11.頭痛を癒すもの
———番号11。記号Na。非常に反応性の高いアルカリ金属。熱伝導率が高く冷却剤などに使用される。また、生体にとって必要不可欠な電解質でもある。ラテン語の sodanum に由来。
絵画ではなかった。
少女が屋上の手すりにもたれていた。
抜けるような青空をバックに、
どこにでもあるようなセーラー服に身を包まれて、
空を見上げるように風に吹かれていた。
咥え煙草から紫煙が立ち上る。
制服の裾がひらひらと揺れる。
細身の長身は、それでも凛と立っていた。
スカーフの赤が目に刺さる。
と、彼女は自分を見つめる視線に気がついたようだった。
片方の唇の端をつり上げて、小さく笑った。
ポニーテールが振動する。
「アークロイヤルだけど、吸う?」
「いや……」
見城曹司はゆっくりと立ち上がった。
ズボンの埃をはたく。
「そう」
少女はまた空を見上げた。
煙草を咥えなおす。
紫煙が風に流されていく。
甘い香りがした。
不快な目覚めだった。
いつだって目覚めは不快だ。
懐中時計を持ったウサギを追いかけて
いつまでも洞窟の中を冒険出来たら良いのに。
いつまでも……。
目が覚めてしまえば
退屈で面倒な現実が待っている。
「見城曹司君だよね?」
少女が視線を戻していた。
「ああ」
曹司は小さく頷いた。
見覚えのある姿だったが、名前までは思い出せなかった。
「お前は……?」
くすくすと笑いながら、少女は煙草で曹司の口元を指した。
「涎」
曹司は手の甲で顔を拭った。少女は咽の奧でだけ笑っている。
「屋上は好き?」
「別に、好きでも嫌いでも」
「そう」
彼女は煙草をもう一度吸ってから、手すりに押し付けて揉み消す。
「私は好きなんだよね、ここ。世の中には良い屋上と悪い屋上があって、でもここは私の中でベスト3に入るくらいの出来だ。ウィーンのオペラ座に匹敵するね」
「オペラ座?」
「そう。休憩時間とかに出られるんだ。あそこは、すごく良い。周りはホテルとか銀行とかで意外と雑然としてるね。オペラ座自体はライトアップされているんだけど、自分がそこに立ってるからちっとも見えない。灯りも点いていなくて、そのライトアップの光が漏れてくるだけ」
「……良いのか、それ」
「うん。何にも見るものがないし、見る必要がないんだ。だけど、だから、自分が立っている場所が特別だってはっきりと判る」
少女は制服のポケットから白い箱を取り出した。慣れた手つきで煙草を一本抜き取る。
「それで、結局お前は?」
「ああ」少女は金属のライターで咥えた煙草に火を点けた。眼を細めて煙を吐き出してから、短く言った。
「蒔田燐。33」
曹司の隣のクラスだった。
「君は34だよね?」
「ああ」
「事件についてどう思う?」
燐の目が細められた。
「どうって……」
話題の跳躍に、曹司は少し思案した。
「困っている」
「沢渡硫美ちゃんか」
曹司の答えを予期していた様に、燐が言った。
「……まあ」
半分諦めて、曹司は頷いた。
「さて、そんな君に頼みたいことがあるんだけどね———」
*
第一美術室には、三人の女子生徒がぶら下がっていた。
発見者は都立H高校三年三組、通称33の美術部員、沢渡硫美だった。何てことのない平日の朝、第一美術室に行った彼女は扉が開かないことに気がついた。普段、鍵をかける習慣がないため不審に思った彼女は扉の小さな窓から部屋の中を覗き込み、イーゼルに立てかけた自分の絵が燃えているのを発見した。
彼女はすぐに職員室まで教師を呼びに行った。美術教師が応対したものの、美術室の鍵は近くには見当たらず結局駆けつけた教師と近くにいた生徒数名によって扉が蹴破られた。しかし既に絵は完全に炎に包まれ原形を留めてはいなかった。また、鍵は美術室内の教卓に置かれているのが発見された。
しかし彼らの目に、そんなものは最早映っていなかった。美術室の中央付近では、天井から三人の女子生徒が首から吊されており、その胸にはペインティングナイフが一本ずつ、深々と刺さっていたのだ。
「さて、ここだよん」
燐は上半身だけ振り返った。自由が丘駅から徒歩で七分ほど。一戸建ての白い住宅。二階建てで庭付きだった。
「ここは?」
「蒔田家。中々洒落てるでしょ?」
燐はしれっと言った。それから訝しげな曹司の顔を見て、面倒そうに付け足した。
「大丈夫だよ。両親は出かけてるから」
「余計に怪しい」
「兄貴は多分いる」燐は口元を緩めて付け足した。「半分引きこもりみたいなもんだからねぇ」
玄関から二人は家の中に入った。土間で靴を脱いで廊下を進む。リビングで椅子を勧められて曹司は腰掛けた。
「さて、今日君を拙宅まで連れてきたのは他でもない」
燐は扉の近くに立ったまま、そう重々しく口を開いた。
「悪いんだけど、実は私も理由は知らないのだよ。連れてきてって頼まれただけでね」
一転して軽い口調になった。目尻が下がった、気の抜けた笑顔だった。
「……なんだそれは」
「てなわけで、ちょっと待ってて」
燐はそう言って軽やかな足取りでリビングを出て行った。すぐに階段を上る規則的な音が聞こえてくる。
曹司はぐるりとリビングを見渡した。ダイニングテーブルに四脚の椅子。大型の液晶テレビ。生活感溢れる部屋の中に、特に目を惹くような調度品は無かった。
一体ここで何をしているんだろう、と曹司はもう一度自問した。屋上で隣のクラスの女子と出会った。彼女に硫美の名を出されてついてきている。経緯を説明するのは簡単だが、まったく用事が解らない。33ということは硫美と同じクラスのはずではあるが、何の手がかりにもならなかった。
「お待たせ」
燐が戻ってきた。制服姿のままだった。鞄はもう持っていない。
「こっちに来て」
手招きされるままに曹司は立ち上がった。彼女の後について階段を上る。しっぽを追いかけるように上り切って、すぐのドアの前で燐は足を止めた。
「お前の部屋?」
「……君は知り合ったばかりの女の子の部屋にずかずかと入り込みたい人? いくら相手が可憐な美少女とはいえ、それはちょっと。デートを三回くらいは経ないといかんよ、君」
「……可憐ではないな」
曹司は燐の姿を上から下まで眺めてから言った。女性にしては身長が高く、一七〇センチくらいはあるだろうか。少しつり目気味の瞳は、意志の強そうな光を宿していた。手足は健康的にすらっと伸び、後頭部のポニーテールは活動的に揺れている。表情はころころと変わるし、黒目がちの瞳はくるくると動く。いつも楽しそうだった。ポジティブな形容はいくらでもつけられるが、少なくとも可憐、という言葉が適当だとは思えなかった。
「その通り」
部屋の中から笑いをこらえた声がした。燐が不満そうな表情で扉を開ける。中に入る前にもう一度、曹司の方を振り返った。
「変な人だから」
「引きこもりのお兄さん?」
「そう」
二人で部屋の中に入る。その瞬間、もわっとした熱気を曹司は感じた。
「ようこそ。見城曹司君」
アームチェアに腰掛けた男が、こちらを向いて座っていた。二十代半ばくらいだろうか。茶髪の少し長い髪をしていた。雰囲気は燐に似ている。洒落っ気のないポロシャツにジーンズを合わせている。引きこもりという言葉から受けるような不潔なイメージでは無かったが、とても堅気には見えなかった。
勧められるがままに椅子に座る。一脚しかなかったため、燐は扉にもたれるように腕を組んで立ったままだ。
「貴方は?」
「燐の兄で、蒔田硅だ。よろしく」
「はあ」
曹司は生返事をしながら、室内を見渡した。
まず目につくのは大きなモニターだった。二十四インチほどはあるだろうか。それが机の上に四面も並んでいて、足下の大きなパソコンに繋がっているようだった。壁際には大型のスピーカーがあって、その間には高級そうなオーディオ機器がラックに収まっていた。机の奥の壁にヘッドフォンばかりが六つほどフックにぶら下がっているのが異様だ。本棚には英語でタイトルが書かれた本がぎっしりと詰まっていて、入りきらないのか床にも大量に積んである。一応、本人の中では片付いていると思われるような物の配置だった。
「それで? 俺を呼んだのは貴方ですよね」
「そうだ。悪いんだけどね、君に事件の調査を頼みたいんだ」
硅は平板な口調でそう言った。長い足を組み直して続ける。
「君に説明するまでも無いとは思うけどね。美術室で発見された三名の死体。誰がやったのかまだ判っていない。被害者は全員三年三組の生徒。33って呼ぶのが習慣なのかな。燐のクラスメイトだね。発見者も同じクラスの沢渡硫美。事件現場では同時に彼女の描いた絵、『吊られた少女』が燃やされていたという」
硅はそこまで言って、一度言葉を切った。曹司と目が合うと、小さく口元を緩めた。
「君にも無関係とは言えないんじゃないかな?」
「さあ……」
「『吊られた少女』は学生コンクールで金賞を獲った絵だね。何かのニュースで見たよ。逆さに吊られた制服姿の少女の絵」
曹司は硫美の絵を思い返した。もう何度も見た絵。白と黒の制服。赤味が差した少女の顔。食い込む赤く細い縄。彼女の吐息が感じられそうだった。
「タロットをモチーフにしたのかな。性別が違うけどね。どことなく扇情的で背徳的だった。グロテスクと言っても良い」
「硫美の絵の中では、マシな方ですよ」
「そうらしいね。もっと直截的な表現をした絵が多いようだ」
硅は目を閉じた。
「君の従妹さんは、昔からそんな絵を描いていたのかい?」
「ええ、まあ」
曹司はあっさり頷いた。自分と硫美の関係を知っていることは、予想済みだった。
「え? 親戚だったの?」
しかし燐には意外だったようだ。少し高い声でそう言ったので、曹司は少し驚いた。
曹司と硫美の関係は特に隠しているわけではない。学校でも聞かれる度に正直に答えている。なのでてっきり燐経由で自分と硫美のことを知ったのだと考えていた。それ以外だと情報の経路がまったく思い当たらない。
「母方の従姉妹だよ。別に珍しくもないだろ」
「ふうん。全然知らなかったな」
燐が小さく頷く。それを気にした素振りもなく、硅が話題を戻した。
「犠牲者の一人は早坂良子さん。彼女も美術部員で硫美さんの親友だった。『吊られた少女』のモデルとなったのは彼女だね」
「……多分」
「その彼女も吊された。逆さ吊りか、首吊りかという違いはあるけれど。同時に絵が焼かれたというのは偶然なのかな?」
「さあ」
曹司は明言を避けた。答え自体を持っていなかったし、目の前の男がいかにも怪しかった。
「なぜそんなことを?」
「さて、どうしてだろう……」
硅はそうぼんやりと言って、机の上のタバコの箱を手に取った。しかしオレンジ色の箱の中身は空だったようだ。握りつぶしてゴミ箱に投げ捨てる。
「おい、P子」
「何だ、半導体」
硅の言葉に燐が応じる。あだ名なのだろうか。
「タバコ買ってきてくれ。パラダイスをカートンで」
「嫌だよ、面倒くさい。駅前まで行かないと売ってないじゃん、それ。帰宅前ならいざ知らず」
硅は引き出しを開けた。中から紙箱を取り出す。
「お駄賃にこのナボナをやろう。秋季限定マロン味だ」
自由が丘銘菓だった。それを見た瞬間、燐の目が名前のように輝いた。
「……しょうがないなあ」
燐はナボナと一万円札をいそいそと受け取った。
「じゃあ、ごゆっくり」
部屋からそそくさと燐が出て行く。その後ろ姿を曹司は呆然と見送った。
「変な妹だろう」
「そうですね」
硅は引き出しの下の段を開けた。そこからオレンジのタバコの箱を取り出して封を切った。
「パラダイスだけど、吸うかい?」
「いや……」
兄妹そっくりだった。僅差で兄の方が変だと曹司は判断した。
硅はマッチを擦ってタバコに火を点けた。煙を美味しそうに吸い込んで、輪っかにして空中に吐き出す。芳醇な紅茶の香りがした。
「それで?」
「ん?」
曹司の問いに、硅は胡乱な目を向けた。
「ああ、本題か。さっき言ったとおりだよ。君に事件を調査して欲しい。出来れば解決もね」
「貴方にこそ関係が無いと思うんですけど」
「そう。僕にはね、基本的に無関係だ」
硅は両手の指を開いて上げた。
「でも興味はある。ついでに面倒な事情もある」
曹司は黙ったまま目だけで続きを促した。硅は火が点いたままの煙草を灰皿の上に置いて、じっと曹司のことを見つめた。
「まず一つ目。沢渡硫美さんのこと。彼女が事件と無関係ならそれで何の問題もない。だけど、事件が彼女の部活の活動場所である美術室で起きていて、彼女の絵が燃やされ、その絵のモデルでもあり彼女の親友でもある少女が死んでいる」
硅はそこで言葉を切った。目が合ったまま数瞬が経過する。仕方が無いので曹司は頷いた。
「……そうですね」曹司は目を逸らさずに訊いた。「偶然にしては出来過ぎている。でも、貴方と硫美は一体どんな関係なんです?」
「僕は彼女の絵のファンなんだよ」
「……ファン?」
「換気扇のことでは無いよ」
硅の軽口を曹司は無視した。
「『吊られた少女』以外で硫美の絵を見たことは?」
「もちろんあるよ。腹を裂かれた犬猫とか、捕食される昆虫。痣や傷だらけの半裸の少女。残虐趣味と言うのかな。まあ、まるでやる気が感じられない風景画みたいのも時折描いているようだけどね」
曹司は口元に手をやった。硅が小さく笑った。
「警戒してるね?」
「……ええ」
「なるほど」
硅は二度ほど頷いた。満足そうな素振りだった。
一体、どこで硫美のことを知ったのだろう、と曹司は訝しんでいた。硅が言及した絵はどれもたしかに存在する。強烈なインパクトを与える作品ばかりで、硫美も手応えを感じているようだった。いくつかはコンクールに出品したものの、評価は芳しくなかった。恐らく、テーマが学生コンクールに相応しくなかったのだろう。
硫美の絵の中で有名なものは『吊られた少女』だけだ。コンクールに出品した作品に関しては評価に関わらず公開されているので、時間をかけて探しさえすれば一般人でも見ることは出来る。しかしそれ以外を目にする機会はそうそう無いはずだ。
「もう一つ理由があってね」と、笑顔のまま硅は言った。「燐のことだ」
「はあ」
「あれはかなり好奇心が強い。今までもいらないことに首を突っ込んではトラブルを拡大してきた。今回も、独自に調査をしようとしている節がある」
「……ああ」
「君が解決してくれればそれで良い。そうでなくても、あれが問題を起こしたり余計な生傷作らないように、それとなく気をつけて欲しい。あれでも可愛い妹なんだ」
「なぜ俺なんです? それ以前に、俺のことをどこで?」
「君が知りたいのは硫美君の絵をどこで見たか、だろう?」
硅はぼそりと言った。少し迷ったが、曹司は無言で頷いた。話題が跳躍し、あちこちに行き来する。しかしそれに抗えなかった。相手のペースに乗せられている自覚はある。しかし打開する方策も思い浮かばなかった。
「君に関しては硫美君の従兄だから、という理由が一番大きい。彼女に何かあっても素早く対処できそうなポジションにいるからね。性格的に気難しい彼女のことだ。側に誰かをつけようとしても難しい」
硅はもう一度タバコを咥えた。
「実は僕は画商まがいのことをしていてね。硫美君については以前から注目していたんだ」
煙を吐き出す。狭い部屋の中、紫煙は消えずにいつまでも漂っている。紅茶の匂いが鼻につく。
「現状どうこうしようとは思っていないけれどね。でもこんなつまらない事件でトラブルに巻き込まれて欲しくない。その一方で、硫美君が実際の事件に接することでさらに才能に磨きをかけることを期待してもいるんだ。作品のテーマとの親和性も高い。少し不謹慎な物言いかもしれないけれどね」
曹司はじっと硅の目を見つめた。硅も目を逸らさない。視線を時折煙が遮った。
何を考えているのか、何も読み取れなかった。嘘くさい、とも、真実の響きも、一切の判断を許されなかった。微動だにしない、というような強さとも違う。あまりに自然すぎてまったく捉えどころがなかった。
「硫美君自身がそういう世界に身を置きたいと考えているかどうかは判らないけどね。いずれにせよまだ先の話だ。出来れば忘れてくれると有り難い」
「それは構いませんけど」
曹司の答えに、硅は満足げに唇を吊り上げた。少し思案するように顎に手を当てる。
「まあ、そんなわけだ。引き受けて欲しい、と頼むのもおかしな話かな。僕が何か言わなくても君は硫美君のそばにいるだろうしね」
「それは、そうですけど」
「ついでで良いんだ。燐のことをちょっと気に掛けてやって欲しい」
曹司は一度床に視線を落とした。フローリングには埃一つ落ちていない。
完璧にこの男に動かされていた。特に害はないが、少々癪に障る。
「ええと」曹司は視線を上げ、意識して微笑んだ。「ナボナ一つで手を打ちます」
*
夕暮れのコーヒー屋はそこそこ混み合っていた。店の奥に大型のスピーカーが置かれている。そこから流れるモダンジャズの響きに、客の話し声が時折混じる。それを聞き流しながら曹司はいつも通り食器を洗い始めた。
九品仏駅から徒歩四分。自由が丘からでも九分ほど。等々力通り沿いのカフェ『イーグル&チャイルド』は平常通りの営業だった。
「曹司君」
「はい?」
横からかけられた声に、曹司は首だけ振り向いた。マスターならぬミストレスの沢渡静が腰に手を当てて立っていた。
「今日、硫美はどうしたの?」
「部活に出てるはずです。今日から再開だとか」
曹司は顔を戻して食器洗いに戻った。バイト開始は大抵この作業から始まる。静が面倒くさがって滅多に洗わないからだ。
「だって、美術室は閉鎖されてるんでしょ?」
「当面は第二美術室らしいですよ」
「そんなのあったの?」
「俺も今日になって存在を知ったんですけどね」
静は硫美の母親だ。つまり曹司にとって叔母ということになる。ただおばさんと呼ぶと怒られるので、ファーストネームにさん付けが基本である。
実際のところ、静はとても十八の娘がいるとは思えない容姿をしている。たしか、まだぎりぎり三十代のはずだ。よく常連客に冗談交じりに口説かれては、軽くあしらっている。
「ふうん……」
静は気勢を削がれたように、そう言った。ぼんやりとカウンターに肘をつく。だらしがない姿だが、妙な色気があった。
静と硫美はよく似ている。しかしそっくりなのは外見だけで、明るく社交的な母親に対して、娘の方は気難しくて癖がある。口数が少ないわけでもないが、何を考えているのか判りにくいことが多い。
沢渡家は母子家庭だ。硫美の父親のことは遺影でしか見た記憶が無い。以前は祖父母と一緒に住んでいたが、祖父は他界し祖母は老人ホームに入っている。静は祖父母から受け継いだカフェを切り盛りして生計を立てていて、曹司も高校入学以来アルバイトとして働いている。
曹司は静の方を横目で覗った。最近、体調を崩していた様子だったので、少し心配だった。やはり事件に娘が関係していることが気になっているのだろうか。
「大丈夫、なんだよね?」
「ええ」
心配そうに静が訊いてきたので、曹司は頷いて見せた。
先程までの硅との会話が頭をよぎった。正直なところ、犯人が判っていない以上、決して安心できるわけではないのが実情だった。
犯人の目星など曹司にはまるでつかない。隣のクラスでは人間関係の機微も判らない。そもそも三人を同時に殺したいと思うような動機を想像も出来なかった。かといって殺害によって利益を得たり損失を被る人物も思い当たらない。
硫美の絵を燃やした理由も解らない。たしかにあの絵は賞を獲ったので校内では有名だった。美術室にこれ見よがしに飾ってあったが、それを燃やす動機は思い当たらない。金銭的な価値がついているわけでもないし、硫美にしたって描き終わった作品にはほとんど頓着していない。
洗い終えた食器を今度は麻のクロスで拭いて食器棚に戻していく。その途中、壁に掛けられた水彩画が目に入った。何てことのない街を描いた風景画。上手な絵だった。店内には他にも風景画が何枚か飾ってある。すべて硫美の作品だ。
硅が言ったとおり、まるでやる気の感じられない絵だった。何にも考えずに見れば上手い絵ではある。しかし、硫美が本気で描いた絵を一度でも見た後では、これらに何の情熱も感情も込められていないことがはっきりと解る。
店内に飾りたいと静に請われ、面倒くさそうに描いていた硫美の姿を曹司は思い出した。明らかに気の乗らない様子で、酷いときには両手に一本ずつ筆を持って色を塗っていた。器用なものだと逆に感心したものだった。
カラン、とドアのベルが鳴る。目を向けると、うつむきがちに硫美が入ってくるところだった。そのままカウンターの端の席までやってくる。彼女の定位置だった。
「ウィンナ・コーヒー」
「……はいよ」
硫美が母屋に直接帰らず、店の方に来るのは珍しい。すとんとスツールに腰掛けたまま、ぼんやりと壁の方を見ている。
静がコーヒーをドリップしている間に、曹司は手早くクリームを準備した。黒い悪魔的な液体に白い泡をふんわりと浮かべる。
「部活はどうだった?」
「別に、普通」
カップに口をつけた硫美に静が問いかけた。だが返事は簡潔で愛想の欠片も無かった。不機嫌というよりは、心ここにあらずと言った様相だった。
「硫美」
「……何?」
ぼんやりと硫美は首をもたげた。
「今度は何を描き始めたんだ?」
「ふむ」
硫美はそう言って、少し背筋を伸ばした。瞳の焦点が段々に合ってくる。
「まだ考え中。モチーフは良いとして。構図とかそんなの」
「ふうん」
硫美の場合、絵を描こうと思い立ってから実際の作業に入るまでの時間が長い。頭の中に完璧なイメージを作ってからでないと、キャンバスに向かうことが出来ないようだ。
硫美は両手でカップを包み込んだ。息を吹きかけてから、カップに口をつける。小柄な硫美がやると、まるで幼女のような仕草だった。
硅に頼まれたことが、曹司の頭の中を回っていた。事件の調査をするためには、どうしても硫美の話を聞かなくてはならない。何しろ第一発見者であり、それでなくても美術部に関係する事情が多い。
しかし今のタイミングでそれをするのは躊躇われた。事件の後に何度も警察から話を聞かれて迷惑そうな顔を見せていた。何より亡くなった生徒の一人は硫美の親友だ。ショックを受けたような様子はこれまであまり見せていなかったが、それでも無神経に踏み込むのは気が引ける。
それに静のこともある。事件以降、とみに硫美のことを心配している。事件が話題に上ることすら嫌がっている。口に出すことで、災いが降りかかってくるとでも思っているようだった。
「ふふふ」
硫美が声だけで笑った。表情はほとんど変わっていない。下から覗き込むようにして問いかける。
「何の悩み事?」
「別に」
曹司は仏頂面を作って答えた。それを見て、硫美が少し尖った声で言った。
「相手の気持ちになって考えろって言うじゃない。私、あれ嫌いなの」
「何だ、突然」
「だってそうじゃない? 私と貴方は違う生き物なのに、私の気持ちを判ったつもりになるなんて傲慢よ」
憤慨したような言い種だった。けれど硫美はちっとも表情を変えていなかった。
「例えば、そうね。小さいとき私が一人で楽しく絵を描いていた。すると大人がやってきて、他の子供たちに真面目な顔で言うの。可哀想だから一緒に遊んでやれ、って。いいから邪魔しないで、って思うわよね。でもそんなこと気がつかずに良いことをした気になって、満足そうな顔で去っていくの。そもそも可哀想なのは、誰かと一緒じゃないと楽しめない人たちの方なのにね」
「まあ、それはそうかも」
突然べらべらしゃべり出した硫美に、曹司は一応頷いた。
「逆にね」硫美はくすりと微笑んだ。「相手に悪いから、という感情は欺瞞と偽善の産物」
かた、と静の手元で音がした。
「相手が傷ついたり悲しんだりする姿を自分が見たくない、という極めて個人的な動機によってもたらされる判断。本当に傷つくかなんて、判らないのにね」
それに、と硫美は続けた。
「仮に本当に深く傷ついたとしても、それでも言って欲しい、黙っていられるよりはマシだと思う場合だって多々ある」
硫美はそう言い放つとカップに残ったコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。足下に置いていた鞄を持って母屋へと入っていく。
一度も振り返らなかったその後ろ姿を曹司は無言で見送った。
「曹司君」
「はい?」
「皺」
静は曹司の眉間に手を伸ばし、人差し指でちょんとつついた。
マンデリンの香りがした。
*
週明けの月曜日、放課後。曹司はまた屋上に立っていた。目の前には前回と同じように手すりにもたれかかる長身の制服姿。絵になるシルエットだった。
「や」
「ああ」
燐はポケットからタバコを取り出して一本咥えた。火を点ける前にもごもごと言葉を発す。
「感心だねぇ。何も言わずともここに来てくれるとは」
「偶然だろ」
曹司の返事に燐は肩を竦めた。
「つれないねぇ。まあ良いや」燐はポケットをごそごそと探って、ライターを取りだした。「事件について何か判ったことは?」
「いや、特には」
「ふむ」
燐は煙草に火を点けた。
「何で事件について調べてるんだ?」
「え? さあ」
燐は首を捻った。ポニーテールが重力に引かれて規則的に揺れた。
「まあ、兄貴からは君と協力して調べるように言われてはいるけどね」
要領を得ない返事だった。何か特別な理由があるようには到底思えないが、かといって面白半分という様子でもない。
燐が煙を吐き出す。甘い香りが漂ってくる。お菓子みたいな、バニラ味の煙。
「とりあえず情報を整理しない? 調査するにしたって、何を調査するのかをまず決めないといけねいでしょ」
曹司は黙って頷いた。それを見て、燐は満足そうに微笑んだ。
「さて。まず事件の概要からかな。殺されたのは33の、つまりうちのクラスの、女子ばかり三名。あの子たちのこと、知ってる?」
「早坂以外はさっぱり」
「そう。じゃあ簡単に。まず酒井環。オーケストラ部だね。楽器はチェロ。綺麗系の結構強気な子だった。次に陸上部の加地みのり。種目は長距離だったそうな。大和撫子ちっくな、おっとりした子。で、最後が早坂良子。美術部の小動物系。まあ、部活については全員引退しているけどね」
燐はすらすらとそう言った。
「さて、被害者の共通点はといえば、もちろんうちのクラスの女子だということ。それと、何て言うのかな。あの三人は仲良しだったんだよね。机くっつけて一緒にお昼を食べるような」
「ふうん。他にメンバーはいないのか?」
「多分ね。あはは、私、クラスメイトの仲良し関係図とか、よく解らないのだよ。いっつもふらふらしてるから」
曹司は黙って燐を上から下まで眺めた。外見は変ではなかった。平均から乖離はしていたが、ネガティブな方向ではない。
「……友達いないのか」
「どうしてそういうこと言うかなぁ……。友達いないなんてことはないよ。私はクラスのみんなと仲良いからね。他の誰と誰が仲良いとか悪いとかに興味がないだけ」と、燐は思案顔になった。「あ、でも一般的な日本の女子高生の定義からすると、友達いないのかも……。私、一緒にトイレとか行かないからなぁ。ね、あれってなんでわざわざ一緒に行くの?」
「知るか」
「だよねえ。まあいいや。今度硫美ちゃんにでも聞いてみよう」
燐はもう一度煙草を咥えて煙を吸い込んだ。
「さて、被害者はこの三名。加害者は未だ不明」
「そいつらを殺しそうな奴は誰かいないのか?」
「うちのクラスに? 嫌なことを聞くねえ、君は」
燐はわざとらしく肩を竦めた。
「被害者の構成から、当然その発想になると思うが。仲悪かったグループとか?」
「……君のクラスはそんなマフィアみたいな抗争が起きてるのかな? 壁一枚隔てだたけで大きな違いだ。ベルリンみたい」
「そんなわけないだろ」
「うちのクラスだってそうだよ。そりゃ反りが合わないくらいはあっただろうけどね。ただ……」
燐は少しうつむき気味に言い淀んだ。何か思案している様子だった。しかしすぐに顔を上げて口を開いた。
「一人だけ、犯人ではないかとまことしやかに囁かれている人物がいるんだな、これが」
「へえ」
「硫美ちゃんなんだけどね」燐は軽い口調で言った。「美術部で、被害者の一人と仲が良くて、しかもグロテスクな絵を描くことで有名で、さらにさらに代表作が燃やされてる。いかにも怪しすぎる」
「いや、それは無いだろ」
曹司は思わずげんなりした。しかし燐には気にした様子もなかった。
「ま、噂だからねぇ。君がそう思いたいのも解らなくはないけれど、流れているというのは事実。でも硫美ちゃんのバックグラウンドがなくても、美術部周りが怪しいと思うのは当然だと思うな。だって被害者の中に美術部員が一人しかいない。しかも三年だから引退済みだ。なのに、現場が美術室なんだもの。うちの教室とかなら話は解るけど」
「まあ、たしかに。現場がなんで美術室だったのか、ってのは謎だな。早坂以外の二人が美術室に来る理由が思いつかん」
「うん、全員がたまたま居合わせる場所じゃないんだよね。呼び集められでもしない限り、美術室が犯行現場になることはあり得ない。そうなると、衝動的な犯行じゃなくて、計画的にあそこで殺すという意図が犯人にあったと推測できる」
「そう考えると、あそこで事を為すメリットがある人が疑われるってわけか」
「うん。だから美術部周り。何処に何があるか把握しているから凶器だって簡単に見つけられるし、隠れておいて不意打ちなんかも出来る。……まあ、三人もいたら最初の一人の時点で気がつかれるから意味がないか。ともかく、うちのクラスに美術部は早坂さんを除くと硫美ちゃんしかいないしねぇ。噂になるのも当然でしょ。動機に関しては目立った噂はないし、自分の絵を燃やす理由も思い当たらないけど」
燐はそう軽い調子で言って、少し笑った。憎めない笑顔だった。
「ま、動機なんて考えても仕方がないんだけどね。陰で誰かを虐めてたとか恋の鞘当てとか、いくらでも秘め事がありかねないからねぇ」
燐はそう言ってウィンクをした。
「女の子は秘密がいっぱいだからね!」
「自分から秘密がある、とか宣言されてもな」
「ふふふ、わざと一部分を見せることで本当に大事な部分を覆い隠すという、高等テクニックなのだよ」
妙に流麗な発音で言って、燐は不敵に微笑んだ。
「まあ、人間関係について私が知っているのはこんなものかな。そっちはどう?」
「いや、全然知らない。硫美に聞けば早坂のことはある程度解るだろうけどな……」
曹司はつい言い淀んだ。先週、店で会って以来硫美とは顔を合わせていない。少し気まずかった。
「ま、それは良いや。早坂さんのだけ判っても、どれだけ参考になるか判らないしさ」
燐は明るく吹き飛ばすように言った。思い出したように、フィルタ付近まで火が回った煙草を咥える。一口吸って屋上に吸い殻を落とし、スニーカーで踏みつけた。
「事件の当日の経緯については?」
「何日が当日か判らないけど」
燐はそう言って不敵に笑った。
「とりあえず、その話は現場を見ながらしない?」
「現場って……、美術室は入れないだろう?」
「まあまあ」
燐はそう言って鞄を持ち、弾むように歩き出した。振り返ることなく屋上を出て行く背中を、曹司は早足に追った。
屋上から階段を一フロアだけ降りる。三階の西側、特別教室が集まっている一角の中程に美術室はある。
曹司にとっては、そこそこ馴染み深い場所だった。美術の授業も選択しているし、放課後などに硫美を迎えに来たことが何度かある。
「ほら、入れないじゃないか」
扉の前で足を止めた燐の背中に、曹司はそう声をかけた。
美術室の扉は鎖で固く閉ざされていた。
*
第一美術室から斜向かい、第二美術室の扉を曹司は押し開けた。この部屋に入るのは初めてだった。燐もきょろきょろしている。
一歩、室内に踏み入れて、曹司は足を止めた。その隣に燐が並ぶ。
部屋の奥、窓の近くにイーゼルが一架立っていた。その向こうにいつものように硫美が腰掛けている。絵を描いているときに後ろから覗かれるのが好きでないらしく、いつも硫美は部屋の奥に座る。
その脇に、男子が一人立っていた。曹司が見たことのない顔だった。
「おや」
二人の姿に気がついて、硫美が唇の端を持ち上げた。
「あれま。武藤君」
「あ、蒔田さん」
燐は男子生徒と知り合いのようだった。気軽に声をかける。少し伏し目がちに武藤と呼ばれた男子は返事をした。
「あ、じゃあ俺はこれで」
「ええ。さよなら」
硫美と短く言葉を交わしてから、武藤が足早に去っていく。すれ違いざまに、曹司たちにわずかに頭を下げた。
「今のは?」
「武藤、沃太君だったかな。たしか37で軽音部だったかと」
燐が思い出すように説明した。口ぶりから、態度の割には親しくないのが判った。
どうやら燐は誰に対してもこういう態度らしい、と曹司は判断した。屈託がない、とでも表現するか。にこにこ笑いながらフレンドリーに接するのが常のようだ。
「珍しい取り合わせね」硫美が平板な口調で言う。「いつの間にこんな愛人を?」
「なは」燐は変な声を上げた。「愛人ときたかぁ。いやはや」
「どこからそういう発想になるんだ……」
曹司を無視して硫美は燐のことをじっと見つめた。燐が笑顔のまま首を傾げる。怜悧な声で硫美は口を開いた。
「蒔田さん」
「はい?」
「改めて見ると、貴女とても美人ね」
「う、うん。ありがとう」
困ったように燐は頷いた。硫美は椅子から音も立てずに立ち上がった。それからイーゼルを回り込んで燐に近づく。
「お?」
それから硫美は燐のことを見つめたまま周囲を旋回した。
「ええと、何かな、これは」
「スタイルもとても良い。少し運動しているから肉の付き方が綺麗。姿勢がとても良いのも素敵だわ。向日葵みたい」
「それはそれは。お褒めにあずかり恐悦至極」
燐は芝居がかった仕草でお辞儀をした。硫美はすとん、と元の通り椅子に腰掛けた。
「絵のモデルになって」
硫美が燐のことを褒めだしたのはこのためか、と曹司は納得した。二人は同じクラスなので、もう半年以上は同じ教室で過ごしてきたはずだ。今更こんなことを言い出すのはあまりに不自然だった。
「あ、うん。別にそれくらいは良いけど……」
少し困惑した様子で燐は受諾した。
「ふふふ」
硫美が無表情で笑う。
「ん?」
「私がどんな絵を描くか知ってる?」
「ええと、なんか血生臭い感じって聞いたけど。……あれ?」
燐は曹司の方に視線を向けた。しかし曹司はついと視線を逸らした。硫美が笑いをこらえるように言う。
「ねえ、九相図って知ってる?」
「くそうず? なにそれ?」
「仏教絵画。小野小町みたいなとびきりの美人がね、死んでから土に還るまでの様子を描くの。死後に道に放り出しておいて、まず体内からガスが充満して膨張し、皮膚が破れ体液がにじみ出す。蛆虫が湧いて鳥獣に食い荒らされ骨だけが残る。最後は荼毘に付されて土に還るの。その様を精緻に克明に描き出す」
「……うえ」
「貴女みたいな美人がモデルなら、きっととても素晴らしい絵が描けると思うの」
「う、うん。どうかなー、それは」
燐は困ったように笑った。女子が二人とも笑顔を浮かべてはいた。けれどちっとも華やかでなかった。
「それはあれでしょ。人間どんな美人でも死んだらただの物? みたいな? そういう空しさっぽいのを表してるんでしょ。だったら逆に生前美人だったかどうかなんてあんまり関係ないんじゃない?」
「違うわ」硫美は断じた。「生きていても死んでいても、人間も動物も、ただの物で現象よ」
硫美の返事を聞いて、燐はポリポリと頭を掻いた。
「ドライだなぁ。ならどうして美人を選ぶの?」
「描きやすいから、程度の理由だと思うわ。美人というレーベルを張ることで方向性が規定されて、描写に対するイメージが選択しやすくなる」
「ううん、ハイレベルな意見だ……」
諦めたように燐は息を吐いた。手近にあった椅子に腰掛けた。それから硫美の方に身を乗り出す。
「硫美ちゃんはどうして絵を描くの?」
「さあ。蒔田さんが煙草を吸う理由と一緒じゃないかな」
「ふむ」燐は頷いた。「良いね!」
曹司も手近な椅子に腰掛けた。二人の会話に今ひとつついていけない。話題があちこちに飛んでいて、曹司の処理能力を超えていた。相性が良いんだか悪いんだか、よく判らない。
「ところで、この後のお二人のご予定は?」
「ん? 私は特にないよ?」
「そう」硫美は曹司の方に向き直った。「画材屋につきあって」
「ああ、べつに良いけど」
硫美が、なぜか首を傾げた。燐が少し微笑んで曹司の方を向いた。曹司は硫美に問いかける。
「ペインティングナイフ?」
「違う。犯行に使われたのは私のじゃない。おかげで、死体の胸から引き抜く手間が省けた」
「いやいやいや! そんなことになったら買い直そうよ!」
燐の声が少し高くなる。硫美が無感動な瞳でそちらを見遣った。
「弘法筆を選ばず、ってことわざがあるでしょう?」
「うん、あるね」
「あれは嘘よ」
硫美はきっぱりと断定した。
「悪質な後世の創作。それも、創作という作業をまったくと言っていいほどしたことが無い人の」
「そうなの?」
「道具というものは、そういうものではないの。特徴を掴み癖を知り、時には譲歩してまで対話する。そこまでして初めて相棒となり得る」
硫美は真剣な声で言った。
「最初から手に馴染むものは駄目ね。それは何でも受け入れてしまう。影響を受け易すぎるから、すぐに変容してしまう。頑固な道具をいかに手懐けるか、それが肝要。自分の手足のように使えるようになるまでじっくりと相手をするの」
もっとも、と硫美は小声で続けた。
「自分の手であっても、思い通りの線を引くのは難しいのだけれども」
今までに何度か、曹司は硫美のこの主張を聞いたことがあった。何度耳にしても、その意味はよく解らない。曹司にとってはボールペンは掠れない方が良い、とかその程度である。
硫美は気を取り直すように言った。
「……乾性油が無くなったの」
「こないだ買わなかったっけ?」
「買った。でも、知らないうちに無くなりそう」
硫美はゆっくりと目を閉じた。
「油はヨウ素価によって固まるかどうか決まるの。一三〇以上の場合、不飽和脂肪酸の二重結合が酸化して凝固する」
硫美は美術だけでなく、成績も優秀だ。意外と言うべきか、理系の科目が得意で数学や化学はお手の物だ。
歌うように、硫美は言葉を続けた。
「そう、酸化なの。油の凝固も物体の燃焼も、生物の呼吸も死体が腐るのも。すべて無慈悲な酸素が浸食する現象」
*
自由が丘駅の女神口を出て、硫美はまっすぐ北に向かって歩き出した。曹司はその横に並ぶ。
「画材屋じゃなかったのか?」
「それは明日」
硫美は真っ直ぐ前を向いたまま答えた。それを聞いて曹司は心の中でだけ肩を竦めた。
「じゃあ、どこへ?」
「もちろん、ナボナを買いに」
「ナボナ? 何で」
「知らないの?」電車を降りて初めて、硫美は曹司の顔を見た。「ナボナはとても美味しいの」
「知ってるけど……」
「良子も大好きだったの。お線香上げに行くのに、お供え無しというわけにもいかないでしょ?」
「なんで早坂の家に行くことになってんだよ」
「今日行くことにしたから。嫌だった?」
「別に構わないけどさ。先に言えよ、そういうこと」
すたすた歩く硫美の後を曹司はついていく。店に入ると、硫美は迷った様子もなく、箱詰めをレジに持っていく。妙な義務感に駆られて、曹司は半額出した。
「早坂の家ってどこなんだ?」
「すぐ近く。緑が丘の方。歩いて行ける」
硫美は振り返りもしない。電気店の前を無言で通り過ぎる。
「どうして突然?」
「突然死んだのは良子の方よ」
不機嫌そうに硫美は答える。怒っているような声音だった。
どう言葉を繋げて良いのか解らずに、曹司はまた口を閉じた。しばらく黙って歩いていると、硫美が口を開いた。
「蒔田さんとはどこで知りあったの?」
「たまたま、かな」
曹司は曖昧に答えた。曹司としては偶然知り合っただけだ。しかし考えてみれば、燐は最初から曹司のことを知っていた。とは言え、隣のクラスなので顔と名前が一致していてもおかしくはない。
「たまたま、ね。そう」
「硫美は蒔田と同じクラスなんだろ?」
無言で硫美は頷く。その横顔に曹司は問いかけた。
「あいつって、どんな奴なんだ?」
「さあ? 仲が良いわけじゃないからよく知らないけど。美人だし明るいし頭もスタイルも良い。……私と違って」
硫美は平板な口調でそう評価した。最後の一言を、曹司は聞き流すことにした。触れると危険な気がした。
「そうそう、たしか帰国子女だったかな。英語がとても上手なの」
「ふうん。どこの国?」
「知らない。本人に訊けば?」
つっけんどんに硫美は答えた。少し歩調が早まる。その背中に曹司は問いかけた。
「なんか機嫌悪い?」
二秒ほど間が開いた。
「……悪いのは曹司の頭」
「……それは今に始まったことじゃないけどな」
「そうね」
取りつく島もなかった。曹司はもう一つ溜息をついた。
だいぶ日が陰ってきていた。二人分の影が長く伸びる。平行に並ぶそれは、一度も交わらなかった。
硫美が曹司の方を気にすることもなく、マンションに入っていく。四階建てくらいだろうか。無機質な外観だった。曹司は慌ててその後を追った。
「突然すいません。沢渡です」
オートロックの自動ドアの脇。インターフォンに向かって硫美は小声で話している。ややあって、自動ドアが開く。硫美は短くお礼を言って通話を切った。一瞬、曹司の方に目を遣って、硫美はマンションの中に入っていった。
エレベータで三階まで上がる。硫美の足取りに迷いはなかった。きっと何度も通ったことがあるのだろう。一室のインターフォンを硫美が鳴らすと、すぐに四十代くらいの女性が出てきた。早坂良子の母親だろう、と曹司は判断した。
「硫美ちゃん。いらっしゃい」
「お邪魔します」
部屋の玄関の前で二人は挨拶を交わす。女性の視線が向けられたのに気がついて、曹司は小さく頭を下げた。
「見城曹司です」
「……ああ。君が曹司君ね」早坂母は小さく笑った。「お噂はかねがね」
「内容は聞かないでおきます」
早坂母の後について、二人は家の中に入った。リビングに案内されたところで、硫美は紙袋を渡した。
「あのこれ、つまらないものですが」
「あら。ありがとう」
紙袋の中身を覗いた早坂母は、一瞬少し遠くを見るような目つきになった。
「あの子、ナボナ好きだったのよね。なんであんなに気に入っていたのか、良く解らなかったけど」
テーブルの上で箱を開封する。早坂母は一袋持って和室に入っていく。後をついて行くと、大きな仏壇があった。火が点いたままの蝋燭から細く煙が立ち上っている。
「お線香、上げてあげてね」
「……はい」
硫美が小さく返事をした。
「あの、後で良子の部屋を見せて貰っても良いですか?」
「ええ、もちろん。ほとんどそのままにしてあるから」
早坂母はそう言って、仏壇に菓子を供えると和室を出て行った。硫美は鞄を持ったまま立ち尽くしている。
「先にどうぞ」
「……いや、お前が先だろ」
「いいの。お線香を上げて、先に良子の部屋に行っていて」
頑なに硫美は言い張ったので、曹司は従うことにする。仏壇の正面に正座し、線香を一本手にとって蝋燭から火を点ける。立ててから手を合わせた。
遺影を見る。早坂が制服姿で微笑んでいる。高校の入学式のときのものだろうか。記憶の中の姿より少し幼く見えた。
何を祈ればいいのか解らなかった。冥福という言葉の意味が良く判らない。思い返すほどの生前の記憶もなかった。曹司にとっては、あくまでも硫美の親友という位置づけの少女だった。
立ち上がって硫美に場所を譲る。リビングに戻ると、早坂母がいた。案内に従って廊下を進み、部屋に入る。
妙に緊張した。あまり親しくも無かった女子の部屋に一人取り残されている。あまりじろじろと見てはいけない気がしたものの、他にすることもない。結局曹司は室内に視線を走らせた。
これが所謂女の子の部屋なのだろう、と曹司は思った。机やベッドの所々にぬいぐるみや可愛らしい小物が飾られている。
壁には見慣れた制服が掛けられていた。それを目にして初めて、自分に近しい人間が死んだということを認識した。
制服の横には硫美が描いた絵が飾られていた。ご丁寧にも、額に入れられている。公園のベンチに腰掛けて微笑む早坂が描かれていた。硫美にしてはまっとうな絵だったし、適当に描かれたものでもなかった。
扉が開いて早坂母が入ってくる。手にはお盆を持っていた。勉強机の上に二人分のマグカップと、茶菓子が置かれる。先ほど硫美が手渡したナボナだった。
「ありがとうね、来てくれて。あの子も喜んでいると思う」
早坂母が机の表面を撫でながら話し出した。
「あ、いえ……」
何だか居たたまれなくて、曹司はそう手を振った。しかし早坂母は小さく微笑んだ。
「何だかね、手を合わせてくれてる硫美ちゃんを見て、色々思い出しちゃった」
壁に掛けられた絵を見ながら、早坂母は続けた。
「高校に入学してすぐの頃にね、良子が興奮して帰ってきて。どうしたのか聞いたら、凄い絵を描く人がいるって大騒ぎ。もうあれは一種のファンというか信者というか。あの子も絵を描くのが好きだったけどね。元々あの子は一途というか、一度好きになっちゃうと、ずっとそればっかりしてたり追いかけたりしてたのよね」
相手が聞いていようがいまいが関係なさそうに早坂母は話す。曹司は黙って聞いていた。
「最初は私も、そんなに凄い子がいるのかな、って疑ってたんだけどね。でもあの子はいっつも、硫美ちゃんは凄いんだ、凄いんだって言ってて。その絵を描いて貰ってきたときに驚いたわ。とっても上手だし、でもそれだけじゃなくて何て言うか、眼差しの優しさみたいなのが解った気がした」
話しながら、早坂母は少しだけ涙を流していた。
「ごめんなさいね。いきなりこんな話して……」
「いえ」
一度、洟をかんでから、早坂母は続けた。
「でも、硫美ちゃんにわざわざ来て貰って、あの子も喜んでると思う。曹司君の話題も、時々出ていたしね。硫美ちゃん、仏壇の前で座り込んだまま微動だにしていなかったけど、一体あの子と何を話しているのかしら」
早坂母は小さく笑った。なんだか、とても綺麗に見えた。そのままお盆だけを持って部屋を出て行った。
無性に申し訳ない気がした。曹司自身はそれほど早坂良子と親しくなかった。なのに、母親のあんな言葉を聞いてしまった。自分にその資格があるようには思えなかった。
そういえば、と曹司は思った。硫美が中々やってこない。曹司がこの部屋に来てからもう十分ほどは経っているだろうか。立ち尽くしていても仕方がないので、椅子を拝借してティーカップに口をつけた。紅茶は少し渋くなっていた。
ぼんやりと、学習机に並んだ本のタイトルを見ていく。教科書や参考書ばかりで、早坂の人となりを示すものは多くなかった。
部屋のドアが開く。硫美が小声でお邪魔します、と言って入ってきた。部屋の中に曹司しかいないことを確認すると、すとん、と鞄を落とす。それから、ベッドにうつぶせに倒れ込んだ。
「おい」
「良子の、匂いがする」
枕に顔を埋めたまま、もごもごと硫美は言った。セーラー服の背中の襟が乱れている。スカートも少し捲れていた。呼吸のたびに、小さな身体が上下する。
曹司は黙って見守ることにした。硫美はうつぶせのまま、微動だにしない。まるで、死体の様だった。
「死者は冒涜されるのか?」
静かな声音で硫美は言った。独り言のようだった。
「何だ、突然」
事件以後、早坂についての悪い噂など聞いた覚えはなかった。燐もそんな話はしていなかった。
「最期の望みを叶えるのは誰のため? すぐに死んでしまう者のためではなく、生き延びた者たちの自己満足なのではない? 死にゆく者に心残りを作らなかった、笑って逝かせられた。そんな独りよがりの達成感」
「それは最期に限った話ではないだろ」曹司は口を挟んだ。「相手が後八十年生きたって、もう死んでたって、条件は同じだ」
硫美は頭だけをのっそりと上げた。硫美と曹司の視線がぶつかる。
「ほれ」
曹司は硫美に向かってナボナを放り投げた。頭に当たってベッドに落ちる。バニラ味だった。燐の煙草の匂いを思い出した。
「ありがとう」
硫美はベッドに女の子座りをした。包みを開いてナボナにかぶりつく。
「相手の笑顔を見たいという自己満足」
「相手が本当に笑顔なら、お互い幸せだろう」
「そうね。プロセスが欠落しているような気がするけど」
硫美は短く同意し、ぱくぱくとナボナを頬張っている。ただ無心に、栗鼠のように。その間、曹司は黙っていた。硫美が咀嚼する音だけが室内に響く。
「さて」食べ終えた硫美は立ち上がった。「ちょっとどいて」
硫美の言うことに従って、曹司は椅子から立ち上がった。硫美は机に近づくと、引き出しを開けた。
「……良いのか?」
「本人からの文句ならいくらでも受け付けるけど」
硫美は曹司の方を振り返った。
「女の子の机の中身を見る気?」
「漁ってる本人が言うなよ!」
「良いから、あっちを向いていなさい」
硫美に強く言われて、仕方なく曹司は部屋の扉の方に向き直った。据え付けられたフックに、可愛らしい帽子が掛かっていた。それ以外に、見るものが何も無かった。
背後からごそごそと漁っている気配がする。すぐに何かのページをめくる音に変わった。
「何を見てるんだ?」
「女の子には秘密がいっぱいあるの」
どこかで聞いた台詞だった。
「秘密を見るなよ」
「女の子同士なら筒抜けなの」
事も無げに硫美は言った。それを聞いて、扉を見たまま曹司は頭を掻いた。女子の世界は曹司が考えていたよりもはるかに複雑であったらしい。
「誰が誰を好きとか、告白したとか。付き合ってるとか、逆にどうやって断ったのか、とか。私みたいな他人の色恋沙汰に疎い人間でもね、いつの間にか耳に入ってくるものなの」
ページをめくり続けながら、硫美はそう言った。
「例えば、今まで男っ気が無かったクラス一の美人なんかの噂は広まるのも早い」
「ふうん」
曹司は早坂の外見を思い浮かべた。硫美ほどではないが、小柄で童顔だった。性格的には少し引っ込み思案だった記憶がある。美人と言うよりは、可愛いと表現するべきだった。それに、クラス一、とは誇大広告のように思われた。正直なところ、硫美の方が幾分可愛い。
ぱたん、と本を閉じる音がした。それから硫美は引き出しをしまったようだった。
「はあ」
それから硫美はこれ見よがしにため息をついた。
「ねえ。ラブレターを書いた経験は?」
「あ?」
曹司は思わず振り返った。面倒くさそうな目で硫美が見ていた。少し、眠そうにも見えた。
「ねーよ」
「そうよね」
硫美はぽすん、とベッドに腰掛けた。その正面には硫美が描いた早坂の絵があった。
「どうにも良子の趣味は解らなかった。なんでこんなのが良かったのかしら」
「いや、良い絵だと思うが」
「そうよ」硫美は小さく頷いた。「こんなに平凡な構図なのに、良い絵なの。だから良く解らない」
曹司は改めて壁に掛けられた絵を見つめた。公園のベンチに腰掛ける早坂良子。木漏れ日に染まるセーラー服姿で、穏やかに微笑んでいる。秋に描いたのか紅葉がバックだった。優しい赤色だった。
「はっきり言って、良子はあんまり絵が上手じゃなかったの」
硫美が小声で言った。
「でも、なぜか私に毎回ヒントをくれた。構図とかテーマとか、そういうことに対して。あんまり具体的じゃないし、言ってることも滅茶苦茶なのに、話をしているうちになんとなくイメージが湧いてくるの。あの子には、一体何が見えていたのかしら」
それから良子は、困ったように呟いた。
「本当、どこが良かったのかしら……?」
硫美はそれきり口を噤んだ。ぼんやりと、考え事をしているように絵を見上げている。
硫美は早坂の死をどう処理しているのだろう。曹司はそんなことを考えた。表面には出てきていないものの、心の中で今ひとつ整理出来ていないような気がした。何らかの形での決着が必要なのかも知れなかった。
「なあ」曹司は一つ息を吸ってから言った。「事件の日のこと、訊いても良いか?」
「事件の日?」
硫美が胡乱な目を向けた。
「構わないけど。どうして?」
「ちょっと気になっただけだ」
「……ふうん」
硫美は一応頷いた。
「何を訊きたいの?」
「そうだな……」
曹司は少し考え込んだ。話を振ってみたものの、中身についてはまだ考えていなかった。とりあえず時系列順に追ってみることにする。
「なんであの日、朝から美術室に行ったんだ?」
「画材を置きに。教室に持って行っても邪魔なだけだから」
「何時くらい?」
「いつも通りの電車に乗ったから、学校に着いたのは八時すぎくらいかな」
曹司の質問に、硫美は淡々と答える。普段通りの態度だった。
「それで、どういう状況だったんだ? 美術室は」
「まず部屋の扉が開かなかったの。鍵なんてかかってたこと無いから変だな、って思って窓から覗いたら絵が燃えてた。イーゼルに乗ったままだったから、部屋の奥に飾ってあったのをそのまま扉の近くに持ってきたんじゃないかと」
「持ってきた?」
「うん。元々は部屋の後ろ側に置いてあったの。窓からじゃ見えない位置にね。でも扉のすぐ近くまで動かしてあった」
曹司は第一美術室の様子を記憶の底から引っ張り出した。長方形の部屋の教卓の近くに廊下に面した扉がある。その上部に小さな窓がついている。たしか、硫美の絵は扉から対角となる隅に置かれていたはずだ。
「それで、お前はどうしたんだ?」
「扉が開かないから、職員室まで行って山上先生に説明したんだけど、やっぱり鍵が見つからなくて。結局何も持たずに美術室へ。もちろん開かないから、近くにいた男子に声をかけて扉を蹴破ったの。結局鍵は美術室の中にあったんだけど」
そこまで言って、硫美は目を閉じて付け足した。
「そうそう。美人で有名な蒔田さんもその中にいたわね」
「ふうん」
今までに曹司が得ていた情報と一緒だった。燐の調査は正確だったようだ。
「それで……」曹司は一瞬躊躇した。「その後は?」
「そうね……。てんやわんや?」
「……まあ、そうなんだろうけど」
ええと、と硫美は虚空を見つめたまま少し考えた。
「扉が壊れて中に入ったの。そしたら部屋の後ろの方、窓からは見えないような位置に三人が吊されていた。火はまだ燃えていたから、誰かが廊下から消火器を持ってきて消したの。油絵だけあって、燃料がいっぱいあって、かなり長い時間燃えていたみたい」
「かなり長い時間? どのくらいだ、それ」
「さあ? 少なくとも五分くらいでああはならないと思う。イーゼルの木がかなり内側まで燃えていたから。火事になった家の柱みたいに。具体的にどのくらいの時間、と訊かれても判らないけど。まあ大まかに三十分くらいは」
「ううん……」
「もっと正確な時間が知りたいなら実際に燃やしてみたら?」
投げやりに硫美が言う。曹司は苦笑を返した。燐ならやりかねないと思った。
「その後に警察やらなんやらがやってきて。すぐに部屋を追い出されたから」
「そうか……」
曹司は少し考えた。
「事件のとき、何か気づいたことはなかったか? いつもと物の置き場所が違ってた、とか。あるはずの物がないとか」
「さあ。当日は気がつかなかった、と思う。警察が持って行ってしまった物もあるから、今になってそんなことを言われても」
硫美は首を捻った。
「やっぱり、扉が開かなかった、というのが一番おかしな点。鍵がかかってたことなんて、入学以来一度もなかったもの」
「じゃあ、普段鍵はどこにあったんだ?」
「たしか……」硫美は考え込んだ。「教卓の引き出しにあったような? 違ったかな……」
曖昧だった。あんまり当てにしない方が良さそうだった。
現場の第一美術室について、曹司は考えを巡らせた。しかし、そもそも美術室がどういう状態だったのかが曖昧だった。訊いておきたいことが他に思い浮かばない。
「ええと、誰かあの三人を殺しそうな奴に心当たりは?」
「私」
曹司の質問に、硫美は即答した。
「なんと言っても、気持ち悪い絵を描くのが得意だもの。何しでかすか判ったものじゃない」
シニカルに笑いながら硫美は言った。
「ふうん」
曹司が曖昧に頷くと、硫美はナボナの空袋を投げつけた。中身が入っていなかったので、途中で勢いを失いひらひらと室内を舞った。
「聞き流されると、それはそれで癇に障る」
「だったらリアクションしづらいことを言うなよ!」
「やれやれ」
硫美は、曹司の方をじっと見つめたままこれ見よがしにため息をついた。
「曹司はいくつになっても、鈍くて不器用」
*
放課後、いつものように曹司は階段を上っていた。屋上に行くためだ。その途中、上の方から声が聞こえてきた。
「離してよ!」
女子の声だった。苛立っているような、切羽詰まった声。
「良いじゃん。ちょっと遊びに行くだけだって」次いで男性の声。「こないだ、頼み事聞いてやっただろ」
男の声に聞き覚えがあるような気がして、曹司は首を捻った。少し高めの、気の抜けた喋り方。
「んなの、沃太に言ってよ。あたしは連れてっただけでしょうが!」
「は? 男と遊び行ってもつまんない」
「あたしだって、あんたと出かけてもつまんねーっつうの」
かなり大声で言い合っているようだった。階段に音が反響して響いている。
曹司は踊り場に差し掛かって、手すりを回り込んだ。すると上で男女が言い争っているのが目に入った。
「大体、あんた彼女いるんでしょ?」
「いるけど、関係ないだろ。ただ、遊びに行くだけだって。カラオケとか」
曹司は二人の姿をまじまじと見つめた。
やはり男子の方に見覚えがあった。サッカー部の坂下だ。以前、ちょっと揉めたことがあった。
二年の頃、坂下は硫美と同じクラスだった。クラス替えがあってすぐ、坂下はかなりの頻度で硫美に話しかけていた時期がある。どこを気に入ったのか、言い寄っていたのである。あまりにも硫美が迷惑そうな顔をしていたため、曹司が間に入った。それ以来、犬猿の仲と言って良い。
女子の方は誰だか判らなかった。長い金髪をくるくると巻いている。メイクもちょっと派手だった。恐らく三年生だろう。
「ごほん」
踊り場に立ち止まって、曹司は咳払いをした。二人は弾かれたように曹司の方を向く。
「じゃあねっ!」
坂下が気を取られた一瞬の隙を突いて、その女子は階段を駆け下りていった。曹司のすぐ隣を通り過ぎていく。相当、苛立った表情をしていた。
「んだよ」
曹司がじっと見つめていると、剣呑な声で坂下は言った。
「別に」
曹司は歩みを再開した。階段を登って坂下が立っている踊り場に差し掛かる。
「あの事件」
脇を通り過ぎる瞬間、坂下は口を開いた。
「お前の彼女が犯人だってな」
「あ?」
坂下の方に曹司は向き直った。にやにやと笑っていた。少し黄ばんだ前歯が見えた。
「よくあんな変態殺人鬼と付き合ってられるな。それも半分近親相姦だ」
曹司は右手を伸ばした。制服の襟を掴んで、捻り上げた。
「ガッ」
くぐもった声を坂下は上げた。苦しそうな表情を浮かべている。その顔を曹司は引き寄せた。曹司の方が一五センチほどは身長が高い。自然と見下ろすような形になった。
二〇センチほどの距離で向かい合う。そのまま曹司は坂下の顔を観察した。首が絞まっているせいか、少し苦しそうだ。
若干の怯えが見て取れた。坂下は身長も高くないし、体格的にも恵まれてはいない。お洒落には人一倍気を遣っているようだったが、曹司には関係が無い。
「は、離せよ」
もごもごと坂下が言う。
「……」
曹司は何も答えずに、左手で坂下の顎を掴んだ。軽く力を込めてみる。坂下は、ひっ、と高い声を出した。
「もう一度言っておくが」
曹司は坂下の目を見つめたまま言った。
「俺と硫美はつきあっていない」
この宣言をするのは一年ぶりだった。坂下の身体を壁に向かって突き飛ばす。彼はバランスを崩して、壁に背中を打ち付けた。踊り場にへたり込んでと咳き込んでいる。
その姿を見て、曹司は急にどうでも良くなった。踵を返して、階段をまた上りはじめる。
先を見上げる。
屋上へと続くドアから、燐がひょっこり顔を出していた。
目が合う。
燐はにっこり笑って、可愛らしくウィンクした。
*
曹司たちは渋谷に来ていた。センター街の中程、コンビニの二階にある喫茶店で、向かい合って腰掛けている。燐の案内で入ったが、大正浪漫溢れる独特の雰囲気だった。
「それで?」
モノトーンの制服に身を包んだ店員を横目に、曹司は尋ねた。
「んー?」
燐が高価そうなカップから口を離して上目遣いに見上げる。コーヒーの値段はイーグル&チャイルドの約五割増しだ。大正浪漫の代金と考えれば高くはなさそうだった。
「まあ、事件の話だけれども」
「いや、そうじゃなくて」曹司は額に手をやった。「なぜ渋谷に呼び出した?」
「え? ここのコーヒー飲みたかっただけだよ? お店の雰囲気も好きだし。シフォンケーキも美味しい。何の不満があるのだね」
「コーヒーくらいならいくらでも淹れてやるのに……」
「んー?」燐は首を傾げたが、すぐに手を打った。「ああ、硫美ちゃんの実家で働いているんだっけ。そっかそっか。そっちにすれば良かった。……いや、駄目かな」
独り言のように言って、燐は苦笑した。その意味が曹司にはよくわからなかった。
土曜日の午後なのに、店内は閑散としていた。ゆったりとしたクラシックが流れている。他の客の話し声もほとんど聞こえず、落ち着いた雰囲気だった。その雰囲気に、曹司は逆に緊張した。
燐が煙草を取り出して火を点ける。煙を吐いてから、のんびりした口調で話し始めた。
「さて、事件の話だけどね。まあ、ぶっちゃけ進展は無いよ」
「おい、こら」
「だってさあ、解らないことだらけなんだよ」燐は甘えた声を出した。「まず、誰が殺したのかはもちろん解らない。殺害動機も不明のまま。大体、三人同時に殺そうとするまともな理由なんてのに無理があるよ」
燐は指折り数え始めた。
「もっと細かい点では、なぜ部屋の鍵を閉めたのか。硫美ちゃんの絵に火を点けたのか。そしてその後の短い時間で、どうやって美術室から外に出たのか」
「そもそも、死体を吊した理由もペインティングナイフを突き立てた理由も解らないな」
「うん。あ、そうそう。一つだけ判ったことがあったんだった」
燐がぽん、と手を打った。
「被害者の胸に刺さったペインティングナイフの出所。二本は学校の備品なんだけど、一本だけは早坂さんの私物らしい」
「早坂の?」
「彼女も美術部だったからねぇ。部室に置いてあったみたい。ちなみに他にも荷物を置きっぱなしにしていた部員は多いのに、早坂さんの一本だけが使われている。学校の備品の方は棚にまとめて置かれていたのを、二本だけ拝借したみたい」
「それ、だれから聞いたんだ?」
「美術の山上先生」
曹司は山上のもじゃもじゃ頭を思い出した。いかにもアート関係、というような容姿をしている男だ。
「ところで、そっちは調べてるの?」
「一応硫美からは話を聞いたけどな……」
曹司は硫美から聞いた話を抜粋して燐に説明した。鍵の保管場所と絵が移動されていたこと。
「ううん」
燐は腕を組んで、椅子に深くもたれかかった。
「まあ、ちょっと進展かな」
「そうか?」
「うん」燐は深く頷いた。「まず鍵について。引き出しにあったかどうかは曖昧っぽい。でも口ぶりからして、普段から美術室に置いてはあったわけだ。そして美術部員なら、そのことを知っていてもおかしくはない。犯行は夜っぽいから、正確な場所が曖昧でも探している時間は十分にあったはず。つまり、計画的に鍵を使うことが出来た。どういう形でかは知らないけどね」
燐はそう言ってから、またカップに口をつけた。漆黒の悪魔的な液体が飲み込まれていく。
「次に絵を燃やしたことについて。わざわざ場所を移動させたってことは、やっぱり外から見て欲しかったんだと思う。多分、硫美ちゃんの絵を焼失させることよりも、外から見られる、ということが燃やした主な理由なんじゃないのかな」
「ああ……」曹司は頷いた。「発見されたときに、現場を混乱させたかったのか。たしかに美術室にあるよく燃えそうなものっていうと、そうなるか。これ見よがしに飾られていたからな」
燐はこくりと頷く。それから、ううん、と燐は伸びをした。つられて曹司も少し肩を動かす。
「ところで、硫美ちゃんは今何を描いているんだい? こないだ第二美術室で見たときには、なにやら真剣だったけど」
「知らん。あいつは絵が出来上がるまで、基本的に見せてくれないんだ」
「へえ。まあ、気持ちはわからないでもないけど」
燐は灰皿に放置されていた煙草を、一口吸った。
「受験控えているってのに、絵描いてばかりで余裕だね」
「いや、あいつは美大に推薦で決まってる」
「え、そうなの?」燐は一瞬目を丸くしたが、すぐに二度、頷いた。「そうかそうか。コンクールで金賞だもんね、当然かぁ。バイトなんかしちゃって余裕なのは従兄君だけか」
「別に余裕じゃねーよ」曹司は目を逸らした。「バイトも今月いっぱいまで。そこから寝ても覚めても勉強だ」
「あらら。大変だね」
「大体、お前だって受験だろうが。人ごとみたいに言ってるけど」
「あ、うん、私はね……」燐は事も無げに言った。「海外に行こうかと思って。イギリスの大学なら受験資格をこっそり持っているから。向こうは秋入学だからね。来年の夏に面接受ける予定なのだ」
曹司は、燐が帰国子女だという話を思い出した。どうやらイギリス出身のようだ。
「育ったのは基本向こうだしね。兄貴は大学まで向こうだったし。あれで無茶苦茶頭良いんだよ、腹立たしいことに。まあ、両親もオックスフォードでちっちゃい車作ってたし、海外教育に前向きなのだな」
苦笑しながら燐は言った。その普段通りの様子に、曹司は少し距離を感じた。
「ふうん。海外の大学出て画商か。なんかお洒落だな」
「画商?」燐はきょとんとした。「誰が?」
「え? お前の兄貴」
「違うよぉ」燐は大笑いしながら首を振った。「あんなロジカルモンスターがそんな感性持ってるわけないって。兄貴はたしか、なんか金融関係の仕事だよ」
「は?」
今度は曹司が目を丸くする番だった。
「だって、この間、そうだって言って」
「ないない。絶対ありえない」
燐は改めて首と手を一緒に横に振った。
「じゃあなんでそんな嘘ついてんだよ!」
「知らないよ、そんなこと」燐は顔をしかめた。「それと、怒鳴らないで。君、でかくて外見怖いんだから……」
「……うっせ」
曹司はテーブルに肘をついた。手のひらに顎をのせる。
硅の意図が判らない。なぜ嘘をついてまで、曹司に事件の解決を求めたのか。そもそも硫美がどうしようと、硅にメリットがあるように思えない。一応燐のことも頼まれはしたが、どう考えても曹司の助けが必要となるようなタマではない。
「ぬは」
突然燐が相好を崩した。
「何だよ?」
「このシチュエーション、なんだかデート中に痴話喧嘩になったカップルみたいだなぁ、って思って」
そう言って、燐は緊張感のない笑顔を見せた。
「どこがだよ」
「ちなみにイギリスでは若い男女が二人で出かける、イコール、恋人のデートくらいの扱いなんだけどね。海外はもっとオープンだと思ってる日本人が多いけど、決してそんな国ばかりではないのだよ。まあ、逆にいざデートともなれば一回目からいきなり接吻してしまったりするんだけど……」
そう言って、燐はうふん、わざとらしく科を作った。
「燐、ドキドキしちゃう!」
「うっせ。何がしたいんだ、お前は」
「や、特には何も。楽しいかなって思って」
そう言って燐はまた邪気のない顔で笑った。よく笑う女だ、と曹司は思った。その緊張感の無い顔に毒気を抜かれてしまった。
「さて」
燐が居住まいを正した。
「君と硫美ちゃんは一体どんなところにデートに行くのかな? やっぱり美術館とか?」
「だから、彼女じゃないってば」
曹司は幾分脱力して答えた。しかし、燐は真面目な顔のままだった。
「ううん、そうか……」
「……なんだよ?」
燐の表情に不審を覚えて、曹司は聞き返した。
「いや、硫美ちゃんなんだけどね……。なんて言うか、最近クラス内で孤立しているから、ちょっと気になってて」
「孤立? 元々友達が多い方じゃないとは思うが……」
「そういうんじゃないよ」燐はきっぱりと否定した。「やっぱり、事件が後を引いているっていうか。噂のこともあるし、敬遠されてる感じ。クラスでほとんど誰とも喋ってないんじゃないかな。ちょっと嫌な雰囲気だよ」
「それは」曹司は唇を舐めた。「虐められてるってことか?」
曹司は少し声を落として聞いた。しかし燐は首を横に振った。
「それも違うよ。硫美ちゃんが虐められることなんてないよ。というか、硫美ちゃんを虐められる人なんていない」
「何だ、それは」
曹司は首を捻った。燐の言う意味が解らなかった。硫美の腕っ節が強いわけもないし、クラス内での影響力も決して大きくないだろう。むしろ、あの非社交的な性格と言い直截的な物言いと言い、客観的に見て虐められやすそうな要素を数多く持っている気がする。
「いじめとか、もっと大きな差別とかってのはね、一つの集団の中で起こるものなんだよ。同じクラス、とか同じ国民、とかそういう枠組みの中で、相対的に弱いものが標的になる。穢れが多い、とか、民族が劣っている、とか適当な理由をつけて、すべての責任を不当に押しつける。そうやって全体の不満を発散することで集団のバランスを取るっていうシステムなんだ」
燐が静かな口調で言う。
「でも人間はね、自分と同じものしか差別できないんだ。だって根本からして違う対象が、何を言われたら傷つく、とか、どんなことをされたら嫌だ、とか、さっぱり判らないんから。穢れてるとか劣ってるとか言いながら、それでも自分たちと同じものだって無意識のうちに理解している。でも硫美ちゃんは違う。彼女は同じ集団に属していない。弱いんじゃなくて、違う。そう思わせる何かが彼女にはある。だから虐められない。畏れ多いんだ。だから硫美ちゃんは、孤立している。孤高な地位を占めている」
じっと曹司の方を見つめたまま、燐はそう説明した。ぽりぽりと頭を掻いて曹司は聞き返した。
「そんなにあいつは変か?」
「私より変だ」
「それは大概だな」
曹司は硫美の事を考えた。そんなに変人だという印象は無かった。言われてみれば他のクラスメイトとはちょっと違うような気がしないでもないが、燐が言うほど大げさなこととは思えない。ちゃんと観察していれば感情の動きはなんとなく判る。言動だって多少突飛なこともあるものの、大局的には常識的な範囲に収まっている。彼女なりのルールがあると言うことさえ受け入れてしまえば、そんなに違うとも思えなかった。
「ううん……」
「あれ?」燐が首を傾げた。「え? 納得出来ない?」
「いや、言いたいことは判るんだが。そんな珍獣みたいに言うほどか?」
「……まあ。君にとってはそうなんだろうけどさぁ」
燐があきれ顔で言う。しかし曹司はまた首を捻った。
「まあ、君が納得いくかどうかは別としてもだ。そういう事態が起こっているのは事実だから」
「そうか……」
曹司はカップを手に取った。少し冷めたコーヒーは苦みを増していた。
「じゃあ、悪いんだけど、少し仲良くして貰えると助かる」
「……はい? 誰が?」
「お前が」
曹司の言葉に、燐は目を丸くした。
「クラスの中に友達っぽい奴がいれば、少しは良くなるだろ」
「あ、そう。そういうことですか……。ううん、参ったなぁ。硫美ちゃん的に私だけはまずいような気がするんだけどねぇ」
燐は言葉を濁しながら考え始めた。
「それなら君が学校でもっと仲良くしてやるってのでも。ううん、でもなぁ……。男子が絡むと余計面倒になりかねない気がしないでもないから……」
曹司はぶつぶつ言っている燐をじっと見つめた。それに気がついた燐がたじろぐ。
「……はあ。解った。解りましたよ。教室で少しお話しでもしてみようじゃないの」
「恩に着るよ」
「ぬは」燐は唇を尖らせた。「その一言で済ます感じ。まったくもう」
「いや、まあ」曹司は口元に手をやった。「感謝してるのは本当だ」
「硫美ちゃんが言ってたんだけどね」
「うん?」
燐は芝居がかかった仕草で肩をすくめた。
「君はもう本当に、鈍くて不器用だねぇ」
*
放課後、生徒指導室に曹司は座っていた。主に問題を起こした生徒の事情聴取やらお説教に使われる部屋らしい。しかしH高校は歴史ある名門進学校ということもあって、使用されることは滅多にない。曹司も入ったのは初めての経験だった。
曹司は部屋の中を見回した。殺風景な部屋だった。テーブルと四脚の椅子以外に物が何にもない。窓も薄汚れた小さいのが一つあるだけだ。
「待たせたね」
「いえ……」
入ってきたのは美術の山上教諭だった。曹司は一度立ち上がった。しかしむしろ恐縮したように山上が椅子を勧めたので、素直に座り直した。
「突然呼び出して済まなかったね」
「いえ」
曹司はもう一度否定した。それから山上のことを見つめる。
もじゃもじゃ頭は相変わらずだ。しかし身体は記憶の中の姿から二回りほど小さくなったように見えた。頬もこけているし、目の下には酷い隈も出来ている。疲れ切っているようだった。
無理もない、と曹司は思った。事件があったのは美術室で、被害者の一人は引退済みとは言え美術部員。絵画も一枚燃やされている。しかもしっかり施錠していなかった、と来れば、今の山上がどんな立場にいるのかは簡単に想像がつく。
「それで?」
「うん」
促した曹司に、山上は温和な笑みを浮かべた。
「いや、大した用事ではないんだ」
「はあ」
「沢渡君のことなんだけどね」
曹司は目を閉じた。そうだろうとは思っていた。他に山上が曹司に声をかける理由など思い付かない。
「硫美がどうかしましたか?」
「いや、どうもしてないよ。以前の通りなんだ」山上は弱々しく笑った。「だから、心配なんだよ」
曹司は最近の硫美を思い浮かべた。朝から学校に行き、授業を受けて部活で絵を描いて、帰宅する。家で何をやっているのかは知らないが、静から何も聞かされていないので、恐らく変なことはしていないのだろう。
事件前と何一つ変わらない生活だった。しかし、それを言うなら曹司だって同じ事だ。隣のクラスの女子が三人変死したって、日常生活に大きな影響は出ていない。早坂の通夜に出席し弔問もしたが、そういう一時的なイベントが過ぎ去ってしまえば、もうなんら影響はなかった。
「と、言いますと?」
「沢渡君と早坂君は親友だったよね。部活中も凄く仲が良かったし、お互いに強く影響を受けていたように思うんだ。早坂君は沢渡君に時々助言していたし、その逆も頻繁にあった。こう言ってはなんだが、二人の絵の実力は全然違ったけど、それでもお互いに良い影響を与えあっていたんだよ。私も若い頃に、あんな風な親友を持てたら良かったんだけどね」
山上はそう言って、一度遠い目をした。
「いや、そんなことはどうでも良いんだけどね。あんな事件があったのに、沢渡君は全然変わらないように見えるんだ。ショックを受けているようにも見えないし、別段怖がってもいない」
「怖がって?」
「うん。事件の現場が美術室だったでしょう? だから他の部員なんかは怖がっていてね、部活に来たがらないんだ。たしかにあんなことがあった以上、私も安全面を絶対的には保証できない。だから、来なくても良い、と部員全員に伝えてある。そうしたらやっぱり部員は来なくなった。絵なんて美術室じゃなきゃ描けない、というものでも無いからね。私はそれで良いと思う。絵を描く楽しさは忘れないで欲しいけれど」
曹司はがらんとした第二美術室を思い出した。たしかに、事件以後、いつ行っても絵を描いているのは硫美一人だけだった。いつだったか、武藤がいたことはあったが彼は部員ではあるまい。
「それで、見城君から見て、最近の沢渡君はどうかな? 何か心の中に溜め込んでいる、とかそういうのが怖いんだ。誰にも思いを吐露できずに抱え込んでしまっているんじゃないだろうか。沢渡君は、あまり社交的な性格でもないし……」
「そうですね……」曹司は少し考えた。「多分、ショックを受けていないわけじゃないと思います」
曹司は早坂の家に弔問に行ったときのことを思い返していた。あの日、早坂のベッドに顔を埋めた硫美。そして絵を見つめながら、二人の思い出を語ってくれた。
今までに、硫美が自分から誰かの話をしたことなんて無かった。曹司が訊けば、面倒くさそうに話してはくれたけど、それだけだった。
「ただ、抱え込んでるとか、そういうことは無いんじゃないかと。美術室で絵を描いているのも、多分、早坂への手向けみたいなものだと思います」
「ああ、そうかも知れないね」山上は小さく笑った。「早坂君は、沢渡君の絵が、本当に大好きだったからね。『吊られた少女』だって、自分があんな描かれ方してるのに、すごく気に入っていた」
『吊られた少女』のことを曹司は思い浮かべた。たしかに、妙に淫靡で扇情的だ。女子高生として、あんな性の対象のような描かれ方をしたら、普通は抵抗がありそうなものだ。
「あれも燃やされちゃったんだよね……。出来れば、早坂君のお墓にでも入れてあげたかったけど。『吊られた少女』は一応、早坂君の私物だったわけだし」
「早坂の私物?」
「うん。あれは沢渡君が描いて早坂君にあげたんだ。コンクールに出す前だね。沢渡君はあんまり出すつもりじゃなかったみたいなんだけど、早坂君が、私の物を出すのは勝手でしょ、って無理矢理出しちゃったんだ」
初めて聞いた事情だった。でも、あの二人らしいエピソードに思えた。
「なら、どうして美術室に置いてあったんですか?」
「それは僕が無理を言ったからだね。早坂さんに頼み込んだんだ。コンクールから返ってきたのがちょうど文化祭の時期で、美術部の展示の目玉になるから。僕もあの絵、大好きだから、文化祭の後もそのまま飾らせて欲しいって頼んだんだ。そしたら、じゃあ卒業までは置いておきます、って言ってくれた」
懐かしそうに山上は言った。
「早坂君はね、結構そういうところがあってね。人が好すぎるというか、頼まれ事をすると断れないタイプなんだよね。そんな性格だから、沢渡君と仲良くなれたのかもしれないけど」
山上の言わんとするところは、曹司も解った。あの偏屈な性格では他の部員と打ち解けるまで時間もかかったことだろう。
「彼女がいてくれたのは沢渡君にとっても、非常に良いことだったと思う。沢渡君の才能に疑う余地はないけれどね。絵なんて一人で創るものだけど、やっぱりある程度は人と触れあって、他の価値観を取り入れることで成長していく面もあるから。僕では彼女の力になれなかった」
「そんな」曹司は首を振った。「先生じゃないですか」
「僕みたいな教師が出来る事なんてたかが知れてるよ。僕も若い頃は画家になりたくて美大に行ったけど、結局教師になるのが関の山だった。どうして自分の絵が認められないのか、と思ってた時期もあったけどね。でも、沢渡君の絵を見て改めて思い知ったよ。あの子はここに入学した時点で僕なんかよりはるかに良い絵を描いていた」
山上は、どこか諦めたようにそう言った。
「もちろんね、細かいテクニックなんかは、経験の差もあるし教えられることもあった。だけど、絵画はそんなもんじゃない。最初に沢渡君の絵を見たときにね、ああ、見ているものが全然違うんだ、って解ったよ。それ以来、僕も沢渡さんのファンみたいなものだ」
曹司は山上の目を見た。部屋に入ってきたときよりは、光が満ちているように見えた。
山上の方が、硫美よりよほど疲れて、抱え込んでいるように思えた。少なくとも表面上は。
たしかに、硫美も心の中に何かを抱えているのだろう。しかも彼女はそれを中々表に出してはくれない。もしかしたら、今もそれをなんとか消化しようとしている真っ最中なのかも知れなかった。
「あ、ごめんね、見城君」
「え?」
「何だか、沢渡君じゃなくて、僕の話を聞いて貰ったみたいだ」
「あ、いえ。別に」
曹司はぼんやりと手を振った。その通りだとは思ったが、何も問題はなかった。
「同じように、沢渡君のことも気遣ってくれると嬉しいよ」
「ええ」
硅にも似たような事を言われたな、と曹司は思い出した。どうしてみんながみんな、自分にばかりそう言うのだろう。曹司は疑問に思った。買い被られているのではなかろうか。硫美が素直に心の裡を明かすとはとても思えない。
「話はそれだけだよ。よろしく頼む」
「はい。解りました」
山上が立ち上がったので、曹司も席を立つ。
「じゃあ、今日はありがとう」
「いえ。さようなら」
廊下に出たところで、山上と挨拶をして別れる。下駄箱の方に歩き出そうとして、廊下の壁にもたれて女子生徒が一人立っているのに気がついた。睨むように曹司の方を見ている。見たことのない顔だった。
「見城曹司先輩ですね?」
「そうだけど……」曹司は首を捻った。「君は?」
「26の小池です」
名乗られたものの、やはり曹司に覚えはなかった。そもそも、部活にも委員会にも所属していない曹司には、後輩の女子に知り合いなどいない。
なぜ自分だと判ったのだろう、と曹司は一瞬疑問に思った。しかし、考えてみれば先ほど、校内放送で呼び出されたばかりだった。あれを聞いて、ここで待ち構えていたのだろう。
「ごめん、どこかで会ったっけ?」
「いえ、初対面だと思います」
小池は平板な声でそう言った。相変わらず、曹司の方を厳しい目で見つめている。
「……じゃあ、何の用?」
「あの、見城先輩は、沢渡先輩の彼氏ですよね?」
曹司は精神的に頭を抱えた。今までに何度この誤解を受けてきたか、とても数えられない。
「違う。硫美とは従兄弟同士だ」
「従兄弟?」
小池の顔が怪訝になって、それからすぐに赤くなった。誤解だと気づいたようだった。
「……それで? 硫美に何か関係あること?」
「あ、はい……」
小池は胸に手を当てて、一度大きく呼吸した。動揺から抜け出そうとしているようだった。急かすこともなく、曹司はのんびりと彼女が話せるようになるのを待った。
「あの、環先輩をご存じですよね? 酒井環先輩」
「酒井? ああ、被害者の……」
「はい。私、オーケストラ部なんです。環先輩と同じ、チェロを弾いていて、先輩にはすごくお世話になりました」
「……ふうん」
話の流れがさっぱり見えず、曹司は曖昧に頷いた。酒井のことは正直なところ、ほとんど知らなかった。顔すらろくに覚えていない。
「それで、あの、勘違いだったら申し訳ないんですけど」
「うん」
「見城先輩、環先輩から告白とかされていませんでした?」
「……は?」
「告白じゃなくても良いんです。あの、デートとか、言い寄られてたとか、楽しくおしゃべりしてたとか」
「いや、無いけど」曹司は明確に否定した。「そもそも俺、多分酒井さんと話したことすらない」
「そう、ですか」
小池の表情がなんとも言えない微妙なものになった。当てが外れて残念がっているようにも見えたし、どこかほっとしたようにも感じられた。
「ええと、どうしてそんなこと訊くんだ?」
「あ、その……」
一瞬言いよどんだ小池に、曹司は畳みかけた。
「事件に関することだろ」
「あ、はい」
「話してくれるかな。力になれるかもしれない」
曹司が少し柔らかい口調でそう言うと、小池は少し迷ったようだったが、ぽつぽつと話し始めた。
「あの事件の犯人って、まだ判っていないじゃないですか」
「ああ」
「事件の直前くらいなんですけど、環先輩、誰かと喧嘩していたみたいなんです」
「喧嘩?」
「あ、いえ。そんなつかみ合いみたいな感じじゃなくって、ちょっとトラブルっていうか……。ちょっとじゃなくて、結構深刻っぽい」
「……へえ」
予想もしていなかった話を聞かされて、曹司はかなり興味を惹かれた。たしかに、事件に深く関係があるかも知れない。
「誰と?」
「そこまでは判りません。私も直接話を聞いたわけじゃなくて、電話してるのを小耳に挟んだ、とかその程度なので。でもこの学校の人だと思います」
「ふうん」
雲を掴むような話だった。
「ただ、聞いた話を総合すると、どうも男性関係みたいなんです」
「男性関係って、つまり好きとかおつきあいとかそういう話?」
「はい」
まあありがちな話かな、と曹司は思った。環にだって好きな男の一人や二人くらいいただろう。もしかしたら、それが他の誰かの彼氏だったかも知れない。そして、それでも諦めきれなかったのかも。
「じゃあどうして俺のところに来たんだ?」
「環先輩に彼氏がいなかったのは確かです。でも誰を好きだったのかは知らないんです。だから、先輩と仲の良かった人に聞こうと思ったんですけど、その」
「みんな被害者になっていて、聞けなかった?」
「……そうです」
小池は少し涙目になって頷いた。
「それでですね。その被害者の中に早坂先輩がいます。早坂先輩と凄く仲の良かった沢渡先輩なら、もしかしたら何か知ってるんじゃないかと、最初は考えたんです。こう、おしゃべりの途中にぽろっと零してしまった、とか」
曹司は硫美が言うところの、女子は秘密がいっぱいだけど筒抜け理論を思い出した。どうやら硫美に限った話ではないらしい。
「だけど、その。怖くなっちゃったんです。沢渡先輩が犯人じゃないかって噂を聞いて。先輩って、なんか良くわかんないし。それでどうしようかと思ってたら、今度は沢渡先輩にはずっと付き合ってる彼氏がいるって話を聞いて」
「それが俺だったわけか」
「はい。だから、もしかしたら環先輩が見城先輩に告白して……」
「それを知った硫美が怒って殺したんじゃないかって思ったわけか」
「……はい」
しゅんとなって、小池は頷いた。そのつむじを見ながら曹司は言った。
「そんなことはあり得ないよ。俺は硫美と付き合ってないし、酒井から告白されてもいない。そもそも酒井とまったく話したことがない」
「そう、ですか」
小池は、何かを振り払うように、きっと顔を上げた。
「すいません。変なこと聞いちゃって」
「いや、良いよ」
「じゃあ、すいません。失礼します」
小池はそう言って、小走りに廊下を去っていった。その後ろ姿はちょっと元気がないように見えた。
もしかしたら。曹司は思った。小池はああやって環を殺した犯人を調べてみることで、先輩を喪った痛手を誤魔化しているのかも知れない。そんな風に見えた。
ふと、硫美も同じような理由で絵を描いているのかもしれない、と思った。
*
ポケットの中で携帯電話が振動する。取り出してみると珍しく硫美からのメールだったので、曹司は首を傾げた。
「どしたの? 変な顔して」
手すりにもたれかかって煙草を吸っていた燐が首を傾げる。曹司は壁から背を離して立ち上がった。
「硫美からのメール」
「それで?」
「いや、珍しいな、と」
曹司の言葉に、燐は不審そうな表情になった。
「なんで」
「あいつはメールなんて送ってこない」
ボタンを操作してメールを開封する。タイトルはなかった。
「そうなの?」
「こっちから送ってもろくに返信してこない。電話かけても、絵を描いている途中だと出ない。携帯している意味がまるでない」
「なはは。硫美ちゃんらしいと言うか」
本文を見る。「びじゅつしつ」とだけ書かれていた。漢字変換すらされてなかった。
「つまり、今は重要な要件なわけだ」
「……どうかな」
曹司は携帯電話を燐の方に差し出した。
「見ても良いの?」
「ああ」
燐が携帯を手に取る。画面に目を向けて、すぐに破顔した。
「お呼ばれだ」
「だよなぁ」
「およ」
燐が素っ頓狂な声を上げる。スカートのポケットから同じように携帯を取り出した。タッチパネルを操作している。
「あ、硫美ちゃんからメール。びじゅつしつきて」
「……あいつは一斉送信のやり方を知らないのか?」
「いやいや。きっとこの時間差こそが、硫美ちゃんの中での君と私の扱いの差なのだよ。きて、ってついているのが、まだまだ私が信頼されていない証拠」
けらけらと燐は笑った。こんなメールが届く辺り、燐は硫美と仲良くなることに成功したらしい。まるで性格の違う二人が、一体どんな会話をしているのかは少し興味深い。以前美術室で話したときには、妙に剣呑な雰囲気であった。
「ま、姫のお召しとあっては仕方がない。御前に参りましょうか」
燐が手すりで煙草をもみ消す。二人は連れだって屋上を出た。放課後の校舎内は閑散としていた。校庭の方から時折、運動部のかけ声がやけくそ気味に聞こえてくる。
「しっかし、段々日が短くなってきたねえ」
窓の外を見ながら燐が言った。曹司も屋外に目を向ける。見事な夕日が地平線に鎮座していた。
「そろそろ芸術の秋もおしまいかな」
「じゃああいつは一年中秋か」
「それは良いね! 過ごしやすそう」
廊下の角を曲がって、特別教室が集まっているあたりにつく。燐が小走りに第二美術室に飛び込んだ。
「硫美ちゃ……ん?」
言葉が尻すぼみに小さくなる。曹司もひょいと教室の中をのぞき込んで、言葉を失った。
美術室には誰もいない。教室の真ん中にイーゼルが立っていた。廊下の方に向けられている。絵には白い布がかけられていた。
燐と曹司はその絵にゆっくりと近づいた。
曹司は白布をめくった。
「これが、硫美ちゃんの絵?」
「……ああ」
絵の右下に、アルファベットで硫美の名が記されていた。
放課後の教室を描いた絵だった。
並べられた机と椅子。
落書きされた黒板と古めかしい教壇。
翻るカーテンとわずかに差し込む赤い光。
中央に、つけられた机。
開封されたスナック菓子。
半分ほど飲まれたペットボトル。
床に置かれた紺色の学生鞄。
そして、談笑する三人の女子生徒。
制服をまとい、
椅子や机に腰掛け、
無垢な笑顔を浮かべ、
かしましくおしゃべりしていた。
「……ひまわりみたい」
曹司の隣で、燐がぽつりと呟いた。
紛れもない硫美の絵だった。タッチはいつも通り。構図も別段凝っていたりはしない。
三人の女子生徒に注目する。顔が判別出来るほど、しっかりとは書き込まれていない。しかし、一番右端の女子が早坂なのだと、なぜかはっきり理解出来た。
他の二人には見覚えはない。けれど、どう考えても一緒に殺されてしまったクラスメイト達だった。
きゅ、と曹司の二の腕が捕まれる。燐が、弱々しい力で握っていた。
「ごめん」掠れた声で燐は言った。「ちょっとこの絵、気持ち悪くて」
「……気持ち悪い?」
ふらふらしている燐を、手近な椅子に座らせる。鞄からペットボトルを取り出して、燐は少しだけ口をつけた。顔色が青白い。目を静かに瞑っている。まるで絵を見たくないようだった。
燐を放っておいて、曹司は改めて絵の方を見た。
綺麗な絵だった。どこかしら退廃的な美しさがあった。放課後の教室のなんでもない一シーンなのに、それでもきらきらと輝いて見えた。
硫美は何を思ってこの絵を描いたのだろう。曹司は思いを巡らせた。早坂のことを考えていたのは間違いないだろう。他の二名も、彼女と仲良しだったという。きっとこの絵のように、何度も放課後集まって駄弁っていたのだろう。三人が亡くなった、あの日も同じように。
「曹司君」
「うん?」
声に振り向く。燐はまだ目を瞑っていた。
「硫美ちゃんって、グロテスクな絵が得意だったんだよね?」
「ああ。それが?」
燐は目を開けて弱々しく微笑んだ。
「この絵が、一番怖いよ。気持ち悪い。死の香りが、ぷんぷんする」
「……そうか?」
「うん」
燐はゆっくり立ち上がった。両の足で、しっかりと床を踏みしめる。
「それで、硫美ちゃんはどこに?」
「さあ」
曹司は首を横に振る。
そのとき、廊下の方から硫美の声が聞こえてきた。
*
部屋に二人きりだった。さっきまでは静がいたがもう出て行った。硫美はベッドに横になって、上体だけを起こしている。
殺風景な部屋の中。テーブルの上には静が用意してくれたミルクティが二つ並べて置かれている。どちらにもまだ口はつけられていない。
「今日は」
硫美が口を開く。
「ありがとう」
「いや……」
曹司は椅子を勝手に拝借して腰掛けた。低すぎて、曹司の足が半ば投げ出される形になった。
ぼんやりと硫美は天井を見上げている。考え事でもしているのだろうか。時折瞬きをして、長い睫毛がその度にゆっくりと影の形を変える。
「絵、見たよ」
「うん」
曹司はゆっくりと声をかける。硫美は曖昧に反応した。
「良い絵だと思う」
「ありがとう」
本日二度目のお礼だった。奇跡と言っても構わないほどの希有な事態だった。
「良子のことだけど」
「うん」
「あの子は満足してると思う」
一瞬、硫美が何を言っているのか曹司には判らなかった。しかし、硫美は平板な声で言葉を紡ぐ。
「あれがあの子から私へのメッセージ。私はそれを受け取って、あの子が意図した通りに絵を描いた。それだけの話」
硫美は静かに繰り返した。
「今までと同じ、それだけのこと」
それから、硫美は静かに双眸を閉じた。ベッドの上で、微動だにしない。
曹司は椅子から立ち上がり、硫美に近づいて足下に跪いた。硫美の右手を慎重に、優しく両手で包み込む。硫美が、うっすらと目を開けた。
「何?」
「別に」
硫美が左手を伸ばして、曹司の腕をつねった。仕方なく、曹司は両手を離す。
「私に出来るのは絵を描くことだけ。頭の中で映像を構築して、それをキャンバスに出来る限り落とし込んでいく。完全じゃなくても、構築したイメージに少しでも近づけるように。私の絵を好きだ、良い絵だって言ってくれる人がいるというのは、嬉しいことだけど。でも、絵を描くという行為とその絵に対する評価はまるで関係が無い。評価は絵画の外側にしかない」
硫美は自分の右手に目を落とした。
「私は良子を見てきた。あの子の喜びも悲しみも、全部。あの子の感情を分かち合うことも、共有することも出来ないけど。でもずっと見てきた。それを描いてきた」
部屋に入って初めて、硫美はしっかりと曹司の方を見た。
「曹司に対してもそう。これからきっといろんな楽しいことや嬉しいこと。辛いことも哀しいことも、曹司はいろんな経験をしていく。だけど私は曹司の隣を歩けない。それを一緒に喜んだり、苦労を分かち合ったりすることは出来ない。でもずっと見ているから」
そう言って、硫美は左手で曹司の頬に手を添えた。
「ね、それだけは許して」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます