第9話 悪夢

 宮篠台駅前にあるチェーンの居酒屋に入った日和と瀬長は通された個室で向かい合って座った。ファミレスでも十分だったが宮篠台駅周辺では深夜まで営業している飲食店はそう多くない。駅前のファミレスは生憎混み合っており、日和の意見で二人は居酒屋に入店する流れとなった。日和の体がアルコールを欲していたという節もある。日和が酒を飲みたくなるのは精神的に疲労しているときだ。それは日和自身も自覚している。対する瀬長も黒髪の似合う大人しそうな見た目に反して、呑むことは嫌いではないらしい。通されたのが個室というのも周囲の客に会話を聞かれることがないので都合が良かった。あまり遅くまで滞在するつもりは毛頭ないが、アルコールの力を借りることで少し踏み込んだ話しもできそうだ。

 日和は生ビールを、瀬長はレモンサワーを選択し、サラダやカルパッチョなどを注文した。先に運ばれてきた飲み物のグラスを軽く合わせて一口飲むと、瀬長の方が先に口を開いた。

「なんかすみません。わたしの方から話を振ったのに、付き合わせてしまって」

「気にしないで。わたしもちょっと聞きたいことはあったから」

「え?わたしにですか」

「瀬長さんにだけってわけじゃあないんだけどね。気になってることが、いろいろね」

「もしかして、バイトの子が辞めちゃうことですか」

 瀬長は少しだけ身を乗り出して小声でそう言った。瀬長も気にしていたようだ。日頃の勤務態度を見ている限り、瀬長は遅刻や無断欠勤もなく至って真面目に働いている。一人暮らしであるためお金を稼がなければならない事情もあるのだろう。この勤勉な少女を味方につけることが事態を良い方向に導くかもしれない。

「店長、実はわたしの話、そのことと関係があるかもしれません」

 瀬長は姿勢を正すように座り直すと日和とは目を合わせずに言った。

「やっぱり辞めていく理由が何かあるってことなの?」

 瀬長に釣られるように日和も声のボリュームを落とした。誰かに聞かれている可能性はは限りなくゼロに近かったが、聞き耳を立てられることに良い思いはしない内容ではある。

「話しっていうのは、その、瑠奈ちゃんのことで」

「瑠奈ちゃん?ああ、この前辞めた佐川さんのこと?」

 佐川瑠奈は現時点で宮篠台店を最後に退職したアルバイトだ。思えば佐川も大学三年生で、同じ年齢の瀬長とはシフトもよくかぶっていたし、仲もよさそうだった。大学は違ったが、いつもサークルやテレビ、音楽の話しで盛り上がっていて、恋愛話がヒートアップしては日和に注意されるような場面もあった。まさか話しに水を差されたことが不満で退職したなどということはないだろうな、と日和は若干不安を覚えた。

「佐川さんが、どうかしたの?」

 瀬長は「はい」と小さく頷くと、レモンサワーを一口飲んでコースターにグラスをそっと置いた。氷が溶けて、からん、と小さく音を立てた。

「変な夢、見るんですって」

「夢?」

「はい。瑠奈ちゃんとは仲良くしてたので、辞めてからもしばらく連絡を取ってたんです。わたしにも辞めた理由、はっきりと言ってくれなかったから、それが知りたかったっていうのもあるんですけど」

「わたしには大学が忙しくなるからって、言っていたけど」

「それも嘘じゃないと思います。瑠奈ちゃん理系だから、卒業研究で大学に泊まり込みとかもあるみたいですし。ただ……」

 そう言って瀬長はグラスに両手を添えたが、残り少ないレモンサワーに口をつけることなく話しを続けた。

「大学、全然行けてないみたいです」

「それは、その夢に原因があるの?」

 日和がそう聞くと瀬長はこくりと頷いた。

「眠れないんですって。夢を見るのが怖くて。体調崩しちゃって、家に閉じこもってるんです」

「その夢ってどんな内容なの?」

「お店で働いてるときの夢らしいです。初めは普通に仕事してるんですけど、レジ前のお菓子とかを補充して整える仕事を頼まれるんですって」

「頼まれるって誰に?」

「わからないらしいです。女の人だっていうのはわかるみたいですけど、声に心当たりがなくて、顔もこう、モザイクがかかってるっていうか。目が覚めたときにはもう思い出せないんですって」

 花村かすみなのだろうか。いや、間違いなく彼女だろう。一体どんな目的で佐川瑠奈の夢にまで姿を現したというのか。瀬長は続きを語った。

「それで、頼まれた仕事をやろうとするんですけど、棚に手をかけようとすると……」

 そこで瀬長は再び日和から視線を一瞬だけ外して自身の手元に目をやった。

「やめろっ!」

 瀬長が目を見開いて、顔に似合わない低音で言った。それほど大きな声ではなかったが日和の体がびくりと反応する。

「急にそう言われて、腕を捕まれるんですって。すごく冷たい手で。それで、自分の腕がどんどん凍っていくっていうか、冷たくなっていって……最初は腕を捕まれた瞬間に、はっとなって目が覚めたらしいんですけど。今はなかなか夢から醒めないらしくて。どんどん体が冷たくなっていくのが、すごくリアルにわかるんだって」

「それっていつ頃から見るようになったか、わかる?」

「辞めるちょっと前って言ってました。はっきりとは聞いてませんけど……」

 瀬長が何か言いたげに口をつぐんだのを日和は見逃さなかった。

「何か心当たりがあるの?」

「店長、あの、怒らないで聞いてくれますか」

 瀬長の言葉に日和は内心首を傾げた。内容によるとは思ったが、ここで話しを終わらせてしまうのは互いのためにならないと判断した。

「約束する。知ってること、全部教えてくれる?」

 日和の言葉に瀬長は小さく「はい」と返事をした。

「瑠奈ちゃん、お店の物、持って帰ってました」

 瀬長は日和と目を合わせずに、ゆっくりと言った。どうやら瀬長の話したかったことの根幹はそこのようだ。

「ごめんなさい!」

 瀬長は深々と頭を下げた。何故瀬長が謝るのか、日和には少々疑問だった。

「瀬長さん、もしかして気づいていて黙っていたの?」

 日和がそう聞くと、瀬長はゆっくりと頷いた。

「その……別に店長のことが嫌いとか、お店を困らせてやろうとか、そういう気持ちじゃないと思うんです。瑠奈ちゃん、大学の方で上手くいってなくて、それで、魔がさしたっていうか、出来心っていうか」

「お店の物って、何を持って帰ってたの?」

「レジ回りのお菓子とかです。クッキーとかパウンドケーキとか」

 瀬長にとっては相当な罪の告白だったのだろう。やったのが自分ではないとはいえ、気づいていて黙っていたのであれば共犯という意識に苛まれていたに違いない。だが日和にとってはそれ程驚くような事件でもなかった。勿論、店舗の商品や備品を持って帰ったとなれば立派な窃盗罪なのだが、今までに経験したことがない事象ではなかった。正直どこの店でも起こりうることで、社員レベルの視点で言えば可愛い事件だ。現金を盗まれるより百倍マシといった感じだ。

「佐川さん、瀬長さんが気づいてるって知ってたのかな」

 日和の問いに瀬長は首を横に振った。

「瑠奈ちゃん、仕事が終わって帰るときにレジのところでお菓子を、さっと取ってバッグに入れたんです。わたし、ちょうどそのとき階段を下りてきて、見ちゃったんですけど、瑠奈ちゃんそのまま帰っちゃったから。もしかしたら瑠奈ちゃんはわたしに見られたの気づいたかもしれないです。辞めたのもそのすぐ後だったんで」

「それで、その頃から変な夢を見るようになったってこと?」

「はい、多分その頃からだと思います。最初は冗談ぽく言ってたんですけど、毎日続くようになって……仕事中にも見るようになっちゃったって」

「仕事中も?それってもしかしてピンクのスカーフをつけた女の人?」

 日和がそう言うと瀬長は目を大きくして首を縦に二回動かした。

「そう!店長も知ってるんですか?」

「……うん。実はね、今その女の人について調べているの。花村かすみっていう名前で、以前うちの店で働いていたらしいんだけど」

「その人って、今どうしてるんですか」

「わからないの。二年くらい前に退職して、今は行方不明」

 花村が既に他界していることを日和は確信していたが、瀬長にそれを伝えることはなんとなく抵抗があった。過剰に恐怖心を煽る必要はないだろう。

「もしかして、お店で何かあって死んじゃったとかですか?それで、皆のこと恨んでて、お店を潰そうとしてるとか」

 それはすでに日和の中にもあった一つの仮説であった。しかし瀬長の話しを聞いて、日和の中に引っかかるものがあった。佐川の夢に花村が現れるようになったタイミングだ。瀬長の話しを聞く限りでは、佐川が夢にうなされるようになったのは店から商品を盗んだ後からだ。それ以前は何もなかったのだとするならば、店に害を及ぼした従業員を花村が追い出したとも取れる。もしかして宮川や、須田も含め過去に辞めていった従業員たちも、店舗で何かしらよからぬことをしていたのだろうか。そして花村かすみによって彼らは裁かれた。死を持って償うという結末と共に。

「店長?」

 瀬長の呼びかけにふと我に返る。

「あ。ごめんね」

 難しい表情をしていただろう。日和は無理やり作った笑顔を瀬長に見せた。

「それで、その花村さんのことですけど……」

「うん。安心して。もしお店で人が亡くなるようなことがあったなら今頃うちの店、普通に営業してるわけないから」

 数か月前、誰かもそんなことを日和に言った。

「そうですよね。考えすぎですよね。店長、わたしにできることがあったら言ってください。社員さんだとバイトの皆には聞きにくいこともありますよね。わたし、田舎から出てきて初めてのアルバイトが東羽珈琲で、今のお店嫌いじゃないですから」

「ありがとう。でも無理はしないで。変なこと言ってお店に居づらくなっちゃうと困るから。今はちゃんとシフトに入って、お店を安定させてくれることが一番の助けになると思うから」

日和が店長として瀬長に言えることはそれくらいだった。本当は辞めていったアルバイトたちのことを調べてもらいたいという気持ちはあったが、瀬長に妙な噂が立って辞められてしまっては困るという思いの方が大きかった。

「佐川さんと今のアルバイトの子たちから何か新しい話しを聞いたら、そのときはわたしに教えて。瀬長さんの方からはこの話題は出さないようにした方がいいと思う」

日和がそう念を押すと瀬長は小さく頷いた。結局最初に注文したドリンク二杯と料理を二人で食べ終えて店を出た。日付が変わって午前一時を少し回っていた。

 瀬長と別れてから電車が既に終わっていることに気づいた日和は駅前でタクシーに乗り込んで帰路についた。ロータリーから車道に出たタクシーは宮篠台店の前を通って日和のアパートへ向かった。日和は後部座席のシートに体を預けたまま、視界を通過していく宮篠台店を横目でぼんやりと眺めた。先ほどまで働いていた自身の店舗だというのに、照明の消えた巨大な白い匣は、どこかこの世の物ではないような異彩を放って鎮座していた。屋上部分に据え付けられた巨大な看板だけが下からの照明に照らされて淡い光を反射していた。防犯と店舗アピールの為だろうか。指定されたブレーカーを全て落としても看板の照明は消えないことを、日和は改めて認識した。

 店舗が視界から消え去ると、今度は日和の頭の中に一つの仮説が展開されていった。宮川玲子たち改装前の従業員たちが何かよからぬことを行った。それを知った花村かすみが何らかの手段で宮川たちを裁いた。リニューアル後、須田と何らかの契約を交わして店舗に残った花村だったが、命を落とすこととなった。ここで日和が考えたのは何者かが花村を死に追いやった可能性だ。改装前に起こった出来事の真相を知った何者かが花村を死に追いやった。それで事態は収拾するはずだったが、その後も花村による裁きは続いている。とするならば花村を死に追いやったのは須田である可能性が高いのではないか。しかしだ。考えれば考えるほど、花村かすみは宮篠台店を愛していたのでは、という結論に向かっていく。父親が教祖を務めていた新興宗教と、はたして本当に関係があるのだろうか。

「お客さん?この辺でいいの?」

 運転手の声が日和の思考を遮って入り込んできた。気づけば日和を乗せた車はアパートからほど近いコンビニの駐車場に停車していた。時間は間もなく午前二時になろうとしていた。

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ドリップ 梅屋 啓 @kei_umeya

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