第7話 堂島貴明
早番出勤の朝は早い。冬の近づいたこの時期、店舗に到着しても外はまだ暗く、夜が明けるのはまだ先だ。白い息を吐きながら足早に歩いて宮篠台店の看板が視界に入ったとき、日和は腕時計を確認した。午前五時三十五分。いつもより五分到着が遅れていた。人手不足による連日の残業。疲れの溜まった体に久しぶりのアルコール。布団に入っても頭に浮かぶのは花村かすみという少女の名前。気を失うように眠りに落ち、気づいた時にはいつもの起床時間を十分程過ぎていた。遅刻ではないが、時間に余裕のない開店業務は体力的にも精神的にも息が切れる。重々しい扉を開錠して暗い店内に足を踏み入れる。閉店して帰宅する際には、冷蔵庫など電源が切れてはいけない物以外はブレーカーを落として帰るのが東羽珈琲のルールとなっている。深夜の電気火災予防と節電が目的だ。当然、客席の照明に関わるブレーカーも深夜には使用しないため落とされている。その為早番で一番に店舗へ入る人間は、入口から真っ暗な客席を歩いて厨房に入り、奥にある分電盤を開けてブレーカーをオンにするのが最初の仕事だ。非常灯が発する緑色の灯りを頼りに客席を通過し、厨房に入った。これが嫌で早番勤務を避けているスタッフはいるだろう。換気のために開きっぱなしのトイレの扉や階段の奥へと続く闇が気になってしまう。冷蔵庫から発せられるモーターの唸りだけが空気を震わせ、その振動が日和の体にも伝わってくる。客席の小さな窓から入ってくる街灯の光が、分電盤の白い扉にうっすらと反射している。日和が分電盤の前に立つと同時に、扉の上をすっと影が通り過ぎたような気がした。一瞬、分電盤を開くことを躊躇する。偶然店舗の前を通りすがった車が作り出した現象だろうか。後ろを振り向いて確認する勇気はなかった。下を向いて扉を一気に開き、急いで全てのブレーカーをオンにしていった。不規則な順番で次々と店内に光が満ちた。恐る恐る後ろを振り向いたが、そこには誰もいない無人の客席が静寂と共に広がっていた。
さして忙しい客入りではなかったが、気怠い一日だった。一日といっても早番ならば退勤の定時は十五時だ。起床時間が早いことを除けば、仕事が終わった後にこれだけの時間があるというのは羨ましいと思う人もいるだろう。ところが店長ともなると実際には定時で店を出て仕事から解放されるなどということは滅多にない。現状の売上分析や、今後の販売促進計画。経費コントロール計画。人員の採用と育成計画。店長の仕事は過去と現在を分析してこれからの計画を決めることにある。自分が時間帯責任者として勤務している時間だと、事務作業をしていても店内が多客になればレジや調理のフォローに戻らざるを得ない。過去に現場社員だった時代はそれが当たり前だったのだが、一度デスクワークのみの勤務を経験してしまうと、中途半端に仕事の手を止めて体を動かし、再度デスクワークに戻るというスタイルを非常に面倒に感じてしまう。結局、勤務時間内ではすぐに終わらせることができる簡単な業務だけをこなし、時間のかかる報告書や計画書の作成は、定時を過ぎて自分が店のフォローに入らなくて済む体制が整ってから取り掛かるようになってしまった。要するに残業だ。店を出る時間は早くて十七時。遅ければ十八時を過ぎるのだから、結局普通のサラリーマンと変わらない帰宅時間だ。朝が早い上に、体を動かしている時間も長い分疲労感は強い。しかも人員が不足する日も増えてきている。事務作業のために残業している時間もレジに立ったり、厨房に立つ時間が増えてきている。じわりじわりとではあるが、この店に縛り付けられていくような感覚だ。早くここから解放されてベッドに入って休みたかった。
先週分の週間報告書をあらかた記入し、昨日の会議の資料を整理し終えたのは十六時を少し過ぎた頃だった。予想していたよりも早く片付いたことに日和はほっと息をついた。体は重く呼吸はゆっくりと、深い。体が睡眠を欲している。だが、それと裏腹に脳は覚醒したままで、まだ眠ろうとはしていないのがわかる。肉体と精神の体内時計が完全にちぐはぐだ。帰宅する前に一度カウンターに顔を出して来ようと意を決してイスから立ち上がり事務所を出た。階段を下りて二階の喫煙席の前を通ったとき、日和は視界の隅で違和感を覚えた。いや、正確には違和感ではない。これが当たり前の光景であるはずなのだが、ここ最近の感覚で言えば違和感になってしまうのだろう。広い喫煙席の一番奥、窓際の四人がけテーブルに客がいた。男性客が一人、年齢は日和と変わらないくらいだろうか。広いテーブルの上にはラージサイズのホットドリンクが片隅に置かれ、手帳やノート、書類の束が他のスペースを占領していた。ただその男は手帳やノートに何かを書き込むでもなく、書類に目を通すでもなく、ぼんやりと考え事でもするかのように自分しかいない喫煙席の天井あたりを眺めていた。
日和がその珍しい光景にしばらく目を見張っていると、男が気づいて「あ」という顔をした。日和もそれに気付いて姿勢を正した。せっかく席を利用してくれた客に対して失礼な態度だったと反省し、丁寧に頭を下げてその場を立ち去ろうとした。
「あの」
男の呼びかけが一階に降りようとする日和の足を再び止めた。日和が振り返ると、すでに男は立ち上がって日和の方へ近づいてきていた。男は日和の顔と胸のネームプレートを交互に見た。
「店長……変わったんですか」
常連客なのだろうか。あまり見かけない顔だが、ただ店長が変わったということに対して少し反応が過剰ではないかと日和は感じた。
「須田さんは……どうされたんでしょうか」
須田のことを知っているようだった。前任の須田に何か用事があって店に来たのだろうか。口ぶりから察するに、須田が死んだことを知らないのだろう。関係の分からない人間に須田の話しをしてよいものかどうか、日和が「須田は、その」と答えに窮していると、男から意外な言葉が発せられた。
「死んだんですか」
男の言葉に日和は目を見開いた。男は真っ直ぐ日和の目を見て「そうなんですね」と呟くように言った。
「あの、失礼ですが、あなたは……」
日和がそう言うと男は「ああ」とジャケットの内ポケットを探り、一枚の名刺を日和に差し出した。〈
「少し、お話しを聞かせてもらえませんか」
「話し、とういと」
「このお店のこととか、須田さんのこと。それと」
堂島は辺りを窺うように一拍置いてから「あなたは知らないかもしれないけど」と前置きをした。
「花村かすみについて」
この男は自分の知らない何かを知っている。日和はそう直感した。そしてこの男の話しを聞くことで新しい情報が得られるであろうことも確信できた。だがそれと同時に、踏み込んではいけない領域に足を突っ込んでしまうのではないかという不安も感じていた。早番勤務の疲れで体は重かったが、今は少しでも新しい情報がほしいことは確かだ。
「ここではスタッフの目がありますので、場所を変えませんか。今、支度をしてきますので」
日和は堂島にそう言うと、足早に一階へ降りて閉店担当の白井に簡単な引き継ぎを済ませた。堂島は日和に気を遣ってか、先に荷物をまとめて店の外で待っていてくれた。時間は十七時になろうとしていた。日も落ちかけ、街灯が夜の闇を照らし始めた歩道を歩く間、日和は堂島の少し後ろを歩き、会話はなかった。
スタッフに遭遇することを警戒し、堂島の提案で二人は電車に乗って一駅移動した。改札を出て、客入りの少なそうな喫茶店を適当に選んで席に着いた。眠気覚ましに注文したホットコーヒーが届いて店員がテーブルを離れると、堂島は改まって頭を下げた。
「本当にありがとうございます。えっと……」
「高坂です。宮篠台に着任したのは二か月程前です。堂島さんは、その、探偵ということなんでしょうか」
日和が聞くと堂島は頷いた。
「はい。都内にある小さな事務所で調査員をしています。とはいっても、自分が今調べているのは、依頼された案件ではありません。あくまで個人的なことです」
個人的なこと、ということは堂島自身も宮篠台店に何らかの関わりがある人間ということだろう。日和は何から話していいかわからずブラックのままコーヒーに口をつけた。仕事から解放された安心感からだろうか。少し頭がぼうっとしてきていた。
「高坂店長。率直に聞きます。あのお店、宮篠台店のこと、どう感じますか」
何かがおかしい。何かが変わっている。だが異常というほどのことではない。久しぶりの現場復帰で、ちょっとした物の動きや音に敏感になっている。自分の力が足りずに上手くいかないことをお店の過去に責任転嫁しようとしている。そう言われてしまえば、それで片付いてしまうようなことだ。堂島が何をどこまで知っているのかわからない以上、妙なことを口走って話しが終わってしまうことは避けたかった。だが堂島は、そんな日和の心情を察するかのように、自ら日和の感じている根幹に切り込んできた。
「あの店に何かがある。いや、何かがいる。そう思っているんじゃないですか」
そうか。この男も日和が知りたいことと同じことを調べているのか。堂島の発言にそう確信した日和は、この二か月で一番の安堵感を覚えた。東羽の人間ではない堂島ならば、会社のメンツや上司との人間関係に臆することなく情報を交換できる。ようやく対等に話せる人間が現れた。その安堵感から日和は大きく深呼吸をして、今にも眠りに落ちそうな精神と体を奮い立たせた。
「堂島さんが、その、調べていることというのは……」
カップをそっと皿の上に置いて日和は堂島の目を見た。堂島の問いかけに日和が否定の言葉を発しなかったことで、言いたいことは伝わっただろう。堂島は口を結んで小さく頷くと、バッグの中から手帳を取り出して開いた。表紙の内側に付けられたポケットから一枚の写真を抜き出して、そっとテーブルの上に置き日和の方へ滑らせた。写っていたのは笑顔で寄り添った二人の男女だった。男性の方は堂島だとすぐにわかった。傍らに寄り添う女性は日和の記憶にはなかった。染髪もしていない黒髪を後ろで一つ結びにし、化粧気もないその女性は隣に写る堂島と比べて幼い印象だ。口角がきれいに上がった笑顔が、女性の日和から見ても可愛らしいと感じた。場所は自宅だろうか。屋内であることは背景から想像できるが自撮りで撮影したであろう写真はフレームのほとんどが二人の笑顔で埋まっていて周囲の様子まではわからなかった。恋人か、妹であろうということは日和にも容易に想像できた。スマートホン全盛の時代にわざわざ印刷して持ち歩いていることからも、この女性が堂島にとって大切な人物であることが窺える。
「その反応からすると、高坂さんは彼女と面識はないようですね」
堂島の言葉に日和は首を傾げた。写真を見せればわかってもらえると堂島は予想していたということだ。だとすれば、この女性は日和が今までに出会う可能性がある人物ということになる。
「あの、もしかして彼女、東羽の……」
日和が写真の女性と堂島を交互に見ながらそう言うと、堂島は頷いた。
「
そう言って堂島はコーヒーカップにそっと口をつけて一拍置いてからゆっくりと続けた。
「須田さんの前任。リニューアル前の宮篠台店で、店長を任されていました」
堂島は写真の宮川を見つめていた。日和もそれに釣られるようにテーブルに置かれた写真へ視線を送る。宮篠台店の前々任店長。初めて見る顔だ。店長の業務引き継ぎは前任と後任の間で行われるのが普通だ。その前の店長が誰であるとか、何をしていたとかいう話しには発展しないことがほとんどだ。日和自身が過去に店長を任された際も、その店において誰が店長を歴任していたかなどを引き継がれたことはないし、その必要もない。懇親会で野淵が言っていたように、店長が考えるのは現状の問題点と未来のビジョンだ。今の店長が何をしていて、これからの店長が何をするのか。それだけ握っていれば十分なのだから、過去の店長が何をしていたかなど問題になることは稀だからだ。
「宮川さんは、その、堂島さんとは……」
「恋人でした」
堂島は写真から顔をあげて日和の目を見て言った。口元だけ少し笑ったように見えたが、その目はどこか寂しさを孕んだ、もの悲しい表情だった。何より、語尾の「でした」という表現が気にかかった。堂島が彼女に関する何かを調べているのだといたら、今現在堂島は彼女と連絡が取れない状況にあるということなのだろう。ふと、さきほど宮篠台店の二階で堂島が放った言葉が日和の頭にフラッシュバックした。須田を訪ねてきたのであろう堂島が言った「死んだんですか」という言葉だ。何故、そう思ったのだろう。堂島が宮篠台店の何かを知っているとして、須田が死んだのではと推測したのだとしたら。この宮川という前店長の彼女も、既に他界しているのかもしれない。それを思って日和が次の言葉を選べずいると、察したように堂島の方から話しを続けた。
「……行方不明なんですよ」
堂島は行方不明と言ったが、恐らくもう生きてはいないことを覚悟しているのだろう。ただ、心の片隅で、もしかしたらという期待を抱いてはいるかもしれない。それを確かめるために、須田が死んだのか、と鎌をかけたのだろう。そこまで考えて日和はふと疑問を抱いた。店長引き継ぎの流れだけを簡単に追って、堂島が須田の死を疑うまでの流れもなんとなく想像してみる。疲れと眠気で脳内だけの思考では考えがまとまらず、思ったことがつい口をついて外に漏れてしまった。
「宮川さんが行方不明になって、須田さんが後を引き継いだ……。須田さんが亡くなって、わたしが宮篠台に来た……」
「須田さんは、やはり亡くなられたのですね……」
堂島の言葉に日和は、はっとして口元を手で覆った。堂島自身、須田の死を確信していたわけではなかったのだ。独自の調査の過程で、宮篠台店の何かを掴んでいるのだろう。店長が須田から日和に変わっていたことで、須田も宮川同様に行方不明になったのではと推測したに違いない。そして、もし須田が死んでいるのであれば宮川も――そう考えて須田に何があったのかを日和に聞いたのだろう。今の日和の発言で、宮川が既に他界している確信を堂島に与えてしまったかもしれない。今度は堂島が言葉を失ってしまった。日和はフォローするように話を続けた。
「あの、堂島さんが何をご存じかわかりませんが、その、須田さんが亡くなったからといって、宮川さんも、その……同じとは……」
日和がそう言うと、堂島は写真を大切そうに手帳へと戻しながら「いや」と小さく呟いた。
「もう四年です。高坂さんも知っていると思いますが、宮篠台店は三年前にリニューアルオープンしています。改装期間は一年間。宮篠台店が一度閉店する最後の日。その日を境に連絡が取れなくなりました。捜索願も出されていますが、家族も僕も、もう諦めてはいます。今はただ、どんな形になるかわかりませんが、彼女を見つけ出してあげたいんです」
「堂島さんは、宮川さんが行方不明になったことが宮篠台店と関係があると思っているのですね」
堂島は言葉なく頷いて手帳を捲った。
「四年間も行方がわからなくなるなんて異常ですよ。喧嘩して家出したとかそういうレベルじゃないし、僕も彼女の家族も心当たりはありません。だとすれば会社で何かあったのではと考えるのが普通です」
「須田さんともお話しされたんですか」
「リニューアルして間もない頃に、何度か。ただ、須田さんも高坂さんと同じで、玲子が行方不明になったことで宮篠台に異動してきた人間です。玲子とは会議で顔を合わせていたくらいで、あまり話したことはなかったみたいです」
堂島の言う通り、同じ現場社員なら会議で顔を合わせることはあっただろう。ただ、宮川と須田は年齢もだいぶ離れているし、性別も違う。基本的に日頃から頻繁に情報交換するのは同じエリアの店長か、同期など年齢の近い人間だろうから宮川と須田に接点がなかったというのは頷ける。
「では、須田さんも宮川さんのことは何も知らなかったと」
「はい。行方がわからなくなって、会社でも騒ぎになったらしいんですが、もともと付き合いのあまりなかった須田さんは会社からも詳しいことは聞かされていなかったようです。俺に聞かれても何も言えることはない、って毎度門前払いに近い対応でしたよ」
「本社の方からは何か聞いていないんですか。他人ではないのですから、何か知っていれば教えてくれるでしょうし、むしろ会社側も堂島さんに話しを聞きにくることがあったのではないですか」
「ええ。東羽の方が一度僕のところに話を聞きにきたことがありました。ですが、行方不明になる理由を調べているのはお互いさまだったので、僕の方も特に答えられることはなかったですし、向こうも同じでした」
宮川が失踪した理由について、堂島は東羽に原因があると思い、東羽はプライベートに原因があると思っていた。アルバイトが急に来なくなることはよくあるが、正社員ともなると相当な理由がない限り、正式な手続きを踏まずに退職するなどということはまずない――はずだ。常識的な範疇であれば。東羽に限った話しかもしれないが、現場勤務がいかに理不尽にまみれているか、日和自身もよくわかっているつもりだ。店長というのは現場のトップ、いわば一国一城の主だ。会社から与えられた自身の領土を生かすも殺すも店長次第だ。自身の店をどうするのか、最終的に決断するのは本社のように見えて、実はそうではない。店長なのだ。店舗においては「店長なんだから」と結論を迫られ、会議に行けば「店長として」と結論を迫られる。日和は店長になってたったの一年で、上下から迫るその重圧に耐えられなくなった。とはいえ「店長が嫌なので異動させてほしい」などという我儘が社会で通用するわけもない。店長が務まらないなら、会社で自分の力が生かせる場所はどこなのか、何をして会社に貢献するのか。日和の場合は建前的に、一応の筋を通した形で相談センター勤務という流れに上手く収まったのだ。だが、全ての社会人がそうではない。社会人とか店長とか、そういうものの前に一人の人間なのだ。言いたくても言えない人間もいる。仕事を失う恐怖と不安で我慢し続けている人間もいる。全ての社員が、例えば野淵のように自分の能力を正確に把握し、キャリアアッププランを立て、効果的にアピールできるほど器用ではない。ストレスが限界を迎えた状態で、それでも自分がその場から抜け出すことができないという責任感と戦い続けたとき、糸が切れたように消えてしまいたいと思う人間がいたとしても、日和はなんら不思議には感じない。宮川玲子がどんな人間で、宮篠台店で何を経験したのか。そしてその出来事が須田の身にも降りかかっていたとするなら。日和自身もその流れの中に巻き込まれようとしているのかもしれない。これは現場から逃げ出した自分への罰なのだろうか。誰かが自分を裁こうと宮篠台店に招いたのだろうか。視線の先で揺らめく漆黒の液体の中へと意識が吸い込まれていきそうになったとき「高坂さん」と堂島の声が日和は現実へと留まらせた。軽やかなジャズミュージックが、ふいに日和の聴覚に舞い戻った。
「すみません。お疲れのようですから、今日はこのくらいにしましょう。来週にでも余裕のありそうなときに、またお伺いします」
堂島は手帳をバッグにしまいこみながら帰り支度を始めた。日和は手を差し出して「あ、いえ。大丈夫です」と堂島を引き留めた。堂島にしてみれば、四年も宮川のことを捜しているのだ。一縷の望みを抱いているかもしれないが、きっともう生きてはいないことを悟っているだろう。須田が死んだという事実を目の当たりにして、その推測は確信に変わってしまったかもしれない。今は宮川の身に何が起きたのか、真実を知ることで彼なりに何かしらの決着をつけたいという気持ちが大きいのではないかと日和は推察した。相談センターで何百人という顧客に対して親身に話を聞き、解決策を提案してきた日和にとって、ここで中途半端に話を終わらせてしまうのは、なんとも気持ちが悪かった。人の記憶は時間と共に曖昧になり、断片的になる。人はその隙間を自分に都合のいい妄想で埋めていき真実は虚構へと変貌していく。鉄は熱いうちに打て。クレームは記憶が新しいうちに解決しろ。中川によく言われていたことだ。日和自身にしても、新しい情報を少しでも仕入れることで、自分の中の不安や疑問を一つでも減らしておきたかった。堂島の話を聞いても聞かなくても、眠れない夜が続くことは間違いがないのだ。ならば一歩でも真実に近い情報を頭に入れておきたい。
「堂島さんの知っていること、少しでも教えて頂けませんか。正直わたしもあの店のことはちょっと変だなって思っています。須田店長や、その……宮川さんに起こったような出来事が自分にも起こるかもしれないっていう不安もあります。今いるスタッフたちにも、何もないとは言い切れないですし」
日和がそう言うと堂島は無言で頷いてからバッグを床に置いて、イスに深く座り直した。体の前で手を組んで、ゆっくりと話し始めた。
「僕が調べているのは玲子に何があったのかということだけです。けれど調べていくうちに、どうもあの店では普通じゃないないことというか、偶然とは思えない出来事が起こっている気がして仕方がないんです。それを追っていくことが玲子の失踪した原因に繋がり、高坂さんの助けになるかもしれません。僕は知っていることをお話しします。ですから高坂さんもあのお店のことや東羽について知っていることを教えてほしい」
そこまで言って堂島は刺すような強い視線で日和の目を見た。宮川の失踪について須田を始めとする東羽の人間とは幾度も話しをしてきたことだろう。もしかするとその中で真偽の疑わしい情報もあったのかもしれない。東羽フードビジネスの上層部には野淵のようなプライドの高い人間がたくさんいる。東羽のブランドイメージを汚さぬよう、内部の余計な事情が一般に漏れないよう警戒している者も多くいるだろう。それは現場から本社勤務を経て日和が肌で感じていた東羽の空気のようなものだった。堂島は東羽の人間を信用していない。日和を見る堂島の瞳からは無言の圧力がひしひしと伝わっていた。試されている。日和自身がどういう人間なのか。まだ出会って三時間も経っていないのだ。信用がないのは当然のこと。ここで日和がどう出るか。互いにとっての分水嶺だ。
「以前宮篠台の前に店長だった店舗でのことです」
日和の話しに堂島が顔を上げた。
「わたしはその日早番勤務が終わって自宅にいました。お店から電話があったのは夜の八時くらいだったと思います。ある高校生のスタッフのお母さんからでした。子供が帰って来ないのだけれど、何か知らないか、と」
「宮篠台以外の店舗でも、スタッフが行方不明になる事件があったということですか?」
行方不明という内容に堂島が興味を示した。日和は「あ、いえ」と小さく片手を振って堂島を制止すると話を続けた。
「実はその子、母子家庭で、日ごろからお母さんとは上手くいってなかったんです。いつも夜遅くに帰っていたらしくて。補導歴もあったみたいです。それで、その日は前日も家に帰っていなかったみたいで、お母さんが心配してお店に電話を」
「家出、ということですか」
「はい。でもその子、仕事はとても真面目で遅刻とかキャンセルも全然しない子だったんです。だから、理由もなく人に迷惑をかけるようなことはしないと思ったので、店舗の名簿から携帯の番号を教えてもらって電話してみたんです。そしたら意外にもすぐに電話に出てくれました」
日和は半ば冷め切ったコーヒーにそっと口をつけた。自分でも何故この話しを堂島にしているのかよくわかっていなかった。それでも、自分は堂島が思っているような東羽の人間とは違うということをわかってもらいたいだけだった。
「不謹慎かもしれませんけど、正直ちょっと嬉しかったです。親からの電話には出ないのに、わたしからの電話には出てくれた。それで、お店の近くのファミレスで待ち合わせをすることにしたんです。もちろんお母さんには内緒で」
「来てくれたんですか?その子」
「はい。ちゃんと約束通りの時間に。卒業後の進路のことでお母さんと喧嘩してしまったことが家出の原因だったんです。変に気を遣う性格の子だったんで、自分の思っていることを上手く親に伝えられなかったみたいで。それで家出を」
「良い子だったんですね」
「そうなんですよね。家庭の事情だからお店には迷惑かけたくなかったようで。お母さんがお店に来ないか、いつもビクビクしながら勤務してたんです。ただ結局その日は、本人も気持ちの整理がついていなかったので、帰宅するよう説得することはできませんでしたけど。友達の家に泊めてもらうと言っていたので、まあ補導の心配はないかと思って。その日のうちにお母さんに連絡だけしなさいと伝えました」
「その子は高坂さんのこと、とても信頼していたのですね」
堂島が少しだけ笑顔を見せて言った。日和も釣られるようにくすりと口元を緩める。
「どうでしょうね。店長という立場だったから、というのもあるかもしれません」
「その子、結局どうなったんですか」
「……しばらくして、解雇することになりました」
「解雇、ということは高坂さんの方からそう告げたということですか」
日和はあのときのことことを思い出していた。今でも後悔している。
「本当は解雇する必要なんてなかった。わたしが悪いんです。あのとき在籍していたアルバイトの中ではとても頑張ってくれていた子だったんです。人が足りないときには授業が終わってすぐ、走ってお店に来てくれるような。学校とアルバイトをちゃんと両立できる子でした。そんな子が自分に悩みを打ち明けてくれたのが嬉しくて、つい店長会議の懇親会でその話をしてしまったんです。それを近くにいた上司が偶々聞いていて」
「ああ、なるほど。東羽の上層部の方なら、考えそうなことですね」
堂島にも話の結末が見えたようだった。
「そんな素行の悪いバイトは東羽の店舗に相応しくないと。だから解雇しろと。そういうことですね」
日和は堂島のその言葉に小さく頷いた。宮川のことで堂島も東羽の人間とは何度か話をしたことがあるだろう。ブランドイメージを大切にする東羽フードビジネスは事故や事件などの不祥事を過剰に恐れる傾向にある。
「わたしは大丈夫だって言ったんですけどね。でも、何かあったらお前が全部責任取るんだな、って半ば脅され気味にプレッシャーかけられて。その子には何度も謝りましたよ」
「それがきっかけで本社に移られたのですか」
「原因の一つではあります。わたしは会社の人間ですから本社の意向に従わなければならないのはわかっているんですけど。現場にはいろんな事情を抱えた人が働いているので、そちらの希望も聞いてあげなくてはいけませんし」
その板挟みに耐えられなくて本社勤務を希望した。自分は逃げ出したのだ。日和はそう思うこともあった。相談センターは異動したいと希望する人間が少ない部署だ。本部としても日和のような扱いづらい人間は現場で使いたくないという気持ちもあったかもしれない。だからこそ本社勤務の希望も案外すんなり通ったのだろう。
「高坂さん、玲子に似ているところがあるかもしれませんね」
そう言った堂島の顔は先ほどまでと比べると少し緊張が和らいだように見えた。
「宮川さんも上とよくぶつかっていた口ですか」
「いつも一人で抱え込んで、突っ走ってしまうところはありましたね」
「堂島さん。きっとこれは罰なんです」
「罰?」
「わたしが店長としての責務を果たさずに現場から逃げ出したから。だからわたしは宮篠台に呼ばれたんです」
「そんなことが、本当にあるんでしょうか」
「わかりません。でも今度は逃げられません。宮篠台店とあの店で働くスタッフたちを助けてあげられない限り、あの店はわたしを許してくれない気がします。堂島さんお願いします。わたしにも協力させてください」
「ありがとうございます。高坂さんは僕が今まで話した東羽の人とは違うようですね。いや、高坂さんの感覚が普通だとは思いますけど」
堂島はそう言うと、バッグの中から先ほどとは別の写真を一枚取り出して日和に見せた。集合写真だ。男性、女性三名ずつ。全員東羽珈琲のユニフォームを着ている。中央にに写っているのが宮川玲子だとすぐにわかった。さらに。
「これ宮篠台店の事務所ですね」
背景に写った壁や棚の配置から宮篠台店の休憩スペースの一角であると判断できた。
「玲子が行方不明になった前日に撮ったと思われる写真です。玲子のパソコンに転送されていたものを印刷しました」
「行方不明になる前日……ということは改装前の営業最終日にあたる日ですね」
「はい。玲子にとっては宮篠台店の閉店日、グランドクローズとでも言うのでしょうか。最終日に勤務していたスタッフと記念に撮影したのではないかと思います」
グランドクローズ。聞こえはいいが内容は経営不採算による閉店だ。もちろん、そのすべてが宮川の責任というわけではない。それでも閉店を任される店長の気分は重い。店舗とスタッフ、常連客を大切にする店長であれば尚更だ。本社の人間は、会社の未来のため、より利益を追求できる決断をするだけだ。店長も会社の人間である以上その道を選択しなければならない。だが、長年苦楽を共にしてきた店舗がなくなるという状況は、ある意味一家離散に近い感情を抱かざるをえない。
「それから……」
堂島が宮川の隣に写った女性を指して言った。その姿を見て日和は鼓動が若干早まるのを感じた。年齢は宮川よりいくらか下だろう。二十代前半といったところだろうか。女性の日和から見ても、かなり整った顔立ちであることは間違いなかった。化粧も全く派手さのないナチュラルメイク。色白だが決して不健康には見えない肌に力強い大きな瞳。可愛さと綺麗さを見事に調和させたモデルのような女性だ。首にピンクのスカーフを巻いている。
「花村かすみです」
顔をはっきりと見たのは初めてだが、日和の中には「知っている」という感覚が渦巻いていた。
「彼女についての話しは後程。もう一つ、高坂さんに知っておいて頂きたいことがあります」
堂島は一瞬だけ日和に視線を送ると、テーブルの中央に置かれた写真に再び視線を落として、ゆっくりと言った。
「僕が調べた限りでは、玲子と花村かすみを含むこの全員が、行方不明か死亡しています」
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