第4話 主婦層

 日和が店長となって一か月が経とうとする頃、また一人アルバイトが退職した。採用して三か月になる大学生の女の子だ。退職理由に〈一身上の都合により〉と記入された書類を片手に日和はこつこつとデスクの端を指で叩いていた。本人からは「三年生になってゼミが忙しくなるから」という簡単な理由だけ聞いていた。平均して週に三日ほど、コンスタントに勤務してくれていたスタッフだっただけに今後のシフト組みが厳しくなることは目に見えていた。

「週に一回とか、週末だけの勤務だけでも、来てくれたら助かるんだけど」

 そう交渉する日和に対して、彼女は困った顔で「ちょっと、無理ですね」と言いのけて「すみません。お世話になりました」と店を後にした。いよいよ人数が絶対的に不足してきた。日和自身の残業も増え、店舗に拘束される時間が増えていくだろうことは容易に想像できた。短時間でも休日出勤が発生しそうだ。一時的な店長代理とはいえ、このままの状態で次の店長に店舗を引き継ぐのは気が引けた。アルバイトが足りない時間は、結局日和自身が体を張って穴埋めするしかない。着任してまだ一か月。自分に原因があって人手不足に陥っているわけではない。それでも店舗を維持するのは日和の仕事だ。何かが、何者かがシャツの袖を掴んでこの場所に縛り付けていくような感覚を日和は感じ始めていた。須田の死が脳裏をよぎった。もしかしたら自分自身も、という不安が日和の中に生じ始めていた。事務所の棚から過去のシフト表が保管されたファイルを取り出した。先日も確認していた須田が勤務した最後の日のシフト表だ。この日須田の勤務は閉店業務を担当する遅番勤務だったようだ。午後の一時前に出勤して夜十時までの勤務。だが、一緒に勤務するはずだったのだろうアルバイトの名前と、勤務時間を現すシフトラインがペンで書き殴ったようにぐちゃぐちゃに消されていた。急遽キャンセルが発生したのだろう。これではまともに休憩をとることもできなかったはずだ。目を凝らして消えているアルバイトの名前を確認する。今はいない名前のようだ。怒りのこもったラインの消し方から察するに無断キャンセルなのではないだろうか。そして唯一勤務したアルバイトは先ほど退職書類を提出した女子大生だった。この日、須田の身に起こったことを知る人間は、もうこの店にはいないことになる。そして、この勤務の後、須田は死んだ。社員一人が命を落とし、それを聞ける人間は店から消えて行く。原因を究明できない状況のまま新しい社員が着任し、また同じことが繰り返されていく。その原因がこの店舗の過去にあるとしたら。自分自身の身にも、いずれ何か良くないことが降りかかるだろう。今は少しでも多くの情報を集め、できることを一つずつ潰していくしかない。自分のためにも。この店で働くアルバイトたちのためにも。

 散らかした書類を棚に戻して時計を見ると午前九時半を少し過ぎたところだった。休憩室では十時からシフトインする主婦たちの楽しそうな話し声が響いていた。日和が事務所から出ると、吉富が驚いてこちらを見た。

「わ。店長いたんですか。すみません。お騒がせしちゃって」

 吉富は西浜の次に勤続年数の長い主婦で、年齢も西浜と同年代だ。大人しい性格の西浜と違い、厳しい言葉で学生アルバイトたちを指導する場面がよく見受けられた。子どもが三人もいるそうで、賑やかな家庭なのだろうと想像できた。向かい側に座っていた下村も、読んでいた業務日誌から顔を上げて「おはようございます」と頭を下げた。西浜、吉富、下村。三人とも須田に採用された主婦だ。年齢は下村が四十代前半で、三人の中では一番若い。

「いえいえ。主婦さんたちは平日の昼を守る要ですから。仲が良いのは大切なことですよ」

 日和はそう言いながら空いたイスに腰を下ろした。平日の昼間はほぼ主婦の時間と言ってもいい。平日五日間のうち四日は店に顔を出しているから、店に来る客のことやアルバイトたちの人間関係もよく把握している。世間話が好きなのはこの年代の特徴だ。店舗の重要な情報源でもある。加えて社員よりも年長者が多い故に、主婦の言葉には説得力があり、場合によっては店長よりも主婦の方が影響力を発揮する場面もある。新しい店舗では先ず主婦の心を掴め、とはよく言われていることだ。当然、地元の移り変わりにも詳しいはずだ。

「お二人とも、ご自宅は近いんですか」

 長年宮篠台に住んでいる主婦たちならば、この店が以前病院であったことも当然知っているだろうと日和は踏んでいた。吉富が最初に口を開いた。

「わたしは二つ隣の北宮篠。あそこって住宅街で駅前に働けるような場所が全然なくて。ちょうどこのお店がリニューアルオープンするって、地元の求人誌に載ってたから面接受けたの。ここだったら帰り道に夕飯の買物して行くのも便利だしね」

「じゃあそれ以前のことはご存じないのですね」

「そうそう。駅前に買物しに来るくらいはあったけど。この辺まで来ることは全然なくて。この近所のことは下村さんの方が詳しいんじゃない?」

 吉富が下村に話しを振ったが、下村も片手を振って「いやいや」と否定した。

「わたしも宮篠台に来たのは三年くらい前ですから。念願のマイホームを購入して引っ越して来たんです。確かにその時はこのお店、リニューアルだとかで工事してましたね。だから最初は駅前のスーパーでパートやってて。でも思うようにシフトに入れてもらえなくて、こっちに鞍替えしたって感じです。すぐに採用してもらえたのですごく助かりました」

「そうなんですか。ということはお二人とも、リニューアルする前のお店は知らないんですね」

「そうなんですよ。でも正直、改装したにしては古いままの場所もありますよね。そういうデザインなのかなって最初は思いましたけど、そうでもないみたい。どこが変わったのか、よくわからないですよね」

 冗談ぽく話す下村に対して吉富も「そうそう」と笑った。

「改装工事って、どのくらいの間やっていたのですか」

「西浜さんの話しだと一年近く閉店してたって聞きましたけど」

「一年も?ずいぶん長かったんですね」

 店舗の改装工事にはいろいろな理由がある。最近では完全分煙化工事が主流だが、売上の良い店は次々と最新の設備を投入し、さらに収益を上げられる店にグレードアップするというのが東羽珈琲の流れだ。とはいえ、工事で閉店している間は当然売上がゼロになるわけだから、工事期間は短い方が良い。二人の話しから、そこまで大きく内装が変わったわけではなさそうだ。だとすると一年間も店を閉めているのは異常だ。

「そうそう。一年も改装やってたんじゃ、元々働いてた人たちも大変だったでしょうね。一年待って戻ってくるか、他の仕事見つけるか。悩んじゃいますよね」

 吉富がそう言って席を立った。あと十分で十時だ。そろそろ勤務開始の時間だ。下村も続いて立ち上がった。

「店長、今日はずっといらっしゃるんですか」

「すみません。今日は午後から店長会議があって。不在になりますけどよろしくお願いします」

「あら残念。せっかくだからもう少しお話ししたかったのに。でもまあ、ずっとお店に閉じ込められていたらストレス溜まっちゃいますもんね。仕事とはいえ、外に出ることも大事だと思います。お気をつけて」

 下村の言葉に日和は救われる思いだった。ただ、今の人員ではいずれ会議にも落ち着いて出席できなくなる日が来るだろう。基本的に社員はアルバイトの都合を優先して自分の出勤スケジュールを決めている。しかし会議は会社が指定してくる日付に本社に行かねばならない。その日に都合よくアルバイトが集められるかどうかは、もはやギャンブルに近い感覚だ。会議という単語に反応して吉富が「あ」と口を開いた。

「じゃあ今日は野淵のぶちさんにお会いしますか」

「野淵?ああ。エリアマネージャーですね」

 野淵は宮篠台店のあるエリアを統括するエリアマネージャーと呼ばれる役職の人間だ。基本的には毎日現場を見て回っているような仕事のため、ここ二年本社勤務をしていた日和とはほとんど接点がなかった。男性であること以外、顔も年齢も記憶にはない。

「そうそう。もうずっとお店に来られてないような気がして。店長が来てからは一度も来てないですよね」

「そういえば、そうですね」

 エリアマネージャーの存在などすっかり忘れていたが、言われてみれば妙だ。新しく店長が変わったというのに、一度も店を見に来ないというのはおかしな話しだ。

「わたし、野淵さんけっこう好みなのよねえ。仕事できる男って感じで。お会いしたらよろしく伝えてくださいね。吉富が待ってます、って」

「はは。わかりました。伝えておきます」

 そう言って吉富は仕事に入った。その後ろを下村が「そんなこと言ってると旦那さん泣いちゃいますよ」と笑いながらついて行き、がちゃりと扉が閉まった。一人残された日和はそそくさと会議に向かう支度を始めた。少し早めに出て相談センターにも顔を出そうと思った。社歴の長い中川なら、この店の過去も知っているはずだ。会議には野淵も来るだろうから何か話しが聞けるかもしれない。電車の時刻表を確認して、日和は宮篠台店を出た。

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