第5話 ステラの名

 東羽珈琲の本社に顔を出すのは一か月以上ぶりだった。現場勤務の店長が本社に来る機会は少ない。月に一度の店長会議か、年に一度程度開催される研修会くらいのものだ。二か月ほど前まで毎日出入りしていた本社のロビーも、今の日和には無駄に広く、静かに感じられた。会議が始まる一時間ほど前に本社へと到着した日和はお客様相談センターへと顔を出した。中川がすぐに気づいて、最早懐かしいとすら感じる笑顔で「よ」と片手を上げて出迎えた。

「こっちこっち」

 中川はデスクから立ち上がると、相談センターの片隅にある談話室を指さして、日和をそちらへ促した。喫煙所を兼ねた、ハイテーブルが置かれただけの立ち話ししかできない談話室だ。日和は中川の後に続いて談話室に入ると、扉を閉めて頭を下げた。

「ご無沙汰しております」

「お疲れ高坂ちゃん。どうなの。久しぶりの現場は」

 中川は缶コーヒーを日和にそっと差し出しながら言った。日和は「すみません」と缶コーヒーを両手で受け取るとハイテーブルにそっと置いた。中川は胸ポケットから煙草を取り出して火を付けていた。

「こりゃ相当大変と見た」

「お察しの通りです。人員充足率九十パーセントは嘘じゃなかったですけどね。人の入れ替わりが激しくて頭数が多くなってるだけですよ」

「なるほど。そういうカラクリね。で、人が居着かない理由は何かわかったの?」

「なんでしょうね。お店は休憩室も含めてキレイにされてますし、スタッフ同士の仲が悪いってこともないです。須田店長はけっこう厳しく指導していたようですけど、わたしが着任してからも数人辞めていきました」

「そりゃあもう呪われてるとしか言いようがないね」

 ――呪われている――中川はなんとなくの比喩で使ったつもりだったのだろうが、日和の体はその言葉に対し敏感に反応した。

「呪われてるってどういうことですか?中川室長、あのお店のこと何か知ってるんですか?」

「え?ちょ、ちょっと高坂ちゃん?」

 食って掛かるような日和の態度に中川はたじろいだ。煙草を持ったままホールドアップの体制で日和から一歩後ずさるように距離を取った。

「どうしたの?お店で何かあったの?」

 日和は迷った。自分があの店で見たものを、ありのまま中川に話すべきか。馬鹿にされる覚悟で相談してみるべきか。中川に相談をしたければ、後日電話かメールでもやり取りはできる。しかし、わざわざ改まって電話やメールでするような話しではない気もする。今なら雑談の流れで話せるかもしれない。こうして顔を合わせて話せる機会が次に訪れるのは来月の店長会議までない。いや。このまま宮篠台店の問題が解決せず、人員不足が加速すれば、来月は会議に出席できるかどうかも危うい。どんな客からのクレームにも親身になって対応する中川だ。彼ならば日和の話しも笑わずに耳を傾けてくれるかもしれない。日和は意を決して「実は……」と宮篠台店に着任してからの出来事を簡潔に語った。

 日和の話しを聞き終えた中川は「ふうん」と腕を組んだまま煙草を一口吸い込んだ。鼻から白い煙を一筋吐き出すと「ちょっと待ってね」と言って灰皿で煙草をもみ消して談話室を出た。日和は談話室の中から中川の動きを追った。このときになって日和は、自分の使っていたデスクに若い女性が座っていることに気づいた。日和の後任だろう。クレームの電話を受けているのだろうか。受話器を片手に申し訳なさそうな表情で、電話の向こうの相手に見えるはずもないお辞儀をぺこぺこと繰り返していた。少し前の自分と姿が重なる。それと同時に、自分の居場所を彼女に奪われてしまったような寂しさに包まれた。中川が書類の束を手に談話室に戻ってきた。

「お待たせ。実はね、少しでも高坂ちゃんの力になれればと思ってさ、宮篠台店に入ってた過去のクレームを見直してたんだよね」

 日和は中川が差し出した書類の束を受け取ってぱらぱらと捲った。相談センターに寄せられたクレームの内、宮篠台店に関するものだけが抜粋されて新しいものから順に記載されていた。中川は新しい煙草に火を付けながら話をつづけた。

「クレームの内容とか傾向を見るとさ、その店の問題点が如実に現れてたりするじゃない。対応が終わったものは保管期限が三年だから、須田店長時代のものしか残ってないんだけどさ。ただ、やっぱり須田店長は優秀だったみたいだね。三年でクレーム件数十件以下。しかも、どれ見てもそこまで大した内容じゃないね」

 中川の言う通り、須田が店長を任せれていた間に寄せられたクレームはどれもちょっとした意見のような内容ばかりであった。苦情というよりは、むしろ店舗に対して好意的とも言えるような建設的な意見や要望ばかりであった。しかし、実際に宮篠台店の空気を体感した日和にとっては、なんとなく無視できない内容も含まれていた。〈階段の照明が時折ちかちかと点滅するのが気になる。一度電気屋に見てもらっては?〉〈トイレの天井裏から水が垂れるような音がして落ち着かない。水道管から水漏れしているかもしれない。自分は配管業だから見てやろうか〉〈二階の喫煙席、いつも寒く感じるが店が古いせいでしょうか〉と、利用客も宮篠台店の雰囲気に少なからず違和感を感じていたことが垣間見えた。

「ありがとうございます室長。わたし相談センターにいたのに、クレームから問題点を見つけるなんて、考えもつきませんでした。恥ずかしいです」

日和がそう言うと。中川は少し照れた表情で「いやいや」と笑った。

「結局大したことは分からなかったんだけどね。あとね、こっちも」

 中川は手にしていたもう一つの書類を日和に手渡した。

「こっちはお褒めの言葉ね」

 受け取った書類はクレームとは逆で客から寄せられた感謝の言葉や、店舗に対するお褒めのメールをまとめたものだった。店舗にとってお褒めの言葉は勲章だ。苦情のメールは些細なことでも簡単に送られてくるが、店舗を賞賛するメールというのはそうそう簡単に頂けるものではない。わざわざ時間を使って本社にまで知らせてくるのだから、余程期待を超える感動がなければそこまでのことはしないだろう。日和は受け取った書類に目を通した。最初の日付がかなり古い。二年以上も前の日付だった。これが最も新しいものだとしたら、ここ二年間、宮篠台店にはお客様からお褒めのメールが届いていないことになる。そもそも年に一回頂くだけでも嬉しさで舞い上がるくらいのことだから、珍しいことではないのだが。過去に遡るように読み進めていく日和は、その中で毎回のように登場する名前が気になった。

花村はなむらかすみ……」

 宮篠台店に寄せられた店舗を賞賛する言葉の数々。そのほとんどに花村かすみという名前が含まれていた。〈花村さんの一生懸命な仕事ぶりにはいつも感心しています〉〈朝一番で花村さんの笑顔を見ると、今日も一日頑張ろうという気持ちになります〉〈先日、外を歩いていたら花村さんに声をかけられてびっくり。またお店に顔を出さなくては、という気持ちになりました〉どれも読んでいるだけで顔がほころぶような微笑ましい内容ばかりだ。花村かすみ。今はいないスタッフだが、この文を読むだけでも彼女がお店にどれだけ貢献してきたのかが存分に伝わってくる。もしや、と日和の脳裏にピンクのスカーフを巻いたステラの姿が浮かんで消えた。だとすれば、彼女はもう。

「室長。この花村さんというスタッフはご存じなんですか」

「直接会ったことはないけど、須田店長から聞いたことはあるよ。すごいステラの子がいるって」

 やはり、と日和は確信した。

「この子、いつまで宮篠台店にいたんでしょうか」

「多分、二年くらい前までじゃないかな。詳しくはわからないけど、急にお褒めの言葉が届かなくなったからね。なんとなく、ああ辞めちゃったのかなって。思ってはいたんだよ」

「あの……わたしが見たステラの……その……」

「幽霊?」

 未だにお互いが半信半疑だ。生まれて二十八年も経って、いきなり幽霊の存在を信じろと言われても、腑に落ちるまでどれほど時間が必要だろうか。だが日和も中川も相談センターで数々のクレームと戦ってきた経験がある。クレームの中には詐欺まがいの内容や勘違いによるクレーム、言いがかりやいたずらもある。とはいえ、どんなに疑わしい内容でも最初から詐欺や勘違いと決めつけてかかることはない。天文学的な確率で、客側の主張が真実だった場合、クレーム対応に対するクレームが発生して事態が複雑化することがある。どんな事象でも、自身の目で事実確認をするまでは、全て本当に起こったこととして対処する。それが日和や中川たち相談センター社員の根底にある心構えだ。中川は短くなって終わりに近づいたタバコを深く吸い込んで、灰皿に吸殻を投げ入れた。

「宮篠台店のステラは後にも先にも花村さんだけのはずだよ。にわかには信じられないけど、もし高坂ちゃんが見たのが花村さんだとすると、彼女、もうこの世にはいないことになるね」

「はい。実は今のスタッフたちにそれとなくステラの話しを振ってみたことはあるんです。でも皆花村さんの名前を出さなかった。何か言えない事情があるのかもしれません」

「そうだねえ。相談センターにはアルバイトの採用とか退職に関する情報は入ってこないからね。二年前のことだから覚えている人がいるかどうかわからないけど、僕もそれとなく調べてみるよ」

「ありがとうございます」

 時計を見ると会議開始の十五分前だった。日和は中川から受け取った書類をバッグにしまい込んで相談センターを後にした。エレベータに乗り込んで会議室のある階のボタンを押すと、日和は壁にもたれかかった。今日の会議の内容など既に頭の片隅に追いやられていた。須田健一。花村かすみ。この三年の間に宮篠台店の人間が二人死んだ。アルバイトと社員という立場の違いはあれ、二人とも店舗のために身を粉にして尽くしてきたという点は共通している。病院の跡地に建てられた店舗。未だその存在を店舗に残し続けている少女、花村かすみ。長続きしないアルバイトたち。店長須田の死。今のところキーワードはこれだけだ。それぞれのつながりが掴めそうで掴めない。このまま宮篠台店の店長を続けたとき、自分自身に何が起こるのだろう。エレベータが停止して扉が開いても、日和はしばらくそれに気付かず、小さな箱の中で足元を見つめていた。

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