第8話 花村かすみ

 結局眠れない夜となってしまった。堂島と別れたのは夜の十時近くで、話に区切りがついたというよりは喫茶店の閉店時間に合わせて店を追い出されたという形に近かった。帰宅して堂島から聞いた話を手帳に整理し、考えを巡らせていた結果、気を失うように眠りについたのは明け方の四時を過ぎた頃だったように思う。今日が遅番でよかった。お昼の忙しい時間をなんとか乗り越え、原材料の発注データを伝送するエンターキーを勢いよく叩いた後、日和は背もたれに深く体を預けて深呼吸をした。開け放たれた事務所の扉から無人の休憩室を覗き込む。視線の直線上にあるネームボードを見ると、視線は自然と薄汚れたステラの欄に向かう。堂島が見せた写真の花村かすみの顔が頭に浮かんだ。一時間ほど考え事ができそうだと日和は時計を見て計算した。堂島から聞いた情報を整理してこれからやるべきことを列挙していくことにした。

 まず宮篠台店の過去について。ネット上の噂では精神病患者の入院施設。野淵から聞いた情報では一般的な内科医院ということだったが、堂島からはまた違った話を聞かされた。

「新興宗教の施設というのが、僕の持っている情報です」

 情報の出どころまでは説明されなかったが、プロの探偵が調べた情報であるならば、信頼度はゼロではないだろう。カルト的な宗教団体だったらしい、という堂島の話しを踏まえると精神病患者の入院治療施設と思っていた人間がいたとしても不思議ではない。さらに東羽の体質を考えれば、イメージ操作を理由に宗教施設ではなく病院だった、という話しに情報をすり替えている可能性も否定はできない。その宗教団体は催眠やマインドコントロールのような手法を使って信者を増やしていたらしい。そして堂島はこうも言った。

「その団体のリーダー、つまり教祖ということになりますが、その人物が花村かすみの父親ではないかと思われます」

 それが本当だとしても、宮川がそれを承知で花村を採用したとは考えにくい。

「もしかすると花村かすみは宮篠台店を教団側が取り返すために送り込まれた人間なのかもしれません。花村かすみ自身も催眠やマインドコントロールの心得があったとしたら、従業員や常連客の心を引き付けていたことも納得がいきます」

 花村かすみは宮篠台を潰すつもりだった。堂島はそう推察しているようだったが、実際は花村かすみのおかげで宮篠台は評判が良くなり、売上も回復していたのではないだろうか。

「花村自身になんらかの心境の変化があった可能性もあります。ですが現実的に宮篠台は一度閉店に追い込まれている。そしてリニューアルオープンを果たした宮篠台店で、全従業員が入れ替わった後、花村かすみだけが再び籍を置いている」

 けれど、その花村かすみも今はこの世から去っている可能性が高い。

「花村かすみの身に何が起こったのか。それも明らかにしなければならない謎の一つではあります。ですが今高坂さんや宮篠台のスタッフが見ている花村の影は、花村自身が店舗に仕掛けた催眠やマインドコントロールによるもの、と考えることはできませんか」

 なるほど。堂島の話は筋が通っているように思われた。日和にはその手の知識は皆無だったが、テーブルや調度品の色、配置、デザイン、照明等を意図的にコントロールすることで、サブリミナル的に人の深層心理に訴えかけることが可能なのかもしれない。幽霊や呪いなどという考えよりはずっと説得力があるように思う。

「高坂さんに調べて頂きたいのは、今の宮篠台店で、内装や店舗ルールなど、その中で花村かすみが関わったものがあるかということです。そこから過去に遡っていけば玲子が店長を任されていた頃に何があったかわかるかもしれません」

 いよいよ花村かすみについて今のスタッフから情報を聞かねばならない。とはいえ、花村かすみと共に働いたことがあるのは西浜くらいだ。今日は西浜と入れ替わりでカウンターに入らなければならないことを考えると、ゆっくり話すことは難しそうだった。少し早く下に降りて、雑談程度にやんわりと話を切り出してみるしかない。

 そして宮川玲子を始め、行方不明や自殺に至った人間と花村かすみの関連についてだ。宮川の話しも含めて時系列で整理する。宮川が店長として宮篠台店に着任したのは平成二十二年の春だ。既にその頃、宮篠台の売上は減少の一途を辿っており、閉店になることはほぼ決定事項であったようだ。これは堂島が宮川本人から聞いた話のようだが、当時店長としてはまだ駆け出しであった宮川が宮篠台店長を任命されたのは決して売上回復を見込んでのことではなかったようだ。閉店までのつなぎ、言わばクローザーとして宮篠台店を任されたに過ぎなかった。だがそれでも宮川は店長としての責務を果たそうとした。人員を整え販売促進計画を作り、少しでも売上を回復させようと身を粉にして会社に尽くそうとしたのだった。そこに宮川のどのような思いがあったのかは今となってはわからない。クローザーを任され、とりあえず間を持たせてくれればいい、と言われることは即ち店長としての仕事をするなと言われたも同然だ。悔しかったのかもしれない。そして堂島から聞いた宮川の人間像を考えれば、スタッフや宮篠台店を利用するお客様に対して、少しでもできることがないかを模索したのだろう。そんな時にアルバイトの面接を受けに来たのが花村かすみだった。中川が見せてくれたお客様からのお褒めの言葉を見れば、花村自身が生来の接客サービスセンスがあり、採用されてすぐに店舗の中心人物となって活躍しただろうことは想像に難くない。このとき花村が何を意図して宮篠台店にスタッフとして入り込んだのかは現時点では不明だ。だが宮川と花村の活躍によって宮篠台の売上は劇的に回復していったとのことだ。宮川は日々増えていく宮篠台のお客様について、嬉しそうに堂島に語っていたそうだ。しかし、ここで一つ疑問が生じる。売上が回復したにも関わらず、宮篠台店は予定通り閉店を迎えてしまった。野淵から聞いた話が真実であるとするならば、宮篠台店がリニューアルオープンとなった経緯は売上の回復とは関係がない。本社の意思として決定事項であった宮篠台の閉店は宮川がどんなに努力しても覆ることはなかったということなのだろうか。そして、宮篠台店が一時閉店を迎えたその日を境に宮川玲子の消息が不明となった。現時点で日和が持っている情報の中では、この宮川失踪――恐らくもう生きてはいないと思う――が宮篠台で起きた最初の謎になる。さらにこの宮川失踪を皮切りに、営業最終日に勤務していた男性スタッフ三名と女性スタッフ一名が自殺、もしくは行方不明となっている。いずれも宮川の失踪から半年以内の出来事である。花村かすみだけが生き残って宮篠台店に再び姿を現したが、一年後に彼女自身も謎の死を遂げている。花村かすみがキーパーソンであることは間違いないだろう。しかしこの一連の事件を花村かすみに起因する呪いや怨念のせいであるとすると、最初に花村かすみが死んでいるべきではないだろうか。一般的に聞く心霊話しと比較すると順序が逆であるように思う。だとするならば、やはり堂島の推察通り、一連の事件は花村かすみが宮篠台店、或いは当時勤務していたスタッフたちに仕掛けた催眠かマインドコントロールによって起こったものと考えるのが妥当だ。妥当というより現実的というべきか。そこまで考えを整理して、現実的という単語で日和自身の意識も現実に戻ってくる。デスクトップパソコンのモニターに目を向けると十五時四十五分になっていた。手帳を閉じてペットボトルの緑茶を一口含むと、喉を通すより早くイスから立ち上がって事務所を出た。

階段を足早に駆け下りてカウンターに顔を出すと西浜が不思議そうな顔で日和を見た。退勤時間の五分前にポジションを交代するのが日常であるため、予定より少し早くカウンターに現れた日和に対して疑問符を浮かべるのは当然のことであった。

「西浜さん、お疲れ様です」

 日和が手洗いしながら声をかけると西浜は軽く会釈した。

「早いですね店長。そんなに急いで来なくても大丈夫ですよ。ちょうどお客様も引いたタイミングで、ホールも整えましたし、夜の子たちへの引継ぎも終わってますから」

「ありがとうございます。ちょっと早く降りたのは西浜さんに聞きたいことがあって……」

 ペーパータオルで手際よく両手の水気を拭いながら日和はかしこまって話しを切り出した。少し鼓動が早まっているのが自分でもわかった。

「はい。何でしょうか。そんなに改まって」

「その、西浜さんてこの店で一番長く働いてらっしゃるんですよね」

「そうですね。リニューアルオープンした際に須田店長に採用して頂いて、それからずっとですから。オープンスタッフで残っているのはわたしだけになっちゃいましたけど」

 西浜は苦笑いを浮かべた。それから「あ」と何か思い当たったように眉をひそめた。

「そういえば白井くんが言ってましたよ。店長、辞めていった子たちの理由、調べてるんですって?そのことでしょう?」

「白井くんがそんなことを?」

「直接聞いたわけじゃないと思いますけど、言ってましたよ。店長がよくスタッフ名簿の退職手続書類を食い入るように見てるんだって」

「あ、ああ……本当ですか」

 気づかれないように見ていたつもりだったが、店長の行動としてはあまり見られないことであることは確かだ。思っていたより目立っていたかと日和は内省した。

「今まで経験した店と比べると定着率があまりよくないように思ったので……何か原因が見つかればと思って、それで……」

「まあ、辞めていく子たちにもそれぞれ事情があることですから。それに、本人たちもよく考えて結論を出したことでしょうし、特に共通するような理由はないと思いますけど」

 そう言って西浜はホールの時計をちらりと見た。日和も釣られて視線を向ける。西浜の退勤予定時刻である十六時を一分過ぎていた。

「皆いつも通り働いていますけど、須田店長のことがあって少しナーバスというか、内心妙に不安になっているところがあります。もちろん高坂店長のことも心配しています。人が足りない中で少しでも店長の負担を減らそうと頑張ってますよ。また同じようなことが起きたらやり切れないですから。それで須田店長が戻ってくるわけじゃないですけど。ですから、高坂店長もこれから先のことだけ考えて頂けたら嬉しいです」

「は、はい……」

 花村かすみのことを聞くつもりが逆に西浜から諭される形になってしまった。こう言われてしまうと花村かすみという過去の人物についての話を切り出しにくくなってしまう。

「それで、その……聞きたい事というのは」

 西浜のその言葉に日和は安堵した。このまま話しが終わって西浜が帰宅してしまってもおかしくない流れだった。話しの流れとしては聞きにくい内容であることに変わりはないが日和は意を決して口を開いた。長時間西浜を足止めするわけにもいかない。

「花村かすみさん……て覚えてらっしゃいますか」

 日和の問いに西浜は一瞬だけ小首を傾げたが、すぐに「ああ」と思い出したように目を見開いた。

「何を聞きたいのかと思ったら花村さんのことですか。それは確かにわたしにしか聞けないですね」

 日和にとっては意外な反応であった。思い出したくないというような、拒否反応を予想していただけに西浜の笑顔が逆に恐ろしくもあった。日和が相槌を打つより早く西浜が続けて口を開く。

「店長、もしかして花村さんのことを調べていたんですか?そういえば白井くん、それも言ってましたね。うちの店にもステラがいたら助かるって、店長が言ってたって」

「そ、そんなことも言ってたんですか……」

「気にしないでください。別に高坂店長の悪い話をしているわけじゃないんです。白井くんとは責任者引継ぎで話す機会が多いだけですから」

 西浜は気を遣って大げさに両手を広げて軽くホールドアップの姿勢を見せた。日和の機嫌を損ねてしまったと思ったのだろうか。店長不在時のスタッフ同士が店長のあれこれを話すことなど日和自身は百も承知だ。良くも悪くも評価はされているだろうからそんなことは気にしてはいない。

「あ、もしかして店長、花村さん、何か問題があって辞めたんじゃないかとか思ってます?」

「え?どういうことですか」

 奇しくも日和が最も知りたい話題へと話しの中身が移行した。西浜は「やっぱり」とばかりに目を細めて話しを続けた。

「辞めた子たちの退職手続書類の中で花村さんの書類がなかったんじゃありませんか?それで、お店で何かあって辞めてしまったと思ったんじゃありませんか」

「え、ええ。ただ西浜さんがおっしゃったように、辞めたスタッフに固執するつもりはないんです。ただ、かなり評判の良いスタッフだったようなので、どんな子だったのかすごく気になっていて」

「ご想像の通り、とても仕事のできる子でしたよ。リニューアルして新人しかいなかったわたしたちスタッフに唯一の経験者として手取り足取り教えてくれました。ただ、他店舗からのヘルプで来ていたので一年ほどでいなくなってしまいましたが」

 日和の脳裏に疑問符が浮かんだ。

「ヘルプ?花村さんは改装前の宮篠台から残ってくれたスタッフではないのですか」

「いえ。須田店長からはお店が落ち着くまでのヘルプだと聞かされていましたが……。花村さん自身も、自分はすぐにいなくなるかもしれない、とずっと言っていましたので」

 須田が西浜たちに嘘の情報を伝えている。そうとしか思えなかった。堂島が見せた写真は紛れもなくここ宮篠台店で撮られたものだ。宮川と共に写っていたステラのスタッフが花村かすみであると堂島は確かに言った。花村かすみが宮篠台で働いていたことは揺るぎようのない事実である。だとするならば須田が何らかの理由で花村がヘルプのスタッフであると嘘をついたことになる。そして花村もまた、自身がヘルプであるように振る舞っていたということだろうか。須田と花村が口裏を合わせていたか、どちらかの嘘に一方が合わせていたことになるだろう。限りなくポジティブに且つ戦略的に考えるとするならば、新人スタッフを早期育成するにあたり、花村が離脱することをほのめかすことで危機感を煽った、という言い方もできる。しかし、改装前の営業最終日に勤務していた人間が一人を除いて行方不明か死亡。そんな異常な状況から店舗を任された店長の須田と、唯一生き残った花村。互いに特別な事情を抱えた二人であることを考えると、何かしらの話し合いが持たれたと推察せざるをえない。

「あの、すみません。そろそろ仕事をあがっても……」

 はっとして時計を見ると十六時十五分を過ぎていた。西浜が恐る恐る日和の顔色を窺っていた。眉をひそめて難しい顔で考え込んでいた日和は、西浜の困惑した表情に気づいて、ぱっと無理やり笑顔を作った。

「あ。ごめんなさい。長々とすみませんでした。ありがとうございます」

「いえいえ。大した話もできなくて。お先に失礼します」

 西浜はそう言って軽く会釈すると日和の横を通ってカウンターから出た。カウンターの外側を回って階段へ向かう途中、日和の前で足を止めて「あ」と横目で日和を見た。

「どうしました?」

 日和が尋ねると、カウンターを挟んだ向こう側から西浜が顔を近づけて小声で囁いた。

「花村さん、退職書類書いていないということはまだ宮篠台に在籍していることになりますね。またヘルプでいいから来てくれないかしら」

 そう言って西浜が再び会釈し、顔を上げたとき彼女の背後、肩口にちらりと花柄のスカーフが見えた気がした。

「そう……ですね」

 笑顔で西浜を見送った日和だったが、苦笑いにしか見えなかっただろう。また一つ、解かねばならない謎が増えてしまったが、これが何かの糸口になるかもしれない。十八時の休憩の間に、西浜から聞いた話を堂島にメッセージで送り、その後は仕事に追われて一日を終えた。

 二十二時の閉店時間を迎え、閉店業務があらかた片付いたのは二十三時になろうとする頃だった。今日は定時で店を出れそうだ。携帯を確認すると堂島からメッセージが入っていた。

〈花村は玲子が採用したアルバイトであることは間違いないですよ。玲子からもよく聞かされていましたから。リニューアルした宮篠台がある程度軌道に乗った時点で花村は退職する予定だったのかもしれませんね。それでヘルプを装っていたのではないでしょうか〉

 そういう契約が須田と花村の間で交わされていたとして、果たしてそれはどちらの意志だったのだろうか。スタッフ全員が新人でのオープンは不安だ。須田にとっても花村がいることは大きなメリットになる。須田の方から花村に続投を打診したとするならば、花村が条件をつけてヘルプを演じていたことになる。だとするならば花村自身、リニューアルした宮篠台には在籍する意志はなかったということだろうか。一度は宮篠台を閉店に追い込んだ花村だったが、予想外のリニューアルオープンに心が折れて諦めたといったところか。いや、考えが安直すぎる。どんな手段を使っていたかは不明だが、五人もの人間が人生を狂わされている。罪に問われるような手段なのかどうかは別として、宮篠台に固執する理由が花村にあったならば、そう簡単に諦めるとは思えない。とすると、花村には続投の意思があったにも関わらず、須田がヘルプを装うよう持ち掛けたと考える方が普通か。花村に早期退職してほしい理由が須田、もしくは東羽側にあったということだろうか。そもそも早期退職が予定されていた花村だったが、何等かの理由で命を落とすこととなった。そして須田は現在のスタッフたちにはその事実を告げず、ヘルプ期間が終了して宮篠台を去ったということにした。花村が宮篠台に執着する理由を探ること。そして須田との間に何があったのかを明らかにすること。きっかけはそこしかないが手がかりが少なすぎる。東羽の人間で頼れるのは中川くらいしかいない。野淵を始め本部の人間は、不都合な事実を伏せたがる体質にあるから真実を話してもらえるとは限らないし、情報自体が誰かの手によって歪められている可能性もある。野淵は早い段階で新しい店長を回すと言っていた。今の状況ではどんな店長が来たとしても状況は大して変化しないだろう。それに日和自身も無事にこの店から解放される保証はない。花村と関わった宮川、須田が死んでいる。自分だけが例外というのは少々考えが前向き過ぎる気がする。前任たちとの唯一の違いは生前の花村かすみと面識がない、ということだが花村かすみは未だこの店に居るのだ。そう、宮篠台店のステラとして、西浜の言葉を借りるならば、在籍している。デスクの片隅に置かれた携帯電話の振動で我に返る。堂島からの新しいメッセージだった。

〈無理しないでくださいね。高坂さん、玲子と一緒で一人で背負い込むところがありそうですから〉

 堂島の言葉に一息ついて背もたれに体を預けると、視界の隅に人影が入り込んだ。びくっとして凝視すると閉店業務を終えたスタッフが一人、休憩室のイスに座って携帯電話を操作しているのが見えた。女子大生の瀬長だ。大学三年生で勤続は一年ほどだったろうか。真面目な性格で大学の単位も順調に取得しており、三年生の今年は授業も少なく人手不足の宮篠台では閉店作業の核となりつつあるスタッフだ。

「まだ帰らないの?」

 日和が事務所から声をかけると瀬長も気づいて日和の方に向き直った。

「あ、はい。すみません。長居しちゃって」

通常閉店作業は責任者を含めて三名で行う。責任者が現金の清算を行い、残り二名が客席と厨房の清掃業務を分担して行うのが通例だ。しかし今日は人手が足りず、二十二時まで高校生を一人使っていた為、閉店作業は事実上日和と瀬長の二人で行っていた。二人で三人分の作業をしなければならなかったので女の子には少々荷が重かっただろう。瀬長の顔からは疲れが滲み出ていた。日和は事務所から出て瀬長の向かい側に腰を下ろした。それでも帰ろうとする素振りを見せない瀬長を見て、日和の中で店長としてのセンサーが働いた。

「何か話でもあるの?」

スタッフがなかなか帰らずに黙っているときというのは大抵の場合、話しを切り出すタイミングを窺っているときだ。しかも比較的重い話しであることが多い。そのほとんどは退職に関する話題だ。西浜の言う通り、アルバイトを辞める理由は人それぞれで、本人もよく考えて決断したことだ。こちら側に止める権利など本来は存在しない。しかしながら人員確保が店長の仕事である以上、そう簡単に辞めさせるわけにもいかない。店舗側に問題があったとするならば尚更で、その点を改善してなんとか残ってもらえるよう軌道修正するのが日和の務めでもある。何よりそう簡単に退職を快諾することは即ち、あなたが辞めても困らない、と言っているに等しく、承諾される側も少しは止めてほしいと思っている節がある可能性も捨て切れない。本心を話しやすい環境を作って腹を割って話す必要がある。日和は時計を見た。二十三時十五分だ。確か瀬長は地方から出てきて一人暮らしだったはず。遅く帰って親に怒られるということはない。

「瀬長さんさ、お腹空いてない?」

「え?」

 突然の日和の言葉に瀬長はあっけに取られた表情を作った。

「一人暮らしだよね? 確か。今日一人少なかったから疲れちゃったでしょ。どこかでご飯、食べて帰らない?」

「でも、店長も疲れてるんじゃ……」

「いいの、いいの。どうせ帰ってご飯食べるんだから。明日は早い?」

「いえ、明日は二限からなのでそこまでは」

「そっか。じゃあ今着替えるからちょっと待ってて。ここだと静かすぎて、なんだか空気が重くなっちゃうでしょ」

 日和はそう言ってロッカーからスーツを取り出すと更衣室に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る