53.紫色

     ———番号53。記号I。昇華性のあるハロゲン元素。成分の分析や消毒薬として用いられる。また甲状腺ホルモンの生成に必要なため、人間の必須元素の一つ。ギリシャ語の iodestos に由来。










 下駄箱を開けると、封筒があった。

 武藤沃太はそれを取り出してまじまじと見つめた。淡い水色の可愛らしいデザインだった。表には丸っこい字で沃太の名が宛先として書いてある。ひっくり返して見たものの、差出人などは一切書いていなかった。

 これは酷い、と沃太は思った。下駄箱にラブレターとはいくらなんでも古めかしすぎる。直接告白する勇気が無かったとしても、メールを送るくらいが普通ではなかろうか。悪戯である可能性がかなり高いが、それにしたって時代錯誤にもほどがある。リアリティの欠片もない。

 とはいえ、その場で破り捨てるわけにもいかず、沃太は学生鞄の中にそっと封筒を滑り込ませた。八割の脱力と二割の期待を込めて。

 教室に向かって歩き出す。途中で見知った背中を見つけて、小走りに追いついた。

「よ」

「はよ」

 眠そうな顔で井上眞子が言葉を返した。その割に、金に染めた巻き毛はきちんと整っている。先月まで真っ黒なストレートにしていたのに、推薦で合格が決まった途端にこの髪型に戻った。

「今日、部室行く?」

「や。今日は楽器屋行こうと思って」

「そっか。ならあたしも行こうかな」

 推薦やAO入試で進路がすでに決まった者同士、気楽な会話だった。眞子はひらひらと手を振りながら八組の教室に入っていった。沃太も七組に入る。クラスメイトと適当に挨拶をしながら自分の席に向かう。

 椅子に腰掛ける。鞄から教科書やノートを取り出して、ゆっくりと机にしまう。最後に封筒を取り出した。机の下、手元でもう一度じっくりと外観を確認する。

 やはり何てことのない横型の封筒だった。黒のボールペンで沃太の名前が書かれている。裏側はデフォルメされた犬のシールで閉じてある以外、何も無かった。

 破かないように、慎重な手つきでシールを剥がす。封筒を開けると、中からは薄い桜色の便せんが出てきた。折りたたまれたそれを、ゆっくりと開く。

 突然の手紙を詫びる一文から始まった手紙は、単純に好意を伝えるだけのものだった。交際を求めるような記述もなければ、どこかに呼び出されてもいない。一体、何のために送られてきたのかよく解らなかった。

 しかし、文の最後に控えめに書かれた名前に、沃太は凍り付いた。

 差出人は、『三年三組 早坂良子』。

 つい先日、美術室で亡くなった少女だった。




     *




 いつもどおりの朝のはずだった。普段通りの時間に登校しクラスメイトと授業までの短い時間のおしゃべりをしていたとき、沃太は校舎内が妙に騒がしいことに気がついた。ばたばたと、駆け回る音が聞こえてくる。

 クラスメイトと一緒に、野次馬根性丸出しで廊下を進む。騒ぎの中心は美術室や音楽室の辺りのようだった。階段を上りきったところで、二度ほど何かを蹴りつけるような音が聞こえてくる。その後、幾つか悲鳴があがった。

 小走りで廊下を進む。美術室の前に生徒や教師が集まっている。沃太たちが軽音部で使っている第二音楽室には被害が無さそうだった。

 廊下の先の方から、警察や消防などと叫ぶ声が聞こえてくる。小火騒ぎでもあったようだ。焦げ臭い匂いがする。男子生徒が一人、廊下に置かれていた消火器を持って美術室の中に駆け込んでいく。

「火事?」

「たいしたことなさそうじゃん」

 沃太はクラスメイトと話しながら、先に進む。美術室に近づくと、煙が漂っていた。口元を手で覆いながら、ひょいと部屋の中を覗き込んだ。

 イーゼルにかけられた絵が燃えている。

 すぐ隣で、クラスメイトが叫んだ。

 美術室の後部。

 三人の女子が吊られていた。

 確認するまでもなく、死んでいるのが判った。

 見慣れたセーラー服姿だった。

 首に縄をかけられていた。

 胸からナイフの取っ手が生えている。

 急に後ろから誰かに押されて沃太はよろめいた。燃えているイーゼルを慌ててよける。教卓に身体がぶつかった。左手を教卓の天板について身体を支える。

 死体の顔を確認してしまう。見知った顔が二人いた。オーケストラ部の酒井環と、美術部の早坂良子。二人とも33だったはずだ。もう一人も顔は見たことがある。しかし名前までは判らなかった。

 誰かが消火器を噴射したようだった。視界が白くなる。

 その後、何がどうなったのか、沃太はよく覚えていない。たしか、駆けつけた教師によって美術室から追いやられ、教室に戻らされた。自習になった一時間目が終わると、学校全体が休校になることが発表されて、強制的に家に帰らされた。

 沃太は水色の封筒を手でもてあそびながら、その日のことを思い返していた。早坂の血の気の無い顔が、今でも目に焼き付いている。

 沃太は封筒を開いてもう一度じっくりと本文を読み返してみた。丸っこい、おそらく女子が書いた字だ。文脈としては単に好意を抱いている旨が書かれているだけだ。交際を求められたり、どこかに呼び出されたりはしていない。署名は早坂良子になっているものの、本文中にそれを示すような記述はない。つまり、誰にでも書ける内容だった。早坂や沃太のことを知っていようといまいと、テンプレート通りに作成できるラブレター。

 誰かの悪質な悪戯だと、沃太は判断した。それ以外に考えられなかった。早坂のことは顔も名前も知っていたし、話したことも何度かある。好意を抱かれていた可能性もゼロではない。しかし、言うまでもなく死人からラブレターが届くはずはない。

 たしかにホラー映画などでありそうなシチュエーションではある。将来的に学校の七不思議に採用されかねないほどの題材だった。しかし悪戯にしては、いくら何でも悪趣味で不謹慎すぎやしないか、と沃太は不快に思った。

 しかしもっとも解せないのは、どうしてよりによって早坂の名前で自分に送られてきたのかだった。沃太と早坂の間にはほとんど接点が無い。被害者の中で一番仲が良かったのは、二年のとき同じクラスだった環だ。彼女からの手紙の方がまだ信憑性がある。

 彼女はオーケストラ部で、いつも軽音部の隣、第一音楽室でチェロを弾いていた。部活帰りに一緒になることも多く、帰りの電車でよく話したものだ。

 どちらにせよ、どうして沃太の下駄箱に入れたのかについては、まるで心当たりがない。誰が何のためにやったのか。ただの悪戯だとは思うし、特に実害があるわけでもない。それでもかなり気持ちが悪かった。

「お待たせ!」

 眞子がトレイを持ってやってくる。上には飲み物の紙コップが二つ載っている。沃太はさり気なく、封筒をポケットにしまった。

 二人は軽音部の買い物で放課後、お茶の水に来ていた。楽器屋を一通り巡って、駅前のロッテリアに腰を落ち着けたところだった。

 沃太も眞子も軽音楽部の部員だ。沃太はギター、眞子はキーボードを弾いている。バンドを組んで活動しているのだが、今は他のメンバーが受験中のため、活動は休止している。

 部内で推薦で進学を決めたのは二人だけだった。他の部員はまだ受験勉強中なので大っぴらには遊びづらい。なので放課後暇を持て余しては、部室で楽器を弾いたり楽器屋を冷やかしたりしている。

「何見てたの?」

「ちょっとな」

 ストローを挿してコーラを飲む。炭酸が口の中で弾ける。甘みが少し粘ついた。

「なあ」

「うん?」

 眞子がストローを咥えたまま首を傾げる。

「……早坂良子っていたじゃん」

 眞子が頷く。こくり、と喉が動いたのが見えた。

「どんな奴だったか知ってる?」

「知ってるよー。一年のとき同じクラスだったからね」

 眞子は少し訝しげだったが、それでも話し始めた。

「なんか割と、小動物系? 良い子だったよ。大人しくてね、ハムスターとかそんな感じ」

「ふうん」

「なんで?」

「いや、ちょっと気になっただけだけど」

「何なんだか。よく判らないけど、沃太が好きになる感じの子じゃなかったよ? どっちかってっと可愛い系だし。沃太、キレイ系の方が好きじゃん」

「んで知ってんだよ、そんなこと」

「だってねぇ。っつーか、酒井環のこと、好きだったんじゃないの?」

 眞子はさらっと言った。沃太は噴き出しそうになった。すんでの所で堪える。

「いや、ちょっと待て。本当に、なんで知ってんの?」

「ふふふ」眞子はにやにやと笑った。「んなの、話しているときの視線やら表情やら見れば、一目瞭然じゃん? しかも部活終わったあと、なんかぐずぐずしてオケ部終わるの待ってたりしてたし? 気がつかない方がアホじゃね?」

「……マジか」

 眞子はケタケタと笑うことで返事をした。

 沃太は音を立ててコーラを啜った。勢い余って喉の奥に液体が当たり、咽せそうになる。とてつもなく格好悪かった。

「まー良いや。えっとねー、早坂さんでしょ? つってもなー、クラス変わってからほとんど喋ってないしね」

 ううん、と眞子は一瞬考えた。

「そんくらいかなー。あたしが知ってるのは。これ以上知りたかったら、33の誰かに訊いてみたら?」

「ああ」

 沃太は曖昧に頷いた。頭の中で33の知り合いを検索してみるが、一人もいなかった。

「あ、そだ。早坂じゃなくて、加地なら彼氏いたよ?」

「加地?」

 一瞬誰のことだか判らなかったが、すぐに思い出す。もう一人の犠牲者だ。

「うん。うちのクラスの坂下と付き合ってた」

「坂下か……」

 沃太はその名前に聞き覚えがあった。たしかサッカー部で、そこそこルックスが良い。

「まあ、付き合ってたんだか、遊ばれてたんだかしらねーけど」

 眞子はそう言って、少々品の無い笑い方をした。

 坂下はチャラい男として、名を馳せている。沃太が知っているだけでも、三人くらいの女子とつきあった経験があるはずだ。地味な印象の強い加地と交際しているとは、思いも寄らなかった。

 もしかしたら、坂下が早坂のことを何か知っているかも知れない。今度話に行こう、と沃太は決意した。

「っつか、結局あれの犯人って誰なんだろうね?」

「犯人?」

「殺したの。捕まってないじゃん? マジ怖いんすけど」

 殺人犯はまだ捕まっていない。なのに一週間ほど学校は休校になっていたものの、その後は平常通りに活動している。毎日のように警戒するように言われるが、時間が経つにつれて事件は風化している。事件直後に学校中に満ちていた警戒心が、日に日に薄れていくのが解る。

「部活帰りだったんでしょ? あれ。残ってて大丈夫か、とか考えるよね?」

「まーな」

「しかも被害者みんな女子じゃん? 次私狙われたらどーしよ?」

「お前だけはねーよ」

 沃太は一笑に付した。

「大体、連続殺人とかじゃねーし。そうそう何度も起こらないって」

「そーかなー」

 眞子は不満そうに言った。それから顔を沃太の方に近づけ、少し声を落として言った。

「でもさー、実はあたし怪しいって思ってる人いるんだよ」

「誰?」

「沢渡」

「あん? 誰それ?」

 沃太がそう聞き返すと、いよいよ声を落として眞子はひそひそと言った。校内ではないので誰かに聞かれる心配もないのだが、気分の問題だろうか。

「美術部にいるじゃん。なんか絵が無茶苦茶上手くて賞貰った子」

「ああ、いたような」

「あの子さー、なんか変な絵ばっか描いてるらしいんだよ。死体の絵とかさ」

「死体の絵? なんだそりゃ」

「いや、まんまだけど。なんか死んだ犬の絵とか、超リアルに描くって。絶対どっか病んでるよねー」

 そう言って、眞子はまたストローに口をつけた。途中で中身が無くなったようで、空気が吸い込まれる下品な音が響いた。沃太も自分のコーラを飲み干した。

「さて、じゃー帰る?」

「おう」

 トレイにコップを乗せてゴミ箱まで持っていく。それから連れだって、少し混み合った店内を出た。

「あ、俺、寄ってくとこあっから」

 駅に向かって歩き出した眞子の背中に沃太は声をかけた。

「ん。どこ?」

「アキバ」

「へー。え、何? 沃太、オタクだったん? 萌えちゃう人? メイド喫茶とか?」

「ちげーよ、バーカ」

 わざとらしく肩をすくめて眞子は駅の中に入っていった。それを見届けてから沃太はぶらぶらと秋葉原の方へ歩き出した。

 目的の電器屋に向かって歩く。携帯電話の新機種を見に行くのだ。受験合格のお祝いで買って貰えることになっている。その途中、見慣れたセーラー服が目に入った。艶やかなポニーテールを揺らしながら、下を向いて歩いている。どうやら手元のメモを見ているようだ。

 顔に見覚えがあった。たしか、33の蒔田燐だ。どこかからの帰国子女だったはずだ。あまりに目鼻立ちの整った美人だったので覚えていた。すらっとした体型ながら、出るべきところはしっかり出ている。スタイルも理想的だった。

 沃太がつい様子を覗っていると、燐は歩道の脇に寄った。建物の壁際で、眉をひそめてメモを睨んでいる。何か困っている様子だった。そのまま少し様子を見ていたが、燐は二度ほど首を捻っただけだった。

 燐が33だということは、早坂や環と同じクラスだと、沃太は気がついた。同級の女子同士なら、交友もあったことだろう。

 意を決して、沃太は燐の方へ近づいた。

「蒔田さん?」

「お?」

 とぼけた声とともに、燐は顔を上げた。前髪がふわりと揺れる。間近で彼女を見たのは初めてだった。睫毛が長く、白い肌に影を落としている。少し吊り目気味の大きな目が、驚きのためか軽く見開かれていた。鼻筋はすっと通っていて、瑞々しい唇にはグロスが控えめに乗っていた。

「えーと」燐は一瞬訝しげになったが、すぐに沃太の制服に気がついたようだった。「ごめん、誰だっけ?」

「武藤沃太。37で軽音部」

「いや、見覚えはあったんだけどね? 名前まではちょっと。ごめんね」

「いや、多分話したの初めてだから」

 沃太は何となくフォローした。燐はそれを聞いてわずかに首を傾げた。訝しんでいる様子だった。

「うん、まあ良いや。それで?」

「いや、見かけたから声かけただけ。何か困ってたみたいだし」

「ああ、なんだ」

 燐は少し納得したような表情になった。それから、手に持ったメモを沃太に見せた。

「これなんだけどね」

「何コレ?」

 渡されたメモには、英語らしきものと、妙な図形が描いてあった。

「買い物を頼まれちゃってさ。メモを貰ったんだけど、字が汚すぎてなんだか判らなくてさ」

 燐の説明を聞きながら、沃太はメモを見返した。汚い字だったが、一応アルファベットだということは判別出来る。しかし型番なのか、意味の通らない文字と数字が並んでいるだけだ。

「これが何なのかすらよく判らない。で、下に書いてある地図の店に行って店員に訊けば解るから、と言われてきたものの」

「これ、地図? マジで?」

「私には蜘蛛か何かに見えるけどねっ! 本人的には地図らしい。元々秋葉原なんてほとんど来たことがないからさ、この地図上でここがどこかも判らない」

 沃太は改めて地図らしきものを見た。太い線と細い線が何本か引かれている。太さと交わり方を、この近辺の道路図と照らし合わせると、たしかに地図のようだった。どうやら目的の店は神田明神の近くにあるようだ。

「ああ……」

「判る? 判んないよねぇ」

「いや、多分大丈夫」

 沃太がそう言うと、燐は少し声を高くした。

「本当?」

「うん、多分この近く」

 沃太は先に立って歩き出す。その後ろから燐が弾むようについてきた。

「いやぁ、助かる助かる。ありがとね!」

「うん」

「沃太君は、この辺詳しいの?」

「いや、そんなには……」沃太は曖昧に付け足した。「軽音部だから、お茶の水の楽器屋にはよく行くからさ。それで何となく」

「ふうん」

 燐は気のない素振りで頷いた。

「日本の住所は困るんだよ。ヨーロッパとかだと、通りの名前と番地が判れば、大抵たどり着けるからさ」

「マジで?」

「うん。番地は規則的だからね。偶数と奇数が道のあっちとこっちで、順番に並んでる。通りがどこにあるかは、調べればすぐに判るし、ジモティなら細い道でも大抵知ってる。あ、でも逆に大まかな場所は日本の方が判りやすいかな。付近一帯が、同じ町とか村で表されてるから」

 燐は明るくそう言った。話しぶりからして、帰国子女だというのは本当らしい。沃太は海外に行った経験が無いので、少し気後れした。

 一軒の店の前で足を止める。どうやらここが、地図で指定された店のようだ。

「電器屋?」

「いや、多分、オーディオの専門店ではないかと」燐がふにゃりと笑った。「あいつ、そっちのマニアだからさ」

 燐は諦め半分、といった風情でそう言った。その言い方がかなり親しげだったので、買い物を頼んだのが誰なのか、沃太は少し気になった。

 自動ドアをくぐって店内に入る。燐はすぐにレジに向かって店員にメモを見せている。沃太はすることも無いので、店内を見て回ることにする。燐が言ったとおり、オーディオの専門店らしく、ヘッドフォンやスピーカーが大量に展示されていた。ケーブルや電源タップがとんでもない値段だったので少し驚く。

 特に興味深い物が無かったので、足を止めることなく店の入り口に戻る。すると燐の買い物はもう終わっていた。すぐに店の外に出る。

「結局、何だったの?」

「……ピュアオーディオ用フューズ」

 ぼそりと燐が言った。面倒くさそうな低い声だった。

「ふゅーず? 何ソレ?」

「うーん、どう説明したら良いかなぁ。電子部品だよ」

「ふうん……?」

 沃太には今ひとつ何なのか解らなかったが、それでもとりあえず頷いておいた。

「ま、沃太君のおかげで助かったよ!」

「いや、それほどでも」

 にっこりと微笑んだ燐に、沃太は少し見惚れた。笑顔になると、普段よりは幼く見えた。

「この後時間ある?」

「え、うん。大丈夫」

「じゃあ、どっか寄って行こう。お腹空いちゃった」

 店から秋葉原駅への途中、ミスドを見つけて入った。沃太が席を取っている間に、燐がレジに並ぶ。沃太は二階の禁煙席に陣取った。

「お待たせっ!」

 トレイにドーナツとコーヒーカップを載せて燐がやってくる。沃太は普段ならコーヒーなどまず頼まない。しかし、今はなんとなくそんな気分だった。

「あ、いくらだった?」

「良いって良いって。今日のお礼! っつーか、経費として請求するから大丈夫」

 そう言って、燐はへへ、と悪戯っぽく笑った。表情がころころ変わって楽しい女子だと、沃太は思った。可能ならばお近づきになりたい。

「や、でも秋葉原ってちょっと面白いね。それと楽なのも良い」

 燐はコーヒーに一度口をつけてから言った。

「ロンドンにも、トッテナムコートロードっていう電気街があるんだけどね。あそこは基本的に商品に値札がついてないんだよ」

「へー」

 沃太はコーヒーにミルクを入れながら頷いた。スプーンをくるくると回してかき混ぜる。

「絶対に店員と値段交渉しないといけない。まあ、私なんかは見ての通りアジア人だから、大抵足下を見られてふっかけられちゃうんだけど。それを何とか値切って買わなくちゃいけないんだ。楽しいけどちょっと面倒でねぇ」

 なぜだかしみじみと燐は言った。

「アキバは逆に値段交渉厳禁だと言い含められて今日はやってきたのでした。文化の違いだねぇ」

 沃太は喋っている燐を前に、どう話を切り出したものか迷っていた。早坂良子や酒井環について訊きたいのだが、どう話題を変えたら自然なのか、思いつかなかった。

「蒔田さんってさー、33だよね?」

 話が途切れたところで、沃太は意を決して切り出した。

「うん。そうだよ?」

「じゃあ、あれだよね。あの事件で大変だったんじゃない?」

「大変? いやそんなことはないけど。まあ、話を訊かれたりはしたけどねっ。実際に被害に遭った子もいるのに、そんなこと言ってられないっていうか」

 燐は少し真面目な顔になってそう言った。話の導入を少し間違ったか、と沃太は反省した。

「ええと、被害者にさ、早坂さんっていたよね?」

「うん」燐は首を捻った。「それがどうかした?」

「いや、その」沃太は素早く考えを巡らせた。「部活の仲間がさ、早坂さんと一年の時仲良かったらしくて。ちょっと凹んでるっつーか」

「ふうん」

 燐は曖昧に頷いた。なんだか落ち着いていないような様子だった。手がそわそわと動いている。

「早坂さんは本当に良い子だったからね。たしかに仲良かったならショックだよね」

 そう言って、燐は目を閉じた。誰に訊いても、早坂は良い子だった、という答えが返ってくる。たしかに、沃太も数回話しただけだが、悪い印象はあまりない。

「あのさー」沃太は少し迷ったが、思い切って訊いた。「早坂さんに彼氏とかっていなかったのかな? もしくは好きな人でも」

「彼氏?」燐はきょとんとした。「いや、知らないけど……。少なくとも教室で誰かとイチャイチャしてたりはしてなかったよ」

「そっか。誰のことが好きだったとかは聞いたことない?」

「ないなあ……。なんで?」

「いや、別に……」

 口ぶりから、燐は早坂とあまり親しくはなかったようだ、と沃太は判断した。とはいえ、同じクラスの女子だ。もし学校内に彼氏がいたら噂話くらいは耳にしているだろう。バイト先などならともかく、校内に交際相手はいなかったのだろう。

 燐がドーナツを手に取った、チョコレートがかかった部分にかぶりつく。ぺろりと唇を舐める仕草が色っぽかった。控えめなグロスが蛍光灯の光を反射する。食べている姿は、とても幸せそうだった。

「ああ、でも……」

 燐がふと思い出したようだった。

「イチャイチャしてたね。硫美ちゃんと」

「ルミちゃん?」

「そっ! 沢渡硫美ちゃん。二人とも美術部でねぇ、とっても仲良しだったのだ」

 燐はもしゃもしゃとドーナツを完食した後、説明を再開した。

「早坂さん含めて、殺されちゃった三人は派閥って言うか、グループって感じだったんだけどね。それとは別に、早坂さんと硫美ちゃんは仲良しだったんだよね。それで、よく二人でなんかきゃっきゃしてた。いや、きゃっきゃしてたのは早坂さんだけだったかも」

「……へぇ」

 沃太はその名前を眞子からも聞いたことを思い出した。

「沢渡さんってあれだよね。なんか、絵で賞獲った人」

「そうそう。まー硫美ちゃんはちょっと変っていうか、可愛い系不思議ちゃんな子なんだけどね。でも早坂さんの天然ぶりでちょうど良かったのかも」

「なる」

 沃太はコーヒーカップに口をつけた。予想以上に苦かった。

 眞子が怪しいという女子が、早坂と親友であったとは意外だった。たしかに沃太の中にも、早坂は厄介ごとを引き受けがちというか、困っている人を見捨てられないような印象があった。

「ところで、なんで早坂さんの交友関係なんて調べてるの?」燐が少し居住まいを正した。「軽音部の友達がいるのは解ったけど」

「いや……」

 沃太は少し慌てた。もちろん下駄箱に入っていたラブレターが調べている理由の一つだ。しかしそれをそのまま伝えるのは憚られた。妙な噂が立っても困るし、何となく燐に知られたくなかった。

「なんつーか。うん、目的があるわけじゃないんだけどさ」

「うん」

「こう、そういうことも知っておいてあげたい、っていうか?」

「ううん」

 燐はちょっと首を捻った。あまり納得していない様子だった。

「上手く説明できないんだけどさ。やっぱり、そういう気持ちっていうのが、生きてる意味ってことなんじゃないかと」

「……まあ、良いけど」

 燐はコーヒーを一口飲んだ。

「ぺらぺら喋った私が言うことじゃないけど、あんまり無神経に聞き回っちゃ駄目だよ?」

「解ってるって」

 へらへらと沃太は笑った。それを見て、ふっと燐は笑った。

「沃太君は、ホストとか向いてそうだね」

「それって褒めてるの?」

「ただの客観的な評価」

 燐はそうにやりと笑って、残っていたコーヒーをすべて飲み干した。

「さて、そろそろ私は帰るよ。今日はありがとう」

「いや……。こちらこそごちそうさま」

 店を出る間際、燐は振り向いてウインクした。

「その、簡単に奢られるところ。やっぱりホストだねっ」

 ぞっとするほど可愛かった。




     *




 沃太はドキドキしながら待っていた。

 放課後の教室だった。沃太の他にはもう誰もいない。受験生だけあって、授業が終わると全員早々に帰宅した。H高校は進学校なので、ほぼ全員が大学進学を目指している。しかし現役で合格するのは精々四割ほどで残りは浪人するのが普通だ。沃太のように推薦で潜り込めるのは、かなり幸運な部類だ。

「お待たせー」

 音を立てて扉を開けて、眞子が部屋に入ってくる。その後ろから長い金髪の男子が続いた。38の坂下だ。沃太の頼み通り、眞子は上手く連れてきてくれたらしい。

「おう」

 沃太は眞子に向かって手を上げた。すると眞子はふふん、と得意そうに笑った。

「んで?」

 坂下が面倒そうに言った。じろじろと沃太の方を見ている。眞子がその脇から説明した。

「あ、こいつ33の武藤」

「知ってる」

「話があるって」

「……はあ」

 坂下はいよいよ訝しそうな表情になった。

「何?」

「あー」

 沃太は少し考えた。それから眞子の方に向き直る。

「悪い。ちょっと外してくんない?」

「えー?」眞子は不満そうに唇を尖らせた。「坂下呼んできたのに」

「や、そこをなんとか」

「しゃーねーな」

 眞子は不満ありありな様子で教室を出て行った。からり、と小さな音を立てて扉が閉まる。

「で?」坂下が沃太を睨んだ。「なんだか知らんけど、早くしてくんない?」

「ああ」

 不機嫌そうな態度に少し気圧されながら、沃太は口を開いた。

「坂下さあ、加地とつきあってたんだよな?」

 はあ、とこれ見よがしに坂下は溜息を吐いた。

「んなこと聞いてどうするの?」

「え?」

「お前に関係あるわけ?」

 いきなり敵意を剥き出しにされて、沃太は少し腰が引けた。

「関係、ねーけど」

「あっそ」

 そう言って坂下はそっぽを向いた。続ける言葉が沃太には思い浮かばなかった。嫌な沈黙が落ちる。

「んで」

 頭の上から降ってきた声に、沃太は顔を上げた。

「なんでそんなこと訊くわけ? お前、みのりのこと好きだったとか?」

 みのり、というのが加地のファーストネームだと、沃太は一瞬判らなかった。

「そんなんじゃねーよ」

「じゃあ何? 彼女が死んで可哀相、とでも言いたいの?」

 吐き捨てるように坂下は言った。

「たしかに付き合ってたけど、俺、別にそんなにあいつのこと好きじゃなかったし。コクられたときにたまたまフリーだったからOKしただけ。っつーか今、俺、他に彼女いるし」

「え、そーなの?」

「ああ、予備校の奴」坂下はしれっと言った。「まあ、みのりが死ぬ前からだけど」

 坂下はボリボリと頭を掻いた。

「大体さあ。みのりって、大して可愛くないじゃん?」

 沃太は加地の顔を思い浮かべようとした。しかし、はっきりとは思い出せなかった。雰囲気としては地味だった印象が強い。

「だから前から切ろうかと思ってたんだ。でも、大抵のことは要求するとやってくれるからさあ。なんとなくもったいなくなって、それでずるずる構ってやっただけだから」

「大抵のこと?」

「ああ」坂下は下卑た笑顔を浮かべた。「色々試してみた。場所とか玩具とか」

 坂下の言わんとするところが解って、沃太は少し悶々とした。どちらかというと純真っぽい外見の加地がそんなことをしていたとは、夢にも思わなかった。

「だから、もうみのりのこととか、俺には関係無いの。解った?」

「あ、ああ」

 沃太は曖昧に頷いた。

「じゃあ、もう良いな?」

「や、ちょっと待って」

 帰ろうとする坂下を沃太は慌てて引き止めた。

「何?」

「俺が聞きたいのは早坂のこと」

「早坂ぁ?」

 坂下の目が細められた。

「早坂って、死んだ奴だろ?」

「ああ」沃太は頷いた。「早坂が好きだった奴を知りたいんだ。加地から何か聞いてないか?」

「知らん」

 坂下はこの上なく面倒くさそうに否定した。

「俺、あいつの友達とか興味無いし」

「んな……」

 帰ろうと背を向けた坂下の肩を、沃太は慌てて掴んだ。

「何か聞いただろ。思いだしてくれよ!」

「うるせえな。離せよ」

 坂下は沃太の手を振りほどいた。

「覚えてねえよ。どうでも良いし」

「そこを何とか」

「あー」

 沃太の必死の頼みが通じたのか、少し坂下は考えた。

「なんだっけな。沢渡がどうとか言ってたぞ」

「沢渡? 沢渡硫美?」

「そう」

「女子じゃねーか」

「知ってる。レズだったんだろ」

 どうでも良さそうに坂下は言った。

 坂下から情報を聞き出すのは無理なようだ、と沃太は判断した。付き合っていたとは言え、坂下と加地はそれほど仲が良かったわけではないらしい。

「っつーかさ。なんで早坂?」

 沃太はその質問に、精神的に身構えた。しかし続く坂下の言葉は完全に予想から外れていた。

「どうせなら酒井の方が可愛いじゃん。おっぱいでかいし。あれなら挟めそうだろ。どうせ付き合うならみのりじゃなくて酒井にしておけばと、何度後悔したことか」

 沃太は思わず環の胸部を思い浮かべた。たしかに立派なものだった。非常に蠱惑的と表現できる。

「そういや、なんか知らないけど、酒井とは出かけたな」

「は?」

「いやさ、みのりが、酒井連れてくるから山田を誘えってうるさくて。何回か四人で出かけたけど」

 沃太は山田を思い浮かべた。サッカー部のキャプテンだったはずだ。記憶の中にそれ以上の情報は何も無かった。

「酒井に何回か、今度二人で出かけない? って誘ってみたけどな。全部拒否られた。さすがにありゃまずったかな」

 坂下の言葉に、沃太は少し呆れた。いくら何でも彼女の親友に手を出すなんて、沃太の発想を超えていた。誘われた環としても、親友を裏切るような真似は出来ないだろう。

「まあ、そんなとこだな」

 坂下は唇の端をつり上げてそう言った。いつの間にか、最初の機嫌の悪さはどこかに行ったようだ。

「もう良いだろ」

 坂下が鞄を抱えて部屋を出て行く。沃太も一つ頷いてその後に続いた。坂下が扉を引き開ける。

「あ」

 目を見開いた眞子がそこにいた。すぐに気まずそうな表情に変わる。

「あはは」

 それから眞子は乾いた笑いを浮かべた。




     *




 沃太は第二美術室の中をそっと覗き込んだ。放課後の部屋には、部活動があるはずなのに生徒が一人しかいなかった。イーゼルに立てかけた絵を睨み付けるような目つきで、筆を走らせていた。

 かた、と扉が音を立てた。女子が沃太の方を向く。目つきは厳しいままだった。

「えっと、沢渡さん?」

 目が合ってしまったので、沃太は軽く微笑んで話しかけた。

「うん」

 筆を持ったまま、少女は一瞬、にたりと微笑んだ。

「こんにちは、武藤沃太君」

「あ、俺のこと知ってた?」

「うん」

 硫美は持っていた筆をパレットに置いた。話をする許可と受け取って、沃太は部屋の奥に進んだ。硫美の方に一歩近づくごとに、絵特有の匂いが濃くなっていくような気がする。

「文化祭でバンドをやっていたところを見た」

「来てくれたんだ。サンキュ」

 少し意外だったが、微笑んで沃太は礼を言った。聞いていた話からして、硫美が文化祭のステージを冷やかしにくるようなタイプだとは思えなかった。

「ええ。とても格好良かった」

 無表情で、硫美はそう言った。言葉と表情がそぐわない。なんだか異様な雰囲気だった。ちょっと変な子、という評価は正しいようだ。

 しかし、と沃太は思った。好みとは少し違うものの、ちんまりとした可愛らしい女子だ。燐とは好対照な外見だった。格好良いと褒められて、悪い気はしない。

 そのとき、ちくりと胸が痛んだ。以前、似たようなことを言われたことを思い出した。オーケストラ部の酒井環にも、同じように言われたことがあった。彼女も友人と一緒に見に来てくれたのだ。

「それで? 何の用?」

「あ、えっと」

 意を決してきたはずだったが、沃太は言い淀んだ。硫美は早坂と親友だったはずだ。無遠慮に話を振っても良いものか悩ましい。燐に釘を刺されたことが、頭をよぎる。

「ふふ」

 困っている様子がおかしかったのか、硫美がくすくすと笑う。

「沃太、って面白い名前ね」

「マジで?」

 沃太は首を捻った。

「漢字は珍しいけどな。音は珍しくなくね?」

「うん」

 沃太の言葉を予測していたように硫美は頷いて、歌うように言った。

「沃太君の沃は、ヨウソのヨウ」

「いや、違うだろ」

 沃太は頭の中で、要素と変換した。しかし硫美は首を振った。

「いいえ。元素のヨウ素の方。ジャガイモを紫色に染める実験に使うの。普通はカタカナだけど、漢字で書くと沃素」

 硫美はそう言って、空中に文字を書いた。特に意識した様子もなかったが、正面に立つ沃太に読めるように鏡文字で書いていた。器用な奴だ、と沃太は少し感心した。

「よくわかんねーけど」

 沃太は困惑しながらそう言った。あまりに話の脈絡がなさ過ぎる。しかし気にした素振りもなく、硫美は平板な口調で言った。

「訊きたいことがあるんでしょう? 紫色の沃太君」

「あ、ああ……」

「遠慮無くどうぞ」

 硫美の唇が笑みを形作る。しかしその目はまったく笑っていないように見えた。

「あのさ、早坂さんについてなんだけど」

「良子?」

 硫美は少し目を伏せた。沃太は居たたまれなくなった。けれどもう後には引けなかった。

「沢渡さんと早坂さんって親友だったんだよね?」

「うん」

「早坂さん、彼氏とかいた?」

「良子に彼氏? いなかった」

 硫美はあっさり断言した。

「好きな人は?」

「さあ。いたかもしれないけど」

 静かな口調で硫美は答える。

 その返答に沃太は少し考えを巡らせた。今までに聞いた情報をまとめると、学校内で早坂ともっとも親しかったのは硫美だろう。けれど、それにしてはあまりはっきりしない答えだった。普通、女子の親友同士なら思い人を打ち明けていることが多い。しかし、この硫美のどことなく浮世離れした感じからして、早坂が相談を躊躇った可能性もある。

「えっと、早坂さんって沢渡さんから見てどんな人?」

「私から見て?」硫美は首を捻った。「窓」

「窓?」

 沃太は鸚鵡返しに聞き返したが、硫美はそれ以上説明しなかった。

「どうして良子のことをそんなに気にしているの?」

「いや、ちょっと……」

 沃太はまた言葉を濁した。それを見て、硫美はまたくすくすと笑った。

「良子の幽霊でも見た?」

「いや、そんなんじゃ……」

「恨まれる覚えでもある?」

「……ねーよ」

 ぶっきらぼうに沃太は返した。笑顔を引っ込めて、硫美が言う。

「私だったら、良子の幽霊が出てきたら、嬉しい」

「は?」

「化けて出るほど自分のことを考えてくれていた、ということになるから」

「ああ」沃太は一応頷いた。「なるほど」

 硫美の言いたいことは解らなくもない、と沃太は思った。ないのだが、それは生前親しかった者だからこその意見だと思った。数回しか話したことのない相手が、あの世から恋文を送ってきたと考えるとあまりぞっとしない。

「そんな、幽霊になって化けて出そうな子だったワケ? 早坂さんは」

「無いとは言わない」

 硫美は真面目な顔で言った。

「情の深い子だったから」

「そうか……」

 硫美から早坂のことを聞けば聞くほど解らなくなってくる。あの手紙が、もしかしたら本当に早坂が送ってきたもののような気がしてくる。話している硫美が、少し異様な雰囲気を漂わせている所為だろうか。

 突然、背後で扉が開く音がした。驚いて振り向くと、男子が一人入ってきていた。沃太の見覚えがない生徒だった。身長が高く肩幅も広い。その後ろから女子がもう一人。こちらは蒔田燐だった。

「おや」

 硫美が意外そうに声を上げる。どうやら二人と顔見知りのようだった。

「あれま、武藤君」

「あ、蒔田さん」

 燐の言葉に、愛想笑いをしながら沃太は返事をした。

 沃太は少し焦った。燐からは、あまり無遠慮な調査をしないように釘を刺されたばかりだった。硫美と二人で話しているところを見られたら、目的は明白だろう。

 燐の隣の男子は誰だろう。距離感からして、燐と親しいようだ。彼氏だろうか。燐に関してあまりそういう噂は聞いたことが無かったので、少し意外だった。

「あ、じゃあ俺はこれで」

 沃太はそう硫美に言った。燐になにか追求される前に、この場を離れた方が良さそうだった。見知らぬ男子も少し剣呑な目つきでこちらを見ているような気もする。

「ええ、さよなら」

 硫美が平板な口調でそう言う。それを耳にしながら、沃太は足早に美術室を出た。

 考え事をしながら廊下を歩く。今ひとつ、早坂についての情報が集まらない。彼女の気持ちを知っていそうな友人が事件の犠牲者になってしまったため、聞き込みをしようにも対象が限られる。数少ない当てになりそうな友人である硫美はあの調子だ。

 沃太には、三組にも美術部にも知り合いがいない。どこから探れば良いのか思いつかない。直接彼女の遺品でも見る機会があれば、何か解るかもしれないが、そんなチャンスがあるだろうか。

 そんな風に思いを巡らせながら、沃太は下駄箱を開けた。

 その瞬間、沃太は凍り付いた。

 また、下駄箱に手紙が入っていた。




     *




 武藤 沃太 様


 また、お手紙にて失礼いたします。前回は、突然お送りしてしまって驚かせてしまったみたいですね。ごめんなさい。でも、これ以外に私の気持ちを伝える方法を思いつかなかったんです。

 こんな風に思いを伝えてしまって、困っていらっしゃるのは解っています。武藤君が、私の親友の環ちゃんを好きなのももちろん知っています。当然ですよね。武藤君も覚えていらっしゃると思います。あの日、校舎裏で環ちゃんの返事を伝えたのは私ですから。

 それでも、私の想いを伝えずにはいられませんでした。もちろん、武藤君とおつきあいしたいという願いはあります。でも、それ以上に私の気持ちを貴方に知って欲しかった。私のことを貴方に覚えておいて欲しかったのです。

 困らせてしまってごめんなさい。それでも、私は貴方のことが好きで好きでたまらないのです。文化祭のステージで演奏している姿を見たときからずっと、貴方のことが頭から離れないんです。

 次にお逢い出来る日を楽しみにしています。



              早坂 良子




 沃太は自分の家に戻ってから、じっくりと二通目の手紙を読んだ。下駄箱で見つけたそれを、とりあえず鞄の中に放り込んで帰宅したのだった。どうしても、学校で封筒を開封する勇気がなかった。場所柄からして、早坂良子が現れそうな気がしたのだ。

 封筒は前回とは違うものだった。横型の、今度は黄色の可愛らしい封筒。今度もシールで留めてあった。宛名だけが書いてあるのも一緒である。

 中身の便せんは同じものだった。鞄に入れっぱなしだった一通目も取り出して、見比べてみる。丸っこい文字は、同じ筆跡に見えた。

 沃太は手紙を机の上に放り出して、ベッドに倒れ込んだ。掛け布団を被って丸まってしまう。

 もう、ただの悪戯だと笑えなかった。この手紙を出した人は、自分や早坂のことをよく知っている。

 どうして、校舎裏で沃太と早坂が話をしたことを知っているのか。少なくとも、沃太は誰にも話していない。早坂と環は知っているだろうが、それ以外に誰が知っているのかはまるきり見当もつかない。

 つい先月。沃太は酒井環に告白をした。メールで交際を持ちかけたのだ。しかし返信は無く、翌日校舎裏まで呼び出された。期待と不安を胸に向かった先に待っていたのは、早坂一人だけだった。

 そのときのことを沃太は思い出す。

 放課後の校舎裏だった。

「あ、あのね」

 早坂は不安そうにうつむいた。

「あの、環ちゃんのことなんだけど」

「あ、ああ……」

 沃太はこの時点で、もう展開が読めてしまった。

「環ちゃんはね、他に好きな人がいるんだって。だから、気持ちは嬉しいけど、って……」

「あ、そう」

 沃太は意識して軽い口調でそう言った。

「そっか。酒井、好きな人いたのか。じゃあ、しょうがないよな」

「う、うん」

 沃太の調子に面食らったように、早坂は頷いた。

「で、でも、別に武藤君のことが嫌い、とかそういうんじゃ無くって」

「ああ」沃太はなんとか笑顔を作った。「ありがとう、うん。解ったよ」

「あ、あのね」

 意を決したように早坂は言う。

「あの、元気、出してね。うん、武藤君、格好良いし、大丈夫だよ」

 何がどう大丈夫なのだろう。どうしてこんな奴に慰められているのだろう、と沃太はかなり気分が悪かった。早坂に非がないのは解っている。自分のためを思って言ってくれているのも。でも、今は煩わしかった。

 その後は、おざなりに礼を言って、足早に立ち去っただけだった。これ以降、早坂とまともに話したことはない。

 あの日、あそこに早坂が来たのは、環から頼まれたからで間違いないだろう。しかし二人ともすでに亡くなっている。あの世から送られてきたのでなければ、手紙を出した人物はそれ以外にいるはずだ。環や早坂と仲が良かったのは、同じグループだった陸上部の加地になるが、彼女もやはり殺されている。

 どこかから聞いたのではなく、ただ単に沃太と早坂の会話を誰かが立ち聞きしていた可能性もなくはない。しかしそんな偶然の産物、沃太には調べようがない。

 早坂からのラブレターなので、彼女の交友関係を洗っていたが、少し目先を変えた方が良いかも知れない、と沃太は考えを巡らせた。

 早坂が本当に沃太のことを好きだったのかは、今となっては解らない。誰かが騙ったとしても、それを否定することはもう出来ないのだ。誰でも偽の手紙を書くことが出来る。好意を伝える表現なんてワンパターンだ。

 しかし、沃太が環に告白し、それを断るメッセンジャーを早坂が務めたことは紛れもない事実だ。二通目の手紙を書いたのは、そのことを知っている人物ということになる。環が早坂に頼んだことを鑑みても、死んだ三人がそれを知っていたのは確実だろう。しかし彼女たち以外の、どれだけがそれを知っていたのだろうか。

 告白した相手は環だ。彼女の友人たちに話を聞いた方が良さそうだ。環はオーケストラ部だった。部活帰りに話したことのある相手が何人かいる。早坂の友人を捜すよりは効率が良いはずだ。

 沃太はため息をついて寝返りを打った。彼女の友人に話をすると言うことは、自分が振られたことを知っているのか、わざわざ探らなければならなくなる。とてつもなく、気が重い。

 しかし。沃太はもう一度手紙を読み返した。最後の一文がどうしても気になる。

『次にお逢いできる日を楽しみにしています』

 今も生きている沃太と、既に死んでいる早坂がどう逢えば良いのか。早坂が蘇ってでも来るのか、それとも幽霊として現れるのか。どちらにせよ現実的ではない。そんなことはありえないのだ。

 もう一つの可能性に思い至って、沃太は布団にくるまりなおした。




     *




「ちょっと良いかな」

 沃太は見知らぬ後輩に声をかけた。

「小池さんを呼んでほしいんだけど」

 昼休み、沃太は26の教室の前に来ていた。小池というオーケストラ部の後輩と話をするためだ。

 沃太は今朝から酒井環の情報を集めるべく、オケ部の知り合いに当たってみた。しかしチューバの彼は環とはあまり仲が良くなく、代わりにと挙げられたのが、二年六組の小池という女子だった。環と同じチェロ奏者で、かなり仲が良かったらしい。彼女に聞けば、何か判るかもしれない、とのことだった。

 訝しげな顔で女子が一人やってくる。どうやらすでに昼食は済んでいるようだった。たしかに、見たことがある顔だった。部活帰りにオケ部を待っていたときに、環と一緒に出てきたことがある。

「ええと、武藤先輩ですよね? 何の用ですか?」

「あー、ちょっとねー」

 そう言いながら沃太は手を振って歩き出す。迷惑そうにしながらも、小池は後をついてきてくれた。

「えっと、どこに?」

 さて、どこで話したものか、と沃太は歩きながら考えた。廊下は人通りが多いので、つい離れてしまったものの、どこで話すかはまるで考えていなかった。

 少し考えて、屋上に向かうことにする。出られることは出られるが、ベンチなどがあるわけでもない。殺風景な場所なので、人がいることはごく稀だ。あそこなら誰に邪魔されることもなく、話が出来るだろう。

「屋上かなー」

「なぜですか?」

「うん、ちょっとねー。あ、別に告白とかじゃないから」

 勘違いされると困ると思って、沃太は言った。

「そんなことは思ってませんけど」

 呆れたように小池は言った。それはそれで釈然としない反応だった。がっかりしてくれ、とは言わないものの、もう少し色気のあるリアクションが欲しいところではある。

 金属の扉を開けて屋上に出る。目論見通り、誰もいなかった。一歩外に出る。陰鬱な曇り空が周囲いっぱいに広がっていた。

「んで、話」

「はい」

「酒井のことなんだけさ」

「……はい」

 今度は小池の返事に間があった。何か、探るような目つきをしていた。

 どうやって話を切り出そうか、と沃太は想いを巡らせた。ラブレターのことは出来れば誰にも知られたくない。何とかそれを誤魔化しながら話を進めたいところだった。

 沃太が環に告白して振られたことを、小池が知っているかどうか判らない。もし知っていれば、他に誰が知っていそうか、聞き出せるかもしれない。しかし知らなかった場合には、なんとかうやむやに話を終了させるのがベターだろう。

 まずはどの程度事情を把握しているのか、確認する必要があるな、と沃太は決断した。

「私も」

 しかし、先に小池が口を開いた。

「先輩に聞きたいことがあります」

「ん? 何?」

「あの、環先輩と武藤先輩って、おつきあいとかされてました?」

「お、おつきあい?」

 沃太は思わず、上擦った声を出した。

「はい」小池は冷静に頷く。「その、彼氏彼女の関係だったんですか? よく一緒に帰ったりしてましたけど」

「いや、違うけど……」

 沃太は少し落ち込んだ。クリティカルな話題を予想外のタイミングで振られて、かなり動揺する。

「っつーか、俺がコクったけど振られたし」

「そうだったんですか!?」

 小池の跳ね上がった声を聞いて、沃太は自分の失言に気がついた。わざわざ明かさなくても良かったことだった。自ら恥を晒してしまった。

「あ、まー良いんだけど」

 しかし。沃太は気を取り直した。とりあえずこれで小池が、沃太の告白の顛末を知らないことは確定した。オケ部の中で環ともっとも仲が良かった小池が知らないとなると、部の中に知る者はいないと考えて良いだろう。

「っつーか、なんでそう思ったの?」

「あ、えっと」

 小池は一瞬言いよどんだ。

「あの、事件の前にですね、環先輩、誰かと男性関係でトラブってたみたいで」

「トラブル?」

「はい。でも環先輩、彼氏いないって言ってました。それで、そのことがずっと気になってたんです。事件に関係あるかも知れませんし」

 沃太は少し思い悩んだ。環に男性関係のトラブルなどと言われても、心当たりが無い。環が誰か、彼女がいる男子にでも言い寄ったのだろうか。しかし、そんな噂は聞いたことがない。

 男性関係でトラブルになるとしたら、逆に誰かが環に告白した線もある。トラブルだというのだから、環はお断りしたのだろう。その相手がストーカーまがいのことをし始めた、などなら可能性はある。環は学年でもそこそこの美人だったので、そんな輩が出ないとも限らない。

「あの、他に環先輩のそういうこと、知ってそうな人いませんか?」

「ううん……」

 小池の質問に、沃太は頭を悩ませた。環と仲の良かった友人はすでに死んでしまっている。

「そうだな−、望みは薄いかもしれないけど。酒井と仲の良かった早坂って知ってる?」

「あ、はい。でも早坂先輩も……」

「うん」沃太は先取りして頷いた。「その早坂の親友だった沢渡ってのが33にいるんだけど。あいつならもしかしたら何か聞いてるかも」

「沢渡、先輩ですか」

 硫美のことを知らないようで、小池は首を捻った。

 正直なところ、硫美が環の交際関係を知っていると沃太は思っていない。早坂の思い人すら知らなかったのだ。しかし他に候補がまったく思い付かなかった。加地の彼氏だった坂下も候補にはなるが、逆にトラブルになりかねない。そもそも、環のことならオケ部内で探した方が目がありそうである。

「ありがとうございます。今度訊いてみます」

 しかし小池は素直に頷いた。曖昧に沃太も頷く。別段彼女に協力する義理もないので、この程度で十分だろうと判断する。

「あ、それで先輩の話は何だったんですか?」

 小池が訊いてくる。沃太は少し考えを巡らせた。今までの話の中で、目的は達成してしまった。他に何か知りたいことはあっただろうか。考えてみたものの、何も思い付かなかった。

「や、別にいいや」

「え? でも……」

「いや、ホントに」

 沃太はそう言って、屋上を出るべく歩き出した。

 しかし、頭が痛い問題だった。早坂にしろ環にしろ、仲が良い友達がすでにいないため、情報を集めようにも聞ける人があまりに少ない。八方塞がりに近い状態だった。

 何の気なしに、階段へと続く扉を開ける。一歩屋内に入ると、その横に気まずそうな顔をした女子生徒が煙草を咥えていた。火は点いていなかった。

 蒔田燐だった。

「いや、ね。立ち聞きする気は無かったんだよ?」

 燐は煙草を咥えたままもごもごと言った。

 沃太に続いて小池も屋内に入る。燐を見て首を傾げた。

「ほら、さ。お昼御飯食べるじゃん?」

「ああ」

「食後にコーヒーとか飲むでしょ?」

 沃太は黙って頷いた。すると燐はやけくそ気味に開き直った。

「そしたら煙草吸いたくなるじゃん!」

「や、わかんねーけど」

 燐が喫煙者だとは夢にも思わなかったので、沃太は少し驚いていた。沃太は二度、友人に勧められて煙草を吸ったことがある。しかし咽せただけで、ちっとも美味しくなかった。

「ま、蒔田先輩、煙草吸うんですか?」

 小池が訊いた。怯えたように燐の煙草を見つめている。

「あ、まあ。時々……」

 照れたように笑いながら燐はそう言った。あからさまに怪しい態度だった。

「んで。沃太君、ちょっと良い?」

「あ? いーけど?」

 燐に引っ張られて沃太は屋上に戻った。小池はどうしたら良いのか迷ったがようだったが、結局下に降りていった。

「んで、君は一体何を調べているんだい?」

 屋上に舞い戻って開口一番、燐は少し真面目な声色で訊いてきた。

「何って……」

「この間は早坂さんのこと、調べてたよね? しかもその後、わざわざ硫美ちゃんのところまで行って。それで今日は環ちゃんのこと」

「いや、別に」

「別に?」燐は目を吊り上げた。「あのね、そんな興味本位にずかずかと踏み込んで良い問題じゃ無いよ?」

「解ってるよ!」

 思わず、沃太は強い口調で言い返した。しかし燐は剣呑な目つきで睨んだままだった。

 沃太は少し考えた。燐の言うことはもっともだ。無遠慮に訊いて回って良い問題ではないことは、沃太も重々承知している。

 しかしあんな手紙が届いた。冷静になって考えれば、悪戯だとは思う。あの世から手紙など届くはずがない。それでも気持ち悪い。一体、誰がどんな目的であんなラブレターを沃太に送っているのか、まるで想像がつかないからだ。しかも、書いた奴は沃太や環についてかなり詳しく知っているようなのだ。

 ここで燐に相談してみるのも良いかもしれない。彼女が事件について詳しく知っているかは判らないが、一応環や早坂とは同じクラスだ。何かぽろっと思い出すかも知れないし、クラスメイトに訊いてくれるかも知れない。

 しかし。沃太はやめておくことにした。笑われるのが関の山だ。どう考えても悪戯なのだ。実害だって出ていない。気にしなければ済むだけの話だ。

「沃太君?」

 考え込んだ沃太を不審に思ったのか、燐が少し口調を和らげて訊く。

「いや、その」沃太は顔を上げた。「本当に面白半分とかじゃねーから。俺にも色々事情があんだよ」

「あ、そ」

 燐は興味を失ったように、ぷいと顔を背けた。そのまま手すりに寄りかかって、煙草に火を点ける。どうやら話は終わりということらしかった。

 沃太は屋上から校舎内に戻る。最後に燐の方を振り向いた。

 長身の制服姿は、風に吹かれながらそれでも凛と立っていた。




     *




 沃太と眞子は自由が丘に来ていた。女神口から外に出て、まずは北に向かう。眞子はスマートフォンに表示させた地図とにらめっこしている。

 二人は早坂の家に向かっていた。表向きは早坂良子の霊前にお線香を上げることが目的だ。しかし沃太の目的は、早坂の遺品を見せて貰うことだ。日記か何かが見つかれば最高だが、せめてノートくらいは目にしておきたい。

 早坂家に行く事を提案したのは眞子だった。きっかけは、昼休みの軽音部、部室。

「なあ、酒井って誰と仲良かったんだ?」

「はい?」

 昼食を摂っている最中、沃太は眞子に話しかけた。部室には、現在二人しかいない。他のバンドメンバーは教室で参考書を片手に食事しているし、後輩達は部室を使わない。スタジオなどに行っているのだ。第二音楽室は、授業で使うこともまずないので、実質的に沃太たち専用の部屋だ。

「酒井って、酒井環?」

「ああ」

「よく知らないけど。あの被害者三人が仲良かったって噂じゃん?」

 眞子は総菜パンをぱくつきながらそう言った。

 やはりその答えか、と沃太は少し落胆した。誰に聞いても、似たような答えが返ってくる。どの線から聞き込みを始めようにも、結局ここがネックになってしまう。

「なんで? こないだは早坂良子調べてたじゃん。坂下にも聞いてたし。意味分かんないすけど」

「別に? 深い意味なんかねーよ」

 沃太も焼きそばパンにかぶりついた。ソースの素朴な香りがノスタルジックだった。そして青のりの微妙なアクセントが堪らない。

「っつーか、なんでそんな興味津々なん? 死んだ奴ばっか」

「何でもねーけど」

「いやいや。マジで最近沃太、深刻な顔してるよ? 話してみって」

「あー」

 少し心配そうな顔で眞子が言う。態度に出ていたか、と沃太は少し反省した。

「うーん」

 沃太は話して良いものかどうか少し悩んだ。正直、いざ口にするとなると、かなり馬鹿らしい気がする。しかも自分のデリケートな問題とも直結している。とは言え、眞子は沃太が環を好きだったことを既に知っている。

「実はさあ、早坂からラブレターが届いたんだよね」

 迷った末、沃太は相談してみることにした。クラスが違うとは言え、眞子は一応これでも女子だ。しかもかなりの噂好きで情報通。協力して貰えれば、沃太一人で情報を集めるよりは格段に効率があがるだろう。

 それに、もうこれ以上一人で抱え込んでいるのが嫌だった。先日、硫美から言われた言葉が頭をよぎる。早坂の幽霊が出てきでもしたら。ありえないと判っていても、気持ちが悪い。

「……は? ソレいつの話?」

「先週」

「もう早坂死んでんじゃん」

「うん」

 眞子はいよいよ心配そうな顔になった。

「あのさー。沃太。ちょっと、ホントにダイジョブ?」

「あーもー、じゃあコレ見ろよ」

 仕方なく、沃太は鞄から手紙を二通取り出した。

「んー?」

 眞子は封筒を開いて、手紙を見た。便箋に面倒そうに目を走らせる。途中から眞子の目つきが変わったのが、沃太にも判った。

「えー、これマジ?」

「マジ。な、変だろ?」

「マジで! 沃太、酒井にコクったんだ! しかも振られてるし! 超ウケるんすけど。なんで教えてくれなかったんだよー?」

「そこかよ!」

 沃太はむしゃむしゃと焼きそばパンを食べた。紅ショウガが鼻に染みた気がした。

「いや、だってさ。酒井って、サッカー部の山田ラブって話じゃん? なんでそんな難易度高いところいったんよ? もっと外堀埋めてからっしょ」

「え? それマジ?」

「知らんかったの? あっはっは! 馬鹿じゃねーの? 普通、狙った相手の好きな奴くらい調べるだろ」

 がっくりと沃太はうなだれた。それからすぐに立ち直った。

「って、そこじゃねーよ、問題は!」

「あー」

 低い声で、眞子は呻いた。

「いや、だってさ。マジだったら幽霊じゃん」

「だから困ってんだよ」

「やっべ、すげー。え、そんな、天国から送ってくるほど愛されてたん? やったじゃん!」

 高い声を上げて、眞子は笑った。しばらくゲラゲラと笑っていたが、やがて真面目な顔になった。

「っつても、ねえ。さすがに悪戯っしょ?」

「だと思うけどな」

「だから調べてたんだ? 早坂とか酒井とかの好きな相手とか」

「そーだよ」

 ふむ、と眞子は考え込んだ。長い髪の毛をくるくるといじっている。

「でもさー。なんか変だよね、コレ。だって、ただの悪戯で二通も出すか? しかもこんな手間かけて」

 ひらひらと便せんを振りながら眞子は言った。言われてみれば、たしかにこの二通の手紙は見るからにラブレターの体裁をしている。封筒も便箋もとても可愛らしいし、書かれている文字も丁寧だ。しかもそれをわざわざ沃太の下駄箱に入れておく。ここまでくると、ちょっと悪戯にしては手が込みすぎている。

「もしかしてさ、これマジなんじゃん? あの世からのラブレター。マジ感動モノじゃね? ヤバイっしょ、これ」

「……んなわけねーだろ」

「でもさー」

 眞子は不満げにそう言って、ぽんと手を叩いた。

「じゃあさ、確かめてみれば良くね?」

「だから今、聞いて回ってるんだって」

「そうじゃなくてさ。ラブレターが本物かどうか」

 眞子は得意満面で言った。

「早坂の家に行けばさー、日記とかあるかも知んないじゃん? 無かったとしても、ノートとか見れば筆跡見比べられるし。ヤバくない、このアイデア?」

「うーん」

 沃太は少し考えた。たしかに、このまま聞き込んでいっても、成果が上がるかどうか判らない。手紙が二通届いたというのも、言われてみれば気持ち悪い。このまま放っておいたら、三通目、四通目となる可能性は大いにあり得る。二通目の最後の一文が示すように、もっと直截的な何かになってしまう恐れもなくはない。幽霊が出るとはさすがに思わないが、早坂に関して誰かの逆恨みを買っていないとも限らない。

「判った。行ってみるか」

「うし、じゃあ、今日の放課後ね!」

 それから眞子は嬉々として、弔問をしたという生徒から早坂の住所を聞いてきた。あまつさえ自宅にまで今日伺いたいと連絡を入れたらしい。それで一緒に自由が丘までやってきたのだ。

 ところで。沃太は今更ながら疑問に思った。自分はともかく、どうして眞子までもがやってきているのだろう。とはいえ、実際のところ、早坂家に行った後、何を言えば良いのか判らなかったので、その点ではありがたかった。

「あー,多分こっちだね」

「おう」

 眼鏡屋の角を曲がり、ガード下を通過しててくてく歩く。電車の中までは何でもないおしゃべりをしていた二人だったが、早坂の家が近づくに連れて、口数は減っていった。

「ここか」

「うん……」

 スマホの画面とマンションの名前を確認する。二人は意を決して玄関に入っていった。一応、郵便受けで部屋番号を確認して、オートロックの隣のインターフォンを押す。

「すいません。H高校の井上と申します」

 眞子がマイクに向かって話す。一年の頃に同じクラスで、しかも女子の方が適任だと判断したのだ。

 二言三言、言葉をかわした後、自動ドアがゆっくりと開く。沃太にはなんだか、地獄の門のように思えた。

 エレベータに乗って目的の部屋に向かう。玄関の前で早坂の母親が待っていてくれた。記憶の中の早坂の風貌と少し似ていた。

「わざわざ来てくれて、ありがとう」

 そう言って、早坂母は小さく微笑んだ。目尻が少し赤かった。隈も化粧で隠し切れていない。

「あ、いえ……」

 なんだか気まずくて、沃太と眞子は顔を見合わせてそう言った。それから簡単に自己紹介を済ませる。

 早坂母の案内に従って家の中に入る。リビングで椅子を勧められたので、恐縮しながら腰掛ける。

「月曜にもね、硫美ちゃんが来てくれたの。お友達の見城君と一緒に」

「沢渡さんがですか」眞子はおっとりと微笑んだ。「そうですよね。二人とも美術部で、仲良かったから」

 知っている名前が出てきて沃太は少し驚いた。やはり二人は親友同士だったようだ。見城という名前には心当たりが無かった。後で調べておこう、と覚えておくことにする。

 しかし、と沃太は思った。この眞子の変わりようと言ったら、なんだろう。まったく不自然さを感じさせない。少しばかり恐怖心を覚えた。

「お線香、上げてあげてね」

 そう案内された和室に上がり込む。部屋の奥には大きな仏壇があって、そこに早坂の遺影が上がっていた。

 見慣れた制服姿で、満面の笑みを浮かべている。なかなか可愛らしかった。遺影にしては少々華やかすぎるかもしれない。

 蝋燭から線香に火を点ける。遺影の前にそっと立てた。生前、ほとんど面識は無かったが、それでも位牌を前にすると感傷にひたってしまうのは、どうしてだろう。少し申し訳ない気がした。

 眞子が手を合わせるのを待ってリビングに戻る。早坂母が紅茶を淹れてくれていた。お茶請けとして自由が丘銘菓もついてきていた。

「あの、すいません」

 学校での早坂について少し話をした後に、眞子がおずおずと切り出した。

「良子さんの部屋を見せていただいても構いませんか?」

「ええ、もちろん」

 それから、早坂母はくすり、と笑った。

「可笑しいわね。硫美ちゃんたちもあの子の部屋を見て行ったの」

「あ、そうなんですか……」

 反応に困ったように、眞子はそう小声で言った。

 眞子と二人で早坂の部屋に入る。親しくも無い女子の部屋にずかずかと入り込むのは、なんだか居たたまれなかった。しかし眞子は気にした様子もなく、すたすたと机の方に歩いて行く。

 沃太は部屋の中を見渡した。ラブレターと同じ、可愛らしい部屋だった。ベッドや机のそこかしこにファンシーなぬいぐるみや小物が置かれている。丸顔の印象に違わず、趣味も可愛い系だったようだ。

 机の前で眞子と並ぶ。まずは二人で本棚を見てみるが、教科書や参考書ばかりだった。趣味の本すらろくにない。読書をする習慣はなかったようだ。

「日記、つけてたかな?」

「部屋を見る限り、十分有り得そうだけどな」

「そーだね」

 机の引き出しを開けてみる。一番上、目立つところに日記帳があった。眞子がいそいそとそれを取り出す。

「なんか、思うんだけどさー」

「うん?」

「日記帳って、もっと人に見られないところに隠しておくものじゃないの?」

 眞子が拍子抜けしたようにそう言った。その意見には沃太も同意出来た。しかし出てきてしまったものにそう言っても仕方がない。

 机の上に出して日記帳を開く。どうやら今年の元日からのもののようだった。初詣に行った旨が書かれている。めぼしい情報は無かった。二、三日分読んでみたものの、何でもない日常が書かれているだけだ。

「キリがないな」

「ううん……」

 沃太は眞子と顔を見合わせた。

 沃太はラブレターの内容を思い返した。文化祭のことが書かれていたのを思い出す。

「文化祭の日は?」

「そっか。沃太、冴えてるね」眞子がぺらぺらとページを捲る。「えっと、九月の、何日だったっけ?」

「たしか祝日だから……。二十三、四日かな、多分」

「そだっけ。えっと、二十……ああ、あったあった」

 眞子は手に持ったまま日記帳を読み始め、すぐに堪えきれないように噴き出した。

「いやー、コレは」

「どうしたん?」

「うん」眞子は日記をぱたんと閉じた。「沃太は読まない方が良いと思うな、コレ。ヤバイって」

「何が?」

「いやいや」

 沃太は渋る眞子から日記帳を奪い取った。二十三日、沃太たちがライブをやった日の日記を読む。

 そこに書いてあったのは、単なる日記だった。その中から沃太に関係ありそうなことを探してみる。

 ステージで行われた軽音部のライブをいつもの三人で見たこと。出てきたギタリストが格好良かったこと。環にあれは誰かと尋ねたら、37の武藤沃太だと判明したこと。一目惚れは初めての経験だということ。そして、環が沃太に良い印象を抱いていないことが書かれていた。どうやら頻繁に話しかけられて辟易しているらしい。

「はっはっは」眞子が笑う。「もう、沃太。始まる前から不戦敗じゃん! 格好悪!」

「うっせ。あーもー」

 沃太は手近にあった椅子に倒れ込むように座り込んだ。思わぬところでダメージを受けて、ショックが大きかった。

「まあまあ。ともかく、これで少なくとも早坂が沃太を好きだったことについてはたしかめられたわけじゃん。丸っきりの騙りじゃなかったわけだ」

「……まあな」

 気を取り直して沃太は頷いた。余計なおまけはついてきてしまったものの、当初の目的は達している。

「そうだ。筆跡確認しなくちゃ」眞子がぽん、と手を打った。「ほら、手紙出して出して」

「おう」

 沃太は鞄から二通の手紙を取り出した。便箋二枚を日記帳と並べてみる。共通の文字を見つけては、一つ一つじっくり確認していく。

「あー」

 十文字ほど目を皿のようにして確認し終わる。眞子が低い声で呻いた。

「これ、ヤバくない?」

「……」

 確認した文字は、どれもほとんど同じ形をしていた。止めやハネの癖がかなり顕著に出ている。しかし、便箋の文字は明らかにボールペンで書かれたものだ。コピーなどで写し取ったものではない。

「どう見ても、同じ人が書いた字だよねぇ」

 少し、眞子の語尾が震えた。

 背筋が寒くなった。まさか、そんなはずがあるわけがない。それを証明しに来ただけのはずだった。誰かの悪戯だと笑い飛ばせるはずだった。

 けれど。どう見ても同じ人物が書いた文字が、日記帳と便箋に並んでいる。

「本当に、天国から送られてきたんじゃね?」

「お前、軽くそんなこと言うんじゃねーよ」

 つい、沃太は眞子に反論した。しかし、声に力が籠もっていないことは自覚していた。

 何とか反論出来ないか。沃太は考え始めた。

「手紙は生前に書いていて、それを今になって誰かが代わりに出しているのかも知れなくね?」

 沃太は思い付いて、そう言った。誰かが渡すように頼まれていて、それを今になって出しているのかも知れない。故人へのせめてもの手向けとして。

 しかし眞子は小さく首を横に振った。

「一枚目はともかく二枚目の手紙は、明らかに沃太の反応を見て書いてるって。絶対無理だよ、それ」

「じゃ、じゃあ!」沃太の声が跳ね上がる。「逆に、手紙もこの日記帳も誰かの悪戯だとか! 俺たちがここまで探しに来るのを見越して、日記をここに入れておいたんだ!」

 先ほど、早坂母から硫美の話を聞いたのを思い出して、沃太は言った。早坂母の感じからして、学校の誰かがこの部屋に来て置いていくことは可能だろう。しかし眞子はまた冷徹な声で断じた。

「この十ヶ月分の日記をわざわざ書くって? 一体何日かかるんだっつーの。それこそ悪戯でそんなことするわけ無いじゃん。それに、他の授業のノートとか見たら一発で解るじゃん」

 一応、といった感じで、眞子は机の横にかかっていた学生鞄を開けた。中からルーズリーフを見つけて取り出す。

 机に便箋とルーズリーフを並べてみる。先ほどと同じく、字に差は感じられなかった。丸っこい、女の子っぽい文字が几帳面に並んでいる。

「ほら」

 沃太は力なく椅子にへたり込んだ。眞子も勝手にベッドに腰掛ける。

「あのさ」眞子が静かな声で言う。「文化祭の後、早坂と話したことあったわけ?」

「まったくなかったわけじゃねーけど」

「けど?」

「俺にとっては酒井のおまけだったからさ。いちいち覚えてねーよ」

 沃太は最後に見た早坂の顔を思い出す。青白い、血の気の引いた顔をしていた。あのとき、早坂は何を考えていたのだろうか。小さく引きつった笑顔を浮かべていたように思う。何故あのとき、彼女は笑えたのだろう。

 印象に残っているのは、意志の強そうな瞳だった。あんな状況下にも関わらず、何か強い決意に満ちていたように思う。環とは、そこが大きな違いだった。

「まあ、なんだ」

 眞子が堅い口調で言う。

「あの世に引きずり込まれないようにねー」

「怖いこと言うなよぉ」

「半泣きじゃん、お前」

「うっせ」

 沃太は顔を上げて、眞子の方を睨んだ。しかし眞子は沃太の背後、全然違う方向を見ていた。

「あれってさあ」

「あ?」

「沢渡硫美が描いた絵かな?」

 眞子の視線を追って、沃太は振り向く。壁に一枚だけ、額にかかった絵が掛けられている。

 秋の公園のベンチ。腰掛ける一人の少女。どうやら早坂を描いたもののようだった。

「なんかさあ、ちょっと変だよね、早坂って」

「なんで?」

「だって、これ、自分の絵でしょ? 自分がモデルの絵なんて、部屋に飾っておく? 普通」

「あー」少し考えて、沃太は同意した。「たしかに人の写真は飾っても、自分だけが映ったのは絶対ありえないもんなぁ」

「だろ?」

 眞子は顎をしゃくって考え込んだ。

「よっぽど沢渡のことが好きだったんかなー。なんかレズっぽいって噂も聞いたしな。あ、でも、沃太ラブならそれはないか」

「うっせ。その話題出すな」

 眞子はまた、けたけたと笑った。

「良いじゃん、色男!」

 沃太は反応するのを諦めた。腕時計に目を落とす。もう五時を過ぎていた。

「そろそろ帰る?」

「ああ。目的は達したしな」

 沃太は持ったままだった日記帳を戻そうと、机に近づいた。たしか、引き出しに入っていたはずだ。

「それさー、持って帰っちゃえば?」

「は?」

「だってさ、めっちゃ熱烈な愛の言葉が書いてあるじゃん? だったら少しでも沃太にそれが伝わった方が本望っぽくね?」

「それはねーだろ」

 沃太は否定した。しかし、すぐに考え直す。今のところ、文化祭当日の日記しか読んでいないが、他の日付に犯人へと繋がるヒントが隠れているかも知れない。手掛かりが少ない現状では、読む価値は十分にある。

「でも持ってく」

 沃太は結局自分の鞄に早坂の日記帳を入れた。間にラブレターも挟んでおく。犯人が判明した暁には、この部屋まで戻しにこよう、と決意する。

 眞子が鞄を持って立ち上がる。人ごとだと言わんばかりの気楽な足取りで部屋を出て行く。

 沃太は最後にもう一度、部屋の中を見渡した。壁に掛かった絵の中で、早坂良子が微笑んでいた。

 まるで沃太のことを見つめているようで、

 グロテスクに見えた。





     *




 昼休みの屋上。沃太は空を見上げた。抜けるような青空だったので、思わず殺意が湧いた。昨夜はほとんど寝ていない。日差しが鬱陶しい。

 日陰に移動しようとしたら、珍しいことに先客がいた。男子生徒が一人、学生鞄を枕にしてすやすやと眠っている。鼻提灯が出そうなほど平和な寝顔だった。

 どこかで見た顔だ、と沃太は記憶を引っ張り出した。たしか、この間燐と一緒に美術室に入ってきた男だ。しかしクラスも名前も知らなかった。

 沃太は日陰を諦めて、建物に寄りかかって座り込んだ。昨夜、ほぼ徹夜で読み込んだ早坂の日記帳の内容を思い出す。全部読むには量があまりに膨大だったので、文化祭以後の分にだけ目を通した。

 マメな性格だったのだろう。早坂は毎日きちんと日記を付けていた。やはり仲の良い友人は殺された二名と、沢渡硫美のようだったようで、頻繁に記述がある。日記の中に、他のクラスメイトなどはほとんど出てこない。燐に関しては、一度進路に関する話題で出てきただけだった。彼女は海外の大学を目指しているらしい。

 沃太は頭の中で情報を整理する。どうやら早坂が沃太のことを好きだったのは、事実のようだった。文化祭以後、数日に一度くらいの割合で沃太に関することが出てきた。しかしほとんどは大した内容ではない。どこかで見かけた、とかその程度だ。しかしながら時折、妙な個人情報が混じることもあって、少し恐怖を覚えた。どこから聞いてきたのか、家族構成や最寄り駅などが記してあった。しかし親しい友人ならそのくらい知っているし、隠しているわけでもない。日頃からアンテナを張っておけば、十分得られる情報だろう。実際、沃太も環の家族構成や使っている路線を知っていた。

 しかしその暢気な日記は、ある日を境に一変する。沃太が環にメールで告白した日だった。どうやら環は沃太からメールを受け取った直後に、早坂に相談したらしい。山田が好きな環は断り方を相談し、結局早坂がメッセンジャーを務めることとなる。その経緯が、少しよれた字で書かれていた。一部、インクが滲んでいる箇所もあった。

 それから早坂は、環や加地と少し疎遠になったようだった。沃太がらみの件で、少し顔を合わせづらかったらしい。それと、三人の中で早坂だけが指定校推薦で進路が決まり、二人は受験勉強の真っ最中というのも影響したようだった。その点には、沃太も納得した。バンド内でも、先に決まった沃太や眞子と、他のメンバーの間にはやはり少し距離がある。冗談交じりではあるが、愚痴やらお門違いの恨み言を言われることもしばしばだ。

 環たちとの仲は最終的にはかなりこじれてしまったようだった。泣き言や自分を責めるような言葉もしばしば見られるようになる。

 なので、当然のように硫美の話題が増えてくる。硫美も推薦で美大への進学が決まっていて、話しやすかったようだ。書かれた文の端々から、早坂が硫美のことをとても敬愛していたことが伝わってくる。

 そして、相変わらず沃太に関する記述も出てくる。内容的には告白以前とほとんど変わらない。しかし、悲観的、というか、自分に望みがないことを前提に書かれている感がある。やはり、自分の親友に告白した、というのはショックだったのだろう。

 ううん、と沃太は少し悶々とした。もし告白以前に、早坂の気持ちを知っていたら自分はどうしていただろうか。沃太は早坂の顔を思い浮かべる。少し丸顔の、気の抜けたような笑顔をよく見た気がする。正直、好みではなかった。仮に早坂の方から告白されたとしても、自分は断ったのではないだろうか。選り好み出来るほどもてるわけではないが、安売りもしていないつもりだ。

 沃太はもう一度空を見上げた。今日は本当に雲一つ無い、絵に描いたような秋晴れだった。普段だったら気持が良い、と感じるところだが、今日は煩わしかった。

 早坂の日記を読んでみても、ちっとも解決の糸口が見えていない。早坂がどんなことを考えて生活していたのかが解っても、犯人に繋がる手掛かりは少しもない。どんな奴が書いたのか、ラブレターの内容は非常に早坂の思考に沿っていて、それが気持ち悪い。あの世で早坂が書いた手紙が、本当に沃太の所にまで届けられているかのようだった。日が経つに連れて、その考えがどんどん強まっている。

 正直、恐ろしかった。まるで、早坂があの世から自分のことを呼んでいるようだった。

 沃太の脇、金属の扉が鈍い音を立てて開く。目を遣ると、制服のスカートが見えた。その裾から覗く長い、すらっとした足。

「おや、沃太君」

「蒔田さん」

 また蒔田燐だった。沃太の姿を認めると、少し表情を緩めた。

 燐は屋上が好きなのかな、と沃太は思った。あまり他の生徒が立ち寄るような場所ではない。

 燐はポケットから煙草の箱を取り出して、一本抜き出した。それを咥えながら屋上を見渡す。それから、軽く微笑みながら眠っている男の方に近づいた。

「いやはや。幸せそうだねぇ」

「それ、誰?」

 沃太はとりあえず落ち着いた声を作って訊いてみた。

「ん? 見城曹司君。34だったかな」

 沃太はその名前を昨日聞いたことを思いだした。たしか、沢渡硫美と一緒に早坂家に行った男だった。早坂母にも以前から認識されていたようだった。硫美の彼氏かなにかだろうか。それにしては燐ともかなり親しげだ。この間、美術室でも一緒にいた。

「起こすのも悪いかなっ」

 足音を忍ばせながら燐が戻ってくる。

「沃太君は何してるの?」

「あ、うん」

 燐はいつかのように、手すりに寄りかかりながら煙草を吸い始めた。くりくりとした瞳が沃太の方を向いている。前回、屋上で半ば喧嘩別れしたのは気にしていないようだった。

「あのさ、蒔田さんって幽霊信じる人?」

「幽霊?」

 燐は一瞬、きょとんとした。それからけたけたと笑い始めた。ポニーテールがふらふらと揺れる。

「いやあ、幽霊はさすがにいないと思うなぁ。宇宙人はいるって信じてるけどね!」

 まあ当然の反応か、と沃太は思った。自分だっていきなりこんなことを訊かれたら、笑うしかない。

「ふむ」

 しかし、燐は突然真面目な顔になった。しげしげと沃太の顔を見つめている。

「もしかして、それが調べている理由?」

「え?」

「早坂さんとか、環ちゃんのこと」

 燐はまっすぐに沃太の方を見つめている。一度、煙草を咥えて、大きく煙を吸い込んだ。

「何があったの? 本当に幽霊が出た?」

「手紙が……」

 思わず、沃太はそう口にしていた。今まで、ほとんど面白半分の眞子にしか相談できなかったことを、こんな真剣な目で訊かれた。それだけで何だか、無性に嬉しかった。

「早坂からの手紙が下駄箱に入ってた」

「……ふうん」

 燐は煙草を咥えながら、少し考えていた。

「それ、今持ってる?」

「ああ」

「見せて貰って良い?」

 燐の求めに応じて、沃太は鞄からラブレターを取り出した。一瞬迷ったが、日記帳のことは黙っておくことにした。何しろ、早坂家から勝手に持ち出してしまったものだ。理由はどうあれ、窃盗だという自覚はある。

 燐が封筒を開いて便箋に目を走らせる。少し細めた眼で真剣に読み耽る姿は、ちょっと格好良かった。

「この、酒井さんとの一件は?」

「ああ、事実」

「……ふうん」

 訊いた割に、あまり興味無さそうに燐は頷いた。あまり深く追求されずに済んで喜んで良いのか、それとも無関心ぶりを残念に思えば良いのか判らなかった。

「これが下駄箱に?」

「ああ。だから、なんかキモくて」

「それで調べてたのね。ううん、確かにこれは気になるよね。ごめんね、今まで説教臭いこと言っちゃって」

 燐が手を合わせて謝ってくる。沃太は慌てて首を振った。

「それよりさ、やっぱ誰がこんなことやってんのか気になるじゃん? なんか判らねーかな?」

「心当たりは無いの? 書きそうな人とか」

「ねーよ。しかもそれ、筆跡が早坂本人のものなんだよ」

「……ふうん」

 燐はフィルターギリギリまで吸っていた煙草を靴で踏み消した。それから顎に手を当てて考え始める。どうやら二枚目の便箋を気にしているようだ。

「これってさ、ただの悪戯なのかな?」

「は?」沃太は思わず上擦った声を上げた。「いや、だって、本物じゃねーだろ?」

「そういうことじゃなくてさ」

 燐は便箋をひらひらと振った。

「この二通目のさ、最後の文が気になるんだよね。『次にお逢い出来る日を楽しみにしています』って」

「あ、ああ……」

 燐の言いたいことがよく解らず、沃太は曖昧に頷いた。

「どうして、次に、って限定なのかな? また、なら自然だと思うし、それこそなくたって構わない。何か、次に、重大なことが起こるみたい。……考えすぎかな。でもなあ、ラブレター書いた方としては、末永くおつきあいしたいのが普通であって、次、とか限定しないんじゃないかなぁ、文脈的に」

 ぎくり、と沃太はした。もしかしたら、早坂があの世から自分を連れに来るかも知れない。そんな想像をしたことを思い出したのだ。次こそ、沃太を捕らえにくるつもりなのかもしれない。

「それとさ」

「あ、ああ?」

「やっぱり、ただの悪戯じゃないよ、これ、うん」

 燐は一人で納得した。それから沃太の表情を見たのだろう、苦笑しながら続けた。

「いや、もちろん本物でもないよ。ただ、愉快犯っていうのかな。そういう面白半分じゃないって意味」

「なんでそんなこと判んの?」

 沃太が思わず訊くと、燐は顎に手をやった。

「ええとね。愉快犯だったら多分、手紙を受け取った人を怖がらせて、それを見て楽しむと思うんだ。だけどこの文面はさ、そんな意図で書かれていない。怖がらせるつもりならきっと、もっとおどろおどろしい、って言うかなぁ。恨み辛みとか、血生臭いこととか、そんな内容にするでしょ」

 燐は言いながら、煙草をもう一本取り出した。

「だけどそんな内容になっていない。怖がらせるってより、困惑させようとしてるみたい。大体この内容だと、早坂さんが死んでいるかどうかすら判らない。むしろ、生きている早坂さんが普通に書いたみたいだ」

 沃太は燐の意見に少し感心した。けれどそれが判ったところで、結局状況は変わっていない。むしろただの悪趣味な悪戯でない、というところに不安が募る。

「なんでそんなに怯えてるの?」

「……え?」

 燐が訝しげな目で沃太を見ていた。

「たしかに気持ち悪いのは解るよ。人が死んだばかりで気味が悪いし、妙に手も込んでる。誰が何の目的でやってるのか、どうにもはっきりしない」

 燐は指折り数えあげた。なぜか親指から数えていた。

「だけど、偽物は偽物。死人が手紙なんて書けるわけ無い。それは解ってるはずなのに、どうしてそんなに青くなって震えてるの? まるで、本当に幽霊が現れるとでも信じてるみたい」

「べ、別にそんなんじゃねーよ」

 沃太はそう否定した。しかし燐は何も言わずに、煙草に火を点けた。そのまま咥え、空高く煙を吹き出した。雲一つ無い空に、紫煙はゆっくりと吸い込まれていった。

「良い天気だねぇ」

 のんびりした口調で燐が言う。その余裕に、沃太は軽く苛立った。

 そのとき、チャイムが鳴った。昼休みが終わるまで後五分。

「はい。ありがと」

 燐は便箋を元の通り封筒に入れて、沃太に手渡した。

「戻らねーの?」

「ううん、と」

 燐は眠ったままの曹司の方に視線を走らせた。

「午後はサボりかな」




     *




 驚きはなかった。次が来ることを予想していたからだ。もはや確信だと言っても良いレベルで。

 沃太が下駄箱を開けるとまた可愛らしい封筒が入っていた。表に宛名だけが書かれているのも一緒だ。相変わらずの丸っこい文字。裏面にはやはり何も書かれていない。

 一瞬迷ったが、沃太はその場で開封することにした。一応周囲を見てみるが自分の他には誰もいない。震える手で裏面のシールを剥がす。便せんをことさらゆっくり取り出し広げる。

 今までの二通に比べると内容は短かった。三度送りつけたことに対する詫びと、相変わらずの想いを綴った言葉。一番最後には、早坂良子の名前。

 そして、第二美術室に来て欲しい、と書いてあった。

 思わず、身震いした。今までとは明らかに違う、直截的なアプローチだった。誰がやっていることかは判らないが、ただの悪戯ではない、ということだ。手紙の送り主は、何らかの成果を期待している。

 沃太は下駄箱の扉を閉め直して、階段の方にも歩き始めた。第二美術室は、第一の斜向かいにある。この間、硫美と話した部屋だ。

 階段を上りながら考える。呼び出した、ということは犯人は幽霊ではないだろう。もしそんな霊的な存在だったら、わざわざ場所を指定はしないだろう。深夜に直接沃太の部屋に現れかねない。

 廊下をゆっくり歩く。意識しているわけではないが、つい足取りが重くなってしまう。誰が何の意図を持って呼び出したのか、まるで見当がつかない。

 閉じた扉の前で、一度深呼吸をする。

 それから、扉を押し開けた。

 見慣れぬ第二美術室の真ん中。

 無人の部屋の中に、

 一架のイーゼルがこちらを向いて立っていた。

 載せられた一枚の絵画。

 白い布が被せられている。

 沃太はふらふらと絵に近づいた。

 布を乱暴にはぎ取る。

 夕暮れの教室だった。

 机と椅子。

 黒板と教壇。

 真ん中に、三人の女子生徒。

 左端に酒井環がいた。

 椅子に腰掛けて、楽しげに笑っている。

 そして右端に

 早坂良子が立っていた。

 穏やかに微笑んで、

 話の中に入っているように、

 他の二人を見守っているように。

 静かに、立っていた。

 まるで、

 誰かを待っているように。

 この絵の世界に、

 導いているように。

 誘っているように。

 手招きしているように。

「武藤沃太君」

 突然、背後から声をかけられた。

 びくり、と身体が震える。絵に集中しすぎて、後ろに誰かがいることに、まるで気がついていなかった。取り繕うように、ゆっくりと振り返る。

 扉の枠に手をかけて、沢渡硫美が立っていた。

「こんにちは」

「……あ、ああ」

 通路を塞ぐように、硫美は立っている。にっこりと微笑んでいる。彼女のこんな表情を、沃太は初めて見た。

「どう?」

 笑顔のまま、硫美が訊く、

「その絵は?」

「お前が描いたのか?」

「ええ、もちろん」

 硫美は一瞬、自分の絵に目を遣った。そのまま絵の方に近づく。沃太の隣で足を止めた。

「だってそれが、良子の望みだもの」

 沃太は、ぎくり、とした。思わず硫美のことを凝視する。しかし、それを気にした様子もなく、硫美は沃太が持つ布を手に取って、絵に被せ直した

「ついてきて」

 硫美がゆったりとした足取りで部屋を出て行く。沃太はふらふらと後をついて行った。

 硫美は第二美術室の斜向かい、第一美術室の前に立っていた。いつの間にか、部屋を封鎖していた鎖が解かれている。壊れかけた扉を押し開けて、硫美は中に入っていく。

 第一美術室は、事件の日の朝に入って以来だった。扉を開けてすぐのところに、白い線で丸が描かれている。硫美の絵が燃えていた場所だ。

 硫美は部屋の奥に立っていた。床に描かれた白線の上に立って天井を見上げている。手には何故か携帯電話を持っている。早坂の死体が発見されたその場所に立って、なぜだか彼女は微笑んでいた。

「そこで『吊られた少女』が燃やされた」

 硫美が沃太の足下を指して言った。

「私が良子をモデルに描いた油絵。モチーフはタロットカードの『吊られた男』」

 硫美は抑揚のない声で話し始めた。

「人が吊られているという構図は、無意識に懲罰を連想させる。でも実際には違う。あのカードは本来、北欧神話をモデルとした、新たな高みに登るためのイニシエーションに由来している。そこから派生して、慈愛や献身、自己犠牲を意味するようになった」

 沃太は硫美の絵を思い出した。赤い縄に縛られて逆さに吊られた早坂は、慈愛よりは性愛を思わせた。吐息が聞こえてきそうなほどの艶めかしさを持った、エロティックな絵だと思っていた。

「ええ、それで良いの」

 硫美は沃太のことをじっと見つめて言った。まるで、考えをすべて読まれているように沃太は感じた。

「絵画を描くという行為は、頭の中のイメージをいかに損なわずにキャンバスの上に実現するか、という作業に他ならない。けれど、完成した絵画は、頭の中のイメージとは無関係な作品。見た人が見たままを感じ取って、自由に解釈して構わない。絵画の評価は、創作の外側にあるの」

 窓から夕日が差し込む。

 夕日の差し込む美術室。

 あの日と同じだった。

「だから、貴方が私の絵を見て、何を感じても構わない。良子の、可愛らしい純真な思いの結晶でも」

 それとも、と硫美は囁くように言った。

「怨嗟に満ちた手招きでも」

「お前が」

 沃太は喉の奥から声を絞り出した。これ以上、硫美の声を聞いていると気が狂いそうだった。

「お前があの手紙を書いたのか?」

「どうかしらね」

 硫美はうっすらと微笑んだ。

「答えろよ!」

「私が書いたとも言えるし、良子が書いたとも言える」

「ワケわかんねーこと言ってんじゃねーよ!」

 沃太は声を荒げた。小柄な硫美は、それでも笑みを崩さなかった。

「貴方の認識では私が書いたと言える。でも、私は良子の意図の通り手紙を書くことを決め、良子の思考の通りに文章を創作し、良子の好み通りの封筒と便箋に、良子とまったく同じ文字で手紙を書いた。さて、手紙を書いたのは、私と良子、どちらかしら?」

 それから、硫美はくすくすと声を立てて笑った。

「代筆っていうのが、一番近いかも」

 沃太は奥歯を噛みしめた。

「な、なんでお前、そんなことしたんだよ?」

「なんで?」

 硫美は小馬鹿にしたように鼻で笑った。今日、初めて見せたネガティブな感情だった。

「さっきも言ったでしょう。手紙にも書いた。これが良子の意志。貴方に気持ちを知って欲しい。覚えていて貰いたい。そんな、何でもない純情な感情」

 窓から差し込む光に照らされて、硫美の影が長く伸びる。沃太の足下まで届くほど、長く。

「だから私は絵を描いた。良子の望み通りに、良子が考えた通りのモチーフで。だから私は手紙を書いた。良子が書くとおりに、良子の文字で」

 抑揚のない言葉の連なりに、沃太は震えた。

「どうかしら。私の頭の中に生きている良子が」

 硫美は、うっとりと微笑んだ。

「貴方の中に息づいたかしら?」

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