15. 光をもたらすもの

     ———番号15。記号P。常温で固体の窒素族元素。白、黒、赤などの同素体を持ち、それぞれ性質が異なる。化学肥料や農薬に利用される。また、DNAや細胞膜に利用されるなど、生物にとって最も重要な元素の一つ。ギリシャ語の phosphorus に由来。










 青い空。

 白い雲。

 日本と欧州の雲は違う。

 日本の雲は、

 空に張り付いている。

 優しく包み込むように。

 すべての悩みを赦すように、

 しっとりと。

 欧州の雲は、

 暢気に浮かんでいる。

 何の悩みも無いように、

 ぷかぷかと。

 気候の違いだろうか。

 ヨーロッパの方が美味しそうだ。

「ヨーロッパの方が美味しそうだ」

 声に出して確認した。

 雲を見つめる。

 お腹が空いてきた。

 朝食を摂ってから、

 まだ一時間も経っていないのに。

 ポケットから煙草の箱を取り出す。

 アークロイヤル。

 イギリスにいるときに覚えてしまった。

 タールは重い。

 バニラの匂い。

 幸せに苦くて、

 苦しいくらいに甘い、

 そんな煙草。

 煙草はもともと、

 空腹を紛らわすために使われたもので。

 つまり今吸うのは正しい。

 ライターで火を点ける。

 マッチなんて、意地でも使わない。

 元々のマッチの原料は白燐。

 今でも横薬に赤燐。

 自分と同じ名前の元素。

 命を燃やすこともない。

 煙を胸いっぱいに吸い込む。

 バニラの甘苦い香り。

 心ゆくまで堪能して、

 空に向かって吐き出す。

 屋上のそのまた上。

 青い空。

 白い雲。

 さて、

 日常に帰ろう。




     *




 燐は欠伸混じりに階段を下りた。まだ授業が始まるには早いが、あのまま屋上にいたら眠ってしまいそうだった。

 この時間に寝ることを何と呼ぶんだろう、と燐は疑問に思った。昼寝と言うにはいくらなんでも早すぎる。かといって、二度寝というのはニュアンスからしてどうだろう。少なくとも、一度寝ていた場所でないと、二度寝にはなるまい。

 朝寝か、と燐は首を捻った。まるで遊女のようだ。カラスを大量虐殺しなくてはならない。動物愛護団体に怒られるだろうか。しかし燐には情夫はおろか恋人すらいない。独り寝である。夢の通い路は通行止め。都々逸から百人一首まで時代が巻き戻ってしまった。

 そんなことを考えながら階段を下りる。燐の思考は発散している、と評される。そんな胡乱な評価を下すのは兄の硅ただ一人だけではあるが。

 硅は頭脳明晰である。彼は燐とは真逆の、至極まっとうな思考体系をしていて、思考の跳躍などとは無縁である。当たり前のことを当たり前に考えることに長けている。しかしそのスピードと正確性が尋常でない。また、先入観を極端に排除する傾向にある。燐は硅のことをちょっと尊敬して、かなり忌避している。コンプレックスの対象であるという自覚がある。決してブラコンという意味ではない。

 階段を下りて三階までついた。すると、下の階から足音を立てて、美術の山上教諭が駆け上がってきた。もしゃもしゃの頭を揺らして必死に走っている。そのまま燐を一瞥することもなく、美術室の方に向かっていく。日頃運動と無縁な生活であることがありありと現れている、無様な走り方だった。その後ろから女子生徒が無表情で、でも小走りについて行く。同じクラスの沢渡硫美だった。運動神経の欠片もないような、実に可愛らしい走り方だった。似たようなフォームでありながら、この評価の差は何だろう、と燐は疑問に思った。これが恣意的な判断というものか。

 何かあったな、と燐は判断した。時刻はまだ八時過ぎ。授業開始まではまだ余裕がある。走らなくても遅刻になるはずがない。いや、教師は準備があるからもっと早く部屋についていなくてはいけないのかも知れないが、それでは生徒が追いかけていくはずはない。それに、いくら何でもあんなに慌てることは無いだろう。

 燐も小走りについていく。廊下の角を曲がると、美術室の前で、二人が扉に張り付いていた。他に生徒が数名、野次馬根性丸出しで取り巻いている。燐も人のことは言えない立場である。ちなみに馬面ではない。

 歩調を緩めて近づいていく。すると近くにいた男子が、扉を蹴り始めた。どうやら蹴破ろうとしているようだった。大きな音が響く。古い校舎だけあってくたびれていたのか、二度蹴っただけで、扉は簡単に開いたようだった。

 鍵をなくしたのかな、と燐は首を捻った。しかしそれだけだったら、あんなに慌てて扉を蹴り開けることはないだろう。マスターキーだって、きっとどこかにあるに違いない。そして蹴り開けた割に、誰もすぐに中に入っていかない。

 廊下の真ん中にぺしゃんこの鞄が置いてある。見覚えがあった。どうやら硫美のもののようだった。通行の邪魔になりそうだったので、燐はそれを廊下の隅にどけておいた。

 それから燐は美術室に近づいて、ひょいと中を覗いてみた。すると扉のすぐ近くで、イーゼルが燃えさかっていた。炎色が時折黄色がかって見えるので、何らかの化学物質が燃えているようだった。黄色はナトリウムだったかな、と燐は頭の奥から知識を引っ張り出した。他にもあった気がする。どうでも良いがナトリウムの和名は曹達である。絵の具の原料に含まれていたのだろうか。ちなみに燐の炎色は淡い青色でなかなか綺麗である。

 これの所為であんなに慌てていたのか、と燐は納得した。誰かいるのか、と思って室内を覗き込んでみる。火を点けた不届き者がまだ中にいるかもしれない。

 しかし目に飛び込んできたのは、

 天井からぶら下がった

 三人の女子生徒だった。

 見慣れたセーラー服。

 見慣れた顔。

 全員に見覚えがあった。

 当たり前。

 同じクラスの女子。

 昨日まで、

 机を並べて一緒に勉強していた少女たち。

 酒井環。

 加地みのり。

 早坂良子。

 全員まるで特殊メイクのように

 青紫の顔をしている。

 首に縄がかかっている。

 重力に引かれて伸びている。

 どう見ても、

 もはや生きてはいない。

 そのセーラー服の左胸に

 木製のものが生えている。

 何かの柄のように見えた。

 誰かの腕がぶつかる。男子生徒が一人、廊下から消火器を持ってきていた。燐は慌てて道を譲ろうとする。しかしそれより先に、後ろから誰かにぶつかられた。勢い余って目の前にいた男子に衝突してしまう。自然と美術室の中に入る形になった。

 教卓の脇に立つ。その散らかった天板の上、美術室、と大きく書かれたタグのついた鍵が置いてあった。

 ここに鍵があったのか、と燐は納得した。だから扉を蹴破るしかなかったのだ。

 燐と同じように押されてきたのか、隣に女子が一人立った。ちらりと見ると、同じクラスの沢渡硫美だった。

 硫美は、ぶら下がった三つの死体をじっと見つめていた。硫美のこんな表情を燐は初めて見た。普段はぼんやりしているというか、全体的に無表情で感情や思考の起伏が感じられない。しかし今は、何一つ見逃さないように、と必死にこの光景を観察していた。

 爛々と輝くその瞳が、なぜだかすごく印象に残った。




     *




「ただいま」

 玄関の扉を開けて、家の中に入る。午前中に帰宅するなどという経験は、記憶にある限り初めてだった。これでも朝帰りと言うのだろうか、と燐は疑問に思った。腕時計を見ると午前十一時半。朝というには既に遅いが、なんとか午前様ではある。

 リビングに入ると硅がいた。どうやら出かけるところだったようだったので、燐は少し驚いた。硅が外出するなんてことは滅多にない。仕事は在宅だし、買い物もネット通販ばかりだ。本人曰く、エコロジーな次世代生活、らしい。もちろん、ただの引きこもりである。

「なんだ、サボったのか」

 燐の姿を認めて、硅は小さく笑った。

「いやいや」燐は手を横に振って否定した。「サボるんなら朝から行かないよ。事件があって突然休校になった」

「ふむ」

 硅は曖昧に頷いた。あまり興味が無さそうだった。昔からこの兄は、燐に対してあまり干渉しない。年齢が十も離れている所為だろうか。

「事件って?」

「あー」燐は首を傾げた。「多分、大量猟奇殺人事件。ついでに放火」

 死者三名は、大量になるのだろうか。燐は疑問に思った。閾値がよく判らない。それと、一度に殺した場合には連続という冠は適用されるのだろうか。しかし一度と言っても厳密には同時に殺害したわけでもあるまい。発見が同時だっただけなので、ここも判断の分かれるところである。

「何を言ってるんだ、P子」

「紛れもない事実だぞ、半導体」

 あきれ顔を作った硅を、燐はじっと見つめ返した。視線がぶつかる。硅は意外と整った顔立ちをしている。実年齢よりもかなり若く見えるあたり、非常に卑怯である。今のところ、燐は年齢を気にする必要がないものの、十年後には解らない。一応同じDNAを引き継いでいることに期待するしかない。

「本当か」

「もちろん」

「ふむ」硅は羽織っていたジャケットを脱いで、椅子に腰掛けた。「詳しく話してみろ」

 燐は鞄を置いて硅の正面に腰掛けた。それから今朝体験したことを話し始めた。階段で美術教諭が走っていたこと。男子が扉を蹴破ったこと。中で絵が燃えていたこと。クラスメイトが三名も亡くなっていたこと。死体の奇異な状態。その間、硅は一言も口を挟まずに聞いていた。

「被害者の名前は?」

「えっと、酒井さん、加地さんと早坂さん」

「燃やされていた絵は?」

「詳しく知らないけど……」燐は首を傾げた。「沢渡硫美さんの絵って噂だったかな。多分、コンクールで賞を獲った奴じゃないかと。完全に燃えちゃったから確証までは無いけどねぇ」

 ふむ、と硅は腕を組んだ。何か考え事をしているようだった。それを見て燐は首を傾げた。たしかに事件と聞けば興味が湧くのも解るし、もしかしたら妹の身を案じてくれているのかも知れない。けれど、本質的に硅と事件は無関係で、こんなに考えこむほどの内容が硅にあるとは思えない。

「硫美ちゃんは無事なのか?」

「硫美ちゃん? なぜ、いきなりちゃん付け?」

「そこはどうでも良い。無事かどうかだ」

 燐は、兄が実はロリータ・コンプレックスなのではなかろうか、と疑いを抱いた。燐に無関心なのも身長が高い所為と考えれば、状況証拠となりうる。しかしロリコンとはロシアの古典小説が由来であって、対象年齢は大体中学生くらいである。女子でも高校生くらいまでいけば、正常な部類だとどこかで耳にした覚えがあった。とは言え、硫美の外見を鑑みるに、硅がいと小さきものをまっこと愛でていたとしても、不思議はない。

「少なくとも、肉体的には怪我一つないはずだよ。美術室で一緒にいたからねぇ。精神的には解らないけどさ。特に硫美ちゃんと早坂さんは仲良しだったから」

「そうか」

 硅は安心したように頷いた。なぜ硫美の無事を喜ぶのだろう、と燐は不満に思った。ここは形だけでもとびきり愛らしい妹の心配をしておくべきところではなかろうか。

「ところで犯人は?」

「判ってないみたいだよ。まあ、今日の今日だからね」

 燐はひらひらと手を振った。それを硅はやけに厳しい目で見つめている。

「まあ、そんなわけで急遽学校はお休みになったのでした。どこに犯人が潜んでいるか、分かったもんじゃないからねぇ。明日以降も追って連絡、だそうな。こんな時間からうろちょろしてると、何だか変な気分だよ」

「燐」

 硅は燐の言葉を遮るように言った。硅が燐の本名を呼ぶのは珍しい。その真剣な声音も、少し異様だった。普段はレベル10.5くらい飄々としているのだ。

「な、何?」

「三年に見城曹司君という男子生徒がいるはずだ」

「見城、曹司?」

 燐は首を捻った。少なくとも、燐のいる三組に、その名前の男子はいない。他のクラスの生徒でも、思い当たらなかった。

「や、ちょっと知らないけど」

「彼を家まで連れてきて欲しい。話がしたい」

「はい?」

 燐は素っ頓狂な声を上げた。硅がどうして突然そんなことを言い出したのか、まるで見当がつかない。

 まず、硅の言う見城なる男子が誰なのか燐は知らない。タイミングから言って、事件関係の話だとは想像がつくが、彼が事件の鍵を握る重要人物だとも思えない。よしんば関係あったとしても、硅に判るはずもない。何しろ、ついさっきまで事件があったことすら知らなかったのだ。そもそも、燐すら面識がない生徒をどうして硅が知っているのか。

「なんで?」

「理由は後で話す」

 燐の問いを、硅は冷たく切り捨てた。こういうときの硅は梃子でも動かない。そして、決して間違ってもいない。ただ、事情を説明しないのはつまらない理由のことが多い。ただ、燐を驚かせようとしているだけだったりもする。

「もし頼まれてくれたなら、ヨックモックのくるくるを箱詰めで買ってやろう」

「……ふむ」

 正面に座る硅と同じく、燐は腕を組んだ。あの葉巻形のクッキーは燐の大好物だ。しかも箱詰めと来た。これを取引条件に出すと言うことは、硅は本気だ。品物の問題ではなく、兄妹間の共通認識として本気だというサインなのだ。

「分かった。引き受ける」

「そうか」

 硅は組んでいた腕を解いた。それから、不意に不安そうな顔になった。切れ長の目が少し垂れ下がっている。

「お前、町で変な男に声をかけられてないか?」

「何、突然」燐は首を捻った。「まあ、ナンパされるくらいならあるけどさ。私、一人歩き好きだし」

「お菓子あげるからついておいで、とか言われても行くなよ」

「小学生か!」

 硅は苦笑しながら立ち上がった。背もたれに掛けていたジャケットに袖を通す。

「どこ行くの?」

「昼飯」

 それから、ふむ、と硅は考え込んだ。硅にしては長いこと悩んでいる。基本的に頭の回転が早い男なので、普段は比較的即断即決である。細かいことを考えていないだけ、という可能性もある。考えなくて良いことかどうか、きちんとフィルタリング出来ている、という意味でもある。

「お前も来るか?」

 意外な提案だった。燐と硅が二人で外食など、ちょっと記憶にない。何しろ硅が滅多に外へ出ない。燐だって料理は苦手ではないので、外食自体が稀だ。仲が悪いつもりもないが、そもそも生活スタイルが合わないのだ。

「や、お弁当が丸々残ってるから、いい」

「そうか」

 少し迷っていた様子だったが、硅はそう言って、出かけていった。どことなく足取りが重そうだった。

 燐は壁に掛かった時計を見上げた。もうお昼だった。ちょうど良いのでリビングで食べることにして、鞄のファスナーを引き開けた。




     *




 燐は困っていた。

 今日は臨時休校開けの初日。一週間ぶりの登校だった。それで、事件当日に硅に頼まれたとおり、見城曹司を捜しているところだ。

 クラスメイトに訊いたところ、曹司は隣の34だということが判明した。ついでに沢渡硫美と仲が良いことも意地悪な笑いと共に教えてくれた。

 硅が曹司を指名したのは硫美と関わりがあるからのようだ、と燐は判断した。と言うか、それ以外考えられなかった。しかし、硫美が事件とどこまで関係あるのか、についてはまだよく判らない。状況からして硫美が第一発見者だろうし、事件は彼女が所属している美術部の部室で起きている。彼女の絵も燃やされている。その辺りの事情を考慮すると、まったく無関係とは考えにくいものの、はっきり最重要参考人とも言い難い。容疑者でもない。絵を燃やされているので被害者ではあるはずだ。

 ともあれ、今は見城曹司である。なんとかして彼を蒔田家に連れてこないことには、ヨックモックのくるくるが手に入らない。しかし、同じ学校とは言え見知らぬ女子から、家に来て欲しいの、なんて言われて素直に頷く輩がいるだろうか。少なくとも、燐が見知らぬ男子からそう誘われたら、悩むまでもなくお断りである。たとえヨックモックのくるくるを提示されても拒否するだろう。男女の差こそあれども、曹司も似たようなものだと想定しておいた方が良さそうだ。

 接触方法を考えているうちに、放課後になってしまった。とりあえず曹司に話しかけないことには始まらない。まずは隣の34を訪ねることにする。ひょいと扉から教室の覗き込むが、誰が曹司なのか判らない。手近な女子に尋ねたら、もういないと言われてしまった。鞄もないようなので、すでに下校した公算が高い。

 それなら、と大急ぎで下駄箱まで小走りに向かう。途中で何人も男子を追い越したが、いかんせん顔を知らないので発見のしようがない。下駄箱に到着し、34の男子の下駄箱へ勝手に立ち入った。出席番号順に並んでいる箱から、『見城』の名を見つける。そこを勝手に引き開けると、幸いなことにくたびれたローファーが入っていた。

 ふう、と一息ついて一度下駄箱から離れて壁により掛かる。34の列を見張っておけば、誰が見城曹司なのか判るだろう。

 何人もの生徒が燐の前を通り過ぎていく。時折物珍しげに燐を見ていく生徒もいたが完全に無視した。下駄箱で人を待ってる姿が意味深なのは理解出来るが、そんなことに構っている余裕はない。しかし、待てども待てども見城曹司らしき人物は現れなかった。

 ふむ、と燐は考え込んだ。聞いた話だと曹司は特に部活や委員会には入っていないらしい。しかし教室にもいなかった。

 他に放課後にいそうな場所を考えてみると、図書室で受験勉強に勤しんでいる可能性もある。しかし直接向かったところで、誰が曹司か判らない。必死に勉強しているところに、一人一人訊いて回るわけにもいかない。

 それ以外で曹司について知っていることと言えば、硫美と親しいことくらいだ。彼女に訊けば、もしかしたら判るかもしれない。携帯電話で連絡してもらう、という手も考えられる。燐は今度は硫美の下駄箱を勝手に引き開ける。まだ外履きが中にあった。彼女は美術部なので、いるとしたらそこであろう。とりあえず美術部が活動している美術室に向かう。

 階段を上って三階へ。美術室の前で燐ははた、と足を止めた。蹴破られた所為で扉が壊れている。しかし壁に刺した杭とドアノブの間が鎖で縛られ、小さい南京錠で留められている。少し考えてみれば判ることだった。事件現場にみだりに立ち入り出来るはずもない。

 燐は南京錠を観察した。安っぽい金色の輝き。真鍮製だろうか。ちょっと力を加えれば簡単に壊せそうだった。平和な国だと思った。しかし今や殺人鬼が跳梁跋扈する危険な学校である。とりあえず、どこかからバールでも探してこよう、と考えて、やっぱりやめた。中に入っても、こんな状態の部屋に硫美がいるはずはない。

 ううん、と扉を見ながら考え込む。硫美はどこにいるのだろう。そのとき、扉の上の表示に気がついた。『第一美術室』と書いてあった。第一があるなら少なくとも第二があるはずである。世界大戦だって、第二が起こるまでは第一ではなかったはずだ。

 燐はとりあえず隣の部屋まで走っていく。音楽室だった。何度も入ったことがあるので当たり前である。脱力しながら振り返るとそこに第二美術室があった。

 室内に灯りがついている。誰かいるようなので、燐は扉を押し開けた。中には硫美が一人でイーゼルに向かっていた。部活中の生徒がもっとたくさんいると思っていたので、少し拍子抜けした。

「……?」

 硫美が不審そうに燐の方を見上げた。硫美はちょっと不思議系だが、ちまっこくて可愛い。こうして上目遣いをされるとさながら小動物のようだ。抱きしめてもふもふと頭を撫でたくなる。

「こんにちは、硫美ちゃん」

「……ええ」硫美が木訥と返事をした。「何か用?」

「うん、ちょっとね。実は見城曹司君を捜しているんだけど、どこにいるか知らない? まだ校内にはいるみたいなんだけど、教室にはいなくて」

「……どうして?」

「えっと、大事な用事があるんだよ」

「約束してた?」

「ううん。これから誘うつもり」

 硫美はすぐに答えずに、燐の方をじっと見つめた。カーボンセラミックの様に無機質な瞳だった。ちなみにカーボンセラミックという名だけあって主原料は炭素だが、生物に関係しないため無機物である。他にグラファイトやダイヤモンドなどがこの部類である。

「屋上にいるかもしれない」

「屋上?」燐は首を傾げた。「どうして?」

「馬鹿だから」

「あ、そう。って、そんな理由か!」

「しかも鈍くて不器用」

 けっこうな言い草だった。どうやら硫美と曹司はかなり親しいようだ、と燐は判断した。事前に聞いていたとおりだった。これは曹司を蒔田家に連れて行く際にも使えそうだった。

「蒔田さんと曹司はどんな関係?」

「ううん、それは難しいなあ」

 硫美が曹司を呼び捨てにしたので、燐は少し驚いた。しかし、呼び方の割には甘さがない。恋人同士という間柄ではないようだが、あまりに自然な呼び方だったので、逆に違和感があった。

「今のところ、知り合い未満だねっ」

「そう」

 硫美は興味を失ったように、燐から視線を外した。キャンバスに集中することにしたようだった。

「うん、じゃあね。教えてくれてありがと!」

 燐はそう言ったが、硫美からの返事はなかった。諦めて部屋から出て行くことにする。部活の邪魔をして悪かったかな、と燐は少し思った。

 燐は何枚か硫美の絵を見たことがある。残念ながら燃やされてしまったが、『吊られた少女』は凄い絵だと思っていた。さすが、コンクールで賞を獲るだけのことがある。

 燐は絵画を見るのが好きだ。イギリスに住んでいた頃に、旅行のたびに親に連れられて美術館に行っていた所為かもしれない。一番のお気に入りはチェコのプラハ城の中にある美術館である。あまり所蔵品は多くないが、綺麗な絵が多い。

 ところで、プラハと言えばトゥルデルニークである。チェコ名物のお菓子で、見た目はまるで巨大な竹輪のようでありながら、その実態はクッキーに近い。ヨックモックのくるくるに通じるものがある。外は気持ちよいさくさくなのに、中はふんわりとしっとりしている。そのギャップとほのかな甘さと来たら、まさに至福の一瞬。シナモンなどで味付けしてあることが多く、これも燐のお気に入りである。

 てくてくと階段を上る。硫美の口ぶりからして、曹司は時折屋上を利用している様子だった。燐も屋上は大好きなので時々遊びに行っている。しかし今までに誰とも会ったことがなかった。上手い具合にすれ違っていたのだろうか。

 燐は屋上マニアを自負している。観光に行くと、必ず高い建物に登ることにしている。ヨーロッパの場合は教会の塔であることが多い。狭い螺旋階段をぐるぐると上るだけでどきどきしてしまう。

 しかし一番のお気に入りはオペラ座だ。あれは何年前だったか、家族で行ったウィーンを思い出す。オペラを見たものの、当然歌詞はドイツ語であったため意味はさっぱり理解出来なかった。一応手元に英語の字幕が出るのだが、そっちに集中していると舞台がまったく見られない。デザインに問題があるのではないか、と訝しんだものだ。

 休憩時間中、煙草を吸いに出た硅について屋上に出たのだった。あの暗くてでもどこか落ち着く空間は、少し異様で。でもなんか格好良かった。

 ところでウィーンといえば、カフェ・ザッハのザッハ・トルテがとても美味しかったな、と思い出す。チョコレート風味たっぷりのくせにそんなに甘くなく、むしろちょっぴりビターでやや酸味がある。そしてついているクリームも甘すぎずふわふわで、まさにとろけるような食感とはこのことを言うのであろう。あんなに美味しいザッハトルテがこの世にあるのかと、感激したことが昨日のように思い出される。世界遺産に登録されても問題あるまい。

 金属の扉を開けて屋上に出る。思ったより風が強く、燐は髪を押さえた。それから体勢を立て直し、思い切り伸びをした。気持ちの良い風だった。いつもは朝ばかりだが、午後に来るのもどうして悪くない。

 そもそもの目的を思い出して燐は屋上を見渡した。探すまでもなく、男子生徒が一人、鞄を枕に横になっていた。どうやら昼寝をしているらしい。

 燐は足音を立てずに近寄った。鼾こそかいていないものの、すやすやと寝息を立てている。しゃがみ込んで寝顔を覗き込む。鼻提灯が出ていないのが不思議なくらいの、平和な表情だった。

 しかし、と燐は思った。ずいぶん大柄な男子だ。燐だって女子にしてはかなり身長が高い方だが、それより頭一つ分くらいは高そうだった。家の中にいたらとても邪魔であることは間違いない。

 燐は立ち上がって少し距離を取った。あまりに気持ちよさそうなので起こすのも忍びない。手すりにもたれかかりながら、ポケットから煙草を取り出して火を点ける。青空に向かって豪快に煙を吐き出した。

 恐らく、彼は硫美のことを待っているのだろう。事件があって、一人で下校させるのが心配なのではないだろうか。事件の経過から言って、本当なら部活中も一緒にいたいはずだが、それでは硫美の創作の邪魔になると考えたのであろう。

 ぷかぷかと煙を吸いながら空を見上げる。見事なまでの秋晴れだった。空が高く見えるほどの鮮やかな青さ。雲一つ無い空は、なんだか気持ち悪かった。飲み込まれそうなほどの、まっさらな空間。

「ん……」

 くぐもった声に目を向けると、曹司が顔を起こしていた。ぼんやりした表情で燐の方を見つめている。

 その顔に燐は笑いかけた。

「アークロイヤルだけど、吸う?」




     *




 燐は自分の部屋で着替えていた。先程までは硅の部屋で、曹司を交えて三人で話していたのだが、煙草を買ってこいと追い出されてしまった。

 どうやら自分には聞かせられない話をしたいらしい、と燐は判断している。あの用意周到・準備万端を旨とする硅が、万が一にも煙草を切らすなどとは到底考えられない。なのでちょっとごねてみたところ、見事にナボナをゲットした。

 可愛い乙女の嗜みとして、部屋の鍵をかけてから着替え始める。制服のスカーフを解き、セーラー服を脱ぎすてる。スカートを下ろしながら、先ほどの硅と曹司の会話について改めて考えてみる。

 まず意外だったのが、硅が硫美について非常に詳しかったことだ。家で硫美の話題を出した記憶はほとんど無いのに、どうして知っていたのだろうか。

 また、コンクールの絵について知っていたのも意外だった。硅は音楽は好きだが、絵画にはあまり興味が無いように見える。燐がプラハ城にいる間に硅がドヴォルザーク記念館に行き、ゴッホ美術館で絵を見ている頃にコンチェルト・ヘボウでクラシックを聴いているといった具合である。

 燐は白いパーカーとブルージーンズに着替えた。駅前のタバコ屋のおばちゃんとは兄のお遣いという名目のもとすっかり顔馴染みだが、いくらなんでも制服のままでは売ってくれないだろう。それからカートンを入れるためのトートバッグを持って出かけることにする。途中で警官などに見つかると面倒くさそうだからだ。

 隣に声をかけずに家を出る。外はもう陽が沈んでいた。宵闇の中を駅の方に向かって歩き出した。少し肌寒い町に、陽が短くなったことを実感する。

 とはいえ、ヨーロッパに比べると大したことはない。昔住んでいたイギリスでは、冬の間は三時くらいになると陽が落ちてしまう。朝も中々夜が明けない。逆に真夏には夜十時過ぎまで明るいのだが。

 ところでイギリスといえば、料理が不味いと評判だが、決してそんなことはない。お金を出してちゃんとした店に行けば、ちゃんと美味しい料理を食べられる。たとえば、ロンドンはオックスフォード・サーカスにあるフォートナム・メイソンのティールームで味わえる紅茶とケーキと言ったらもう格別である。ケーキやスコーンも他の国で食べるものに引けを取らない逸品だが、紅茶の美味しさときたらさすがの一言。薫り高く芳醇でかすかな苦みとほのかな甘さが絶妙なバランスで同居する奇蹟の味わいである。燐の中の紅茶という概念を一変させた、と言っても過言ではない。ポットで出てくるので、たっぷり飲めるのも良い。それに店自体がとってもお洒落で燐は大好きである。

 そういえばお土産の茶葉がどこかにあったな、と燐は思い出した。夕食後のデザートにでもお茶を淹れてナボナを食べようと決意する。

 うきうきと駅の方に向かって歩く。目当てのタバコ屋は駅の南口のすぐ近くにある。まるでブランド品のように煙草を陳列している、ちょっと変わった店である。店に入っていつものおばちゃんに、パラダイスティーのカートンと、少し迷ったがアークロイヤルのカートンもお願いする。一万円札で支払ってレシートとお釣りを受け取る。後は硅を何とか言いくるめれば済む話である。

 早歩きで家へと帰る。リビングに入ると、意外なことに硅がいた。

「曹司君は?」

「もう帰ったよ」

 パラダイスティーのカートンを渡しながら訊くと、簡潔な答えが返ってきた。

「二人でしか出来ない話はなんだったのかな?」

「やっぱり気づいていたな」硅は苦笑した。「だったら素直に席を外してくれよ」

「まあまあ」

 燐はさりげなくお釣りとレシートをテーブルに置いて立ち去ろうとする。

「待て」

 しかし、リビングから出る前に背後から硅の声がかかる。仕方なく燐は足を止めた。その背中に硅は続けた。

「二つ、頼みがある。聞いてくれればこのレシートは見なかったことにしてやろう」

 諦めて燐は振り向いた。硅は呆れた顔をしていた。

「お前は本当に、油断も隙もないな」

「兄貴ほどじゃないよ」燐は肩をすくめた。「あの煙草の箱、いつから用意してたのさ?」

「事件当日」

 硅はしれっと答えた。当然のこと、とでも言いたげだった。

「さて、頼み事だけど。まず曹司君と協力して事件の調査をすること。出来れば解決してくれ。彼はきっといろんな役に立つだろう」

「……は?」

 硅の指示が意外だったので、燐は素っ頓狂な声を上げた。

「何故そんなことを? って言うか、曹司君にも同じ事言ってたよね。なんで兄貴がそんなに事件のことを気にするのさ?」

「ふむ」硅は一つ頷いた。「面白そうだからってのはどうだ?」

「あー、はいはい」

 どうやらこれも燐には明かせない話のようだ。燐は追求するのは諦めて、考えを巡らせた。

 事件当日に話したときに、硅はやたら沢渡硫美のことを気にしていた。そして連れてくるように指示したのは硫美の従兄である見城曹司。硅は硫美に関係する何らかの事情を抱えていると見て、間違いはないだろう。

 しかしいくつか疑問が残る。硅と硫美の間にどんな関係も見えないのだ。一応妹である燐の同級生という細い線があるが、燐自身、それほど硫美と仲が良いわけではない。家に連れてきたことはおろか、話題にしたことすら記憶にない。なので燐経由ということはまずないだろう。かといって、それ以外に硅と硫美を結びつけるものがない。そもそも、燐以上に硅は硫美の事を知っているようだった。

 それに、どうして曹司を指名したのかもよく解らない。どうせなら本人を呼べば良さそうなものだが、わざわざ違うクラスの従兄を指名したのは何故だ。曹司は事件の当事者ですらない。硅にはなにか、硫美と直接顔を合わせたくない事情でもあるのだろうか。

「さて、もう一つだが」

 硅は唇の端を持ち上げて笑った。

「ただのお遣いだ」




     *




「山上せーんせっ」

 もじゃもじゃの後頭部を見つけて、燐は声をかけた。

 今日は朝から大忙しだった。クラスメイトのおしゃべりの輪に、あちこち参加して事件に関する情報を集めまくった。その結果、信憑性はともかく、死んだ三人に関する情報はかなり集まった。特に重要なのは、四時頃教室で三人と会った子がいたことだった。大きな収穫と言える。

 昼休みの廊下だった。職員室に向かう途中に、幸いなことに目的の人物が歩いていた。これで、職員室で呼び出すという苦行を避けることが出来る。振り向いた山上に、小走りに近づく。

「ああ、蒔田君」

 山上は燐の姿を認めると、弱々しく微笑んだ。その姿を見て、燐は一瞬ぎょっとした。事件の朝に見かけた姿とはまるで違っていた。すっかりやつれきって、目の下には酷い隈ができている。顔色も悪く、まるで重病人のようだった。

「えっと、お元気ですか?」

「ああ、うん。大丈夫だよ」

 燐が訊くと、山上は苦笑いを浮かべた。きっと、既に色んな人から同じことを訊かれているのだろう。とても大丈夫そうには見えなかったが、燐はこれ以上触れないことにした。

「ちょっとお話しても良いですか?」

「構わないけど……」

 山上は訝しそうに頷いた。燐はそれを見て、素早く考えを巡らせた。どこかゆっくり話を出来そうな場所はあっただろうか。別段、後ろ暗い話をするわけではないが、山上にだって立場というものがあろう。

「何の話だい?」

「えっと、事件に関する話なんですけど」

「……事件?」

「どこか人目の少ない場所は無いですかね?」

 燐の質問に、山上の目が警戒の色を帯びた。わざわざ二人きりで事件の話だなどと急に言われたら、事件の当事者として看過できないだろう。

「……進路指導室なら」

「じゃあ、そこでお願いします」

 山上は来た道を戻り出す。その横に燐は並んだ。ゆっくりと階段を上り、進路指導室に向かう。燐は三年だし、進路指導を受けていてもおかしくはない。相手が担任でも部活の顧問でも無いのが、少し不自然かも知れないが。

 山上が扉の脇のプレートを『使用中』に変える。それから部屋の中に入っていった。燐も後に続く。

 燐は初めて入る部屋だった。本棚に受験案内や過去問題集がぎっしりと詰まっている。海外の大学を受けるなどという奇特な生徒はそうそういないらしく、進路指導は半ば放置されている燐である。そちらの方が気楽で良いし、いざとなれば両親や硅、そしてイギリス時代の友人も力になってくれるだろう。

「それで、事件の話というのは何かな?」

 向かい合って椅子に座る。山上が、少し落ち着かない素振りで切り出した。

「えっと、ですね」

 どうやって聞き出したものか、と燐は考えを巡らせた。山上は現場の管理者であって、事件に関する責任も重い。各所から色々な突き上げを受けていると考えるのが普通だろう。そんな状況で一生徒に簡単に情報を話してくれるとは思えなかった。

 しかし、逆に事情聴取なども頻繁に受けているはずだ。警察の情報なども小耳に挟んでいるかもしれない。

「ううん、何て言ったら良いですかね」

 燐は頭の中で聞き出したいことを整理した。絶対に必要なのは現場の状況だ。噂になっているしニュースなどでも扱われていたので、最低限のことは燐も知っている。しかし詳しい状況は当事者にしか判るまい。どういう経緯で発見にまで至ったのか、一度確認しておきたい。

 もう一つ。あの美術室には鍵がかかっていた。蹴破って中に入った場面は覚えている。しかし、あの朝鍵が教卓の上に置かれていたのを燐は見た。つまり鍵を閉めるのにあれは使えなかったはずだ。また、代わりの鍵がおいそれと出せる状況でもなかった、と判断出来る。その辺りの管理状況なども聞いておくべきだろう。

 最低限その二点は確認しておきたい。それ以外に、燃えていた絵についても何か情報があれば知っておきたかった。

「実はあの朝、私も偶然居合わせて、美術室に入ったんですけど」

「そうか」山上は少し目を伏せた。「それは、ショッキングだったろう」

「あ、いえ。まあ、たしかに衝撃的な光景ではありましたけど」

 あの日見た光景は、今でも鮮烈に思い出せる。燃えさかる絵画の向こう。天井から吊られた三人のクラスメイト。昨日まで同じ部屋で一緒に笑いあっていた友人が、変わり果てた姿でぶらぶら揺れていた。その異様な光景は、どこか芸術的ですらあった。

「あのとき、ドアを蹴破ってましたよね?」

「ああ、うん」

「あんなに慌てていたのは、絵が燃えていたからですか?」

「そうだよ」

 山上は小さく頷いた。

「誰が見つけたんです? だって、鍵がかかっていて、中には入れなかったのに」

「沢渡君だよ。登校してすぐ、画材を美術室に置きに行ったらしい。それで見つけてくれた」

「ええと」燐は首を傾げた。「硫美ちゃんは、美術室の鍵を持ってたんですか?」

「……え?」

 山上は、一瞬虚を突かれた様な顔をした。

「……君は、どうしてそんなことを気にしてるんだい?」

「だって、鍵が開いていないから室内に入れないですよね? 毎朝開けている人がいるはずです」

「あのね、蒔田君」山上は真面目な顔になった。「興味本位でそういうことを聞いているなら……」

「興味本位じゃありません」

 燐はきっぱりと言った。

「クラスメイトに関わることです。硫美ちゃんのことも心配している人がたくさんいます」

 嘘は一つも言わなかった。相手を騙すときには、嘘を言わない方が良い。真実を相手に曲解させるように仕向けられればベストだ。

「やっぱり、硫美ちゃんが一番ショックだと思うんです。部活で使ってる部屋で、親友があんなことになっちゃって。少しでも、彼女と近い立場になって、寄り添ってあげたいんです」

「蒔田君……」

 山上がつぶやいた。どうやら勢いだけの燐の友情溢れる言葉に騙されてくれたようだった。

 燐としては、硫美が心配だというのは嘘ではない。硅も曹司も心配しているようだし、クラスメイトとして放っておきたくない部分もある。肝心の硫美自身が大してショックを受けた様子でもないのが、気になるところであるが。

「解ったよ。話そう。言いふらしちゃ駄目だよ」

 山上はそう言って、しばらく目を閉じた。

「沢渡君は鍵を持っていないよ。美術室の鍵は一つしかないんだ。実はね、美術室の鍵は普段からかかっていなかったんだ」

「普段から?」

「うん。取り扱いに注意しないといけない画材なんかもあるし、本当はしっかり施錠しないといけないんだけどね。恥ずかしながら面倒でね。いつも開けっ放しだったんだ。盗まれるようなものも無いし……。美術部の生徒は鍵がかかっていないことをみんな知っていた。だから沢渡君は、鍵が開いていると思って向かったんだ」

「………なるほど」

 燐はじっくりと頷いた。これは山上の口も重くなるというものだ。管理責任の放棄も良いところだ。

「でも鍵が閉まっていてね。沢渡君もおかしいと思ったんだろう。窓から覗いたら、絵が燃えているのが見えた。それで職員室の僕のところまで走ってきたんだ」

 山上はそれから、ううん、と考えた。

「鍵が閉まっているとは、僕も夢にも思わなかったからね。鍵がどこにあるか判らなかった。少なくとも僕の机や、職員室のキーケースの中には見当たらなかった。仕方が無いので、とりあえず美術室に駆け付けた。そうしたら、やっぱり沢渡君の言うとおり、絵が燃えている。慌てて近くにいた生徒に声をかけて蹴破って貰った」

「あ、はい」燐は頷いた。「私が見たのはそのあたりからです」

「そうか……」

 山上は項垂れるように頷いた。

 燐は頭の中で聞いた情報を整理した。普段から開けっ放しだったとは意外だったが、それ以外はほとんど予想の範疇だった。

「あのとき、教卓の上に鍵がありましたよね?」

「ああ。よく見てたね。あれが普段使ってた鍵だ」

「でも、扉は錠が下りていた。他の鍵を使って鍵をかけたんでしょうか?」

「いや」山上は首を振った。「美術室の鍵は一つしかない。マスターキーは事務室にあったけど、宿直の人がしっかり管理していた、とのことだ」

「……え?」

 燐は思わず声を上げた。

「じゃあ、どうやって鍵をかけたんです?」

「判らないんだよ。警察も同じことを気にしていた」

 山上は疲れた顔でそう言った。もう、自分で考えるのが嫌になってしまったようだった。それでも燐は重ねて訊いた。

「美術室の鍵は室内からなら、自由にかけられますよね?」

「ああ」

「なら、中からかけたあと、他の場所から出たんですか。窓かなぁ……」

「いや。窓も全部鍵がかかっていた。これは外からは操作できないんだ」

 しかし山上はまた首を振った。きっとこれも警察から何度も確認されたのだろう。確信に満ちた口調だった。

「じゃあ、他に美術室から出られる経路はありますか?」

「美術準備室への扉がある。だけどそっちも鍵がかかっていた。そっちには生徒の個人情報なんかが置いてあるからね。これは鍵がないとどちらの部屋からも施錠できない」

「その鍵は普段どこに?」

「僕が肌身離さず持ってる」山上はばつが悪そうに付け加えた。「本当は持って帰っちゃいけないんだけど、ね」

 むむ、と燐は首を捻った。これでは、殺害して火を点けた犯人が外に出られない。外から鍵が掛けられない以上、扉以外の通路から脱出したと考えるべきだろうか。

「あの、気を悪くしないで欲しいんですけど」

「うん?」

「事件の日、先生はどちらにいらっしゃいました?」

 燐の質問に、山上は苦笑いを浮かべた。

「うん、考えていることは解るけどね。僕は委員会に出席していた。各校の美術教師が集まる会議だね。八時くらいまでやっていた。僕はその後の打ち上げまで出席していたよ。その後はタクシーで家に帰ったけど。午前様になってしまって、家内に怒られたよ」

「すいません、変なこと訊いて」

「いや。警察にも同じことを尋ねられたしね。幸いなことに他の出席者やタクシーの運転手が証言してくれたみたいで、僕の疑いは晴れたようだ。どうもね、死亡推定時刻っていうのかな。犯行の時間は夕方か、夜でもそんなに遅くないような口ぶりだった」

「委員会のときに、こっそり鍵を盗まれて、いつの間にか戻されていた可能性はありますか?」

「へ? ……ああ、そういうこと。無いと思うなぁ。家の鍵とかと一緒にキーケースに入れてあるし。そもそも僕が持ち歩いていることなんて、美術部員ですら知らないよ」

 山上は腕を組んでそう言った。どうやら準備室を経由した可能性は低いようだ、と燐は判断した。

「ところで、その委員会って何時からだったんですか?」

「四時半からだね。だから前日は美術部は休みだった。まあ、鍵は開いていたから、勝手に入って描くことは出来ただろうけどね。そこまでして絵を描きたいという熱心な生徒は、残念ながらいないけれど」

 と、いうことは、と燐は計算した。最後の授業が終わるのが午後三時二十分。それ以降、美術室には基本的に誰もいなかったことになる。硫美が発見したのが翌朝八時。犯行時刻はとても絞りきれない。

「それとね。六時くらいに美術室に誰もいなかった、と証言している生徒が一人いる」

 燐の表情から、何を考えているのか読み取ったのだろう、山上が神妙な顔でそう言った。

「え?」

「オーケストラ部の二年生でね。小池君だったかな。部活帰りに覗いてみたが、誰もいなかった、と」

「……へえ」

 小池という名前に、燐は覚えがあった。たしか体育祭実行委員で一緒になったことがある。燐のどこを気に入ったのか、妙に懐かれていた。

 小池に話を聞いておこう、と燐は覚えておくことにした。多分、直接行けば、簡単に喋ってくれるだろう。本人に確認しておくにこしたことはない。

「ところで、燃えていた絵なんですけど」

「うん?」

「あれは硫美ちゃんの絵でしたよね?」

 燐が話題を変えると、山上は小さく頷いた。

「うん、『吊られた少女』だね。金賞を獲った……。どうしてあんなに良い絵を燃やそうなんて思ったのかな」

 至極残念そうに山上は言った。やはり、あれは美術教師から見ても傑作だったようだ。

「あれって、油絵でしたよね? 油絵ってよく燃えるんですか?」

「油性だからもちろん。それに絵だけじゃなく絵の具も燃やされていたようだ。火気厳禁の画材はかなり多いからね。燃料の塊みたいなもんだ。絵の具に限らず、薄めるための乾性油や揮発油なんかもあるし」

「えっと、なんで燃やしたんだと思います?」

「僕なんかには全然想像もつかないよ。芸術に対する冒涜だとしか思えない」

 山上はそう言って、困ったように笑った。

 他に何か訊くことはあったか、と燐は考えた。現場の状況もタイムラインも、絵についても訊いた。とりあえず、必要な情報は集めたように思う。

「どうも、色々ありがとうございました」

「いいや」山上は首を振った。「沢渡君の力になってやって欲しい。でも、危ないことはしないようにね」

「はい」

 燐は真面目な顔を作って頷いた。先に立って進路指導室を出る。山上は足早に職員室の方に戻っていった。

 それにしても。燐は思った。渋っていた割には、山上はあっさりと口を割った。しかも、結構ぺらぺらと細かい情報まで。

 もしかしたら誰かに聞いて欲しかったのかも知れない。自分一人の裡に溜め込んでいるよりは、声に出すことで多少なりとも気が楽になったのかも。そんなことを燐は考えた。美術教師より理容師の方が、山上には向いているような気がした。

 燐は腕時計を見下ろした。昼休みは後十五分くらい残っている。小池に話を聞きに行くと、昼食を摂っている時間がない。聞きながら食べるという手段はあるにはある。しかしこの時間だと、小池は既に食べ終わっていると考えるべきだ。そうなると、一人だけむしゃむしゃ食べながら質問を繰り返すという、少々みっともない姿になりそうだ。可愛い乙女の嗜みとして、それはいかがなものか、と燐は判断した。しかしご飯を食べてから行くと、昼休みが終わってしまう。

 燐は今日の時間割を思い出そうとした。午後の授業があるはずだが、科目が何だか思い出せない。ということはきっと、どうでもいい授業なのだろう。午後はサボることにした。燐の得意技である。可愛い乙女のお茶目、と今命名した。なんだか韻を踏んでいて良い感じである。

 二年の教室に足早に向かう。どのクラスか覚えていなかったので、適当な女子生徒を捕まえて、聞いてみたら26だということが判明した。

「小池ちゃんいるー?」

 教室の中を覗き込んで呼んでみる。知り合いだし女子同士なので気楽なものだ。窓際で友人達と固まっておしゃべりをしていた小池がとことことやってくる。

「蒔田先輩っ!」

「や、お久し。今、大丈夫?」

「は、はい!」

 妙に気合いの入った返事をする小池を引き連れて階段の踊り場までやってくる。屋上へと続く通路で、滅多に人はやってこない。

「さてさて」

 燐は小池の方を振り向いた。

「事件の話を聞きたいんだけど、良いかな?」

「え? あ、はい」

 戸惑ったように小池は頷いた。話が急すぎたかな、と燐は少し反省した。

「や、ちょっとね。山上先生から小池ちゃんがあの日、美術室を見てたって話を聞いてさ。ちょっと確認したいなぁ、と思ったのだよ」

「解りました。何でも聞いて下さい」

 こくこくと頷く小池を見て、燐は可愛いなぁ、と思った。

「ん、助かるよ。それで実際のところ、何を見たの?」

「いえ、何も」小池は困ったように笑った。「あの、死体が見つかった前の日に美術室を覗いたんですけど、誰もいなかったというだけなんですけど」

「それって何時くらい?」

「六時くらいです。部活上がりなんで」

「小池ちゃんはどうして美術部を覗いたの?」

 燐が重ねて訊くと、小池は少し恥ずかしそうに俯いた。

「部活中に、環先輩の声がしたような気がしたんです。でも、部活を引退してるし、音楽室にはまず来てくれないから。もしかしたら、美術部の早坂先輩と何かしてるんじゃないかって思って、覗いてみたんです。誰もいなかったですけど」

「ああ、なるほど」

 燐は環と早坂の顔を思い浮かべた。たしかに二人はオーケストラ部と美術部だった。環は受験勉強の真っ最中だが、早坂は推薦を勝ち取ったはずだ。硫美と一緒に美術部に出ている可能性は有り得たし、仲の良い環が息抜きがてら遊びに行くこともあるだろう。

「何か、普段の美術室に比べて、おかしなことってあった?」

「そうですね……。部活に誰もいなかった、ことくらいしか。普段は美術部の方が上がるの遅いんで、誰かしらいるんですけど」

「ああ、それはね。その日顧問がいなくて部活がお休みだったらしいよ」

「そうなんですか」

 ううん、と小池はもう一度考えた。

「すいません。思い付きません。私、音楽選択なんで、美術室ってほとんど入ったことなくて」

「そっか。そうだよねぇ」燐は笑顔を作った。「小池ちゃんは、環ちゃんと仲良かったんだっけ?」

「はい……。部活で凄くお世話になっていて。楽器も同じチェロでしたし」

 小池の顔が暗くなる。話題を間違ったかな、と燐は少し慌てた。その瞬間、小池はきっと顔を上げた。

「私、環先輩と蒔田先輩に憧れてるんです!」

「へ?」

 虚を突かれて、燐は思わず間の抜けた声を上げた。

「どうしたら、蒔田先輩みたいになれますか?」

「私みたいに……?」

 燐はとりあえず環のことを思い浮かべた。自分との共通点を探してみる。まず、長身である。燐ほどではないが、環も一六五センチくらいはあったはずだ。可愛げが無いとも言える。つり目でもあった。可愛さの欠片もない。

「えっと、どこが良いんだろう?」

「だって、お二人とも格好良いじゃないですか!」

「そうかなぁ……」

 燐は釈然としないまま、首を傾げた。

「そうだ。ポニーテールの結び方なら教えてあげるよ?」

 共通点をもう一つ思い付いて、燐はそう提案した。

「そこじゃないです……。っていうか、知ってます、そのくらい」

 燐はしげしげと小池の方を見下ろした。身長は低めで、少し丸顔。どちらかと言えば、環よりは硫美の雰囲気に近い。

「ううん、私みたいにって言われてもなぁ。よく食べてよく寝て良くサボれ、くらいとしか」

「サボれ?」

「うん。今日私、まだお昼食べてないんだっ。だから午後はお休みしてお昼食べてお昼寝タイム」

「はあ」小池は不抜けた顔で頷いた。「今度、試してみます」

 釈然としなかったが、小池が納得してくれたようなので、燐はこの話題を終えることにした。幸いなことに、小池も少し元気を取り戻したようだった。

 今日の目的をきちんと思い出す。事件に関することだった。

「えっと、それでね。話を戻すんだけど」

「あ、はい」

「何か、環ちゃん関係で心当たり無いかな。犯人とか……」

「犯人?」小池はきょとんとした。「そんなこと言われても……。何も見てませんし」

「いや、そうじゃなくてね? 確証が無くても良いの。環ちゃんが誰かに恨まれてたとか、そういうのない?」

「恨まれて……は、ないと思いますけど。でも、そういえば、ここ最近、誰かとちょっと険悪になっていたような」

「誰か?」

「あ、いえ。電話してるのを小耳に挟んだだけなんで、相手が誰かは判りません。だけど、多分、恋愛関係だと思います」

「……ふうん」燐はあごに手をやった。「色恋沙汰かぁ。でも環ちゃんには彼氏はいなかったよね」

「あ、はい」

「ちなみに小池ちゃんは?」

「い、いませんよ……」

 溜息混じりに小池は答えた。悩みは深そうだった。しかし、小池が尊敬しているらしき、環も燐も恋人がいないので、ある意味では意に沿っているとも言える。

「そ。解った」

 その時、予鈴が鳴った。昼休みが終わるまで、後五分。

「色々教えてくれて、ありがとうね」

「あ、いえ。お役に立てたなら良かったです」

 小池は頭を下げて、階段を下りていった。燐はそれをのんびりと見送る。さて、お弁当はどこで食べようか、ちょうど良いからこのまま屋上に、と思ったところで気がついた。お弁当を教室に置きっぱなしだ。午後の授業が始まるまでに回収しないといけない。

 燐は慌てて教室目指して駆けだした。




     *




「ほら、入れないじゃないか」

 曹司は溜息混じりに言った。

 燐は曹司とともに、第一美術室の前に立っていた。屋上で昼寝をしたり煙草を吸ったり事件のことを考えたりしていたら、ばったり出会って情報を交換した後、事件現場を調査することにしたのだった。

 目の前の扉は鎖によって繋がれている。事件当日、蹴破られた所為で扉の錠は壊れていた。そのため、当面の処置として扉の脇に杭が打たれ、それとドアノブを鎖で結ぶことで施錠してあった。

 しかし鎖を固定している南京錠はその辺の百円ショップで売られているような粗末な物だった。すこし力を加えれば簡単に壊せそうだ。そもそも南京錠は構造上、掛け金を梃子の原理で引き抜かれると、意外と簡単に壊れてしまう。同様の事例としては、ノートパソコン盗難防止用ワイヤーはハサミで簡単に切れる、などがある。実際の強度よりも、防犯がしてあるというポーズが大事なのであろう。

「ふふふ」

 今からすることを考えると、ドキドキしてしまう。背徳的な悦びとでも言おうか。いけないことをしているという意識が興奮を高めるのだ。硅の分のケーキをつまみ食いするのに、ちょっと似ている。

「じゃーん!」

 燐はかけ声とともに、鞄からバールを取り出した。家から持ってきたのだ。結構重かった。

「なんだそれは」

「バールのようなもののようなもの!」

「バールそのものだ!」

 曹司の突っ込みを無視して、燐は南京錠の掛け金にバールの先端を突っ込んだ。そのまま体重をかける。しかし力を入れる必要もなかった。少し抵抗を感じたかと思うと、すぐに掛け金が外れた。決して体重が重いわけではない。可愛い乙女の嗜みとして、ぶくぶく太るわけにはいかないのである。

「ふっふっふ。君、こんなもので私の歩みを止めようなどまだまだ甘いのだよ」

「そんな無茶なことをすると普通は誰も思わねーよ」

「そうでもないよ。昔、空港で少し目を離した隙に……。あの頃は私も若かったなぁ」

 あきれ顔の曹司に向かって、燐は記憶を捏造した。そんな迂闊な真似をしたことはない。ちなみにスーツケースも安物はファスナーにマイナスドライバを突っ込むと開いてしまったりする。ソフトケースの場合はナイフで切り裂く不届き者もいるので、治安がよろしくない国に行く際には注意が必要だ。

 そんな防犯講座を脳内で展開しながら鎖を一巻きずつに解いていく。金属製で重かったが、すぐに扉が開いた。

 燐は部屋の中に入った。美術室特有の匂いが鼻を刺す。あまり好きな香りではなかった。

 とりあえず、扉を調べることにする。事件当日蹴り開けられたはずだが、扉はそれほど傷んでいなかった。それでも開いたのは、壁の方の金具がはじけ飛んだからのようだ。デッドボルトが収納されるべき位置が、まるごと空間になってしまっている。よく見ると、線状の深い傷が穴の表面にいくつかついていた。

 扉から離れて、美術室の中を確認する。まず入り口の近くに白い丸。これは硫美の絵が燃えていた場所だ。部屋の奥に三つの丸。こちらは死体がぶら下がっていた箇所であろう。

 燐は考えをまとめがてら、曹司に向かって話し出した。

「さて、遺体発見を当日としよう。登校した硫美ちゃんが美術室に行くと絵が燃えているのを発見。でも鍵がかかっていたんで職員室に行って美術の山上先生に報告した。でも鍵が見つからなかったから、蹴破って突入。そしたら死体が見つかった」

「ああ」

「実はね、私は蹴破るところに居合わせたのだよ。参加はしていなくて、見ていただけだったけどね。んで、美術室にも入って死体を見てしまったわけなんだけど……」

「首つりの上に胸にペインティングナイフ、だろ」

「うん。いやはや、衝撃的な光景でしたよ。まあ、もうみんなそれは知ってると思うんだけど」

 声に少し愁いが混じる。たしかにショッキングな出来事だったし、被害者はクラスメイトだ。思うところはいくらでもある。しかし、それを意識の外に締めだして、燐は続けた。

「実はね、そのとき教卓の上に美術室の鍵が置いてあったんだよ」

「……え?」

 燐は教卓の上を指し示した。あのとき、間違いなく鍵がここにあった。それはこの目でしっかり確認している。

「第一美術室の鍵は一つだけ。マスターキーはしっかり管理されていて、事件中に持ち出されていない。つまり、犯行後に扉から出て、あの部屋の鍵を外からかけるのは不可能なんだ」

「鍵を部屋の中からかけた後、扉じゃなくて窓から出たとか」

「窓も内側から鍵がかかってた。これは外から操作出来ないから、やっぱり出た後に施錠できない」

 燐は窓に近づいた。鍵を開けて、外に身を乗り出してみる。下を見るがひさしなどはなにもない。次は上を見てみるが、最上階なので、すぐに屋上になっているようだった。手すりがわずかに覗いている。

「どちらにせよ、ここから脱出するのは難しいかなぁ」

「まあ、ロープでもあれば不可能でもないんだろうけどな。でもそんな不自由な手段で、かつ窓の鍵をかけるような操作は難しそうだ。火を点けてから時間的余裕もなかっただろうしな」

 同じように身を乗り出した曹司は言った。どうやら彼も屋上の手すりに気がついたようだった。あそこにならロープなども結びつけられるだろう。

「じゃあ犯人はどうやって出たんだ?」

「さあ。謎だね」

 曹司の問いに、燐は肩をすくめた。それが判れば苦労はない。もっとも手段が判ったところで、誰がやったのかが判らなければ意味はない。ついでに、何故密室にしたのかもよく判らない。閉まっていれば誰にも出来ないが、開いていれば誰にでも出来るのである。自分が容疑者として疑われた場合、その二つの状況の間に差はない。

 燐は今度は三つ並んだ白丸に近づいた。しゃがみ込んで観察してみる。床には様々な色の染みが点々としていた。

「血痕なんだか絵の具の痕なんだか、判らないね、これ」

「美術室だからな。血痕だとしたって、手がかりになるとも思えないが。どうせ犯行現場はここなんだろうし」

「まあ、そうだねぇ。私たちに科学的な分析が出来るわけでもなし。警察の人は大変だっただろうなぁ、これ」

 燐は事件当日を思い出す。吊された少女たちの胸は赤く染まっていたように思う。しかしそれが床にまで達していたかどうかは覚えていなかった。

 燐は立ち上がって膝を叩いた。すると曹司が急に視線を逸らした。その横顔が少し赤くなっている。

 それを見て、燐は急に恥ずかしくなった。可愛い乙女の嗜みが欠けていたかもしれない。誤魔化すために、軽い口調で言う。

「意外と純情だねぇ、君は。可愛い彼女もいるというのに」

「いねーよ」

「はて。硫美ちゃんは違うのかい?」

「ただの従妹だよ」

「ただの、ねぇ。それはそれは。まあ良いけど」

 燐は二人の関係を少し考えた。彼女でないというなら彼女ではないのだろう。とはいえ、むしろそれ以上の信頼関係が結ばれているような気がしないでもない。

 燐は窓側を通って教卓の方に戻った。美術室だけあって、様々な道具が棚に収められている。絵の具や石膏製の胸像はもちろん、彫刻刀や鑿と木槌、ニスや紙ヤスリなどもあった。日曜大工には最適だった。ちなみにバールはなかった。

「ところで、被害者はいつからぶらさがっていたんだ?」

 曹司が聞いてくる。この男、ほとんど自分では調べていないのではなかろうか、と燐は少し憤慨した。自分はあんなに噂話を収集したというのに、この態度はいかがなものか。

「さあ? 判っている限り、最後に三人が目撃されたのは事件前日に放課後の教室で勉強だか駄弁ってだかしているところだね」

 燐は午前中、クラスメイトたちから聞き集めた話を披露した。

「午後四時くらいだってさ。この三人は放課後、予備校の授業が始まるまでの間、教室に残ってみんなで勉強するのが常だったらしい。ちなみに予備校は全員無断欠席。四時頃に目撃された後は、一切目撃情報無しだね。鞄とかが美術室にあったから、多分外に出ていないんじゃないかと」

「帰って来なくて、親は心配しなかったのか?」

「もちろんしたみたいだけど。でも、この三人って時々突発的に、相互宅にお泊まりしてたみたいだからね。今回もそれじゃないかと思っていたみたい。まあ、そのお泊まりの何割が本当に友人宅だったのかは知らないけどっ」

 燐が冗談交じりにそう言うと、曹司はげんなりとした顔をした。ごにょ、と何かを言ったが、聞き取れなかった。

 しかし、と燐は思った。曹司の言いたいことも解る。口さがないクラスメイトもいたものだ。ここぞとばかりに、今まで溜め込んでいた噂話が一斉に放出された感がある。

「ところで、そんな情報どこから仕入れてくるんだ?」

「ん? 別に何も。女の子とは呼吸するようにおしゃべりする生き物だからねぇ」なはは、と燐は笑った。「ちょっと雑談してればいくらでも。今一番旬のトピックだしね」

 特に聞き出そうとしなくても、少し話題を振れば勝手に話し始めてくれる。誰もが事件について喋りたくて仕方がないようだった。中には真偽のほどが怪しい情報も山とあるのが問題ではあるが。

「それで美術室についてだけど。前日は顧問の山上先生が所用で不在だったので部活はお休みだったんだ。だから授業が終わった後は、特に誰もいなかった模様。鍵はかかっていなかった、と思われるけど、これはいつも通り。本当は毎日施錠しないといけなかったらしいけどね。先生が面倒くさがってやってなかったみたい。あ、美術準備室は二つ扉があるけど、こっちは廊下の方も美術室に繋がっている方もしっかり鍵がかかっていたそうな」

 美術準備室の方を指して燐は言った。曹司が頷いたのを確認して、話を続ける。

「オーケストラ部員の二年生で、美術室に誰もいなかった、って言ってる人がいたけどね。部活終わりの六時頃」

「ふうん」

「それ以外、美術室に関する証言は無し。だから犯行時刻は前日の午後六時から、当日の午前八時の間だね」

 時間を整理する。しかし夜の学校など宿直の主事以外誰ももいないし、生徒一人一人のアリバイを調べるわけにもいかない。あまり意味は無さそうだった。

「だけど、絵が燃やされてるだろ。火をつけた瞬間には美術室にいたはずだ」

「そうなるね。なんでそんなことしたのかは知らないけど。まあ、殺してすぐ火を点けたとも限らないからさ」

「そうか? ぐずぐず現場に残ってる意味もないだろ?」

 ううん、と燐は首を傾げた。被害者が死んでから、吊して胸にナイフを刺すための時間は最低限必要なはずだった。誰かに見つかりそうな状況ならばそんなことをしている暇はないだろう。つまり、朝早くということは考えづらい。

「それを言うなら火を点ける理由も思い当たらない。でも、一つの謎として、犯人がどうやって部屋の鍵をかけたまま美術室から出たのか、という問題がある。もしかしたら部屋から脱出するために火を点けるのを利用したのかも」

 燐は事件の日以来、考え続けていた推論を口にした。

「小火騒ぎを起こして、その混乱に乗じて逃げたのかもしれない。つまり、誰かが発見して大騒ぎになるのを期待した。だから、生徒が登校してくる時間までじっと待っていた」

「お前、現場にいたんじゃないのか?」

「いたよ。でも、正直そんなことにまで気が回ってなかった。誰があの場にいたのかなんて、完璧に覚えている人がいるとは到底思えない。美術室に誰もいない瞬間がないとも言い切れない」

 現状、これ以上に合理的な放火の理由は思いつかない。どう考えても、火を点けるだけの動機が見つからないのだ。愉快犯で燃やしたとか、ただ硫美が気に入らなかったからだと、もう絞りようが無くなってくるので、考えるだけ無駄だ。

「まあ、それはそうかも知れないが……」

 しかし曹司は納得いかなかったようだ。首を捻っている。それでも一応考慮する気になったのか、教卓の下など覗き込んでいる。たしかに、部屋の中に隠れられるとしたら、そこくらいしかなかった。

 すると、彼は何かを見つけたようだった。教卓の天板から何かを拾い上げる。そしてそれを見たまま固まってしまった。

「それは?」

 燐は問いかける。しかし曹司は答えなかった。ただじっとその物体を見つめている。仕方がないので、燐は曹司の手元を覗き込んだ。小さな紙の箱のようだった。

「マッチ箱?」

「ああ。だけど、これ、イーグル&チャイルドのだ……」

 聞き慣れた名前だった。オックスフォードにその名前の由緒正しいパブがある。元祖文豪酒場として有名な店である。妙に細長い店内にはどこか特別な雰囲気に満ち溢れていて、なぜか敬虔な気持ちにさせられる名店だ。しかし、遥か遠いアルビオンのマッチがあるはずもないだろう。そして曹司がそれを見分けられるとも思えない。

「何それ?」

 聞き返すと、曹司はようやく燐の方を向いた。

「硫美の家のカフェ」

 沢渡家の家業だと、燐はようやく思い至った。そういえば、以前家は喫茶店だとどこかで聞いた覚えがある。

「あらら。また硫美ちゃんに繋がるような証拠物件が出てきちゃったねぇ」

 燐は半笑いで言った。

「犯人が自分の家のマッチを現場に落としていくわけないだろ!」

 すると曹司は少し声を荒げて言い返してくる。客観的な判断とは言い難い意見だと燐は思った。しかし無理もないか、と納得した。自分の従妹が人殺し扱いでは堪らないだろう。

「まあまあ。それはたしかにそうなんだけどね。でも、硫美ちゃんとまったく関係が無い人がそのマッチ箱を落としていく可能性は、ほとんどないんじゃないかい?」

 宥めるように燐は言う。言いながら、やはり事件は硫美に関係しているらしい、と思っていた。幾らなんでも状況証拠が多すぎる。

「ちょっと見せて貰って良い?」

 手を差し出すと、不満そうに曹司はマッチ箱を渡してくれた。

 しげしげとそれを眺める。箱の表には店の名前がおどろおどろしくデザインされていた。喫茶店の広告としてこれで良いのか、と燐は少し疑問に思った。裏側には電話番号と住所だけ。しかし目につくのは箱のデザインではなかった。箱のうち、一面だけが切り取られている。しかも、横薬の部分だ。

 マッチは擦れば摩擦熱で火が点くと考えている人が多いが、それは大きな間違いだ。現在日本で市販されているマッチは、箱の横薬で擦らないとまず火が点かない。あの色が変わっている部分は、摩擦を高めているだけではなく、横薬と言って化学物質が染みこませてある。主原料は赤燐だ。これがマッチ先端の硫黄化合物と反応することで、発火点を大きく下げて火がつくようになっているのである。

 赤燐は元素である燐の同素体の一つだ。常温で固体。四〇〇度程度で昇華する。発火点は二五〇度前後。人体に有毒ではあるが、それほど強力ではない。赤燐の他には白燐や黒燐といった同素体が存在する。自分の名前と一緒なのでつい覚えてしまっている。

 マッチ箱を開けてみる。中には一本のマッチも残っていなかった。ただ白い紙の表面が続いているだけだ。

「まあ、これで火を点けたと考えるのが妥当かな。愛煙家でもない限りライターとかマッチなんてそうそう持ち歩いていないだろうし」

「そういえば、山上は愛煙家だったな」

 曹司が待ち構えていたように言う。燐は山上が喫煙者かどうか知らなかったので、曖昧に頷いた。

「そう。でも彼は委員会に出席していて午前様だったとか。警察の話から推定・死亡推定時刻は夕方か、夜でも早くだそうな」

「ふうん。……でもライターなりマッチなりを部屋に放置していた可能性はある」

「あるねぇ」

 燐は曹司の方をじっと見つめた。どうにも彼には恣意的な判断が多い気がする。硫美を庇おうという意識が過剰なのだ。

 燐はもう一度美術室の中をきょろきょろと見回した。脱出経路や犯人が隠れられそうな場所をもう一度探してみる。しかし、今までに挙げた以外に、有力な仮説は思いつかなかった。

「入ってはみたものの、あんまり大発見は無かったねぇ」

 曹司が不満そうに頷く。その顔に燐は問いかけた。

「他に何か事件について知りたいことは?」

「そうだな。被害者の死因ってどっちなんだ? 首つりなのか、胸にナイフなのか」

「うん。どうも絞殺らしい。ただ、テレビの報道によると、絞殺された後に、改めて吊られんだってさ。それで最後に胸にペインティングナイフ」

 燐は硅から聞いた話を思い出した。彼は夕方のワイドショーでこれを見たらしい。さすがは引きこもりである。こんな話がマスメディアに流れている、ということは捜査があまり進展していないと考えて良いだろう。

 曹司はそれを聞いて、天井を見上げた。燐も同じように見上げる。天井付近に梁がかかっている。ここに縄をかけたのだろう。ところで、硫美が『吊られた少女』を描いたとき、ここに早坂良子も吊られたのだろうか、と燐は疑問に思った。仮に部活中なら、少々シュールな光景である。

 ところで、どうしてこの部屋には梁があるのだろう。燐は疑問に思った。隣の音楽室にはそんなものはない。美術の展示や創作のために、わざわざついているのだろうか。

「ここに人を無理矢理引っかけるのは難しそうだな」

「そうだね。最初から縄を上に通しておいたとかかな。被害者の首を通した後、全体重をかけて引っ張り上げればなんとか。相手が重くなければだけどね。そういえば被害者はみんな軽そうだね。少し丸っこい子なら女子でも出来そうかな」

 燐は死んだ三人の体型を思い返した。全員、体重はあまり重く無さそうだった。環はスレンダーだし、加地と早坂は小柄だ。

 燐はため息をついた。事件に関して不可解なことが多すぎる。

 判らないことが多いのは仕方がない。三人も殺されるという異常事態なのだ。しかし現象に対して理由が想像もつかない、という状況はいただけなかった。

 気分を変えるべく、思いっきり伸びをする。背中が音を立てているような気がした。

「何も判っていないという重大な事実が判ったね!」

「大きな進歩だな」

 曹司が呆れたように言う。しかし、彼の言うとおりだった。判らないことが判った、というのは大事なことだ。後はそれを一つ一つ解きほぐしていけば良いだけの話だ。何が判らないのか判らない、という状況からは一歩前進している。

「さて、それで今後の方針ですけど?」

「現場から言って、犯人が学校の関係者なのはまず間違いないだろうけどな」

 曹司が言う。その意見には燐も同感だった。

「生徒が三学年八クラス四〇人で約千人。教職員合わせると百人くらい増えるかな。人数が多すぎるね。犠牲者からすると三年生の可能性が高そうだけど」

「確証も無しに範囲を狭めるのはどうかな。その理論を突き詰めて行くと、33の美術部員とかにまでなりかねないからな。結局、地道に関係ありそうなところに聞き込みするしかないんじゃないか。科学的捜査なら警察がやってるだろ。内部だから出来ることを探したほうがいい気がする」

 冷静な声で曹司が言う。それだけに、癇に障った。

「一理あるけどね。でもそれって私に丸投げしてない?」

 唇を尖らせて、燐は抗議をした。しかし曹司は意に介さなかった。

「俺としては、犯人探すのなんか二の次なんだよ。次の事件が起きなければ、それで十分」

「ふむ。硫美ちゃんに害が及ばないことが第一ってことなのかな?」

「……まあ」

 曹司が面倒くさそうに言う。

 どうもこれは硅の落ち度である気がしてならない。曹司と協力して解決せよ、などと指示しておきながら、協力相手への働きかけに失敗しているではないか。

 とはいえ、曹司の中で硫美が最優先であることが、改めて確認出来た。人ごととして見れば、その純情っぷりは微笑ましい。その辺りを突っつけば、解決に協力させることも十分可能であろう。

「仕方ない。じゃあ、私は引き続きおしゃべりを頑張ることにするよ。本当は苦手なんだけどなぁ、ああいうの」

「おしゃべり?」

 曹司が意外そうに訊く。燐は律儀に頷いた。

「どっちかっていうと人間全般かな」

 くっくっく、と燐は笑った。気が重いときは、とりあえず笑うことにしている。

「さて、それじゃあ手強さ最大レベルとおしゃべりしに行こうかな」

「誰?」

 燐はダークマターのような瞳を思い出した。あれはどう頑張っても、現状では観測不可能な物質だ。

「沢渡さんちの硫美ちゃん」




     *




 こんこん、と燐は扉をノックした。返事が聞こえたので部屋に入る。手にはオーディオ屋の紙袋。秋葉原にお遣いに行った後、硅に渡すのをすっかり忘れていたのだ。

「ほれ」

 燐は硅に、袋とレシートを手渡した。もちろん、ミスドのものも含めてだ。硅はそれを見て、少し目を細めたが、何も言わずに千円札を四枚渡してきた。燐はそれを素直に受け取った。交通費も含めれば、少しお釣りが出る程度の金額だった。

「誰と一緒だったんだ?」

「あん?」

「ドーナツ屋」

 どうしてばれたのだろう、と燐は考えた。レシートに記載されているドーナツは二つ。だからといって、二人だと判るはずがない。普段の燐なら一人で三つは食べる。空腹時なら四つのこともある。男の子が前にいたので、これでも断腸の思いで遠慮したのだ。可愛い乙女の嗜みというものだ。

 と、なれば恐らく硅は飲み物に着目したと推測された。

「コーヒーはおかわりだよ?」

「ミスドはおかわり自由だ」

 硅はにやにやと笑った。完敗であった。

「男か」

「……まあねえ。でも、これはただの道を聞いたお礼」

 燐はオーディオ屋の袋を指さした。

「地図が汚すぎて読めなかったんだよ。そしたら、ばったり学校の子に合って。秋葉原に詳しかったみたいで、なんとか解読してくれた」

「そうか。メールにしておけば良かったな」

「そうだけど……。ってか、先に字を綺麗に書く努力をだね?」

「P子」

 硅が真面目な声を出した。

「何?」

「文字はデジタル情報なんだ。原理的に、メールの方が親和性が高い。わざわざDA変換して手で書くなんてナンセンスだ」

「あっそ。ってか、それ、何なのさ?」

 燐はとりあえず話題を変えてみた。硅に手渡した袋を指さす。

「うん?」硅は袋から品物を取り出した。「ピュアオーディオ用のフューズ。ふむ、種類も電流も正しいようだ」

「うん、その辺りは店員さんに教えて貰ったけど」

 硅は手でパッケージを弄びながら、楽しそうに説明した。

「ピュアオーディオの世界では、機器の電源周りを整備することで音質が向上することが知られている。フューズもその一環だ。コンセントとか電源コードみたいな流入経路ではないけれど、普通フューズは回路の頭についているし電気の通る経路として細いから、全体に対する影響は比較的大きい、とされている」

「されている?」

 硅にしては珍しくはっきりしない物言いだったので、燐は鸚鵡返しに聞き返した。

「実は試したことがない。今回ちょっとやってみようと思って」

「あ、そ」

 燐は気のない返事をした。実際、あまり興味がなかった。

「道が細いなら、太くしてしまえば良いのに」

「それだとフューズの意味が無くなる」硅は小さく微笑んだ。「P子。フューズはね、鎖骨みたいなものなんだ」

「鎖骨?」

「そうだ。鎖骨は人体の中でもっとも折れやすい骨だ。でもそれは欠陥ではない。そういう風にデザインされている、つまり折れるのが仕事だと言って良い」

 硅は自分の肩の、鎖骨のラインを指でなぞった。

「脊椎動物にとって最も重要な背骨はもちろん、肋骨なんかも内蔵を守るという大事な役目がある。だから太いしなかなか折れない。でも万が一とても大きな力がかかって折れてしまったら、背骨ならそれだけで致命傷。肋骨も心臓や肺などの重要な器官に突き刺さり命を落としかねない。そこで、肋骨に繋がってる鎖骨が先に折れてしまうことで、他の骨にかかる衝撃を軽減しているんだ。鎖骨が折れても、位置的に致命的な怪我になる可能性は非常に少ない」

「へえ」

 燐は素直に感心した。鎖骨が折れやすいのは知っていた。以前、護身術を習ったときに聞いたのだ。だが、そんな理由とは知らなかった。

「つまり、最初から弱いところを作ってしまうデザインだ。どこもかしこも強くて、中々壊れない構造というのも、恐らく可能ではあるんだろう。だけどそれでは予想外の事態が生じたときに、何が引き起こされるか判らない。非常に不安定な、危険性の高いシステムになってしまう。そこで、あらかじめ弱い箇所を意図的に作っておくことで、どういう風に壊れるか、そしてそれがどのような影響をもたらすかを、かなりの程度限定することが可能になる。そうすることで重要な部分を守っているんだ」

 硅はとんとん、とフューズのパッケージを叩いた。

「フューズも同じだ。最初に弱いパーツを通すことで、過電流が流れたとき焼き切れる場所を限定してしまう。そしてその箇所を簡単に交換できるようにしておけば、不測の事態が起きたときでも最小限の被害で簡単に対処ができる」

「へえ。中々考えられてるんだね」

「それはもう。人体も電子回路も試行錯誤の賜だろうから。トライ&エラーを繰り返すことでこういうリスクマネジメントが発達する」

 おや、と燐は首を捻った。今日の硅は妙に機嫌が良さそうだ。フューズが手に入ったからだろうか。

「ところで、P子には彼氏はいないのか?」

「いないよ」

「好きな男は?」

「あーもう、いないってば。別にいらないし」

 燐がそう声を尖らせると、硅は両手を広げて宥めるように笑った。

「大体さ、兄貴こそ彼女いないの? そろそろ候補くらい見つけておかないと、婚期を逃すよ?」

「ふむ」硅は冗談めかして言った。「耳が痛いな」

「別に問題ないでしょ。どうせ、私の意見なんて、聞く気ないんだから。腐り落ちても影響ないない」

「いや、そうでもないが」

 家はフューズの箱を机の上に置いた。代わりに煙草の箱から一本抜き出す。マッチを擦って火を点けた。表情から笑みが消えた。まるで、煙に吸われていったようだった。

 ふむ、と燐は以前から抱いていた懸念を思いだした。

「ところで、兄貴ってロリコン?」

「何だ、藪から棒に」硅は顔をしかめた。「むしろ年上好きだ。一回り上くらいなら、全然気にならない」

「だーっ!」

 燐は思わず吠えた。

「止めて! 肉親のそういうの、聞きたくない!」

「お前からそういう話題を振ってきたんだと思うが」

 硅は平気な顔で煙草を吸った。

 硅は燐より十歳年上なので、現在は二十八。一回り上だと、さすがにチャレンジャー過ぎやしないか、と燐は兄の将来を不安に思った。さすがに自分より二十も離れた相手を義姉と呼ぶのには抵抗がありそうな気がする。

「沢渡さんはどうしている?」

 硅が突然話題を変えた。呼び名が名字になっていた。どういう心境の変化だろうか。

「そうだねぇ。特にどうとも。以前とあまり変わりがないように見えるかな」

 理由を聞いたりはせず、燐はそう簡潔に答えた。

「曹司君は?」

「甲斐甲斐しくお世話してるよ? 硫美ちゃんの」

「そうか」

 硅はそう言って、一つため息を吐いた。硅がこんなネガティブな感情を態度に出すのは珍しい。

「どうかした?」

「いや」硅は首を振った。「燐はヨーロッパと南の島、どっちが好きだ?」

「え、ヨーロッパだけど」

「理由は?」

「お菓子が美味しいから。……どっか旅行行くの?」

 燐は不審に思って訊いた。硅はあまり旅行が好きではなさそうだった。基本的にインドア派なのだ。

「可能性がある」

「なんだ、それは」

「あ、でも燐は連れて行けないから、そのつもりで」

「別に良いよ」燐は舌を出した。「どうせ兄貴と行っても面白くないし」

 燐がそう憎まれ口を叩くと、硅は煙草を咥えてもごもごと言った。

「そうかなぁ、やっぱり……」




     *




 屋上で煙草を吸っていた。

 燐はイギリス育ちである。イギリスでは一八歳から煙草を吸って良いことになっている。しかし屋内は禁煙である場合がほとんどだ。逆に屋外は基本的に喫煙可能である。大気中に混ざってしまえば害がないという発想なのだろう。ポイ捨てを咎められることもまず無い。とは言え、マナーの概念が浸透しているので、人混みで吸う喫煙者はほとんどいない。日本に比べて人混み自体が少ないという事情もあるだろう。

 燐はぼんやりと考え事をしていた。主に事件に関することだ。謎が多い事件だ。考えるべきことはいくらでもあった。

 絵を燃やした理由がまず解らない。犯人にとってどんなメリットがあったのか、まるで想像がつかない。燃やした所為で、硫美が発見する三十分ほど前にはまだ美術室にいたことが判明してしまう。これは犯人にとって大きなデメリットだと言える。

 次に扉の問題だ。密室からいかに抜け出したのか。ただでさえ手段が限られる上に、絵が燃えていることから、時間的な制約もある。あまり大がかりな作業は不可能だろう。

 また、死体の状態もあまりに不自然である。燐も実際に目にしたが、まるで芸術作品であるかのように装飾されていた。かなりの手間がかかったはずだ。犯人は一体、どんな目的であんなことをしたのだろうか。

 仮にそれらの問題が解けたとしても、犯人が誰だか判るのだろうか。手段が判明することと、犯行を実証することはまるで別の問題ではないか。客観的に見て確かだという証拠を見つけなくてはならない。

 そして、目下一番の謎が硅と硫美の関係だ。硅の口ぶりからして、直接会ったことは無さそうだ。しかし燐から話を聞いて興味を覚えたということもあり得ないだろう。けれどそれ以外に硅と硫美を繋ぐ線が全く見えない。

 煙草をもう一口吸う。考え事をするための燃料である。蒸気機関のようなものだ。燃費はあまり良くない。

 何が問題なのかは既に判っている。しかしどこから手をつけて良いのか、皆目見当がつかなかった。

「……ん?」

 校舎内から、人の声が聞こえてきた気がして、燐は煙草をもみ消した。どうも女子の声だったようだ。切迫した声音だったように思う。

 また事件かもしれない、と思い、燐は扉に近づいた。扉を数インチそっと開き、屋内を覗き込んでみる。

 踊り場のところで男女が言い争っていた。二人とも制服姿だった。女子の方に見覚えがある。二年の時に同じクラスだった、井上眞子だ。男子の方は判らない。金髪の小柄な生徒だ。

 殺人事件に発展するような様子ではないので、燐は少し安心した。どうも、男子が無理に誘っているようだ。眞子は非常に迷惑そうにしている。

 どれ助けに行こう、と燐は扉を開けようとした。しかしその間際、二人は急に言い争いを中断して、弾かれたように階段の下を見つめた。

 男子の注意が逸れた隙に、眞子は下に向かって駆けだしていく。すぐに燐の視界からは消えていった。男子は動いていない。どうやら無事に逃げおおせたようだ。誰かが階段の下にいるらしい。

 男子が剣呑な目つきで立っている。やがて、下から別の男子生徒が上がってきた。曹司だった。踊り場に差し掛かったとき、金髪の男子が何か言ったようだった。遠くて内容は聞き取れない。

 突然、曹司が男子の胸ぐらを掴んだ。顔を引き寄せる。

 燐は酷く驚いた。普段のぼんやりした曹司の様子からは想像もつかない行動だった。体格的には大柄だけれど、誰かに敵意をむき出しにしているところなど見たことが無い。

 殴りかかるのかと心配したが、壁の方に突き飛ばしただけだった。興味を失ったように歩みを再開した。屋上の方に向かってくる。

 燐は慌てて首を引っ込めようとしたが、間に合わなかった。ばっちり曹司と目が合ってしまう。観念して、ウィンクなぞ飛ばしてみたが、曹司はむっつりした表情を変えなかった。諦めて屋上に引っ込む。

「お疲れ」

 遅れて屋上に入ってきた曹司に声をかける。曹司は面倒そうに鞄を置いた。

「ああ」

「あれ、誰? 揉めてたの、眞子ちんだったよね?」

「まこちん?」

「うん、井上眞子ちゃん。たしか38だったかな」

「いや、女子の方は知らないけど……」

 曹司は鞄からペットボトルを取り出して、一口飲んだ。こくり、と喉が動くのが見えた。

「なんで揉めてたの?」

「知らん。別に仲裁したわけでもないし」

 ふむ、と燐は考えた。たしかに眞子が勝手に逃げたように見えた。曹司には関係無かったのだろう。

「でも、男子の方とやりあってたよね」

「……ああ」

 曹司が少し恥じらうように苦笑した。

「坂下な。前にちょっとあって」

「ちょっと?」

 曹司が言葉を濁したので燐は気になった。曖昧に言われると逆に気になってしまうのが、人間として普通であろう。

「前に硫美に言い寄ってきたことがあって。ちょっと」

「ちょっと?」

「懲らしめた」

「……ふうん」

 動機としては納得出来た。坂下なる男子はさっきも眞子に言い寄っていたようだった。女の子が好きなのだろう。しかし、硫美があの手の誘いに応じるとは到底思えない。

 しかし、懲らしめた、とはどんな行為だろうか、と燐はあれこれ想像した。先ほどの感じから考えるに、肉体言語を用いたようだ。燐は自分の中の曹司の印象を少し書き換える必要性を感じた。

 それにしても、と燐は思った。硫美に言い寄るとはお目が高い。たしかに外見は可愛いが、彼女と差し向かいでコミュニケーションを取るのには高度なテクニックが必要とされると考えられる。そこまでの自信が彼にあったのだろうか。曹司が間に入っているのだから、失敗したと推測される。しかし、嫉妬に駆られた曹司が無理に引き裂いたという可能性も無くはない。

「ね」

「うん?」

「硫美ちゃんって、どうやって口説けば良いの?」

「……は?」

「いやね。硫美ちゃんと楽しくお話するにはどうしたら良いのかなぁ、と」

「お前の言う意味が解らない」

 あきれ顔で曹司は燐の方を見つめた。

「普通に話せば良いだろ?」

「普通に話してて、九相図の話になる人なんて、あんまりいないんじゃないかと」

「じゃあお前が普通じゃないのでは?」

「う」燐は呻いた。「それは否定出来ないけど

 自分が平均的な女子高生から若干乖離している自覚が燐にはある。それは個性と呼ばれるもので、なんら恥じることは無い。無いのだが、面と向かって言われると釈然としない。

「二人のときは何を話しているの?」

「そんなこと聞かれてもな」曹司は頬を掻いた。「あんまり喋らない。沈黙が苦にならないし」

「あ、そ」

 むむ、と燐は考え込んだ。

 そして、街で燐にナンパしてくる男どもを少し尊敬するのだった。




     *




 チャイムが鳴って授業が終わる。苦行から解放されて燐は大きく伸びをした。最近の授業は生徒によって温度差が激しい。推薦やAOで進路が決まっている生徒と、受験勉強真っ盛りの生徒が混在しているせいだ。その上受験生の中にも、真面目に授業を受けている生徒と内職に励んでいる生徒の二種類がいる。

 授業が終わって今は昼休み。購買に走る生徒や、仲良く机をくっつけて弁当を広げている生徒。問題集を広げながらパンをかじっている生徒、とこれも様々だった。

 燐は硫美の方に視線を向ける。一人、自分の席で弁当の包みを開いている。誰も彼女に近寄ろうとはしていない。事件があって、休校明けからずっとこの調子だった。

 曹司に頼まれたことが頭をよぎる。クラス内で話しかけるのはやぶさかではないが、人に頼む前に自分が率先して行動しろ、と言いたくなる。

 しかし。燐は思い直した。この状況で別のクラスの男子が絡むと余計面倒なことになりかねない。男に媚びを売っただの、ビッチだの言いたい放題に陰口を叩かれるのは必至である。特に硫美はすでに推薦で美大に進学を決めていることもあって、妬みを買いやすい立場でもある。

 燐はお弁当の包みを持って、硫美に近づいた。お弁当は自作である。普段、あまり人と一緒に食べないので中身も結構適当なのだが、今日は少々気合いを入れてみた。彩りも豊かにしてある。ウィンナはタコさんだ。可愛い乙女の嗜みというものだ。

「硫美ちゃん」

「……何?」

 燐が話しかけると、硫美は胡乱な目で見上げた。

「お昼、一緒に食べよ?」

「どうして?」

 間髪入れずに問い返された。その可能性を考慮していた燐は、さらに聞き返すことにする。

「えっと、嫌だった?」

「ああ、なるほど」

 燐が聞き返すと、硫美は納得したように頷いた。

「免じてあげる」

 それから硫美は、なぜだか上から目線で、燐と一緒に食事することを了承した。

 空いている椅子を勝手に借りながら、ううむ、と燐は唸っていた。どうやら聞き返しただけで、曹司の差し金だと硫美に気づかれてしまったらしい。それは事実であるし、別にばれたところでどうということは無い。無いのだが、どうにも釈然としない。

 二人は向かい合って弁当を広げた。燐は硫美の弁当の中身をこっそり盗み見る。なんだか、とても美味しそうだった。母親が作っているのだろうか。家業が飲食店なのだから、きっと料理も得意なのだろうな、と少し羨ましくなる。

 二人して食べ始める。硫美は小さい口でついばむように食べる。小鳥のようで可愛らしい姿だった。燐も負けじとちまちまと食べることにする。可愛い乙女の嗜みというものだ。

 それにしても。燐は思った。二人で向かいあっていると、何を話して良いのかよく判らない。硫美について知っていることと言えば、絵が上手なことぐらいだ。しかし、この間モデルになる約束をしてしまった。このタイミングで不用意に話題を振って、貴女の素敵な十二指腸を描きたいからちょっと見せて、などと言い出されても困る。主に軟体動物を模した腸詰めを食するときに困る。

「ねえ」

 すると硫美が声をかけた。少し意外に思って、燐は返事をした。

「なあに?」

「ラブレターって書いたことある?」

「ら、ラブレター?」

 燐は思わず素っ頓狂な声を上げた。それから我に返って周囲を見てみる。やはり、クラスメイトたちの注目を集めてしまっていた。しかし硫美には気にした様子もなかった。

「ええ。恋文、あるいは艶文」

「や、そんな雅な言い方しなくても解るけどっ」

 ううむ、と燐は心の中で唸った。硫美とラブレター。あまりにそぐわない。なぜそんなことを訊くのか、想像も出来なかった。

「で、あるの?」

「無いよぉ。そんなの……」

「そんなに綺麗なのに」

 どうも、硫美の燐に対する評価は、言葉はポジティブでも何かを含んでいる感がある。棘と言うほどでもないし、嫌味ともまた違う。しかし素直な気持ちで言っているとは到底思えない。なので簡単に喜べないし、安易に否定もしづらい。

「そこは関係ないから」

「でも、貰ったことはあるでしょう?」

「う」

 硫美がじろじろと燐の方を見る。渋々と頷いた。

「どんなだった?」

「英語だった」

「なぜ」

「だってイギリスにいたときだもん」

 はあ、と顔を見たままこれ見よがしに溜息を吐かれた。

 実は日本に来てから貰った手紙も何枚かあったものの、燐はそのことを黙っておくことにした。

「まあ、良いわ。それで、どんなことが書いてあったの?」

「ううむ」

 燐は淡い思い出を引っ張り出した。アークロイヤルのように甘くて苦い。

「好きだ、とか。一緒にいたい、とか、笑顔が素敵、とかそんなんだったけど。あ、でもお断りしたよ、もちろん」

「そこはどうでも良い」

 硫美は箸を止めないまま、そう言い放った。経過や結末を深く訊かれなかったので、燐は少し安心した。しかしまったく興味を示されないと、それはそれで釈然としない。そもそもなんでそんなことを訊かれているのかやっぱり解らない。そして自分が素直に答えている理由もまた分からない。

「どうやって届けられたの? 下駄箱とか机?」

「いや、向こうは下駄箱とか無いから。上履きに履き替えるなどという習慣がないからねぇ。物を放置しておくとすぐ無くなるから、そもそも机に物入れる場所もないし」

「じゃあ、教科書とかどうしてるの?」

「鞄に入れて持ち歩く。あるいは鍵のかかるロッカー」

「なら、鞄にラブレター?」

「目を離すと鞄ごと無くなるんだってば」

 硫美がついに箸を止めた。

「なら、どうやって?」

「普通に手渡し」

「手渡し?」

 硫美が、一瞬目を剥いたように見えた。

「直接?」

「直接」

「なぜ?」

「なぜ、とか言われてもなぁ。そうだった、としか」

「だって、手渡しするなら、直接伝えればいいじゃない。それが出来ないからこそのラブレターでは?」

「う、ううん……」

 燐は一瞬考えてしまった。言われてみるとそういう気がしないでもない。

「あのね、向こうの人は手紙とかカードとか、送るのが習慣づいているからさっ。クリスマスとかバレンタインとか、一緒に住んでいる家族にカード渡すのが普通だし。友達同士でもよくあったよ? その延長線上ではないかと」

「まったく……。これだから……」

 硫美が苛立ったように毒づく。こんなに感情が表に出てくるのは珍しい。しかし出来ればもっとポジティブな感情を身に受けたかった。

「どうしてそんなこと訊くのかな?」

「別に」

「誰かにラブレター書くの?」

「私は書かない」

「相手はやっぱり曹司君?」

「……」

 ついに硫美に無視された。

 ふむ、と燐は少し考えた。はっきり言って、硫美がラブレターを書くなどとは到底考えられない。しかしそれは燐が硫美に対して勝手に抱いている印象だし、硫美自身が人からは理解しがたい性格をしている。もしかしたら、この無感動な瞳の中に乙女チックな硫美が潜んでいる可能性もある。

 燐は硫美の発言をもう一度整理することにした。どうも、直接は伝えられないから手紙という形を採りたいらしい。相手は誰だろう。硫美と一番距離が近い異性が曹司であることは間違いない。しかしあの二人の間で今さらラブレターを送るなどということが有り得るだろうか。直接伝えるのが照れくさすぎて、言えないのかも知れない。知れないが、そもそも言葉にして伝える必要すら現状無いように思える。

 いや待て。もしかしたら硫美が懸想している相手は異性ではないかも知れない。燐は色んな可能性を考えてみる。イギリスでは同性愛者が意外と珍しくなかったこともある。燐も何度も告白されたものだった。ブライトンのビーチに行こう、などと誘われて気軽にOKしてはいけないのである。あそこは英国随一のリゾート地でありながら、同時にホモセクシャルの聖地だという複雑怪奇な地域である。

 さて、この学校の女子で硫美と仲が良いと言えば早坂良子嬢であるが、彼女はすでに故人である。次によく硫美と話している女子と言えば、蒔田さんちの燐ちゃんくらいしか考えられなかった。お菓子が大好きなキュートな女の子である。

 むむ、と燐は考え込んだ。硫美は直接想いを伝えられない相手にラブレターを送ろうとしていた。そして相手が異性とは限らない。それなら、既に亡くなっている早坂良子が対象になり得る。言葉はもう交わせなくても、手紙なら送ることが出来る。硫美なら絵と一緒に手紙を送る可能性がありそうに思えた。

 急に、からかい気味に話していたことに、罪悪感を覚えた。

「あの、えっとね」

「何」

「どうやって渡したら良いのかはちょっと解らないけど。手紙ならさ、その、楽しかった思い出とか、出会ったときのこととか書くと良いと思うよ」

 硫美は上目遣いに燐の方を向いた。

「やっぱり、ただ想いを伝えるだけよりもさ。そういう共通の記憶みたいなのを思い出せた方が、貰ったときに嬉しいと思うな。っていうか、私は嬉しかった!」

「……なるほど」

「まあ、やり過ぎると、ストーカーみたいでちょっと気持ち悪いけどさ」

「気持ち悪い?」

 硫美は突然きらりと目を輝かせた。

「ねえ、気持ち悪い手紙って、どんなの?」

「え? そうだなぁ。なんか、こう見張られてる感じなのとか? 逐一観察されてるみたいでイヤだよ。ちょっと重すぎちゃう」

「ふうん」硫美は薄く笑った。「そんな講評できるほど、蒔田さんはラブレターを貰ってきたのね」

「いや、その、一般論としてね?」

 燐は弁解したが、硫美は何も答えなかった。どうして親切で話してあげているのに、こんな憎まれ口ばかり返ってくるのか、と燐は憤然とした。

「ところで」

「うん?」

「どうして蒔田さんは曹司のことを曹司君と呼ぶの?」

「えぇ?」燐は首を傾げた。「変?」

「若干」

「そうか。そかも。でも、私、大抵の人のことをファーストネームで呼ぶよ?」

 硫美が訝しげな顔になった。その顔を、燐は控えめに指さした。

「硫美ちゃん。出会ったときから」

「そうだった。……馴れ馴れしい」

「いやいやいや。どうして今日はそんなに敵対的ですか?」

 はて、と燐は首を捻った。何か硫美の機嫌を損ねるようなことをしたか、と言動を思い返してみる。今日は昼休みに入るまで、硫美とは話していない。そして、話しかけた時点ですでにご機嫌斜めだったような気がする。

 燐は想像を巡らせた。燐という生き物が気に入らないのかもしれない。しかし、昨日まではここまで頑なではなかった。となると、やはり今日話しかけた時点で何かがあったと考えるべきだった。

 もしかしたら、燐が曹司に頼まれて話しかけたのが気に入らないのかも知れない。曹司に子供扱いされているように感じた可能性はある。たしかに硫美自身にとっては、今の教室の状況は気にもならないのだろうけれど。

 しかし、燐にとってはとんだとばっちりである。後で曹司に何か奢って貰おう、と燐は決意を固めた。

「ね、硫美ちゃんってお菓子好き?」

「普通」

「硫美ちゃんちって、喫茶店だよねぇ」

「そう」

「ケーキとかある?」

「ある」

 まあ、それで良いか、と燐は計算した。コーヒーも淹れてくれると言っていたし、ちょうど良い。たしか九品仏駅の近くだったはずだ。蒔田家からは自由が丘駅の向こう側だが、散歩がてら歩いて行ける距離だ。

「あ、そうだ」燐は大事なことを思い出した。「その喫茶店のさ、マッチあるよね? なんか、おどろおどろしいデザインの奴」

「うん。私のデザイン」

 あれはやはり硫美の趣味だったのか、と燐は納得した。

「あのマッチ、学校の誰かにあげたりした?」

 燐が訊くと、硫美はじっと見つめた。この間の美術室での視線と一緒だった。まるで燐の内面まで見通そうとするような、深い瞳。

「なぜそんなことを気にしてるの?」

 硫美が平板な声で訊く。燐は少し迷ったが、正直に話すことにした。

「あのね、事件現場にあれの空箱があったんだ。曹司君が見つけてくれたんだけどね。なぜか擦る部分だけ無かったけど……」

 しかし、硫美は別の部分が気になったようだった。少し、その目が細められた。

「事件現場? あそこは入れないでしょう?」

「はっはっは。あんな南京錠など、この私にかかればいくらでも開けられるのだよ」

 硫美は目を瞬かせた。どうやらかなり意外だったようだ。

「……ピッキング?」

「うんにゃ。無理矢理引っこ抜いたっ」

「……粗暴な女」

「あ、秘密だからね。今はカモフラージュでぶら下げてるだけなんだから」

 硫美は頷きもしなかった。しかし、硫美が誰かに話すとも思えない。曹司が絡んでいるとならば、尚更だ。

「ま、そんなわけで、あのマッチで絵に火を点けたのではないか、と私は疑っているんですけどね?」

「私は誰にもあげていない。店に来ればいくらでも積んであるから、誰でも持って行けるけど」

「絶対?」

「絶対」

「ん、解った」

 燐は大きく頷いた。とりあえず、経路が硫美経由でないことは判った。大きな進歩だった。

「貴女、なぜ事件について調べてるの?」

「え、頼まれたからだけど?」

「誰に?」

「愚兄」

「……兄?」

 硫美が訝しげな表情になった。

「貴女とお兄さんは、顔が似ている?」

「え、どうだろう……。まあ人並みには似ているんじゃないかと」

「そう……」

 硫美は半分納得したような顔で頷いた。

 もしかしたら、どこかで硅の姿を見かけたのか、と燐は考えた。最寄り駅も隣だし、偶然すれ違っていたとしても不思議はない。硅は身長も高いから、人混みなどでも発見は容易い。

「心配することに価値はある?」

 また、唐突に硫美が訊いた。

「えっと」燐は二秒ほど考えた。「価値という言葉にそぐわないかも知れないけど、心配して貰えれば嬉しいよね。相手にポジティブな影響があると考えれば、無駄ではないのでは?」

「迷惑だと思う場合もあるのでは?」

「そりゃ、あるだろうけど」燐は首を捻った。「親しい人から無関心でいられるよりはマシなことが多いような気がする。期待値としてプラスにはなる」

「……ああ」

 硫美は何故か微笑んだ。

「貴女、頭良いわね」




     *




 午後の屋上。すでに昼休みは終わって、五限目は始まっている。

 燐は目の前で眠っている曹司を見つめた。彼は午後の授業はないのだろうか。H高校は三年になると、午後は選択授業になる。曹司が今日、フリーなのかどうかは知らなかった。

 手すりにもたれたまま、燐はついさっき聞いた話を思い返していた。

 武藤沃太が、早坂良子からのラブレターを受け取っている。実物も見せて貰った。熱烈な愛の言葉が書いてあった。沃太によると、書かれている内容は事実らしい。そして、筆跡は早坂良子本人のものに酷似している、とのことだった。

 むむ、と燐は考え込んだ。さすがにあんなものが本物であるはずがない。間違いなく誰かの悪戯だ。しかも悪質で趣味が悪すぎる。その上、妙に手が込んでいるのも特長だ。単なる面白半分で出来ることではない。

 誰がやっているのかと考えると、候補は一人しか思い当たらない。硫美だ。早坂の親友だし、沃太を好きだったことを知っていてもおかしくない。環との件も耳にしている可能性が大いにありうる。

 それになんと言っても筆跡だ。硫美ほどの画力があれば、親友の筆跡を真似するくらい、簡単に出来てしまうかも知れない。

 しかし目的がまるで解らない。硫美が早坂の好きだった相手にラブレターを出したところで何の意味があるのだろう。手紙の内容も今ひとつ、要領を得ないものだった。

 それにしても、と燐は思った。どうして沃太はあんなに怖がっていたのだろう。どう見たって悪戯なのに、あんなに気にする必要はあるまい。気が小さい男なのだろう、と燐は納得することにした。

 燐は曹司の方を見遣った。相変わらずの平和な寝顔だった。普段はどちらかというと仏頂面で、しかも大柄なのでやや話しかけにくい外見をしている。それだけに、この幼子のような寝顔は可愛らしかった。

 くう、と燐は伸びをした。今日も良い天気だった。少し咽が渇いたので、自販機まで飲み物を買いにいくことにする。

 授業中なので、足音を忍ばせて階段を下りる。三階についたところで、ばったり見知った顔に出くわした。

「おや、眞子ちん」

「あ、燐!」

 眞子も午後は授業が無いのだろうか。のんびりと歩いていた。

 燐と眞子は二年のときに同じクラスだった。今でもそこそこ仲は良い方だ。脳天気コンビである。

 それにしても、と燐は思った。眞子のスカートは異様に短い。欧州だったら国や地域にもよるが、街娼と間違われかねない。

 ところで、娼婦と言えばオランダである。かの国は飾り窓という売春宿が合法なのだ。しかも労働組合まであるという。首都アムステルダムにも、旧教会の近くに飾り窓地区が存在する。大きな窓の向こうでネオンサインに照らされて、扇情的なランジェリー姿のセクシーなお姉様方がくねくねしているのを見ることが出来る。

 しかし、彼女たちは見世物だという意識が存分にある。何しろ、燐のような女性や、ガイドに連れられたツアー客までもが、ウィンドウ・ウィンドウショッピングしているような場所である。むしろ、お隣ベルギーはブリュッセル北駅東側の飾り窓地区の方が、小規模ではあるものの剣呑な薫りがした。彼女たちは生活の糧を得るべく、本気でくねくねしている。視線がまさに獲物を狙う肉食獣と言って良い。

 ところでベルギーと言えば、お菓子の国である。チョコレートももちろん有名だが、何と言ってもワッフルが絶品である。まず生地が二種類あるので、どちらを選ぶのかが大いなる悩みどころである。長方形のブリュッセル風は軽くてふわふわでほんのり甘さ控えめ。逆にリエージュ風は円形でしっとりしていてしっかりした幸せな甘さ。それにさらにトッピングを加えられるのだ。やはり本場のチョコレートは欠かせない。さらに生クリームや、苺などの各種フルーツ、キャラメルソースなど選択肢は数多い。ソースに甘みが多い場合にはブリュッセル風、逆にリエージュ風に酸味の多いフルーツを中心に載せるなど、いくらでも組み合わせは考えられるのだ。贅沢な悩みとはこのことを言うのだろう。

 だんだん、眞子のスカートのチェック模様がワッフルに見えてきたので、燐は頭を振ってスイーツを脳内から追い出した。この調子で脂肪もお腹から追い出せるようになるのが理想的である。

「何してんの?」

「ちょっと自販機まで」

「っつーことは、暇?」

「そこそこ」

 すると眞子はチェシャ猫のようににんまりと微笑んだ。

「んじゃさ、ちょっと暇つぶし、付き合って」

 燐は少し考えた。曹司に会ったものの、ただ事件に関する情報を交換しつつ、硫美について話そうと思っていただけだ。今日話さなければいけないことはない。

「暇つぶしって?」

「部室おいで、お菓子とか漫画とかあるよ」

「部室? 軽音だっけ」

「そ」

 燐は申し出を受けることにした。どちらにせよ、五限が終わるまでは暇をつぶさなくてはいけない。鞄を教室に置きっぱなしだからだ。

 一階の自販機まで行って飲み物を買ってから、三階に舞い戻る。それから眞子について、軽音学部の部室に行った。第一音楽室の隣、第二音楽室だった。眞子はポケットから鍵を取りだして、扉を開けた。

「ん?」

 燐の訝しげな視線に気が付いたのだろう。眞子はてへ、と笑った。

「本当はヤバイんだけど、ここ、部活でしか使わないから、顧問から借りっぱなし」

「他の部員は? 鍵、一つだけでしょ?」

「普段は沃太が持ってるんだけどねー。今日サボるからって借りてきた! 他の面子は今受験だからさー。ロクに活動してないわけよ。実質あたしと沃太しか使ってないない」

「……ふうん」

 眞子の後に続いて、燐は第二音楽室の中に入った。軽音学部が部室として使っているだけあって、ドラムセットがでんと置かれていた。他にも大型のアンプやらキーボードやらが部屋の其処此処にある。壁際に誰のものか、ギターやベースも立てかけられていた。シールドがそこら中に散乱しているのは、少しいただけなかった。

 眞子はぺたん、と床に座った。その脇に、漫画本が山と積まれている。そしてなぜか冷蔵庫があった。眞子がそこを引き開けると、チョコレートが出てきた。燐は欣喜雀躍した。こんなテストでしか見ない四字熟語が出てくるくらい興奮していた。

「あんた、お菓子好きすぎじゃね?」

「え? そう?」

「っつーか、それでその体型って詐欺だろ」

「えー」

 板チョコの欠片を美味しく舐めながら、燐は眞子を上から下まで検分した。長い金髪はくるくると巻いてある。身長も体重も平均くらいだが、胸はちょっとしたものである。肉感的で、とてもよろしい。

「眞子ちんの方が可愛いじゃん」

 燐は自分のことを全体的にスレンダーすぎると思っている。こう、可愛い体型と言うのは、もう少し適度にお肉がついている必要がある。言うなれば、抱きしめたときに気持ち良くないと駄目だ、と以前硅から薫陶を受けた。最低な兄貴である。

「むかつくな、お前」

「えー?」

 半笑いで言う眞子に、燐は苦笑いを返した。

 二人はまったりと過ごすことにする。時折、壁の向こうから歌声が聞こえてくる。隣では授業をやっているようだった。眞子は漫画を読むことにしたようだ。本の山から少女漫画を引っ張り出してページを捲り始めた。しかしすぐに眠くなったのか、段々ふらふらし始める。

「眠そうだねぇ」

「あー,うん」眞子は顔を上げた。「内緒なんだけどさ。昨日バイト深夜だったんだよねー。朝帰り。良いよー、深夜コンビニ。仕事楽だし時給良いし」

「ふうん」

「燐、何かバイトしてたっけ?」

「してないよん」

「何かすりゃー良いのに。がっぽがっぽだよ」

「私、物欲無いからなぁ。お菓子さえあれば」

 なはは、と燐は笑った。眞子は呆れたように溜息をついた。

「そーいやさー」

「うん?」

「燐、彼氏出来たんだって?」

「……へ?」

 燐は目を丸くした。まるで心当たりが無かった。

「いないけど?」

「嘘こけ。誰だっけ、えっと……、34の見城!」

「曹司君?」

 ふむ、と燐は考え込んだ。そのような事実はない。しかし、最近事件の調査で一緒にいることが多かった。特に放課後にうろちょろしていた。曹司を捜してクラスメイトに聞いて回ったこともある。それを見た誰かが無責任な噂を流したのだろう。

「ないない」

「あー?」眞子はじろじろと燐の方を見た。「まあ、無いか。燐だもんな。それに見城って、あれだろ? 33の沢渡って奴と付き合ってるんだろ?」

「……さあ」

 燐はとりあえずとぼけておいた。曹司本人は硫美との交際を否定していたが、実際はどうか判らない。それより、燐だもんな、の意味を問い詰めたい。

 それにしても、と燐は感心した。相変わらず、眞子はゴシップの収集が早い。タブロイド紙の記者にでもなれば良いのではないか、と思った。

「そういや、その沢渡が犯人なんだろ? あの事件」

「や、それは無いと思うけど……」

 やはりそういう噂になっているらしい、と燐は再確認した。逆に質問してみる。

「眞子ちんさ、こないだ坂下君と揉めてなかった?」

「げ」

 燐が問いかけると、眞子は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「なんで知ってんだよ、そんなこと」

「まあまあ。坂下君と何があったのかなぁ?」

 燐は重ねて問いかけた。すると眞子は堰を切った様に話し出した。

「あれはあいつがワリいの。坂下と話がしたいって奴がいたから紹介しただけなのにさー。恩着せがましくデートしろって行ってきやがって。カラオケでも、ってそんな密室で何する気だよ。魂胆丸見えなんだよ、あいつ」

「ふうん」燐は首を傾げた。「紹介って、女の子?」

「うんにゃ。男。ほら、坂下って加地の彼氏だったじゃん? そのこと聞きたかったみたい」

「加地さんの彼氏……」

 燐は記憶を引っ張り出した。たしかに加地に彼氏がいるとは聞いたことがある。あれがそうだったのか。しかし、あまり性格的に合いそうな感じではなかった。加地は大人しそうな、大和撫子といった風情の女子である。一方、坂下は遊び人を絵に描いたような男だ。

「そ。しかもアイツ、最悪なんだぜ。学校の奴じゃないけど、他に彼女いたんだって。しかも加地が言うこと聞くからって、色々要求して好き勝手やってたって、自慢気に語ってんの。武勇伝かっつーの」

「色々好き勝手?」

「ほら、場所とかプレイとか」

「……ああ、そう」

 燐は少しうつむいた。その手の話題は苦手である。可愛い乙女の嗜みとして、頬を赤らめてコメントは控えておく。話題を少し変えてみることにした。

「眞子ちんは彼氏出来たって言ってたっけ?」

「あ、うん」眞子は照れたように笑った。「バイトの先輩。大学生なんだけどさー。ま、コクられたから付き合ってやっても良いや、って感じ?」

 満更でも無さそうに眞子は笑った。

「可愛い可愛い、ってそればっか言ってきて、たまにキモい。制服好きだしさあ。もう、男ってなんなんだとか思うよね」

 内容の割に幸せそうだったので、燐は少し腹が立った。振る話題を間違えたようだった。今度はダウン系の話題に無理矢理変える。

「そういえば、眞子ちんは事件の日に何か見なかった? 現場、ここからすぐ近くだけど」

「いや、何にも。っつーか、その日、私部活出てないし」

「あ、そう」

 燐は当てが外れて、少し落胆した。

「バイトだったんだよねー。あの日もこっそり深夜勤務までやったからさぁ。ぐへへ。彼氏と二人きりで仕事だったんだー。でも、今思うと、部活出てたらやばかったかもなー、私」

「そうかもねぇ」

 燐がおざなりに同意すると、それが判ったのか眞子はおもしろく無さそうな顔をした。しかしすぐに欠伸に変わった。ごろん、と横になってしまう。

「さて、じゃあ私寝るから。チャイム鳴ったら起こしてー」

「はいはい」

 よっぽど疲れていたのか、眞子はすぐにすやすやと寝息を立てだした。燐はその寝顔を覗き込む。

 曹司と同じく、寝ていれば可愛かった。




     *




「ね、ね」

 お弁当を広げてすぐ、燐は硫美に話しかけた。

 ここのところ、毎日一緒にお昼を食べている二人である。その甲斐あって、最近少しは硫美も燐に慣れてきた節がある。手加減が無くなってきている、とも言える。とはいえ、燐の方も段々遠慮が無くなってきているので、お互い様である。

「ラブレター、出せた?」

「何の話?」

 硫美は吸光材の様な目で燐の方を向いた。

 むう、と燐は唸った。それから、意を決して本丸に踏み込むことにする。

「ところで硫美ちゃん」

「何」

「硫美ちゃんって、人の筆跡、真似出来たりする?」

 硫美の箸が一瞬、動きを止めた。

「燐」

「うん。……あれ?」

 反射的に返事をした後、燐は首を捻った。硫美からファーストネームで呼ばれたのは初めての経験だった。

 とはいえ、燐はそちらの方が慣れている。欧米ではみんなファーストネームで呼ぶからだ。むしろ、名字で呼ばれることの方が、距離を感じるようで抵抗がある。

「私、燐のことは親友だと思ってるの。それはもう、この上ないくらい。自分の半身じゃないかって感じるくらい。切り離されたシャム双生児なんじゃないかしら」

「う、うん。ありがと。どうしたの、突然」

「人の筆跡なんか、真似出来ない」

「あ、そ」

 燐は平板な声で返事をした。それからすぐに話題を変える。

「早坂さんが、誰を好きだったかって知ってる?」

「知ってる」硫美が箸を置いた。弁当箱の中身はまだ半分以上残っている。「でも教えない」

 硫美の態度は頑なだった。燐はとりあえず話題を変えてみることにした。硫美相手に焦っては駄目だと、ここ数日でしっかり学んだ燐だ。手を変え品を変え、ご機嫌を取りながら切り込んでいくのが肝要である。

「じゃあ、硫美ちゃんの好きな人は?」

「お母さん」

「良い子だね」

「燐は、お兄さんのこと、好き?」

「ううん、と」燐は少し考えた。「好きでは無いなぁ。嫌ってるつもりもないけど。どうして?」

「別に」

 硫美は平板な声で言って、また箸を手に取った。それを見て、燐は少し安心した。意外なことに、呼び方はファーストネームで固定されたようだ。

 さて、どうやって話を繋げようか、と燐は少し考えた。困ったことに硫美は相当勘が良いようなので、簡単に燐のペースには嵌ってくれそうにない。リアクションも読みづらいので誘導尋問もかけづらい。

 沃太が受け取ったという手紙を、硫美が書いたのは間違いない、と燐は確信している。他にそんなことを出来そうな人がいない。するような動機を持った人も見当たらない。

 しかし、その理由はやはりはっきりとしない。そもそも、手紙の内容からして、何かを要求しているわけでもなければ何かを伝えようとしているのでもない。目的の解らない手紙なのだから、動機だって謎だ。

「あ、あの」

 教室の入り口で、誰かが呼びかけている。燐が振り向くと、そこにいたのは小池だった。燐の顔を確認すると、緊張した面持ちで入ってくる。彼女にとっては先輩の教室なので無理もない。

「さ、沢渡先輩!」

「……何?」

 しかし燐の予想に反して、小池が話しかけたのは硫美の方だった。胡乱な瞳で硫美が睨め上げる。

「二年の小池です。お、お話しても良いですか?」

「食事しながらで良いなら」

 ふむ、と燐は首を傾げた。もしかして、小池は燐を目標にするのを諦めて、硫美に乗り換えたのでは無かろうか。体型や雰囲気からして、それは彼女のためになると思えた。

 とりあえず燐は近くに空いていた椅子を勝手に拝借して、小池の席を作ってあげた。彼女は恐縮しながらそこに座る。

「お昼はもう食べたの?」

「あ、いえ。でも大丈夫です」

 燐が訊くと、小池は緊張した面持ちでそう言った。

「あの、沢渡先輩」

 小池が呼ぶ。硫美は目線を遣っただけだった。

「酒井環先輩を知っていますか?」

「クラスメイト」

 そりゃそうだ、と燐は思った。環のクラスまでやってきて、訊くようなことではない。しかし、小池は不機嫌そうな硫美の様子に気がついた風もなかった、一瞬、ちらりと燐の方を伺ってから、また硫美の方を向き直った。

「あの、こんなこと訊いて、違ったら申し訳ないんですけど。環先輩と喧嘩していませんでした?」

「酒井さんと喧嘩?」硫美は一瞬、きょとんとした。「ないけど」

「そうですか……」

 否定された割に、安心したように小池は頷いた。

「あの、それで本題なんですけど」

 燐は少し驚いた。ここまでは前置きだったようだ。イタリア料理みたいな子だった。いつになったらお肉にまでたどり着くのだろう。デザートが待ち遠しい。

 ところでイタリアと言えばヨーロッパの中でも料理が美味しいことで有名である。当然お菓子に関してもティラミス、パンナコッタ、ジェラートと欧州屈指の陣容を揃えている。特に燐がお気に入りなのはジェラートである。普通のアイスより密度がとろとろと高くコクもあってジューシーな満足感たっぷりだ。それに何と言っても、カロリーが少ないのだ。どれだけ食べてもウェストを気にしなくて良いのである。これは可愛い乙女の嗜みとして、外すことの出来ない要素だと言える。ちなみに映画の真似をしてスペイン坂で食べようとしたら、飲食禁止だと怒られたことがある。

「環先輩が誰を好きだったか、ご存じですか?」

 はて、と燐は首を捻った。そんなこと、今更知ってどうするのだろうか

「たしか」硫美が小さく首を傾げた。「サッカー部の山田君」

 さすがに気を遣ったのか、硫美は小声でそう告げた。

「そ、そうなんですか?」

「うん」

 事も無げに硫美は頷く。それを見て、燐は意外に思った。硫美が他人の色恋沙汰に興味を持っているとは、夢にも思わなかった。

「あの、山田先輩には彼女は……?」

「いない。だから酒井さんと交際秒読みだった」

 ひそひそ声で二人は会話する。まるで普通の女子高生のようだった。普段は普通だと思っていないのは燐の主観によるものだ。

 はて、と燐は首を傾げた。今さら環の思い人などを知って、小池はどうするのだろう。まさか、ラブレターを代わりに書くわけでもあるまい。

「じゃあ、二人は上手くいっていたと」

「噂だけど。良い感じだったみたい。加地さんたちとダブルデートしたり」

 むむ、と燐は心の中で唸った。燐だって他人の恋路に対するアンテナはほとんど機能していない。その自覚はある。あるのだが、まさか硫美よりも疎いとなると、どことなく釈然としない。

「硫美ちゃんも交際目前だよね?」

「そ、そうなんですか?」

「うん、曹司君と」

「あ、見城先輩と……」

 燐が勝手な情報を吹き込むと、あっさり小池は信じてしまった。しかもなぜか硫美が否定しない。涼しい目で燐の方を見ているだけだ。

「でも、お二人は従兄弟同士ですよね……?」

「ごめん」

 燐は手をついて謝った。

「嘘」

「……はい?」

「硫美ちゃんと曹司君は何でもないのです。本当に、これっぽちも、髪の毛の先ほども」

 今度は硫美に睨まれた。ふふふ、と燐はほくそ笑んだ。

「あ、あの」

 二人の間に流れる剣呑な雰囲気に気がついたのか、小池が立ち上がった。

「私、そろそろ失礼しますねっ」

 そうして小走りに教室を出て行った。

 ふう、と燐は溜息をついた。硫美も同じように息を吐いている。

「ご飯、食べよっか?」

「うん」




     *




 燐が帰宅すると、リビングのテーブルの上にヨックモックの缶があった。硅が買ってきたのであろう。燐はうきうきしながらそれを手に取った。いつものより、一つ大きなサイズであった。

 燐は足取り軽く階段を上り、硅の部屋のドアをノックした。中から声が聞こえたので部屋に入る。

「お帰り」

 硅が椅子を回して振り返った。

「ただいま。ヨックモックのくるくる、ありがと」

「いや。約束だから」

 硅はそう言って、小さく微笑んだ。それから灰皿に乗った、火が点いたままの煙草を手に取る。

「事件の調査はどうなってる?」

「まあ、情報は着々と集まっているけどね」

「ふむ」硅は顎をしゃくった。「訊かせてくれ」

 燐はどんな順番で話したものか、四秒ほど考えた。

「まず、被害者三名が私のクラスメイト。現場は第一美術室。そして第一発見者が硫美ちゃん。ここまでは良いね?」

「ああ」

「じゃあ、物理的要因から。犯行は、発見前日の午後四時以降。被害者全員が教室でクラスメイトに目撃されているからね。その後学校から出た形跡はない。硫美ちゃんが施錠された部屋の中で『吊られた少女』が燃えているのを目撃したのは午前八時過ぎ。この間十六時間に犯行が行われたことになるね。ただ、絵とイーゼルの状況から、かなり長い間燃え続けていたと思われる。火災を発見した硫美ちゃんは職員室まで走っていって、山上先生に報告。でも鍵が見つからなかったので、すぐに美術室に舞い戻る。近くにいた生徒の助けを得て、扉を蹴り開けた。室内に入って、ようやく死体を発見」

 硅は黙って聞いている。燐は頭を整理しながら話を続ける。

「次に現場の状況だけど、美術室の扉は開かず、山上教諭と生徒が蹴り開けた、ってのは言ったね。衝撃で壁の方が壊れて開いた感じ。扉のすぐ近くで絵が燃えていた。そして室内に入った時点で死体が発見された。部屋の奥だったから、窓からは見えなかったんだ。美術室の鍵はこのとき、部屋の中にあった。窓の鍵も閉まっていて、外側からは操作出来ない。美術準備室の扉もあるけれど、そちらも閉まっていた。その鍵は山上先生が肌身離さず持っていたそうな。ちなみに彼には強固なアリバイがある。委員会に出席して午前様だった」

「密室だな」

 硅が目を瞑って言った。燐は小さく頷いた。硅には見えていないと思うが、気分的な問題だ。

「うん。だから、考えられる手段は二つ。部屋の中から鍵を掛けた後、扉以外の経路で部屋の外に出た。もしくは、普通に扉から出た後、何らかの手段で外から鍵を掛けた。このどちらかを、火を点けてから発見されるまでの間に行う必要があるね。あんまり時間的余裕はない」

「なるほど」

 硅は煙草を吸った。手で続きを促されたので、燐は説明を再開した。

「死体の状態は、首を吊られた上、胸にペインティングナイフが刺さっていた。ちなみにナイフのうち二本は学校の備品だけど、最後の一本は被害者の一人、早坂良子の私物」

「ふむ」

「ちなみに美術室だけど、普段から鍵をかける習慣はなかったみたい。少なくとも美術部員は全員それを知っていた。他の人はどうか判らないけどね。事件が起こった日は山上先生が委員会のため、部活はお休みで午後三時半頃から無人だったと思われる。ちなみに六時頃に、部活上がりのオーケストラ部員が覗いた際には、不審な点は何も無かったそうな」

 硅は煙草を揉み消した。

「物理的な要因に関してはこんなところだけど?」

 硅は目を瞑ったまま言った。

「幾つか質問がある」

「どうぞ」

「燃えていた絵はどうしたんだ?」

「はい?」

「燃え尽きるまで待っていたのか?」

「いや、誰かが廊下から消火器を持ってきて消し止めた」

「なるほど」硅は頷いた。「消し止めなかったら、その後どれくらい燃えていたと思う?」

「いや、ちょっと判らないけど……。イーゼルに火がついていたし、油絵だから、少なくとも後二、三十分は燃えていたんじゃないかな。ただ、校舎が火事になるとかそういう勢いじゃなかったけど」

 硅は二秒ほど黙った。それからまた口を開く。

「美術室に、画材は置いてあったか?」

「あったよ。美術の授業で使うようなものは一通り、置いてあった」

「マッチは?」

 硅の質問に、燐は心底驚いた。

「空の箱ならあった。それも、硫美ちゃんちの喫茶店のものが」

「それはどうでも良いが……」硅が目を開いた。「横薬が切り取られていなかったか?」

「その通りだけど。……なぜ判った?」

 硅は質問に答えなかった。煙草をもう一本取りだして火を点ける。

「さて、困ったな」硅が嘆息する。「どのように、は簡単だ。しかし誰でも出来てしまう気がする。燐でも出来る。硫美ちゃんでも曹司君でも、その気になれば僕にだって出来る」

「え、判ったの? てか、何が?」

「ん、ちょっと待て」

 硅は突然言う。待つのはお前の方だ、と燐は思ったが、口にはしなかった。

「マッチの空箱」

「うん。硫美ちゃんの家の奴ね。ちなみに硫美ちゃん自身が持ち込んだものではない。人にあげた記憶もないとのこと」

「ああ、そうか……。なるほど、勘違いしていた」

「あーもう、何をだよ!」

 燐は声を荒げる。しかし硅は冷静に言い放った。

「もうちょっと情報が必要だ」

「いや、そんなこと言われても」

「被害者回りの人間関係について、判ったことは?」

「そりゃ、色々あるけど」

 むむ、と燐は唸った。人間関係は予想外に複雑であったため、簡潔に説明するのが難しい。

「ええと、やっぱり恋愛周りでの人間関係が複雑だね。まず環ちゃん。オケ部の後輩によると、どうも彼女は恋愛関係のトラブルを抱えていた節がある。あ、そうそう。その後輩が美術室を覗いた人でもある。部活中に環ちゃんの声が聞こえた気がしたそうな。空振りだったけどね」

 話が逸れたことに気がついて、燐は慌てて軌道修正した。

「環ちゃんが好きだったのはサッカー部の山田君で、その二人の間はそこそこ順調だった模様。逆に環ちゃん相手に、一ヶ月くらい前に告白したのが軽音部の武藤沃太君。でも彼は振られている。その時に間に入ったのが、早坂さんだったらしい」

「ふうん」硅は気のない素振りで頷いた。「高校生くらいだと初々しくて良いねえ」

「それ、オヤジ臭い」

 燐が指摘すると、硅は何も言わずに手で続きを促した。燐はこっそりガッツポーズをした。

「次に加地さん。彼女には恋人がいた。サッカー部の坂下君。環ちゃん&山田君とダブルデートしていたりする。だけど坂下君は少々問題があったみたいだね。どうも学校の外に他に彼女がいて、二股をかけていたようだ。加地さんがそれに気づいていたかどうかは不明」

「ふうん」

 硅は小さく頷いた。

「さて、最後に早坂さんの方だけど。彼氏はいなかった。特に誰かから好かれていた、という情報もないね。被害者以外の親友は、硫美ちゃん。好きだったのは沃太君っぽい。文化祭で一目惚れしたそうな。生前、特にトラブルらしきものはなし」

「なし?」

「生前はね」燐は一つ息を吐いた。「さっき言った、武藤沃太君。環ちゃんに振られちゃった男の子だけど。事件後彼の下駄箱に早坂さんからのラブレターが二通届いている。しかも筆跡は早坂さんのものに酷似している。内容的にも具体的で、まるで本人が書いたみたいなのだ。沃太君はとても怖がっております」

「ホラーと言うか、純愛と言うか」硅は呆れたように息を吐いた。「それで?」

「それだけ」

「絵が上手な人は、筆跡を真似出来るんじゃないか?」

「硫美ちゃんに尋ねてみました。お答えは、私と燐は親友だよね? とのことです。ちなみにその一週間ほど前には、ラブレターの正しい出し方について質問されてる」

「隠す気の欠片もないな」

 硅はそう言って、溜息を吐いた。

「うん。でも、あの反応は、踏み込まないで欲しいって意思表示なんじゃないかと」

 硅は左手で煙草の箱をもてあそんだ。

「ところで、オケ部の後輩とやらだけど」

「うん。小池さんね」

「美術室と音楽室は隣?」

「うん。階段の方から、第一美術室、第一音楽室、第二音楽室の順だね。第一音楽室の向かい側に第二美術室。その両隣は倉庫だったかな。そっち側の三部屋は普段使われていなかった」

 頭の中に見取り図を思い浮かべながら、鈴はそう説明した。

「被害者の三人は親友だったんだな?」

「そうだよ」

「どのくらい親友?」

「はい?」

 硅の質問の意図がよく解らずに、燐は聞き返した。

「お互いの好きな人くらい知っていた?」

 ふむ、と燐は少し考え込んだ。

 そういえば、硫美がなぜか環の好きな人を知っていた。あれは恐らく、早坂経由で聞いたと考えるのが妥当だろう。

「知ってたんじゃないかなぁ」

「なるほどね」

 硅がうっすら微笑んだ。

「何か判った?」

「……」

 硅は答えなかった。目を閉じて何事か考えている。

「最近の硫美ちゃんだけど」

 呼び名がちゃんづけに戻っていることに燐は気が付いた。だけどスルーしておいてあげた。

「うん」

「どんな感じ?」

「どんなって……。普通だよ。授業受けてご飯食べて、絵を描いている。あ、私、ちょっとだけ仲良くなったよ」

「絵を描いている?」

「うん、部活でね。誰もいない第二美術室にお籠もりして。どんな絵だか知らないけど、すごく一所懸命に見える」

「そうか……。それは困ったな」

 硅は困ったらしい。そんな姿を燐は初めて見た。滅多に困らない男なのだ。困っても何も解決しないのだから早急に対策を練るべきだ、困ってる暇など無い、が信条であったはずだ。

「硫美ちゃんって、気難しいという噂を聞いたのだが」

「そうだねぇ。一度へそを曲げると長いかも」

 燐がそう言うと、硅は顔をしかめた。燐は一層混乱した。一体、硅と硫美の間に何があるのだろう。少なくとも口ぶりからは、会ったことは一度もないようだ。

「兄貴」

「なんだ」

「事件のこと、判った?」

「ふむ」

 硅は一つ頷いた。

「最近、めっきり寒くなってきたな」

「……なんだ、突然」

「これをやろう」

 硅は燐に、何かを放って寄越した。燐は慌ててそれをキャッチする。ビニールの感触がした。

「何だ、これは」

「使い捨てカイロ」

「それは見れば判る」

 硅はふう、と煙を吐いた。

「硫美ちゃんが怪我などしないように、ちょっと注意しておいてくれないか?」

「や、だから。もうちょっとちゃんと説明しろと」

 硅は煙草を揉み消した。

「早坂良子はフューズだ」




     *




「硫美ちゃん?」

 燐は呼びかけながら第二美術室の中に入った。

 放課後、屋上で曹司と話していたところに硫美からのメールが舞い込んだのだった。しかし美術室の中には誰もいなかった。自分で呼びつけておいてこの仕打ちはいかがなものか、と燐は憤慨した。

 部屋の中に入る。真ん中にイーゼルが立っていた。絵の上には白い布が被せられている。どうやら、これが呼んだ理由のようだった。

 絵に近づく。曹司が無造作に白布をめくった。

 燐は、正面に立って絵を見た。

 放課後の教室だった。

 赤い。

 窓からの赤い夕日。

 机。

 椅子。

 黒板。

 ロッカー。

 スナック菓子。

 ペットボトル。

 学生鞄。

 談笑する、

 三人の女子生徒。

 なんてことのない、

 放課後の教室だった。

「これが、硫美ちゃんの絵?」

「ああ」

 曹司は小さく頷く。

 左端に酒井環。

 椅子に座って

 朗らかに喋っている。

 中央に加地。

 机にもたれて

 笑っている。

 幸せそうな

 何の悩みも無さそうな顔で。

 右端に早坂良子。

 静かだった。

 彼女の周りだけ

 沈んでいるように

 見えた。

 二人を

 慈しむように

 哀れむように

 愛でるように

 責めるように

 立ち尽くしていた。

「ひまわり……、みたい」

 燐は、思わず言葉を零した。

 口にして、それから理解が追いつく。

 アムステルダムのゴッホ美術館を思いだしていた。そこにはゴッホの作品だけでなく、影響を受けた他の画家の作品も展示してある。

 何年前だったか、美術館で一番綺麗な絵を燐は探していた。綺麗な絵が好きだったのだ。

 見つけたのは、名も知らぬ画家が描いたバスケットいっぱいの菫の絵。色彩豊かに描かれた、とても華やかで綺麗な絵。気持ちが明るくなるような、素敵で優しい絵。一目見て、燐はその絵を気に入った。

 恐らく、その筋では有名な画家だったのだろう。けれど、燐はその名を知らなかった。今でも覚えていない。

 その後に見た、ゴッホのひまわり。全然綺麗だと思わなかった。構図もありふれていた。色鮮やかでもなかった。

 だけど、

 一番気持ち悪かった。

 そのことだけが、強く印象に残った。絵を見てあんな気持ちになったのは初めての経験だった。手折られて、花瓶に挿されたひまわり。死へと向かっていく、黄色い花。奇妙に渦巻く黄色い背景。

 死にゆく黄色い花。

 確定した死。

 同じものが、

 目の前にあった。

 かしましく談笑する三人の女子。

 確定した死。

 なぜか、

 彼女たちがこの後死んでしまうのだと

 はっきりと理解出来た。

 モデルを知っているから、という理由ではなかった。絵全体から、噎ぶほどに濃厚な死の薫りが立ちこめていた。

 アークロイヤルのような、

 甘くて、

 苦くて、

 重い、

 匂い。

 想い。

 眩暈を感じた。目の前の絵が気持ち悪い。九相図なんて、比べものにならなかった。あんな直截的な不定の体現ではない。概念的に異質で異様だった。

 直立しているのが、苦痛だった。近くにいた曹司の腕につかまる。少し驚いたように、彼は振り向いた。

「ごめん。ちょっとこの絵、気持ち悪くて」

「気持ち悪い?」

 燐は近くの椅子にへたり込んだ。これ以上、絵を見たくなかった。鞄からペットボトルのスポーツ飲料を取りだした。少しだけ口に含む。口内に染み渡らせるように液体を転がした後、三度に分けて飲み込んだ。その後、もう一口。食道を生温い液体が通過していくのが感触で判る。

 燐は曹司の方を見上げた。絵の方をじっと見ている。まるで魅了されているようだった。目を開いているのが辛くて、燐はもう一度目を伏せる。

「曹司君」

 燐は呼びかけた。

「……うん?」

 一拍遅れて曹司は返事をした。

「硫美ちゃんって、グロテスクな絵が得意だったんだよね?」

「ああ。それが?」

 冷静な声だった。燐は少し驚いた。曹司はこんな絵を見慣れているのだろうか。ずっと硫美と育ってきたなら、それも当然かも知れなかった。

「この絵が、一番怖いよ。気持ち悪い。死の香りが、ぷんぷんする」

「そうか?」

「うん」

 燐は立ち上がった。少しだけふらふらしている。それでも、きっと絵を見据えた。早坂良子は小さく笑っていた。

 丸顔の穏やかな笑顔。

「それで、硫美ちゃんはどこに?」

「さあ」

 そのとき、廊下の方から硫美の声が聞こえてきた。珍しく、切羽詰まったような声だった。

 燐は曹司と一瞬、顔を見合わせた。それからすぐに廊下に飛び出す。

 そういえば、と燐は思いだした。硅から、硫美の身辺に気をつけるように言われたばかりだった。とは言え、硅は理由を何も説明しなかった。明らかに何かを確信している様子ではあったのだが、聞き出すことは出来なかった。

 廊下に出る。また硫美の声が聞こえた。他にもう一つ、男性の罵るような声。

「美術室!」

 声は閉鎖されていたはずの第一美術室からだった。見れば、鎖が解かれている。恐らく硫美が外したのだろう。

 燐は第一美術室の中に飛び込んだ。すぐに状況を確認する。部屋の奥、ちょうど三人が吊されていた辺りで、硫美と沃太が揉み合っていた。

「硫美!」

 曹司が叫ぶ。沃太は虚を突かれた様にそちらを振り向いた。曹司が沃太に飛びかかる。硫美を離そうとしない沃太を、右手の拳で殴り飛ばした。鈍い音が室内に響く。

 決着は一瞬だった。沃太は棚に身体を打ち付けて床に倒れている。曹司は硫美を背中に庇っていたが、沃太が起き上がってこないので、硫美を優しく抱き止めた。

 燐は三人の方に慎重に近づいた。沃太がよろよろと、棚に捕まりながら起き上がる。口の中を切ったのか、唇から血が滴っている。

「お前、何してやがる」

 曹司が低い声で訊いた。

「そいつが」沃太が顔をしかめながら言った。「俺に、妙な手紙を寄越したんだよ」

「手紙?」

「早坂良子からの、ラブレターとか言ってな」

 曹司は一瞬、きょとんとした。

「舐めんじゃねーよ。そんな悪趣味な悪戯して許されるとでも思ってんのかよ」

 沃太が剣呑な目つきで硫美の方を睨む。その視線から庇うように曹司は立っていた。

「硫美?」

「本当よ。私が手紙を書いて、彼に出した」

 硫美は平板な口調で、そう言った。

「わざわざ筆跡を真似てね」

 燐は横から補足した。硫美が迷惑そうな視線を飛ばしたので、燐は肩を竦めた。

 沃太が低い声で糾弾する。

「何のつもりだよ、あんなことして。俺を怖がらせて楽しいかよ?」

「私は良子の意志を代弁しただけ」

 しかし硫美は平板な声でそう返しただけだった。

「んな言い訳、通じるとでも思ってんのかよ?」

「言い訳?」

 硫美はうっすらと笑った。

「私に関して言うなら、どんな責任でも取る」

「……ざけやがって」

 沃太が押し殺した声で言った。口調の割に、とても怖がっているように見えた。硫美に対して、酷く怯えている。

 無理もない、と燐は思った。

「貴方には」

 燐は意識的に口調を整えた。

「受け取るだけの責任があるんじゃないかな」

「……あん?」

「だって、早坂さんを」

 燐は一瞬、目を伏せた。

「三人を殺したのは、武藤沃太君、貴方でしょう?」

 沃太の顔色が、一瞬で青ざめた。

「……適当なこと、言ってんなよ」力ない声で沃太は言った。「大体、事件のときこの部屋は密室だったじゃねーか。どうやって部屋から出たんだよ? しかも、火を点けてからだろ。俺はその時間電車に乗ってたし、その後はずっと教室にいたんだ。クラスメイトが何人も見てるはずだ」

「うん、それはね、誰にでも出来ることなんだよ」

 燐は人さし指を立てた。硅と事件の話をした後に、考え続けて導き出した結論を説明する。

「そもそもね。その火を点けた際に美術室にいた、っていうのが間違いなんだ。あれは、化学反応を利用して、あのくらいの時間に点火するように工作しただけ」

 沃太は何も言わなかった。燐は硫美の方を見る。相変わらずの、感情の読めない瞳だった。

「画材に乾性油というのがある。これは空気中の酸素と反応して固まるんだけど、その際に若干の熱を発するものなのだな。普通に絵を描いている分には、反応が緩やかだから問題ない。だけど布に染みこませたりして表面積を広げた状態で放置すると、非常に高熱になることがある。解体した使い捨てカイロみたいなもんだね」

 燐は硫美の方を改めて見遣った。小さく、頷いたように見えた。

「さて、そこに、横薬と頭薬を混ぜたマッチを用意しておく。そうすれば乾性油の発熱で十分発火できる。それを可燃性の画材の近くに置いておけば、本人がそこにいなくても小火騒ぎを起こせる。燃焼にかかる時間は、燃料となる画材の量を調節することである程度は調整できるからね。朝八時ごろに燃えていれば良いんだから、簡単なもんだ。燃料を大量に用意しておけば、仮に絵が燃え落ちてもずっと火は点いているからねぇ。こうやって君は自分のアリバイを作り出した」

 沃太の表情を燐は確認する。酷く青ざめていた。まるで、吊されていた三人の少女のような顔色だった。ヨウ素のような、紫色。

「じ、時間はそれで良いにしたって、どうやって鍵のかかった部屋から出たっつうんだよ!」

「うん、そこは私も悩んだんだけどね。誰かがあの扉を蹴破ったとき、すでに壁の方が壊れていたとしたら、問題は解決するよ」

 燐は授業中に寝ながら考えた仮説を披露した。

「部屋から出る前に、壁の方を壊しておいたんだ。実際、鑿で削ったような跡が壁についている。美術室なら彫刻用のがいくらでも置いてあるからねぇ。それで鍵がかからないようにしておいて、部屋の外に出る。それから細工をして扉と床を固定したんだ。だから強度が足りなくて、二度蹴っただけで開いてしまった。変だと思ったんだよ、あれだけの衝撃で金具ごと吹き飛んでいるなんて」

「固定って」曹司が口を挟んだ。「なんかやってたら、すぐにばれるだろ? 警察が調べてたんだから」

「いいや。やり方次第だよ。扉はね、油絵用のニスかなんかを使って固めたんだ。美術室の床を見てみなよ。絵の具やらなんやらの跡でいっぱいだ。ニスだって当然、其処此処に零れてる。一つくらい増えたって気にされない。それに火を消すために消火剤をばらまいたから、余計に何があったか判らない。どれが、今日零されたものなのか、なんてね」

「……なるほど」

 曹司が納得したように頷く。沃太は何も言わなかった。

「さて、事件のときの流れだけどね。君が三人を殺した理由を、詳しくは知らないよ。だけど君は環ちゃんとトラブっていたらしいね。告白した後も、付きまとっていたのかな。弾みで殺してしまって、その場に居合わせた全員も巻き添えというところか。そのときの環ちゃんの声をオーケストラ部で第一音楽室にいた小池さんが聞いている。だけど、後で確認したところ美術室ではない。と、なると反対側の第二音楽室。軽音部の部室が犯行現場だ。シールドかなにかで絞め殺したんだね」

 凶器のことについては、恐らく警察の方でも調べがついていると思われた。さすがにただの女子生徒である燐では、そんな情報は集められなかった。

「そ、それだったら、俺以外でも犯行は可能だろう! 俺だっていう証拠にはならない!」

「第二音楽室を使えるのは現在、沃太君か眞子ちゃんだけだよ。そして眞子ちゃんにはアリバイがあるのだ。深夜までコンビニでアルバイトしている。本当はいけないんだけどね」

 ぐ、と沃太は息を呑んだ。青くなって震えている。しかし、気丈にも言い返した。

「ち、違う。俺は、早坂たちを殺してなんか、いない!」

「いい加減、観念しなよ」

 燐は冷たくそう言った。

 沃太の身体が、一瞬沈んだように見えた。

 燦めきが走る。

 沃太が吠える。

 近くにいた曹司に突進した。

 その手に、

 鈍く光るものが握られている。

 棚に置かれていたペインティングナイフだと、

 なぜか一瞬で燐は理解した。

 しかし、

 距離が遠い。

 沃太の身体が

 曹司に迫る。

 腰溜めに構えて

 一直線に。

 槍のように。

 間に合わない。

 刃が身体に吸い込まれる寸前。

 曹司の身体を、

 硫美が突き飛ばした。

 沃太が、

 目標を失い

 前のめりに転倒する。

 赤が舞った。

 燐は慌てて倒れた沃太に近づき、その手を思い切り踏みつけた。しかしすでにナイフは手にしていない。燐は沃太の身体を押さえ込んで、背中に思い切り肘を落とした。後頭部に膝も入れておく。イギリスにいたときに習った護身術の応用だ。

 効果は覿面だったようだ。沃太の身体から力が抜ける。それでも燐はその身体を押さえ込み続けていた。周囲を見渡してみる。しかしナイフが見当たらない。

「硫美!」

 曹司の叫びに、燐は視線を巡らせた。硫美が右手を押さえてうずくまっている。その手が、真っ赤に染まっているのが燐のところからでも見えた。

「救急車!」

 燐は叫んだ。曹司は慌てて携帯を取り出して、コールしている。

「それから誰か先生呼んできて!」

 燐は言いながら、押さえ込んだままの沃太を確認した。どうやら意識が無いようなので、慎重に手を離す。しかし、彼は身じろぎ一つしなかった。

 曹司がどたばたと部屋を出て行く。

 燐は硫美の方に駆け寄った。ハンカチを取り出す。手の状態を確認する。

 真っ赤に染まっている。

 生命の色。

 死の色。

 夕焼けの、色。

 その手の甲から。

 ペインティングナイフが生えていた。

「燐」

 硫美が、掠れた声で言った。顔に脂汗が浮かんでいる。

「硫美ちゃん、大丈夫っ?」

「貴方、救いようのない大馬鹿者ね」

 硫美は赤子を相手にするように、うっすらと微笑んだ。

「良子は、自殺したの」




     *




 燐と曹司は救急病院の待合室に座っていた。誰かが連絡したのだろう、硅もついさっき駆け付けていた。しかしすぐにどこかに行ってしまった。硫美の母親の静もいたのだが、病室の中に呼ばれて入っていった。

 沃太は学校に駆け付けた警察に引き渡した。少なくとも、傷害の罪には問われるはずだ。

 燐は混乱していた。怪我をした後、硫美が言った台詞が頭の中を駆け巡っている。沃太が三人を殺害したのだと確信していた。証拠だってある。しかし硫美は、早坂は自殺だと言った。その意味がまるで解らない。仮に冤罪なら、沃太だってあんなに取り乱したりしないだろう。

 先程から二人とも一言も喋っていない。燐は長いすに座ってぼんやりしていた。

「ほら」

 いつのまにか戻ってきた硅が、テーブルに紙コップを置いた。中にコーヒーが注がれている。

「ありがと」

 燐は小声で礼を言った。硅は曹司の方にもカップを置いて、燐の隣に腰かける。

「曹司君に怪我はないのかい?」

「大丈夫です」

 硅の問いかけに、曹司は申し訳なさそうに言った。

 燐は両手でカップを包み込んだ。とても温かかった。冷えた両手に血が通って、すこしこそばゆい。

 紙コップから立つ湯気を見つめる。白い筋がいくつも立ち上っては、不規則に揺れ、空気中に融けていく。何本も、何本も。

 燐はコーヒーに口を付けた。抉るような苦みと妙なコク。わずかな青臭さを感じる。かなり粉っぽい。とても不味かったので、涙が出そうだった。

 膝が痛い。沃太を押さえ込んだときのものだろう。先ほど確認したら、酷い青あざになっていた。短いスカートなので恥ずかしい。

 扉が開く。入ってきたのは静だった。

「あら、硅君」

 静が硅を見て、目を丸くした。

「こんばんは」

「え? 知り合いだったんですか?」

 曹司が驚いて訊く。すると静は、恥ずかしそうに微笑んだ。

「ええ」

「その話は後で」

 有無を言わさぬ口調で硅が言う。頷いた静の後について、三人は部屋を出た。

 薄暗い廊下を進んで、部屋に入る。処置室かなにかのようだった。一台だけ置かれたベッドに、硫美が横になっていた。硫美の右手には分厚く包帯が巻かれていた。まるで片手にだけミトンをつけているかのようだった。

「硫美っ」

 曹司が押さえた声で呼びかけた。すると硫美は目を開いて、ニヒルに笑った。ゆっくりと上体を起こす。真っ白な顔をしていた。

「怪我は?」

「今日のところはとりあえず、応急処置。今後どうなるかは、精密検査などをしてから」

 静がゆっくりと説明する。冷静さを失わないように、苦慮しているように見えた。

「そうですか……」

 丸椅子に曹司と静が並んで腰かけた。燐と硅はとりあえず、紙コップを持ったまま立っておくことにする。

「大丈夫?」

「ええ、もちろん」

 燐が訊くと、硫美はうっすら微笑んだ。

「良子の事件はどうなったの?」

「あ、うん」

 燐は硅の方に目を遣った。すると、硅は小さく頷いた。

「じゃあ燐、よろしく」

「私?」燐は少し驚いた、「まあ、良いけど……」

 それから不承不承頷いた。正直、気乗りがしなかった。硫美の一言が気にかかっている。

「じゃあ、事件のポイントを説明するね。まずは絵が燃えていた件から。あれは犯人のアリバイを誤魔化すためのものだった。化学反応を利用して、犯人が部屋の外に出てから点火する。その間に自分が人と話すことでアリバイを偽装した」

 燐は話しながら、全員の顔を恐る恐る窺った。しかし、硫美も硅も異論は無いようだった。

「次に密室について。事前に壁の方を鑿で破壊しておいて、外に出てからニスか何かで固めたんだ。元々美術室に零れていても不思議じゃない物質だし、消火剤が撒かれた所為でよりいっそう判りにくくなった。壁の傷が一応の証拠」

「うん」硅が頷いた。「そうだろうね」

 燐は硫美の方を窺った。顔を伏せていて表情は良く判らないが、文句はないようだった。

「物理的な要因については、それで問題ないだろう」硅が落ち着いた口調で言った。「個人的には、非常に実戦的なデザインの密室であるように思える」

「実戦的?」

 曹司が鸚鵡返しに訊いた。

「うん。リスクマネジメントの面で優れている。ニスを使ったのが心憎いね」

「そうですか? 証拠が丸々残ってしまうと思うんですけど」

「それも含めてだね」硅は微笑んだ。「正直なところ、美術室を密室に見せかける手段はいくらでもあるように思える。ミステリ小説なんて読んでると特にね。隙間から糸を入れて鍵を操作するとか、氷を使った仕掛けとか。そうそう、扉の枠を変形させるとか、電気溶接したなんてのもあったね」

 硅はどこか楽しそうに説明を始めた。

「しかし密室を作った犯人はニスを使った。この手段の欠点は明確だ。ニスが残ってしまう。逆に言えば、何がネックになるか明白である、とも言える。そう、一番弱いところが、最初に破綻するところが明らかなんだ。だから対策が立てられる。ヒューズや鎖骨みたいなもんだ」

 硅は人さし指を立てた。

「まず現場が美術室だ。油絵の仕上げにニスを使うことがある。ニスの染みが落ちていても、いつ出来たものなのか、判別するのは難しい。それと小火騒ぎ。燃えているものがあって、おあつらえ向きに消火器がある。誰だってそれで消し止めるよ。消火剤が室内にばらまかれることで、ニスがどこから出てきたものなのか判別するのはさらに困難になる。アリバイと併せて二重に効果が期待出来る」

 むむ、と曹司は首を捻った。硅はそれを気にした様子もなく、燐に続きを促した。仕方なく、燐は説明を再開する。

「で、問題はこの方法だと、実はほとんど誰にでも犯行が可能だということ。犯人が絞れないんだ。でも、一つ証言があった。オケ部の小池さんが部活中に環ちゃんの声を聞いている。でもその後、美術室を覗いたけど、なにも起こっていないことを確認しているんだよね。と、なると現場は反対側の第二音楽室になる。その部屋に入れるのは、軽音部の武藤沃太君と井上眞子ちゃんだけ。でも眞子ちゃんは深夜までバイトしていてアリバイがあるから……」

 燐はもう一度、全員を見渡した。視線に気が付いたのか、硅は小さく咳払いをした。

「それで武藤君が犯人だと思ったわけか。ちょっと弱いが、まあ良いだろう。僕としても足りない情報が幾つか埋まった」

「でも」曹司が口を挟んだ。「矛盾は無さそうですけど、幾つも謎が残ってますよね?」

「ああ」

 硅は頷いた。それから親指から順に立てていく。欧州式の数え方だった。

「まず、どうして絵を燃やしたか。アリバイ工作は良い。ニスを誤魔化すのにも役立った。だけどそれなら絵である必要はない。ただ画材だけで良かったのになぜ絵をも燃やしたのか。それに死体の状態。なぜ三つの死体をわざわざ梁から吊した上に、胸にペインティングナイフを突き立てたのか。そもそも、どうして死体が見つかったのが美術室なのか。殺害現場は第二音楽室なのに」

「うう……」

 燐は思わず項垂れた。言われてみれば、すべてその通りだった。不自然な点が多すぎる。

「ええと」硅は遠慮がちに硫美の方を向いた。「硫美ちゃんとお呼びして構わないかな?」

「どうぞ。なんなら呼び捨てでも。そちらの方が都合が良いでしょう?」

「……どうも。でも、とりあえずはちゃんづけにしておくよ」

 硫美のぶれない姿勢に、硅は少したじろいだようだった。

「そもそも、一番の謎は硫美ちゃんの行動だよ。なぜ、わざわざ早坂良子の名前でラブレターを書いたのか。それと地味だがもう一点。どうして事件の日の朝早く、登校直後に美術室に行ったのか」

「……へ? 画材置きに行ったんじゃないの?」

「もしそんな理由なら、部活のときに持っていけば済む話だろう。朝に行って戻ってきたら、二度手間じゃないか」

「そりゃそうだけどさ……」

 燐は釈然としないながらも頷いた。あの日の朝のことを思い返してみる。そういえばあのとき硫美の鞄はぺちゃんこだった。画材が入っているような重さではなかった。

 それを確認してから、硅は話を再開した。

「さて、そうなるとなぜ硫美ちゃんは朝から美術室に行ったのか。もちろんそれは、前日に呼び出されたからだ」

 硅は真っ直ぐに硫美の方を見た。

「早坂良子さんに」

「ご名答」

「え? だって、早坂さんはもう亡くなって……」

「亡くなる直前の彼女からメールが来たんだね?」

「ええ。まさかこんな事情とは夢にも思わなかったけど」

 硫美はさらりと頷いた。

「こう考えると、ほとんどの謎が氷解する。なぜ現場が美術室なのかも、死体の状況も、絵が燃えているのも、美術室に残されたマッチの空箱も、だ」

 硅は小さく微笑んだ。

「あの密室を作り出したのは、早坂良子さんだった」

「え?」燐は思わず上擦った声を出した。「だって、早坂さんは被害者じゃん!」

「そうだ。でも同時に犯人でもある。……いや、被害は受けていないかな」

 硅は横目で燐の方を見遣った。

「なぜ現場が美術室なのか? それは早坂さんが美術部で、密室を作るのに利用できそうな道具が揃っていたからだ。大体ね、美術部でも無い人が、乾性油の酸化による発熱やら引火性の絵の具やらを利用できるはずがない。画材に詳しい人が作り上げた装置だ」

「で、でも」

 曹司が反駁した。

「早坂は実際死んでいます。しかも死後に胸にナイフを刺されている。自分一人じゃ出来ないはずです」

「うん、その通り。順を追って説明するよ」

 硅はそう言って、二秒ほど考えたようだった。

「まず、最初の殺人だ。一番に殺されたのは酒井環さん。ただ、加害者は武藤沃太君だ。燐の話を聞く限り、第二音楽室で絞殺したと見て間違いないだろう。ただ、これは計画的なものではなく、衝動的にやってしまったのだろう」

 燐は黙って聞いていた。他の誰も口を挟まない。

「恐らく、環さんは武藤君に、早坂さんと付き合うように言ったんだと思う」

「ええ」

 硫美が、下を向いたまま、言葉を挟んだ。

「酒井環は良子の気持ちを知っていた。それをわざわざ武藤君に告げたの。良子がOKされる可能性なんて、ほとんど無いって知っていたのに。知っていたからこそ、わざわざ。しかも、告げたのは一度武藤君から告白されている酒井環。よりによってそんな相手から勧められたら、武藤君は意地でもOK出来ない。妥協したって、声高に宣言しているようなものだもの」

「……どうして? どうして、そんなことを?」

「さあ? どうせ面白半分でしょう。受験真っ最中のストレス解消。標的は指定校で進路が決まったクラスメイト。集団の中での、弱い存在。孤高になれない、憐れな相対的弱者」

 燐には、思いも寄らない理由だった。あの三人が、心の裡でそんなにどろどろした歪な関係だったなんて、思いもしなかった。

「ふむ」硅は頷いた。「死んだ三人の関係性については、もっと以前から壊れていたと見た方が良いだろう。最初に武藤君が環さんに告白して振られたことがあっただろう?」

「う、うん」

「そのときに早坂さんが間に入っている。おかしいと思わないか? 彼女が武藤君に一目惚れしたのは文化祭のとき。それから結構時間が経っている。環さんが、そのことを知らなかったとは思えない。知っていて、その上で早坂さんに間に入るように強要したんだ。明らかな悪意が感じられる。他に頼む人がいなかった、なんてはずはない。加地さんでも良かったんだからね」

 燐は納得するしかなかった。同じ教室にいたのに、そんなことまったく気が付いていなかった。

「話を戻すよ。経緯は兎も角、自分が想いを寄せていた環さんからそんな提案をされた武藤君は、馬鹿にされていると気づいたんだろう。逆上して環さんを絞め殺してしまう。そして、そこにやってきたのは早坂さん。これはある意味当然のことだ。最初の環さんたちの計画では、環さんから告げた後に、早坂さんを対面させてわざわざ振られるところを見物するつもりだったんだろう」

 なんて悪趣味なんだろう、と燐は憤慨した。しかしそれと同時に、環が恋愛関係で誰かとトラブルになっていた、という話を思い出した。あれは、自分が早坂を貶めようと画策していただけだったのか。

「さて、武藤君が環さんを殺したことを知ってしまった早坂さんは、ここで一つの決意をする。自分の命を賭してでも武藤君を助けることにした。それと同時に、どうせ命を捨てるなら、色々有効に活用しようと画策したみたいだけど」

 硅は目を閉じた。

「そこにどんな想いがあったのか、僕には理解出来ない。あくまで片想いだったはずだ。彼にそんな義理立てするようなことはない。もしかしたら、友人たちとのトラブルで心が弱っていたのかも知れない。自分の想いが武藤君の犯行の遠因になった、と負い目に感じた可能性もあるが……」

 燐は硫美の方を窺った。相変わらず下を向いていて、どんな表情を浮かべているのかは判らなかった。

「早坂さんは、自分がなんとかする、と武藤君をどうにか説得した。一番に問題となるのは加地さんだ。彼女は環さんと武藤君がこの時間に話をしたことを知っている。そのことを証言されたら武藤君の身は危ない。だから彼女を呼び出して、環さんと同じように絞殺した。そして部活が終了して他の生徒が全員下校するのを待った」

 早坂が加地を絞殺する姿を、燐は思い浮かべた。童顔の、毒気のない笑顔を浮かべる彼女が、必死にクラスメイトを絞め殺そうとしている姿は、どこか滑稽ですらあった。

「下校時刻後、彼女は密室作りを開始する。勝手な想像だけど、この作業に武藤君は関わっていないんじゃないかと思う。アリバイ作りのために、と言い含めて外に出したのかも」

「いいえ」硫美は否定した。「恐らく、加地さんを殺害したのも、良子一人でしょう。彼にそんな根性があるとは思えない」

「なるほど。まあその辺りは後で本人が話してくれるだろう」

 硅はそう、困ったように言った。

「さて、密室だ。まず早坂さんは二人の遺体を梁から吊す。縄を先に死体の首にかけてから自分の体重で引っ張り上げたんだろう。重量が足りない場合には石膏像などを使ったかも知れない。そして胸にペインティングナイフ。後は燐が説明した通りだね。壁を鑿で破壊し、乾性油とマッチ、それに絵の具と絵で発火装置を制作した。絵を扉の近くに配置して、硫美ちゃんに翌朝八時に美術室に来るようにメールを送信。証拠隠滅のために、すぐ削除しただろうけどね。そして武藤君に指示書を書き残した。発火装置の使い方と、ニスで扉を固定すること、翌朝のアリバイ作り、といったところかな。そして、自ら首を吊った。指示書の最後には、自分の胸にペインティングナイフを突き立てるように言い含めてあった。帰ってきた武藤君は相当驚いただろうね。いつの間にか死体が三つに増えていたんだから。それでも彼は忠実に指示を遂行した。もう引き返せなかったんだろう」

 硅は、起伏のない口調でそう説明した。燐はそれを反芻した。どこにも矛盾はない。観測された事象を、すべて説明している。

「で、でも。それだと、結局死体の状況も、絵を燃やした理由も、解らないままじゃない。吊さなくても良いし、燃やす必要もない」

「いいや」硅はゆっくりと首を横に振った。「早坂さんがやった、と考えると簡単に意図が汲み取れる。まず死体の状態だが、絞殺の上に胸にナイフ、なら明らかに他殺だ。仮に、最後に自分が首を吊っただけだと、二人を殺して犯人自殺、というシナリオが成立してしまう。すると早坂さんはとんでもない加害者として扱われることになる。遺された家族のことなどを考えると、とても容認できないだろう。他の二人と同じ死に方、それも他殺に見えるやり方、にすることで、事件を迷宮入りさせようとしたんだ。それと」

 硅は硫美の方を見遣った。

「どうぞ。私などにご遠慮なく」

 慇懃無礼に硫美は言った。少し苦笑いをして、硅は話を再開した。

「あれはね。早坂さん入魂のモチーフだったんだ。『吊られた少女』はタロットの『吊られた男』がモチーフになっているけれど、あれの由来が北欧神話だという説がある。オーディンがルーンを得るために、神への供物として自らを槍で刺し世界樹で首を吊ったというエピソードだ。それと同じものを硫美ちゃんに見せたかったんだろう。梁は世界樹。ペインティングナイフは槍。そして三つの死体は吊られた供物だ。だから硫美ちゃんをメールで呼び出したし、現場に店のマッチ箱を残しておいた。一緒に燃やしてしまうことも簡単だったはずなのにね。たぶん彼女はマッチ箱を常に持ち歩いていたんだと思う。敬愛する、硫美ちゃんの作品だからね」

 燐は揺れる三つの死体を思いだした。それをじっと見つめる硫美の目も。そして、今日目にした、談笑する女子高生の絵。

「良子は、いつも私にアドバイスをくれた。自分はまったく、絵なんて上手じゃないのに。なんでもない構図で、どうでもいい対象で。それでいてなぜかいつも素晴らしい絵が出来上がる。良子は、私には見えない何かを、幻視していたように思う。もしかしたら、絵じゃなくて現代芸術みたいな分野の才能があったのかも」

 硫美は、静かな口調で言った。

「それと、燃やした絵のことだけどね。あれは、早坂さんの最後のわがままだよ。ただ、一緒に持っていきたかったんだ。二人の思い出の絵を」

「いいえ。あれは良子にあげた絵。自分の所有物をどう処分しようとも自由。わがままですら、ない。あの子はね、そんな状況ですら、人に気を遣ってしまって好き勝手出来ないの」

 硫美はまるで咎めているみたいに、そう言った。燐にはかける言葉もなかった。曹司や静も同様のようで、病室に沈黙の帳が落ちた。

 一口、燐はコーヒーを飲んだ。冷め切った悪魔的な液体は、かなり苦くなっていた。涙が出そうなくらい、不味い。

 ふと、思い付いて燐は訊いた。

「どうして、硫美ちゃんは沃太君に手紙を出していたの? 自首して欲しかった?」

「いいえ。彼が捕まろうと、逃げおおせようと、どちらでも良かった。良子を自殺に追い込んだ、と責めたい気持ちもたしかにある。逆に命を賭けてまで守ろうとした良子の遺志を無下には出来ないとも思った。だから、もうどちらでも良かった。どちらも、選べなかった」

 硫美は、珍しく感情のこもった声でそう言った。

「手紙を出したのは、忘れさせないため。良子にあそこまでさせておいて、一人のうのうと生きていくなんて、とても認められない。だから良子の名前で手紙を書いて、最後にあの絵を見せた。それで、彼の中に良子が息づかせたかった」

「ええと」

 燐は一瞬言いよどんだが、結局訊いた。

「いつから、沃太君が犯人だって気が付いていたの?」

「最初から」

 硫美は、溜息混じりに言った。

「だって私は、あの日酒井と加地が武藤沃太を絡めて何かをしようとしている、って知っていたんだもの。良子から相談されていたけど、何も出来なかった。あんな酷いことになるなんて、思ってもみなかった」

 平板な口調だった。けれど、小さく唇を噛んでいた。

「密室やアリバイはともかく、彼が関係しているのは確実だった。良子が自殺だというのは、死体の状況から類推できる。それと、酒井と加地の件については、良子の日記にもそう書いてある」

「……日記?」

「良子の部屋にある。弔問のときに、勝手に読んだ」

 硫美がそう言うと、曹司は納得したように頷いた。

「あれは、日記だったのか」

「ええ。だから、女の子の秘密」

 硫美はそう言って、やっと小さく笑った。

「やっぱり、筒抜けのね」

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