エピローグ「Strike Anywhere Matches」

「こんにちは!」

 元気な声がして、店の扉が開いた。今日はまだ臨時閉店の張り紙をしてある。それでも入ってくるのは、やはり蒔田燐だった。後ろに兄の硅もいる。

「いらっしゃい」

 営業中でもないのに、少し変かとは思ったものの、曹司はそう挨拶した。燐がにこにこ笑いながらこちらに手を振る。野に咲く向日葵のような、明るい笑顔だった。手にはお見舞いだろう、花束を持っている。

「ようこそ、燐ちゃん」

 母屋の方から静が出てきた。どこか緊張した面持ちで燐に挨拶をしている。曹司は少し可笑しかった。花束を受け取って、静は一度母屋の方に引っ込んでいった。

「硫美ちゃん!」

 カウンタの端の席。シンクの前の定位置に硫美は座っている。その右手にはまだ、包帯がぐるぐる巻きにされている。

「退院おめでとう!」

「……ありがとう」

 面倒そうに硫美は言う。その隣に燐は腰かけた。硅は、近くのテーブル席に座っている。

 曹司は二人分のコーヒーをドリップし始めた。静と硫美の分はすでにカップに入っている。

 結局、逮捕された武藤沃太がすべて供述した。自分が酒井環を殺害したこと。早坂良子が加地みのりを殺害した後自殺したこと。その後は、早坂が指示した通りに行動したこと。証拠として指示書も見つかっている。

「硅君も、いらっしゃい」

「はい」

 戻ってきた静に、硅は優しく微笑んだ。静も艶やかに笑みを作った。

「ランチ食べに来る以外の用事は珍しいわね」

 硅は蒔田兄妹の前にカップを置いた。先に硅、その後に燐。

「ケーキもいるか?」

「……うん!」

 曹司は、満面の笑みを浮かべた燐にチーズケーキを出してやった。今日は店が休みなのに焼いていたのは燐のご機嫌を取るためであろう。

「兄貴」

「何だ、P子」

 燐が首を傾げながら、硅に訊いた。

「兄貴と硫美ちゃんのお母さんって、知り合いなんだよね?」

「ああ」

 燐が問いかけの視線を静に向けた。すると、頬を染めて静は言った。

「お兄さんとは、おつきあいさせていただいています」

「……え?」

 燐は驚いて硅の方を見た。すると硅は軽く微笑んでさらっと言った。

「うん。結婚する予定」

「……ちょっと待て。結婚?」

 燐が驚いて静の方を見た。下腹部に注目しているようだ。それに気が付いたらしく、静は両腕でお腹を隠した。

 燐の予想は正しい。曹司も聞いたのは昨日の事だった。母親がげんなりした顔で教えてくれたのだった。いくら何でも相手の歳が若すぎると言いたいらしい。若干、羨望混じりな気配があった。

「硫美ちゃん?」

「私も初耳」

 とても冷静な声で硫美は言った。

「本当?」

「本当」

 硫美はコーヒーを一口飲んだ。

「でも、そうだろうな、とは思っていた」

「そうですか。……って、お、同い年の姪……?」

 曹司は頭の中に線を引いた。硅は燐の兄。兄と結婚するのだから、静は燐の義姉になる。義姉の娘なのだから、たしかに硫美は燐の姪だ。

「そうなる」硫美は面倒くさそうに言った。「お年玉とか、貰えるのかな。わーい」

「あげないよっ! わーい、って無感動に言うな! キャラ違うよう!」

 燐が瞬間的に反応する。曹司はそれをにやにや笑いながら見ていた。

「あの、失礼ですけど」

 燐はおずおずと、今度は静に訊いた。

「お幾つですか?」

「三十代よ」

「えっと」

「三十代」

 静は笑みを浮かべていた。見ての通り、硫美の母親だ。一筋縄でいくはずもない。

「嘘ではない」

 曹司は小声で燐に教えてやった。

 静は現在三十九歳。硅が二十八とのことだから、十一歳差になる。ぎりぎり一回りには届いていない計算だ。燐からすると、二十歳以上離れた姉になる。

「もう、なんでも良いよ。兄貴、おめでとう。お幸せに」

「ありがとう」

 投げ遣りに言った燐に、大真面目に硅は返した。これでも少しは緊張していたようだった。

「ところで」燐はちょっと真面目な顔になった。

「事件のこと、兄貴は判ってたんだよね?」

「全部ではないが」

「なら、なんで黙ってたの?」

 硅は困ったように、頬をぽりぽりと掻いた。

「……硫美ちゃんが何かしようとしていたから」

「は?」

「妙なラブレターを出していたり、気合いの入った絵を描き始めたりしていた。明らかに何かを企んでいる。今度娘になろうかという子が何かしようとしているのを邪魔したら、印象が悪くなるだろう? しかもへそを曲げると長い、と最愛の妹からタレコミがあった」

「ずいぶんな言い種」

 硫美が、一瞬燐の方を睨んだ。燐はそっぽを向いて誤魔化していた。

「まあ、そんな程度の理由だ。犯行の経緯も想像ついていたから、次の死者が出るはずもないし」

「気を遣っていただいて」

 硫美が小さな声で言った。

「おかげさまで、目的は達成出来たと思う」

「僕としては、燐か勝手に解決する、っていうのがベストだったんだけど。それなら僕の責任じゃないし」

「ご期待に添えず、申し訳ありませんでした!」

 拗ねたように燐は言った。唇を尖らせている。硫美がそれを見て、にやにやと笑った。妙に楽しそうだった。

 気を取り直したのか、燐は硫美の方に向き直った。

「それで、硫美ちゃんの怪我は?」

「うん」硫美は頷いた。「元の通りには動かないかもしれない、だそうで」

「っ!」

 人ごとのような硫美の答えに、燐の表情が一変した。

「じゃあ、絵は……?」

「難しいみたい」硫美はさらっと言った。「でも左手があるし」

「そんな……」

「そもそも」硫美は燐のことを真っ直ぐに見つめた。「絵画というものは、頭の中のイメージをいかに損なうことなく、キャンバスの上に表現するか、ということにかかっている。絵を描くのは手ではなくて頭。足の指で鼠を描いても、立派な絵画」

「そんな、そんなこと言ったって」

「まあ、ある程度の技術は必要だけど。モデルも見つかっていることだし、のんびり練習することにする」

「硫美ちゃん……」

 硫美は燐の方を向いて、困ったように笑った。怪我をして以来、初めて見た、硫美のポジティブな笑顔だった。

「蒔田さん」

 曹司は燐に声をかけた。

「ありがとな」

「どういたしまして」燐はきょとんとした。「何のお礼だか、よくわかんないけど」

 燐はそれから諦めたように、チーズケーキに取りかかった。フォークで切り分けて、口を大きく開いて食べていく。見ていて気持ちが良くなるような、清々しい食べっぷりだった。

「あ、そうだ。曹司君」

「何?」

「燐、で良いよ? 呼び方。私ね、名字で呼ばれるの苦手なのだな」

「あ、うん」

 曹司は口の中でだけ、燐、と呼んでみた。あまりしっくり来なかった。

「燐」

 呼んだのは、硫美だった。

「モデルになってくれる約束だった」

「……ああ、うん。そうだったね」

「描くから」

「おっけ。了解」

「ヌードで」

 涼しい声で、硫美は言った。

「な、なんでっ?」

「それが芸術」

 にやにやと笑って、硫美は言った。とんでもない悪意に満ちていた。

「ほ、ほほう」

 しかし燐も笑い返した。少し頬が引き攣っている。

「別に良いよ? 硫美ちゃんみたいなちんちくりんには出来ないだろうけど? 私なら、どこに出しても恥ずかしくないもん!」

 燐は胸を張って、そう言った。

 それにしても、と曹司は思った。この二人、会う度に何やら剣呑な雰囲気になっている。相性が良いのか悪いのか、良く判らない。

「曹司君」

 いつの間にか、硅がカウンタに近寄ってきていた。カップを持っていたので、コーヒーを注ぎ足してやる。

「アメリカで販売されている、横薬がいらないマッチがあるんだけどね。どこで擦っても火が点くタイプの」

「はあ」

 話が見えずに、曹司は聞き返した。燐と硫美はまだ睨み合っている。

「その名も、硫化燐マッチ、と言うのだよ」






     了

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透明モチーフの向日葵 -Hanged Sacrifices to Displeased Sulphur- 葱羊歯維甫 @negiposo

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