさんは壁に掛けられた時計を見る。
「そろそろ時間だな。部会を始めよう」
ソファーに座って足を組んだまま、部室をぐるっと見回して言った。
ゆうが席を立ち、こちらにやって来た。
「今日も特に話すことはないが、陽馬が報告したことがあるらしい」
言われてハルが一歩前に出る。みんなの視線がこちらに集まった。
「心霊現象についてです。この一週間で僕はピーチさんのコネと使って、ミス研のOBの人や、当時の事件を詳しく知る人たちとコンタクトを取って来ました。結果から言うと、婦女暴行事件は実際にあり、ちょうど一〇年前の二〇〇〇年に起きてます。当時の学生の方に聞いても詳細は隠されていたようであまりわかりません。ただ、酒の席での悪ふざけが行き過ぎてしまったようだという話は聞きました」
酒の席。
婦女暴行。
ハルの話に耳を傾けるつもりなどなかったが、身体の中心がドクンと脈打ち、一瞬で熱を持つ。
しらべの件とトランスする。
「そしてこちらの情報の方が重要だと思いますけど、心霊現象の原因と考えられる自殺者についてです。これも一〇年前、二〇〇〇年に実際にこの研究棟の屋上から飛び降り自殺をする人物が出ると言う事件が起きてます。最初、この自殺者は暴行を受けた女性だと思ってましたけど、違いました。別の男性です。被害者の女性は事件のすぐ後に大学を辞めてしまったそうですが、少なくとも自殺をしたという話は聞いたことがないと、全ての人が口を揃えて言いました」
昨日、部室の前で無理やり聞かされた話だ。
僕を襲った霊の正体は、少なくとも被害者の女性ではない。
何の霊なのか。
自殺した男性の霊なのか?
それとも、その自殺した男性というのも、実は霊に取り憑かれて自殺していて、事件の起源はさらに闇の向こう側に潜んでいるのだろうか。
「この自殺した男性と心霊現象の関連についても調べていこうと思ってます。自殺の理由についても。噂によるとこの人は留年してしまったことを苦に自殺したと言われてるようですけど、他にも理由があるのかもしれません。自殺したという男性を特定し、当時親しかった人物に話を聞きに行こうと思っています」
ハルはみんなの顔を確認するように見渡した後、一歩引いた。
が、そこからさらに続ける。
「それからもう一つ心霊現象に関して。こいつが、また心霊体験をしました。カナタ、詳しく話してもらえるか?」
「ああ」僕はハルに押されて一歩前に出た。部室を見回すと、みんなが驚いたように目を見開いていた。僕は苦笑してから言う。「ははは、また心霊体験しちゃいました。とは言っても、この前話した内容とほぼ一緒なんですけどね。違うのは、今回は僕一人だったという点だけで。授業中に抜け出して部室に来て、帰りにエレベーターに乗ったら急に止まって、消灯。その後、すぐに壁を誰かが叩き続ける音がして、僕は怖くなり蹲(うずくま)っていたら、いつの間にか一階に到着し、扉が開きました。……二十分くらいですかね。きっちり時計を見てたわけではないので正確ではないですけど」
まくりたてる様に喋った後「僕の話は以上です」と言って話を締(し)める。
しかし、話し終わっても尚、みんなの視線を僕に突き刺さったままだ。
唐突な告白に、どう対応していいかわからないと言った状況。
「……あの」そんな中、ポツリと声を漏らしたのはゆう。「この中で、他に心霊現象が起きたという話を聞いた人はいますか?」
部員たちの顔を見渡す。僕もゆうにつられて首を回した。
互いの顔を見合わせるだけで、誰ひとりとして言葉を発する者はいない。
「……ってことは」
ゆうが呟き、悲しそうな目をこちらに向けた。
「そういうことだろうね。笑い話にもならないけど。心霊体験をしてるのはカナタだけだ。ダイキも一回目の時に巻き込まれてるが、それはきっとカナタの巻き添えを食っただけという可能性が高い。カナタが今日、こうして一人でいるときに襲われたってことがその可能性を示唆している。もしかしたら、霊が取り憑いているのは――カナタなのかもしれない」
僕の代わりにハルが答える。
……まあ、順当に考えればそういうことになるだろう。
連続して僕の周りで怪奇現象が起こる。
それは完全に悪霊に気に入られた証拠で、そしてそれはどう考えてもいいことではなかった。
予めハルからメールで聞かされていたのだろうか、ピーチさんはさほど驚きもせずソファから立ち上がると僕に近付いて来た。
「私が除霊専門の霊能力者の人を紹介しよう。除霊をお願いしたことはまだないが、きっと協力してくれるはずだ。霊が憑いているかははっきりしないが、一度見てもらうといい。安くはない料金を請求されるかもしれないが、費用は部費で持とう。その代わり、いろいろ質問はするがな。めったにない機会だ。ことの成り行きを観察させてもらうよ。霊能力者にはすぐにでも連絡を取ろう。今日でも明日でも、近いうちに予定の空いてる日はあるか?」
僕のことを心配しているんだか、自分の興味を満たそうとしているんだか、微妙な言い回しだった。たぶん、どっちもだろう。姉御肌で面倒見のいい一面を持ち、同時に怪奇現象についてマニアックな一面も持ち合わせているピーチさん。そこがピーチさんの魅力なわけだけれど、僕はゆっくりと首を振った。
「申し訳ないですけど、遠慮しときます。大丈夫です」
「え?」
不審そうな声を上げたのはゆうだった。僕はそちらに顔を向けて説明する。
「何だろ。まだ、あんま怖くないって言うか、それほど緊迫してないんだ。もちろん、もしかしたら、もうちょいしたら、その霊能力者の人にお世話になるかもしれない。けど、少なくとも今は、そんな除霊だなんて大げさなことをする必要は感じないんだ」
これは嘘だ。
僕自身、実感はある。
僕は完全に憑かれている。
けど。
今日、明日、除霊に行こうだって?
呑気にお寺に行っている余裕なんかない。僕の大切な時間を、そんなサークル行事の延長線上のようなもので潰したくはなかった。
もちろん、霊は怖い。だから、こんな状況が続くようであれば、いつかは除霊が必要になるだろう。でも、それは今じゃない。
怖いのは、除霊なんてことをして、僕のこの殺意が消えてしまうこと。
辰巳さんを消し去りたいという気持ちは、霊によるものではなく、僕の僕による明確な意思だと、僕は思っているけれど、もしかしたら、ということもある。
この殺意が消えてしまったら、守ることのできなかったしらべに対して、申し訳が立たない。せめてもの償いを消し去るようなことはしたくなかった。
「この状況が、怖くない……? 本気で言ってんのか、おまえ……」
ハルが一歩、こちらに滲み寄った。射抜くような眼差しでこちらを見る。
「怖いよ。怖いけど、もう慣れたと言うか、二回とも害はなかったわけだし……」
「おまえ、やっぱり取り憑かれてるんじゃないのか!?」ハルは叫んだ。「臆病で弱虫なおまえが、霊が怖くないだって? おかしいじゃないか。普段のおまえなら、自分から除霊をしてほしいってピーチさんに泣き付くはずだ。それが、除霊なんていらないだって? 完全に正気を失ってる」
僕の正体を見極めるような目。
やめろ、そんな目を向けないでくれ。
僕の中のどろどろとした黒い部分が見えてしまいそうで。
僕は身体を翻すと、ハルに背中を向けた。
「……今日は帰ります。一応、報告だけはしましたよ。もし、また心霊現象が起きたら報告するんで安心してください。そのときの状況を見て、除霊はまた考えましょう」
「待てよッ。おまえの意思なんか関係ない。霊に取り憑かれてる奴の言葉なんか、本当におまえの言葉かどうかわからないじゃないか。力づくでも連れて行くぞ。それがおまえのためだ」
力強い声。
けれど、僕の腕を掴んだりはしなかった。
「……何の霊かもわからないんだろ? おまえの役目は僕を責め立てることじゃない。過去にあった事件を調べて、その霊を特定する。それがおまえの役目なんじゃないか? 安心しろよ。僕だってこの霊がいなくなって欲しいと思ってる。別に霊をかばってるわけじゃない。ただ、除霊に費やすお金や時間がもったいないと思ってね。……僕にだってやらなければいけないことはあるんだ。それと比較したら、優先順位なんか低い」
「命に関わることだぞ。命よりも大切なことって何だよ?」
僕の命よりも大切なもの。
それは。
しらべだよ。
ただ、それは僕が勝手に思っているだけのことで、その思いを口にしてしまえばもはやストーカーと一緒になってしまう。
一方的な想い。
どうせ受け取ってもらえないのはわかっているから、僕は誰にも知られないように決着をつける。
何もできない僕。
しらべを助けてやれなかった僕。
全てにおいて、情けない。
だから、こんな命は消えてしまったって構わない。
僕は何も言わなかった。
そのまま扉を開け、一歩踏み出す。
部室は冷めた空気。
構いやしない。
どうせ、行動を始めたらもう部には出られなくなる。
「じゃあ、お先に失礼します」
さようなら、ミステリー研究部。
心の中で呟いて、部室を出る。
誰も僕を追いかけては来なかった。
少し危惧という名の期待をしていたわけだけど、どうやら自惚れだったようだ。これだけ意味深に立ち去れば、誰かが構ってくれるもんだと思ってた。
でも、ちょうどいい。
感傷的な気分だ。
しらべのために覚悟を決める僕。
そんな自分に酔いしれる。
ああ、気分が悪い。
元々僕は、酔うのが苦手なのだ。
しょせん、自分でカッコつけて自分に酔っているだけ。
しらべのために人生をかけると言っても、それはストーカーの妄言で、客観的に見れば、嫉妬に駆られた狂人の暴挙だ。誰一人として、僕の行動を肯定してくれる人はいないだろう。
だからって、このまま何の解決策も見つからないまま、ずっと抱えていくには、今回の事件はあまりに重過ぎる。
最終的には僕が納得できるかどうかなんだ。
ありがとう、人生。最期にこんな舞台を用意してくれて。華々しく散ってやろうじゃないか。後悔なく、死ぬことができる。
依然、辰巳さんへの殺意は冷めない。
むしろ、ハルの最後の言葉で気付かされた。
僕の命よりも大切なものがある。
だったら、そのために命を賭けよう。
僕はエレベーターを使わず、階段を使って一階まで下りた。
霊は怖くないが、閉じ込められるのは困る。今は一刻も早く家に帰りたい。
――しらべの過去を消し去り、辰巳さんの存在を抹消する方法。
放火以外にも方法は思いついていた。
辰巳さんの家に押しかけ、ナイフを突き付ける。
そして、辰巳さんを脅し、全て写真を消去させるというものだ。
その後、存分に恐怖を味わわせた後にとどめを刺す。
放火のように不特定多数の人を巻き込まないという点で優れたアイデアのように思えたが、しかしよく考えてみると問題点も多くある。
まず辰巳さんがすぐに助けを求めた場合。その場で辰巳さんを殺したとしても、しらべのデータは残ってしまう。それは、僕の望むところではない。
また、最も恐ろしいのは辰巳さんと直接ぶつかることにより、うまいように往(い)なされてしまうこと。ナイフを突き付けても尚、悠然とした態度で接せられたら。刺すことも脅すこともできなくなってしまうかもしれない。
その点、自由を奪ってから家に火をつける放火では失敗が少ないように思える。
まあ、いい。
じっくりと考えよう。
あまり時間はかけられないが、しかし、あまりに焦り過ぎてもボロが出る。
失敗は許されないのだから、慎重にならなければならない。
一階に到着する。
五階から降りて来たが、疲れはない。
廊下を進み、角を曲がる。
すると、出入り口が見え、そこに立っている人物がいることに気づく。
こちらを向いている。
津島さんだった。
僕は一瞬動揺して、しかしエレベーターで先回りされたことに気づく。僕は殺害計画を考えながら、一歩一歩段差を確認しながら降りて来た。機械を使って一直線に降りて来た津島さんの方が先に着くのは当然のことだった。
「瞬間移動でもして来たんですか?」
エレベーターを使ったのはわかっていたが、津島さんに皮肉を浴びせる。敬愛する津島さん。僕は、初めてこんな口を聞いて見せた。
「そんな能力があったら、俺はこんな大学には来ないでもっと楽をしてるよ」
津島さんはいつものように苦笑を浮かべて見せた。
「何ですか? まさか、津島さんも僕に除霊を勧めるわけじゃないでしょうね」
相手の意思を尊重する人間、それが津島さんだ。
人が嫌だと言うことは強制しない。
それとも、津島さんまで僕の言葉は悪霊に取り憑かれたせいで口から出て来る虚言だと思っているのだろうか。
「別にそんなもんを勧めるためにおまえをここまで追って来たわけじゃないよ。除霊をしなけりゃ命が危ないとか、そんな脅迫まがいのこと、俺はしないよ。第一、今のところ、心霊現象が起こるのはエレベーターの中だけだろ。俺も緊急で除霊が必要だとは思わない。エレベーターを使わなければいいだけの話だしな。おまえが幽霊が怖くて仕方がないって言うんなら、除霊はした方がいいけど、そんなこともないんだろ? それに、本当に除霊をしなきゃヤバいってくらい、おまえが追い詰められてるようなら、俺は説得なんかしないで、縄で縛ってでもおまえを連れていく」
津島さんは他人に干渉することを嫌う。
けれど、それは決して他人に関心がないというわけではない。
むしろ、相手の立場に立って物事を考えられるからこそ、必要以上に踏み込まないだけなのだ。
気持ちの良い距離感。
津島さんはそれを保つことができる。
「だったら、何の用です?」
「幽霊が怖くないなら、除霊の必要はない。今のところは、だけどな。でも、俺が問題だと思ってるのはそこじゃなくて、臆病なおまえが幽霊を脅威に感じてないってことだよ。いつものおまえなら、今日にでも除霊してくれって言うはずだろ。でも、おまえは今もそうやって表面上の理性は保って見せてる。それが霊の仕業ではないと言うのなら、その心持の変化は何だ? 何があった? 何をそんなに自暴自棄になっている?」
人の立場に立てるということは、人の心を見透かせるということだ。たった数分の僕の態度を見て、僕の身に起きた“何か”を感じ取ったのだろう。
「自暴自棄になっているように見えますか? 津島さんがそう言うなら、そうなのかもしれませんね。もしかしたら、僕の気付かない所で、霊に取り憑かれた影響が出ているのかも」
「霊の仕業にしようったって無駄だぜ。先週の水曜日、おまえが大輝と心霊現象に合った時、二人で遭遇したにも関わらず、おまえは顔面蒼白だったじゃないか。それが今日、一人で襲われたって言うのに、何にも感じてない様子だった。同じような心霊現象に合ったって言うのに、この違いはなんだ? 一週間の内に、おまえを変える何かがあったってことだろ」
「津島さん」僕はぴしゃりと言う。「珍しいですね。やけに今日はぐいぐい来るじゃないですか。人のプライベートには踏み込まないっていうのが、津島さんの信条だったんじゃないですか? もし、僕の抱えてるものを津島さんが解決できると思っているなら、自惚れもいいところです。悩みがあるなら相談してくれとか、そういう先輩面をするのもやめて下さい。それから、勝手に想像するのは結構ですが、僕を巻き込まないでください。自分一人でやってください。この一週間、僕は何一つ変わりない日常を過ごしてきましたよ。僕はこれから、家に帰ってやることがあるんです。邪魔しないでください。そのやるべきことが何か? そんなの、津島さんに言う筋合いはないので、下らない質問はやめてくださいね」
僕はガラス張りの扉に寄りかかって待っていた津島さんの横を通り過ぎる。
やはり津島さんはそれを目で追うだけで、僕の腕を掴んだりはしなかった。
津島さんが待ち受けていたのは予定外だったが、バス停まで行って、すぐにバスに乗り込み、あとは駅から電車で家へ。
そして、家に帰れば黒い妄想を繰り広げ、殺害計画を練ることができる。
しかし、安心した僕の背中に津島さんが言った。
「少し気になってたんだ。おまえの態度が」足が止まる。「おまえが言うように、自分で言ったら自惚れかもしれないけど、おまえの俺に対する態度はもっと恭(うやうや)しいものだっただろ? それが、自暴自棄になっているとは言え、その態度だ。もしかして――」
津島さんは身体を扉から離すと、まっすぐこちらに身体を向けて言った。
「おまえの身に起こった“何か”に、俺も関係しているのか?」
津島さんは何も知らない。
辰巳さんが起こした事件も。
しらべがつけられた大きな傷も。
僕が抱える重過ぎる荷物も。
ただただカッコつけて生きている。
辰巳さんはあんたの友達だろう? だったら、止めることだってできたんじゃないのか?
しらべはあんたのことが好きなんだ。それなのに、あんたが守ってやらないでどうするッ!?
辰巳さんにとって僕は扱いやすい小物で。
しらべにとって僕は取るに足らない部員の一人。
そんな僕が辰巳さんを罰するために。
しらべを救うために動いているのに。
あんたは何も知らずに、クールに振る舞っているだけ。
心に“闇”を抱える後輩の前に現れ、その“闇”を取り払おうとしている津島さん。
さぞ、気持ちいいだろうよ。
後輩のために颯爽と現れる。
あんたはいつもそうだ。いいところばっかり持って行きやがる。
後輩に尊敬され。
後輩に敬愛され。
僕は津島さんのことを尊敬していて。
しらべは津島さんのことを愛している。
あんたは自分の周りの汚れに気付いていないだけだ。
知ってしまえば、どうしようもなく汚らわしくなる。
あんたはカッコよくなんかない。
ただ、泥沼を避けて歩いているだけだ。
しらべを守れもしないくせに。
しらべを守れるのは僕だけだ。
あんたはしらべに好かれる資格なんてない。
しらべは僕のものだ。
「しらべは……」
だけど。
だけれども。
どこまで行っても僕の想いなんて一方通行で。
僕に救われることなんかしらべは望んでない。
守りたいというのも僕の独りよがりな自己満足だ。
「しらべ? しらべが……何だよ」
僕はどうするべきか。
辰巳さんを殺すべきか。
それとも黙ってこのまま何もなかったかのように日常に戻るべきか。
僕は葛藤していた。
しらべのためにと言ったって。
しらべは振り向いてはくれない。
だったら、僕はもうしらべのことなんか諦めて、次の出会いを待つべきなんじゃないのか?
一方的な想いで、辰巳さんを殺してしまっていいのか?
ただの頭のおかしい奴だと思われるんじゃないか?
それとも、僕はただの自己満足で辰巳さんを殺すべきなのだろうか。
僕は愛しいしらべの仇を討つために、自分の人生を顧みずに辰巳さんを討ち取った。
ああ、素晴らしい物語だ。
だけど、それは人から見ればただの狂人のエピソード。
何の関係ない男が“しらべのため”と喚き、ナイフを振り回す。
面白い。
まるで惨劇だ。
だから、動くべきは津島さんなんだ。
辰巳さんを通報し、あるいは殺害し、全ての事件を解決すべきは物語の中心にいる津島さんであるべきなのだ。
その津島さんが何も知らないと言うのは、なんて厚かましいんだろう。
僕は泣いていた。
悔しくて。
知らないことは罪だと誰かが言った。
ならば、罰せられるべきだろう。
全てが終わって、どこにも手を伸ばすことができないこの状況に。
津島さんも落ちるべきなのだ。
一人、舞台の上で輝かしく立っているのは許せない。
泥沼の底まで、引きずり込んでやる。
だから、僕は言った。
「しらべが、辰巳さんに暴行を受けました。しらべを酒で潰して、辰巳さんは悪戯をしたそうです」
一瞬、眼を見開いた後、津島さんは信じられないという風に言った。
「……どういうことだ?」
これで、津島さんも共に後悔に身を埋(うず)めることができる。
あの津島さんを、僕と同じ底の底まで引きずり落とすことができる。
これで土俵は一緒だ。
あとは、僕が辰巳さんを殺せば、最後の最後に逆転勝利だ。
「辰巳さんは、津島さん、あんたを出汁(だし)にしてしらべを呼び出し、酔い潰してしらべを犯したんだ。メールが来たはです。知らないとは言わせませんよ。あなたがその飲み会に行かなかったばかりに、しらべは辰巳さんに犯されたんです」
ずっと抱えていた叫び。
あの日、しらべは津島さんに会いたいがために、あの飲み会に参加した。
そのせいで、知らないうちに辱めを受けることになった。
津島さんはまさかという表情は崩さなかったが、それでも拳を握りしめて震えていた。
辰巳さんをよく知る津島さんだ。
その性格から、その行動がありえないことではないとわかっているのだろう。
自責の念で、悶えながら苦しむといい。
あんたのせいでしらべは大切なものを失った。
辰巳さんを止めることができなかった。
そして、事が終わってしまった今、しらべの傷を治すことはできないし、辰巳さんの犯行を是正する術もない。
「……証拠は、あるのか? 下らない噂だって、ことは……」
「はっはっはっはッ!」僕は涙をまき散らしながら笑った。「逃げないで下さいよ。全部、事実です。証拠なら残ってます。辰巳さんの携帯に、そして恐らくパソコンに。しらべの裸の画像が、ちゃんと保存されてます」
津島さんが僕の前に立つ。
その眼には絶望と悲哀の色が浮かんでいた。
こんな津島さん、初めて見る。
三年間共に歩んで来た仲間の醜い部分。
そして、大事にしていた後輩の目に見えない心のひび。
何よりも何もできなかった自分の無力さ。
それを噛みしめて、津島さんは立ちすくんでいた。
「行こう」
「は?」
「それまでの間に詳しい話を聞かせてくれ」
有無を言わせない口調だった。
返事も待たずに歩き出す。
「行くってどこに?」
「辰巳の家に決まってんだろ。本人からも詳しい話を聞く」
辰巳さんの家?
一瞬、部室での辰巳さんのあの僕を馬鹿にしたような笑顔が浮かんで、僕の足は止まった。
震える。
怖い。
僕は霊よりも辰巳さんが怖い。
「……辰巳に何か言われたのか?」
「…………」
僕の表情を敏感に読み取った津島さんが尋ねた。
「……言われたんだな。……それで、授業中に部室になんか行ったのか。そのときに、このことは口外するなとでも言われたんだろ」
一度、こちらに戻って来て、津島さんは僕の肩に手を置いた。
「よくこのことを話してくれたな。大丈夫だ。辰巳が今後何を言って来ても、俺がおまえを守ってやる。だから、ついて来い」
呆然としていた。
僕は何をしてしまったんだろう?
わからない。
ただただ、津島さんがいつものように頼もしくて。
思考が停止した僕は、津島さんの背を追うしかなかった。
辰巳さんの家を僕は知らない。
でも、歩いて行ける距離にあることだけは知っている。
どうなっている?
僕は家に帰って辰巳さんを殺す計画を練るんじゃないのか?
津島さんは全てを知って、自責の念で硬直してしまうはずだったんじゃないのか?
何が起きてるんだ。
津島さんの背中を追っていたら、いつの間にか大学を出ていて、見知らぬアパートの前に立っていた。
何?
どうなってんのさ。
わからないわからないわからない。
◆
そこそこいいアパートだが、しらべの家のようにオートロックなどの設備はついていない。ドアチャイムだって、来客を知らせるための役割しか担っておらず、カメラはついていないので客人が何者かの判別は行えない。
ここに着くまでの間、津島さんの質問に僕は機械的に答えていた。何を聞かれたかは覚えてない。ただ、僕が津島さんに伝えたかったことは、全て伝わったと思う。津島さんが全て引き出してくれた。
一階の一番奥の角部屋。ネームプレートにはしっかりと辰巳と書かれていた。
その部屋の手前で津島さんは僕に手のひらを向け、制した。
「カナタはここで待ってろ」
僕は二階へ通じる階段の影に身をひそめた。
津島さんはドアチャイムを押す。扉が開く。辰巳さんが出て来る。
「辰巳」
「おお、津島、どうしたんだよ」
「話がある」
そのまま、津島さんは強引に中に入って行った。
扉が閉まる。
僕はぽつんと取り残された。
太陽が雲で隠れているので肌寒い。
風はない。
人は来ない。
音もない。
ここは大通りから一本、住宅地に入ったところにある。
この辺りには僕の友達の家もある。
こんなところに辰巳さんは住んでいたのか。
ここで、しらべは辰巳さんに穢された。
あれ?
僕はこんなところで何してんだろ。
辰巳さんを殺すんじゃなかったのか?
石像のように突っ立っていた。
マジで何やってんだ?
少し風が吹いて葉の揺れる音。
何も聞こえない。
争う音もない。
二人は何をしているんだろう。
今は昼過ぎだ。
住人も来ない。
近くの道も人は通らない。
五分が経ち、
一〇分が経ち、
二〇分が経ち、
三〇分が経ち、
五〇分が経った頃、
辰巳さんの部屋の扉が再び開く。
津島さんが現れる。
辰巳さんは出て来ない。
「もう大丈夫だ。全部、全部終わった」
大丈夫?
終わった??
全部???
何のことだろう。
「携帯のフォルダは全て消したし、パソコンはリカバリーをかけたから、どこに隠していても関係ない。記録媒体も全てデータを破壊した。隠す暇も与えなかったから、大丈夫なはずだ」
消した?
何を?
「……しらべの写真だよ。大丈夫。俺は見ていない。写真は開かず、問答無用で全て削除したから。警察に捕まったら、どうせ何もかも押収されるんだ。それを考えたら、データが消されるくらい可愛いもんだろ。これで多少は自分のしたことの重さを感じてくれるといいんだが」
全てが終わった。
何もかも、終わり。
終了。
おわり。
僕に残されていた術はなくなった。
「帰ろう。……おまえも休んだ方がいい」
再び僕の前に立ち、学校への経路を進む。
津島さんはそれ以上何も言わなかった。
なので、僕も何も言わなかった。
僕は手を汚さず。
辰巳さんには罰が与えられ。
しらべは救われた。
何もかもが綺麗な形で終末を迎えた。
何も壊れず、見た目は美しいまま。
バス停で津島さんと別れた。
あれ? 僕はいつの間にバス停に戻って来たのだろう。
津島さんが最後にもう一度、僕の目を見た。
「今回の件は俺の不始末だ。辰巳の“悪さ”に全く気付くことができなかった。カナタ、おまえがいなかったらと思うと、ぞっとするよ。ありがとう、本当に助かった」
なぜ、僕は感謝されたのだろう。
バスが来たので、僕は津島さんに小さく会釈をして乗車した。
僕は何もしてないぞ?
助かっただって?
誰が?
津島さんが?
僕が津島さんを助けた。
あの津島さんを助けることができた?
やった。
僕は津島さんより優位に立つことができた。
いや、違う。
違うだろ。
助かったのはあなたじゃない。
あんたは辰巳さんを救い。
しらべを救った。
辰巳さんの命と。
しらべの心を守った。
そして。
何より。
本当に救われたのは――。
この僕だ。
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