第3話

 男に襲われた次の日。

 明美は事件以来ずっと家にいる。表に出るのが怖いのはもちろんのこと、家に誰もいないと途端に不安になる。

 あれだけ毎日インターネットにアクセスしていたのに、今はパソコンを起動させる気にもならない。

「ちょっと買い物に行ってくるね」

 母親が階下から声をかけてきた。返事をして見送ったものの、しんとした家に取り残されると体が震える。男に押し倒された時のことが思い起こされて、昭美は自分の体を抱きしめた。

 明美の心を反映するかのように、先程まで晴れていた空がにわかに曇り、雷鳴が聞こえ始めた。夕暮れを覆い隠した雲と稲光はオレンジ色で、不気味だ。

 やがて雨が降り始めた。次第に雨脚は強まり、夏の日差しに焼けたアスファルトを急速に冷ましてゆく。風も強く、隣の家の風鈴がせわしなく甲高い音を発する。いつもは落ち着いて聞いていられる音も、今の明美には耳に障る。

 これだけ天気が荒れると、買い物に出た母親が心配になる。傘を持ってスーパーまで行ってみようか、と考えたが、その油断があの事件に繋がったのだと思うと明美は身震いをひとつしてかぶりを振った。

 喉の渇きを覚え、台所に行って麦茶をコップに注ぐ。

 家の電話が鳴った。

 母から、傘を持ってきてほしいという電話かもしれない。明美は電話機の方へと向かう。

 ディスプレイに並んでいるのは見知らぬ携帯電話の番号だった。非通知ではないものの、知らない番号からの電話を取るのはためらわれた。

 明美がじっと見つめる中、留守番電話に切り替わる。

 応対メッセージの後に聞こえてきたのは、可愛らしい女性の声だった。

『アキちゃん、ひさしぶりです。マオです』

 ――マオちゃん?

 明美は全身の神経を集中させ電話機を凝視してマオのメッセージを聞く。

『大変な目にあってるみたいだね。心配して来たんだよ。いろいろお話したいこともあるし、中に入れて』

 瞬間的に、嬉しい気持ちと、これは嘘だという直感が明美の心をいっぱいにした。

 この状況をどうにかしないと、と明美は受話器を上げる。応じてしまうことのさらなる危険性を考える余裕は、今の明美にはなかった。

「……マオちゃん?」

『アキちゃん、久しぶりー。ネットに電話番号晒されて大変だね』

「知ってるんだ」

 どうして? と問う前に、マオが自分から答えを出した。

『わたくしがいたしましたから』

 がらりと質の変わったその声の、どうしようもなく冷たい響きに明美は震え、言葉を失った。

『これで判ったでございましょう? わたくしは本気なんですのよ。玄関を開けてくださらないと、お宅に火をつけますわよ』

 甲高い笑い声が受話器から聞こえてくる。

 このまま出て行かないと本当に家に火をつけられるかもしれない。

「判った……。ちょっとまってて」

 明美は受話器を置くと、びくびくとしながらもゆっくりと玄関に向かった。

 ドアノブに手を伸ばし、握って、開けた。

 稲光が当たりをまばゆく照らす。思わず悲鳴をあげた明美の目の前に立っていたのは、口元を歪ませて笑う中年女。それほど派手でもなければ地味すぎもしない服装に、ハンドバッグを肩からさげた、どこにでもいそうな普通の容姿の五十がらみと思しき婦人。でもその雰囲気は狂気そのものだった。

「マオ、……さん?」

「あらぁ。どうしてマオさんになってしまわれるのですか? マオちゃんと呼んでくださっていらしたのに」

 マオはずかずかと玄関に上がりこんでくる。止めることもできず、明美は後ずさっていった。

「だって年齢がわたしよりも上だから……」

「そんなこと気になさらなくていいのでございますわ。心は常に乙女でございますから。それよりあなたがラウド様を亡くなったままにされてらっしゃることの方が大問題ですわね」

 マオは語る。

 絶縁メールを受け取ってから、泣き暮らした日々。それでもきっとアキのことだからいつか冷静になってくれると、そうすれば自分の願いを聞き入れて作中でラウドを復活させてくれると信じて待っていたこと。それなのにラウドは死んだまま作品が完結した。これは究極の裏切り行為であると。

「わたくしが、あれだけ仲良くして差し上げましたわたくしが、あなたに傷つけられたのに、お願いなんてしたのに。本当はお願いなんてしなくてもよかったのに……!」

 マオの目がさらに釣りあがり、こめかみには青筋がくっきりと浮かび上がる。窓から照らす雷光と相まって、これはとんでもないホラーだ。

「だからってっ! わたしの携帯番号や家の電話番号をネットに書くなんて酷いじゃない! 犯罪だよっ!」

 なんとかマオと距離を保とうと、じりじりと後ずさりながら明美は必死に抗議した。

「僕も犯罪者ですが、人殺しのあなたは極刑に値しますよ」

 急にマオの口調が、声のトーンまで変わった。あまりの変貌に明美は驚いてしりもちをつく。

「僕はシャレン。名前くらいご存知でしょう?」

 あ、と明美は息を呑んだ。ブログで「華の剣」をこき下ろしていた人だ。

「別に僕はラウドが生きていようが死んでようが関係ないのですが。マオとかおるがそのせいで悲しんでいるのが許せないのですよ」

 これはすごんでいるというレベルではないと、明美は察した。完全に人格が変わっている。

「かおる?」

 明美は聞き覚えのない名前が誰なのかを訪ねた。

「あなたに、ラウドを復活させてくれないと縁を切るとメールを出した娘です」

 絶縁のきっかけとなったメールを出した人格はかおるというらしい。一体、目の前の彼女の中にいくつの人格が存在するのだろうか。明美は震えながら中年女を見上げた。

「変人を見るような目ですね。あのあかりという小娘と同じ」

 シャレンは噛んで含めるように語った。

「以前あかりの小説を、いえ、小説の中のキャラクターをマオがとても気に入っていたのです。しかしそのキャラクターは作中で死んでしまった。マオがいくらお願いしても、かおるが泣いて頼んでも、あかりはキャラクターを生き返らせませんでした。なので私が制裁を加えたのです」

 制裁、という言葉に、明美は震えあがる。

「あなたにも同じように、その罪にあった罰を受けていただきます」

 さも当然という口調で言い放つと、シャレンを名乗る中年女が壮絶な笑みを浮かべた。

「罰って、何をするつもりなの」

「もちろん、人殺しには死をもってつぐなってもらいます。……あかりはちょっとネット上で攻撃をしたらすぐにサイトを閉じましたが、あなたはなかなか頑張られましたね。実生活に攻撃を加えたらこうして引きこもってくださったので、やりやすくなりました」

 この人はわたしを殺す気だ。明美は女の目的を察した。目の前の狂気に満ち満ちた女を振りはらって逃げ出さねばならないが、そのまま立ち上がって走りぬけようとしても無駄な気がする。何とか話を引き延ばしつつ、逃げるチャンスを見つけなければならない。

「でも、シャレンがブログで書いていた時の文体が……」

「あぁ、あれは僕がかおるの口調をまねたのですよ。彼女は思っていることを言葉にするのが苦手なので、まねをするのは一苦労でした。あなたと仲良くしていたのがマオ。メールを出したのはかおる。この二人はラウドのことをいたく気に入っていました」

 明美にとって今はマオだかかおるだかが自分のキャラクターを気に入っていたという事実はもう災い以外の何物でもない。

「たかが小説のキャラクターのことで、こんなことするなんておかしいわっ」

「あなたにとっては、たかが、かもしれませんが、彼女達にとっては心の大半を占めることだったのです」

 シャレンがハンドバッグからナイフを取り出した。

 もう猶予はない。策を考えるより、明美は咄嗟に逃げ出した。何とか立ち上がり、シャレンの横をすり抜ける。だが恐怖に体がすくみ、足がもつれる。

 窓の外が紫に光り、ひときわ大きな雷鳴がとどろいた。驚いてまた床に手をついてしまった明美は四つんばいで這っていった。

 シャレンは、まるで獲物をいたぶるのを楽しんでいるかのようにゆっくりと追いかけてくる。廊下から外に出ようとする明美に追いつき、襟首を捕まえた。

 明美はシャレンを振り仰いだ。彼女の顔は醜く歪み、とても正気の沙汰とは思えない。

「あなたが悪いのです。あなたがマオとかおるを裏切ったから。当然の制裁です」

 最終宣告とともに、シャレンはナイフを振り上げた。

 明美は悲鳴をあげて目をつぶる。

 大きな物音。襟首を掴む手が離れた。

 恐る恐る明美が目を開けると、男がシャレンを殴り倒していた。

 隆だ。ずぶぬれで、息を切らして肩も大きく上下している。かなり急いでやってきてくれたのだろう。

「すぐに警察が来る。馬鹿なことはやめるんだな」

 ついでにもうひとつ、とばかりにシャレンを蹴り飛ばして、隆は勝利宣言をした。

「わたしのラウド様が、ラウド様あぁ!」

 床に倒れ伏したシャレンはマオの人格になったようで、ラウドの名前を叫んでいる。もう明美に襲いかかってくることはなかった。

 助かった、と思うと同時に、恐怖と緊張から解き放たれた明美は泣き崩れた。

「もう大丈夫だからな。ずっと守ってやっから」

 隆が照れながら言うと、明美を抱きしめてくれた。

 ずっと守るだなんて大げさな、と思わなくもなかったが、昭美には今は隆のその大言壮語が頼もしいと思えた。


「おーい、明美。早く行かないと約束の時間に間に合わないぞ」

 隆が明美の家の前に車を停めて彼女を呼ぶ。

「判ってるー。今行くよ。……新しいヒールって歩きにくいなぁ」

 ややあって、スーツに身を包んだ明美が出てきた。彼女は急いで車の助手席に乗った。

 彼らが向かうのはとある出版社。

 あの後、忌まわしい事件の記憶を消すかのように明美の家族は引越しをして、明美は隆の家から大学に通わせてもらって卒業した。今は実家に戻って働きながら小説を書き続けている。

 今度は隆が家を出て、明美の家の近くに部屋を借りて一人暮らしだ。今や二人は結婚を前提に付き合い続けている。

 恐ろしい事件であったが、その後は平穏に過ごすことができて、明美の心もようやく落ち着いてきた。

 マオは殺人と殺人未遂容疑で起訴されたが、精神疾患を理由に無罪となった。だが彼女が再び明美に近づくことのないように監視されるという。そもそも病気の治療のために入院を余儀なくされたのでしばらくは出てこられない。

 その措置が百パーセント安全だとは明美は思っていない。だが元の暮らしから遠く離れたところへと引っ越した今、すぐに安全が脅かされるとも思っていない。

 一時は小説の執筆をやめようと考えていた明美だったが、隆や近しい友人の励ましもあり、サイトは閉鎖したものの、ペンネームを変えて心機一転、新作を書き始めた。

 そしてその新作が、出版社の主催する賞で大賞を受賞したのだ。これから出版社に行って、どういった形で出版するのかを相談する。

 こんなに幸せになれるなんて、言ってはなんだが、あの事件のおかげという部分もあるのかも、と、明美は前向き思考で出版社に向かう。

「手直しってどれぐらい言われるのかなぁ」

「担当の編集さんにもよるんじゃないか?」

「いい人だったらいいなぁ」

 明美はワクワクとした気持ちだった。

「んじゃ、おれは喫茶店にでも行ってるよ。がんばれ」

 出版社に到着し、隆は手を振って離れて行く。

 明美は一人、心を躍らせながら編集部長と、明美の担当になるという編集者に挨拶をする。

 終始和やかな雰囲気で話がすすみ、書きなおす場所と内容もとんとん拍子に決まって行く。

「それでは、これからよろしくお願いいたします」

 話しあいが終わり、明美は幸せいっぱいの顔で出版社を後にしようとした。

 いろいろと、本当にいろいろとあったけれど、小説を書いていてよかった。

 明美が心からそう感じた、その時。

 担当者が明美を呼びとめ、こっそりと言う。

「明美さんって、前にネットで『華の剣』を書かれていたアキさんですよね。実はわたし、とっても好きだったんですよ。なので今回、明美さんがうちで小説を出すことになって、担当に立候補したんです」

 思いもよらない告白に、明美は驚き、そして先程よりもさらに嬉しくなる。

「そうなんですか! ありがとうございます。まさかそんなご縁があるなんて」

「わたしも嬉しいです。でもラウド亡くなったのはショックだったんですよ。あの時は一晩中泣いちゃいました」

 ラウドのことを口にした担当者は、にこやかな顔には似合わない、冷たい雰囲気を放っているように明美の目には映った。

「あ、あぁ、そうなんですか。すみません。でもあれは」

「もちろん判ってますよ。物語上、ラウドの死が最後に生かされているんですから、考えなしに死なせたのではないってことぐらい」

 あくまでもにこやかに話す担当者に、しかし明美はマオを重ねてしまって身震いを覚えた。

「わたしは編集者ですから私情なんて挟みませんよ。個人的に悲しかったからって、ネットに電話番号晒したりとか、そんな事しませんから安心してください」

 にやぁっと笑う編集者に、明美は目を見開き、後ずさった。

 編集者がきびすを返しながら「それではよろしくお願いしますね」と言いおいて去っていく。

 その一言が、死刑宣告のように、戦慄し立ちすくむ明美の胸に深く突き刺さった。


 幸も不幸も、読者の喜びも狂気も、自らが生み出したモノなのだ。


(華の剣 了)

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華の剣 御剣ひかる @miturugihikaru

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