第41話 さよならも言えずに
1
終わりにしようと思った。
具体的になにを、と問われれば九鬼瑞葉は答えることはできない。だが、終わりにしたかった。なにかを。あるいは、なにもかもを。
青川市に出向して四月で一年になる。当初の意向が変わっていないのなら、それを機に瑞葉は中央へと戻る。
陰陽寮から瑞葉に与えられた火清会の調査と「輪廻の狼」の痕跡探しという任務は遅々として進んでいない。もともと瑞葉を飛ばすことが目的の人事であり、ガードの堅い火清会を相手に瑞葉が立ち回れるとは期待されていない。いないが、瑞葉に与えられた最大の仕事。火清会会長高山孝明の「仕分け」。権力そのものとすら言っていい男を、必要とあれば殺せと命じられている。つまりは鉄砲玉として瑞葉を使うつもりであると、上は言ってきている。
瑞葉は鉄砲玉にされるだけのことをしてきた。今になって悔恨するが、後悔はしていない。そうしなければ瑞葉は立ちゆかなかった。自己の存立を保つための行いが、命を使い捨てる役回りを押しつけられるかたちで巡ってきたのなら当然の応報だ。
瑞葉はもう、自分を人間ではないと問いかけることはしないだろう。疑問はある。確信すらある。それでも他者に己の呪いを振り撒く真似はしない。
自分は人間ではない。それこそが今日まで瑞葉を生きながらえさせたアイデンティティーであり、瑞葉という存在の証明方法だった。
だから瑞葉は問いかけた。他人――見鬼たちに。彼ら彼女らもまた、人間ではないという自覚を持っているのではないかと。そのすべてが一笑に付されてきたが、最後の最後で瑞葉は出会ってしまった。自分の言葉に揺らいだ見鬼――川島麻子と。
川島麻子を通じて、瑞葉は初めて自分自身を見た。麻子から見える自分はどんな姿をしていたのか。そう考え続けるうちに、瑞葉は自分の輪郭をつかみ取り始めた。
やがて、瑞葉は己に呆れ果てた。同時に、麻子にも呆れ果てた。
麻子は愚かだった。笑ってしまうくらいに無知で、平穏で、幸せなひとだった。
彼女の目に映る瑞葉は、きっと恐ろしい役人か、そうでなければ――同じ世界を視ることのできる、友人。
そうか。友人か。瑞葉はひとり苦笑する。そんなものは瑞葉が生きてきた中で存在してこなかった。だからかえって、憧れも欲しもしなかった。
だけど、麻子には憧れた。麻子を欲した。
友人などではなく。
ただひとりの、かけがえのない存在として。
マンションの一室にひとりきり。誰にも見られることのない状況でも、瑞葉はもう、以前のように赤面したりわけのわからない熱に襲われることもなくなっていた。
もう、答えは出ていたから。
だから、終わりにしようと思った。
2
青川市街地の雑居ビルの一室。新年最初の仕事は事務所の引っ越しだった。
川島長七がライターとして弟子入りしている安中栄一郎は火清会の本拠地である青川市のまっただ中に事務所を構えるという気の狂った方針をとっている。
安中いわく、そのほうが被害が出やすいから――ということらしい。火清会からの攻撃はそのまま記事にしやすい。実際にこれまでも事務所で何度かボヤ騒ぎがあり、転居したタイミングで前の事務所が放火されたことすらあった。被害が出れば記事にできる。自らを撒き餌にして仕事を獲得しているのが安中という男だった。
だからといってずっと同じ場所にとどまるのは賢くないし命の危険が高まっていく。そのため安中は頻繁に事務所を移動していた。ダミーの事務所もいくつか存在し、今回はそのうちの一つに転居することとなった。
まず始めに行うのは徹底的な清掃である。留守の間になにが仕掛けられているかわかったものではない。ビルの管理会社をもねじ伏せる権力を持った組織を相手に喧嘩をしているのであるから、忍び込むどころか大手を振って事務所を荒らされる覚悟はしておかなければならない。
「師匠、こんなところにポリタンク」
長七は戸棚の下の収納スペースから液体のたっぷり入ったポリタンクを引っ張り出す。
「灯油だったら暖房に使わせてもらえるけど、ガソリンだったら危ないな」
笑いながらポリタンクを運び出す安中だが、当人にこの事務所にポリタンクを置いた記憶はない。景気よく燃やすための燃料がいつの間にか搬入されていたらしい。
事務所の中を
「川島くん、例の宮内庁の官僚はどうなってる?」
「音沙汰なしですが便りがないのはよい便りですね。おっと」
長七のスマートフォンが鳴動する。
「よくない便りです」
九鬼瑞葉からの電話だった。
彼女のほうから電話をかけてくるとは珍しい。というより連絡先を交換してからこっち、互いにほとんど連絡を取ることはなかった。
長七は電話に出て、相手の話を一方的に聞かされた。
「よくない便りですね」
「相手はなんて?」
「はあ。火清会にカチコミかけるから協力しろ――と」
なにを生き急いでいる。半分死んだ身として生きている長七には理解しがたい行動だった。
長七は本能的に破滅を求める。だがそれはより多くの人間を巻き添えにする価値があると踏んだ時をしっかりと狙っている。
瑞葉の話は単に、彼女自身が、ひとりで勝手に決着をつけたがっているだけだ。
抜け駆けはなしで――瑞葉と長七、そして風雲寺の住職で結んだ約定を、瑞葉は破りにかかっている。あの日からすでにかなりの日数は経っており、その間目立った動きのなかった瑞葉のほうがおかしかったとも言える。
「まあそうなれば青川市遊撃隊は協力を惜しみませんが、まずは要相談ですね」
長七は青川駅から急行に乗って泗泉駅に降り立つ。駅から見えるマンションに瑞葉は住んでいるらしいが、今回の目的はそちらではない。
「できれば君とはもう会いたくなかったなあ」
睨むだけで鬼を調伏できそうな凶相をした風雲寺の住職――風間成明は存外柔らかい口調で苦言を呈した。
「まあ来るだろうとは思っていたがね」
本堂に座って風間の淹れた茶を飲む。真冬の最中だが、暖房が効いているおかげで思いのほか落ち着いていられる。
「住職さんにも電話がきましたか。抜け駆けはなしよのルールを守ったつもりなんでしょうかね。でもそれじゃあ言ったもん勝ち早いもん勝ちになってしまいますね。相互監視こそがユートピアに対抗する武器だというのに、俺たち全員やる気がなかったですからねえ。付け入る隙はありまくりというわけです」
「君の話の八割は無視してよかったね? 僕としては彼女を止めたいのだが、君はどう思う」
「生き急ぐよりは死に急いだほうが幾分健康ですよ。生きるも死ぬもゴールは同じ死ですから、心持ちが変わった程度で結果は変わりません。死ぬなら死ぬで悲惨で面白ければ見応えもありますが、先走って台本もなしにはい死にましたでは興ざめです。まあそもそも死というのはほとんどがつまらないものですから、そんなもののために命を張るのは間抜けのすることですよ」
「ええと――つまり、彼女を止めたい、ということでいいね」
湯呑みを呷っておかわりを要求する。風間はうなずいて、急須から茶を注ぐ。
「まず言っておくが、僕はこの寺から出るつもりはない」
「それが賢明でしょうね。火の用心に越したことはないですから。火のないところに煙は立ちませんが、人のいないところに火はつけやすいのは簡単な道理です」
「まあ、防犯の意味もあるが、白状すると僕が個人的に矢面に立ちたくないという部分が大きい。君はもう勘づいているようだけど、僕は表には出ずにこの寺を守ってきた」
「専守防衛と言いながら軍隊は持っているわけですね。破壊工作やらテロをバレずにずっとやっていたわけですから、生やさしい話ではないようですが」
「想像にお任せするが、とにかく僕は市街地にまで出張ることはできない。もちろん彼女と顔を合わせることがあれば説得を試みるし止めるために全力を尽くすが、この寺から出ない上で、だ」
「つまり住職さんはカチコミに不参加、と。まあそれだけで彼女を止める一助にはなるでしょうね。逆に暴走が加速する恐れも増しますが。いつだってアクセルとブレーキを踏み間違えるせいで車は突っ込んでくるものです」
長七は風雲寺を出ると、従妹の麻子の家のほうへと歩き出す。麻子に協力を仰ぐ気はまったくないし、瑞葉がなにをしようとしているのかを伝える必要も皆目ない。ただこの風雲寺から麻子の家までのルートを歩いていれば、なんとなく出くわしそうな気がしていた。
「おっと。本当に出た」
角を曲がれば麻子の家という路地で、九鬼瑞葉は静かに佇んでいた。
「協力していただけますね」
瑞葉の鉄のような顔つきから発せられる強い意志のこもった言葉。有無を言わせぬ圧力は凄まじいが、生憎長七はそうしたものからのらりくらりと抜け出す生き方を貫いている。
「明けましておめでとうございます。一年の計は正月にありとは言いますが、なにも破滅を率先して選ぶ必要はないんじゃないでしょうか。そもそも俺が協力できることなんてなにもないんですけどね。車を運転できるくらいですよ」
「ではそれで構いません」
「はあ。車に乗って本部に突っ込む係ですか。ご存知かもしれませんが車って値が張るんです。あと最近の車には衝突防止機能という厄介なものがありまして、突っ込もうとしてもブレーキが勝手にかかるんですよね」
「そこまでやれとは言いません。私を装備と一緒に目的地に運んでいただければ」
「なるほど。人目につかないほうが都合のいいものやら所持していたらしょっぴかれるものを車に積み込んで一人突撃するわけですね。ではお聞きしますが、その装備とやらでなにをするつもりなんです?」
「目的の遂行。および邪魔をする者を、排除します」
「じゃあ駄目です。協力できません」
瑞葉は、少し呆気に取られたように表情を強張らせた。
「人を傷つけたりするような真似に協力はできないという簡単な話です」
「なぜです。あなたは火清会と敵対しているはず」
「隠すことでもないのでお答えしますが、そうですよ。実際今朝もまあまあ命の危機を味わったところです。ですが勘違いしないでいただきたいのは、俺が敵対しているのはあくまで火清会であって、個人個人の信者ではないんです。どこそこの誰々に恨みを持って火清会と敵対してるわけではなくて、火清会という組織と構造がクソですねぇと思ってるから嫌ってるだけなんです。そこに属する一人一人の人間には、別に興味も敵意もないんですよ。だから、人を傷つける行為はたとえその相手がどんな属性を持っていようと、お断りさせていただいてるわけです」
「なんとくだらない――」
見下げ果てたとばかりに長七を睨む瑞葉。瑞葉の前で長七は得体の知れない異常者として振る舞ってきた。そんな長七の口から真っ当な倫理観の話が出てきたことは、著しい失望を与えるに十分だったはずだ。
それが瑞葉を止める一助になればいいのだが。
「あなたがそんなにつまらない人だとは思いませんでした」
「いやいや。俺は常につまらない人ですよ。おもんないおもんない言われてすくすく育ったタイプですからね」
ところで――長七は最悪殺されることを想定しつつ、踏み込む。
「なんでまたこんなところで出くわしたんでしょう。俺は帰る前に叔父の家に挨拶だけでもしていこうと思ってあちらのお寺から歩いてきたんですが、あなたのお住まいは駅前のマンションだったはず。出くわすなら駅の近くのほうがなにかと自然だと思うんですが」
「あなたが来るであろうと思っていたからです」
「つまり、俺があなたからの電話を受けて青川市街地からこっちに電車でやってきて、お寺で住職さんと密会し、そののち叔父の家に向かうと、電話一本のやりとりだけで想定してピタリと当たったわけですか。宮内庁の官僚さんは未来予知まで使いこなすんですね。ならもうこの先のことも当たるも八卦というわけですね」
「なにが、言いたいんです」
「言いたいことなんて俺にはいつなんどきも存在しませんよ。言いたいのではなくあなたの暴走を止めたいと考えているだけです。そのためなら、麻子ちゃんでも利用しようかと」
殺気。全身が粟立つのを口元を歪めて抑えつける。相手からは不適な笑みを浮かべているように映る。
「麻子ちゃんにあなたが馬鹿げたことをしでかすかもしれないと伝えたら、たぶん全力で止めますよね。俺なんかがべらべら喋るよりも、そっちのほうが何百倍も有効でしょう。ただし」
殺気は消えていない。背中に氷柱を突っ込まれたように全身が寒気に震え続けている。そのぞくぞくとする感触を、にやりとした笑顔へと昇華させる。
「俺はあなたと麻子ちゃんの関係に立ち入る気も拗らせる気もないんです。だから、あなたが自分で、自分がなにをしたいのかを麻子ちゃんに伝えてください。そのために、こんなところにずっと突っ立ってたんでしょう」
長七はそのまま踵を返して駅のほうへと歩いていく。殺気に晒され続けていた身体の感覚が戻ってくると、風呂にでも入りたくなった。
3
たまたま、川島麻子は玄関の近くにいた。チャイムが鳴る。宅配便でも届いたのかと、一番玄関に近いところにいた麻子はそのまま玄関ドアを開けた。
九鬼瑞葉が立っていた。
麻子はぎょっとして、しばらく言葉をなくした。対する瑞葉も、一向に口を開こうとしない。
瑞葉が黙ったまま突っ立っていると、どうしても剣呑な雰囲気になる。麻子はとりあえずサンダルを履いて、玄関を出た。危ないことが起こった時に家族を巻き込まないようにと、ドアも閉める。それでも瑞葉は口を噤んだままだった。
「あの、九鬼さん」
麻子がようやっと声をかけると、瑞葉は鉄面皮のまま「はい」と声を発した。
「なにかあったんですか? 私に手伝えることだったら協力しますよ……?」
くたびれた溜め息を吐くと、瑞葉は小さく笑った。
麻子はまたぎょっとする。瑞葉が人間らしい表情を浮かべるところを麻子は初めて見たように思う。
「全部終わったら、また会いにきてもいいでしょうか」
「えっと、官僚のお仕事がですか?」
瑞葉は力なく首を横に振る。
「全部です。私のすべてを終わらせた時、またあなたの前に現れることを、許してもらえますか」
「九鬼さん、どうしたんですか……? なんだか、まるで――」
瑞葉はゆっくりと、自分の顔を麻子のすぐ近くまで近づける。額と額があとわずかで触れそうになった時、瑞葉は麻子の瞳に映り込んだ自分の顔を見ていた。
「我ながら、情けない顔ですね」
身を引いた瑞葉は麻子に背を向ける。
「最初にあなたにした質問の答えですが、もう答えていただかなくて結構です。私は、もう自分で答えを出したので」
麻子に問いかけた質問。瑞葉はそれに執着しているように見えた。それがもうどうでもよくなっている。だから、全部終わりにするということなのか。
瑞葉は明らかになんらかの覚悟を決めている。それもおそらくはよくない方向に。麻子の前に現れたのはなぜか。最後に麻子の顔を見にきたのだ。もう全部終わってしまうから――。
「九鬼さ――」
瑞葉の周囲に風が渦巻き、その姿をくらませる。決意を思いとどまらせる言葉を口にできなかったことに気づき、麻子は自分の不甲斐なさに苛まれていた。
それから一箇月、九鬼瑞葉はその消息を絶った。
川島麻子と現代妖怪 久佐馬野景 @nokagekusaba
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