第6話 野淵司

 十四時から始まった店長会議は定刻通り十七時で終了し、日和たち店長と本部社員数名は駅近くの居酒屋で懇親会を開くこととなった。現場復帰する前は一日中デスクワークだった日和だが、三時間座りっぱなしの会議は既に苦痛にすら感じる体になっていたようだ。先月までの売上概況の報告から始まり、今後の新メニュー展開やイベントのスケジュールを知らされた。予算や前年の売上、経費に対して大きな乖離があると、立たされて理由を詰められたりする店長もおり、決して気分のいい三時間とは言い難いのが東羽珈琲の店長会議だ。宮篠台店に関しては須田が経費コントロールもそこそこ上手くやってくれていたこと、日和自身も緊急で配属された代理店長ということもあり、この日の会議で白羽の矢が立つことはなかった。現場社員の中には正直無駄な時間だと感じている者も多い。売っている商品は同じでも、立地条件や客層は店舗によって千差万別だ。他の店で成功した事例が必ずしも自分の店舗でも成功する保証はない。売上概況や今後のスケジュールにしても、書面で送ってもらえれば十分対応できる。わざわざ一同に会して聞くような内容ではないと日和は思った。何より、会議で現場を離れる間、店舗はアルバイトに任せて出てくるのだ。宮篠台店も今日は遅番の白井が二時間早く出勤して日和の抜けた穴を埋めてくれている。白井自身は「問題ないっす。稼ぎ時なんで」と笑っていたが、会社の都合でアルバイトの自由な時間を奪ってしまっていることに、日和は申し訳ない気持ちだった。こういうことに折り合いをつけるのがストレスになって本社勤務を希望したというのも一つの理由だった。

 本社最寄り駅の近くにある居酒屋の一室は東羽珈琲の社員たちで貸し切り状態だった。結局は皆、懇親会が楽しみで会議に顔を出しているのだろう。日和は普段アルコールは飲まない方だ。現場復帰してからは早朝からの勤務もあるため、当然前日の飲酒は控えている。明日は早番出勤で朝五時半には店舗に到着しなければならない。飲むつもりはなかったのだが、疲れとストレスが溜まっていたのだろうか。目の前で豪快にビールを飲み干す武田に釣られるように、日和も久しぶりのビールを一杯飲み干したところだった。

「お疲れえ。宮篠台、人いなくて大変なんだって?」

 武田は三十代後半で、社歴も店長歴も日和より長い。店長陣の中では中堅の女性店長だ。誰に対しても笑顔で社交性も高く、エネルギッシュな武田は現場で体を動かしていることが好きで、エリアマネージャー試験に合格しているにも関わらず現場を離れることを拒否しているという噂だ。この日も、久しぶりの現場復帰で知り合いの少ない日和を心配して、自ら向かいに座って話しかけてくれた。

「え……。そんな話しが広まってるんですか」

お通しのサラダを持ち上げた箸を止めて、日和は武田の顔を見上げた。

「宮篠台の人員不足は今に始まったこっちゃないでしょ。須田さんもかなり苦労してたからね。いい店長だったから、こんなことになっちゃって残念だよ」

武田はそう言って、運ばれてきた二杯目のビールに口をつけた。日和の前にも二杯目のジョッキが置かれる。武田が気を利かせて注文したようだ。「ありがとうございます」と一口だけ口をつけて、コースターの上にそっと置いた。

「なんかバイトが続かないんだって?須田さんもよく言ってたよ。あの店、呪われてるって」

「呪われてるって、どういうことですか?」

 食い気味に返した日和の言葉に、武田は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに先ほどと同じ笑顔に戻った。

「ちょっと本気にしないでよお。『呪われてる』なんて、お店でありえない事故とかクレームがあったら冗談みたいに言うようなことなんだからさ。バイトが続かないなんて他の店でもよくあることじゃん。最近の若い子なんて皆そう。根性ないっていうか、ちょっと叱ったらすぐふてくされるでしょう」

「はあ……まあ、そうですね」

 最近の若い子、という表現を日和はあまり好きではなかった。少なくとも宮篠台店においては仕事自体が嫌になって辞めていったアルバイトは少ないのではと感じている。店舗そのものに問題がある。そして、須田もそのことに気づいていたのではないだろうか。呪われている、という言葉を須田はどんな意味で使っていたのだろうか。

「あの、今回は急な人事で、事情も事情でしたから須田店長から直接引き継ぎを受けてないんです。店舗のことで須田店長、何か言ってませんでしたか」

「人の問題以外は特に聞いてないかなあ。確か改装オープンが三年くらい前でしょう?改装期間が長かったから、改装前のスタッフが全然残せなくって、全員ど新人の状態でスタートしたんだよね、確か。そりゃきついよねえ。しかも社員が店長一人でさ。須田さんも奥さんも実家は遠いんじゃなかったかな。近くに頼れる親戚もいなくてさ。お子さんだって小学校に入ったばかりでしょう。そんな状況でよくやってたと思うよ」

 そう言う武田は独身だ。飲食の現場勤務で家族やこどもの存在は、時に大きなプレッシャーとなる。基本的に店舗が忙しいのは土日と祝日だ。当然社員が休むことはできない。世間が休みで、普通なら家族と出かけたい日に家にいることができない仕事なのだ。子どもと過ごす時間も一般的なサラリーマンと比べれば少なくなるだろう。加えて、店長には現場に置いて自分の代わりという人間が存在しない。自分以外は全てアルバイトなのだ。皆、家事や学業などアルバイトよりも優先しなければいけない本分が存在する。例えば店長が風邪を引いたから一日休みたいなどと、当日の朝に言い出したところで、そう簡単に代わりの勤務を引き受けてくれる人間は現れないのだ。自分だけでなく、家族が体調を崩すような事態も回避しなければならない。妻が風邪を引いた。子どもの面倒を見なければならないから休みたい。そんなことはできない。自分が行かなければ営業が始まらない、終わらないという状況が当たり前のように存在する。少なくとも今の東羽珈琲の人員体制では、どの店舗もそうだろうと思う。本社の幹部たちはその状況をどう思っているのだろうか。個人や家族を犠牲にして会社のために尽くす人間が〈良い店長〉なのだろうか。日和の前に置かれたビールからすっかり泡が消えてなくろうとしたとき、ふいに後ろから肩を叩かれた。日和が振り返ると高価そうなスーツをぴしっと着こなした四十代半ばの男性が立っていた。

「高坂店長だよね。ちょっとだけ時間いいかな。あ、ここ騒がしいから、あっちで」

 そう言って店舗の外に日和を連れだしたのは宮篠台店を担当するエリアマネージャーの野淵司のぶちつかさだった。

 野淵に連れられて日和は居酒屋の外に出た。外と言っても、ビルの上層階に位置する店舗だっため、エレベーターホールに近い入口は人の出入りはあったが騒がしくはなかった。 

「ごめんな。代理店長で緊急人事だってのに全然様子見に行けなくて」

 野淵は入口の自動ドア横に置かれた木製のベンチに腰掛けると片手を軽く挙げてそう言った。日和も隣に座るよう促されたが「大丈夫です」と断った。野淵は飲み会の席だというのにネクタイも緩めず、ジャケットも着たままだった。サラリーマンという真面目なイメージを頑なに守っているような印象を日和は受けた。東羽珈琲の店舗は距離の近い店舗ごとにいくつかのエリアに分けられている。宮篠台店は東第三と呼ばれるエリアに属しており、野淵はその中の店舗を担当する統括のような役職だ。現場の店長時代に輝かしい実績を残し、エリアマネージャー昇格試験に合格した精鋭だけが就くことのできる、いわゆる出世コースの第一歩となる役職だ。年齢の割に若々しい肌にメタルフレームの眼鏡が光っている。キレイにまとめられた白髪のない頭髪。エリートと呼ぶに相応しいオーラを野淵は纏っていた。現役の店長たち曰く、ルックスもエリアマネージャーの重要な要素らしい。

「宮篠台に置く新しい店長は他のエリアと相談して適材適所で早めに送り込むよう動いてる。もうしばらく我慢してくれないか」

「いえ。急なことでしたから。宮篠台の早番に間に合うのはわたししかいなかったみたいですし。任されている間は店長としての責務を果たす所存です」

 我ながら立派に模範解答ができたと思った。本音を言えば、早く他の店長を回してもらって本社勤務に戻りたいところだった。

「問題は、やっぱり人員か?」

 やはり野淵も宮篠台の人的問題は把握しているようだった。日和は無言で小さく頷いた。

「あの。三年前に改装工事をしたそうですが、改装期間が一年近くかかったと聞きました。それで以前働いていてスタッフが皆戻らなかったとか。かなり長い間、お店を閉めていたと思うのですが何か問題があったのですか」

「ああ、そのことか」

 野淵は下唇を少し噛んで、眉間に皺を寄せた。少し考えてから野淵は再び口を開いた。

「本当はあの店さ、閉めるつもりだったんだよ」

「え?閉店……ですか」

「そう。三年前にリニューアルオープンして、その前に一年閉めてたから、四年以上前になるか。売上がだいぶ低迷してきて採算が合わなくなってね。ちょうど、都内の店舗が好調で、そっちに新しい店を増やそうっていう時期だったから不採算店舗を何店か閉める計画があったんだよ」

「その計画の中に、宮篠台も入っていた……」

「そう。当時のスタッフたちも、そのつもりだっただろうから各々新しいアルバイトを見つけていた。それが結局、改装して再オープンに路線変更だ」

「何故、再オープンすることになったんでしょうか」

「恐らくだが、建物の買い手が見つからなかったんだろう」

「買い手……ですか」

「宮篠台は東羽の中では古い店でね。建物も東羽が購入して所有してる物件なんだ、あそこは。最近の店舗は賃貸契約が基本だろ。採算が合わなかったらすぐに撤退できるから。けど昔は考えが違ってな。百年店舗とかいう構想があって、一度立てた店は末代まで守り抜くって心構えさ。だから格安で店舗にリノベーションできる物件を探していた時代があった」

 時代があった、と野淵は言い切ったが、それも野淵が入社した頃かそれ以前の話しだろう。宮篠台店にそんな古い歴史があったとは初耳だった。

「君も噂程度には聞いているんじゃないのか?過去にあの場所が何だったのか」

 日和は白井が見せたサイトのことを思い出していた。ただのオカルトだと思っていた節もあったが、野淵の口ぶりからするとどうやら本当に病院だったようだ。

「病院だった……という話しですか」

 日和がゆっくりとそう言うと、野淵は小さく頷いた。

「正確には病院から直接店舗に変わったわけじゃあない。病院が廃業して、しばらく空き物件だった期間がある。駅近くで三階建て、加えて広い敷地だ。住居として購入する人間はいなかったんだろう。価格がかなり下がってたところに当時の店舗開発が目をつけて購入したってわけだ」

 野淵はそう言って腕を組んだ。建物の買い手が見つからなければ、物件は東羽が所有する空き家ということになる。所有している以上、売上がゼロでも払わなければならない費用は発生する。それが長期間続く見込みだったのだろう。改装して黒字転換を狙ったというわけだ。

廃業した病院の跡地に建てられたという事実は確認できたが、それが今起こっている現象にどう関連づくのか、日和はまだ納得のいく理屈を立てられないでいた。何より、花村かすみの霊との関連性が説明できない。

「とは言っても、あそこが病院だったことを知っているのは宮篠台に昔から住んでる人だけだ。新しい住宅もどんどんできているし、外から移り住んでくる人間も増えていくと予想してたから、イメージの問題はすぐに払拭できると思ってたんだろうな」

「精神疾患の患者の入院施設だったと聞きましたが。自殺者もいたとか」

 日和が真面目にそう言うと、野淵は一瞬だけ日和に視線を送り、口元を緩めた。小さくだが、鼻で笑ったような気がした。

「ネットの噂ってのは怖いよな。廃病院の跡地に造られたカフェ。それだけが独り歩きして、尾ひれが勝手についてくる」

「実際は違うということですか」

「あそこにあったのはごく普通の病院だよ。自殺者が出たなんて話しは聞いたことがない。短期の入院施設はあったらしいから、もしかしたら亡くなった人はいたかもしれないけどな」

「そうだったんですか……」

 ネットの噂を真に受けていたつもりはなかったが、野淵が嘘を言っているようにも思えなかった。そこまで話して野淵は立ち上がると、スマートな動作でジャケットの襟と裾を素早く整えて日和に向き直った。

「まさか廃病院の呪いで客が来ないとか、バイトが辞めていくとか、本気で思ってないだろうな」

 日和は一瞬どきりとした。野淵は中川と違って、形のない人の心を扱う部署の人間ではない。日々、数字という現実と戦っているビジネスマンなのだ。売上が悪いのは幽霊のせいなどと、冗談でも通じる相手ではなさそうだ。

「いえ、まさか……そんな」

「ならけっこう。それを確認したかっただけだ。希望に沿わない配置転換かもしれないが、君も東羽の社員であることに変わりはない。今は店長として、店舗と東羽のブランドを守ることに尽力してくれ。次の店長が困らないように、変な噂が広まらないようにした方がいい」

 野淵はそう言うと店内に戻る自動ドアに足を向けた。

「あの、一つだけお聞きしたいことが」

「何だ」

「花村さん、というステラの子をご存じですか」

 日和の問いに野淵は考えるようにに視線を逸らすと「ああ」と思い出したように呟いた。

「改装した後しばらくして退職した子だろう。須田とは店舗のことで衝突することもあったらしいけどな。生意気なところもあるけど頑張ってくれてるって、須田も言ってた。それがどうかしたか」

「いえ、どんな子だったのかちょっと気になっていたので」

「高坂、いなくなった人間のことなんて気にしても仕方ないだろう。人が少なかろうが、スタッフのレベルが低かろうが、店舗は営業しなければならないんだ。今いる人材を使えるように育成するのが君の仕事だろう。過去を参考にするなら数値のあるデータだけにしろ。今の店をどうしたいのか、先のことだけ考えるようにしたほうがいい」

 野淵はそう言うと懇親会の会場へと戻っていった。日和が小さく「すみません」という言葉は、自動ドアが開くと同時に店内からあふれ出た喧騒の中に溶けて消えていった。結局野淵は何を伝えたかったのだろうか。単に挨拶だけのために日和を外に連れ出したのだろうか。真意が掴めないでいた日和だったが、その後懇親会が終わるまで野淵と再び話しをする機会が訪れることはなかった。

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