あとがき


 ブラウスに包まれた背中、肩甲骨の間を、つつつ、と撫でられたような感覚に、つい身じろいだ。実際そうやって触れられたわけではなく、その感覚は、自分の汗が為したこと。


 夏が近づいているのだ。そう思った。


 梅雨はすっかり矢のごとく通りすぎてしまったのか、青い空がまぶしく、じんわりと汗がにじむ日々が続いていた。六月も終わり七月に入るころだから、まあ納得である。これから先さらにこの気温が右肩上がりを続けてゆくことを思うと、つい身体は正直に、クーラーの効いた室内への逃避をはじめようとする。

 そしてその欲に忠実にリリパットの門扉を潜ると、そこから見える奥の席に、見覚えのある背中がいらっしゃった。


「こんにちは」と小人国の主であるおふたりにご挨拶をして、そのまままっすぐ奥へと進んでゆく。最早定位置となったお隣にお邪魔すると、さすがさんの首が傾いだ。


「奇遇ですね」


 とは、すこし白々しいかもしれない。さすがさんに連れてこられたこの場所で、会わない可能性は低いだろう。

 それでも、さすがさんは頷いてくださった。「はい」という声と共に。

 今日のラテアートは、入道雲から覗くラピュタ。入道雲はもちろんだけれど、夏という季節とジブリ作品の縁は深い。それにも、また、夏の気配を感じた。

 わたしはまだ暑さのおかげでカフェラテに手を伸ばせないので、自然、手持無沙汰な状態となった。

 のんびりと、注文したティラミスを待ちながら、思い出話を紐解くことにする。


「なんだか、この数か月、色んなことがありましたね」


 既にタルト・タタンをつついているさすがさんは、口いっぱいに頬張っているせいか、こっくり、頷くだけだった。


「日下部さんの件、覚えていらっしゃいますか」

「はい」


 そう遠くはない過去の記憶である。さすがさんは頷いた。


「わたし、ずうっと違和感があったんです」

「違和感」

「はい。さすがさんが、わたしに相談してきたときのことです」

「……ああ」

「思えば、すこし、さすがさんらしくなかったな、と。わたしの力を借りたい、と相談してきたことも、短冊を無断でコピーして持ち出してきたことも、そうです」


 返事はないけれど、音楽に乗るように、ちいさな頷きを何度も繰り返しているから、わたしは前を向いて、続けた。


「ほんとうは、すべて知っていたんじゃありませんか」

「…………」

「そしておそらく、それを店長もご存知だったのではないですか」


 日下部さんに嘘を吐いたとき、あのメモをわざわざ使う必要はなかった。そもそもお客さんの情報が入ったメモである。普通なら見せられないものをトリックに使ったのは、それが、普通じゃないことを知っていたからだ。

 ここで一度言葉に迷った。さすがさんは、「続けて」と言った。


「ふたりがそれを知った上で黙っていたのは、日下部さんのためでもあります。やはり日下部さんに解いてほしいという気持ちは、真尋さんのことを想っても、日下部さんのことを想っても生まれますから。だけど、」


 そして、それは同時に、その場にいた人物への、密かな挑戦でもあった。


「……だけど、今回はそれ以外に、もうひとり、解かせたい人物がいたのではありませんか」


 答えはない。じっと目の前の壁を睨んでいた視線を、わたしは一度テーブルに落とした。


「自意識過剰だったらすみません」

「いえ」

「でも、それは、それはひょっとして、」


 隣を向くと、いつの間に見つめていたのだろう、さすがさんのお顔とご対面した。

 長い前髪で顔の半分以上が隠れているのは相も変わらず。


 けれど、わたしのその言葉を聞いたとき、さすがさんはたしかに、笑っていた。


「……ひみつ」

「えっ?」

「ひみつ。です」


 そう言って、さすがさんはわたしの頭に手を置く。やさしく撫でるわけでもないのに、伝わってくる温もりがやさしくて、またそれが、「よくできました」とおっしゃっているようで。


 ずるいな、と、そう思った。






 リリパットを出ると、途端に太陽のレーザービームを浴びて影へと隠れたくなった。

 さすがさんの隣に影を見出し、そちらへとお邪魔する。


「もうすっかり夏ですね」

「はい」


 後ろ髪引かれる古書店を曲がり、先を行こうとすると、影がなくなってしまい立ち止まる。さすがさんが店先のラックを冷かしていたので、わたしもそのラックを覗き込んだ。どれでも百円、を謳ったメモが、強い風に今にも吹き飛ばされてしまいそうだった。

 季節のせいか、文庫の中でも、「夏」とついた本に、つい目が引き寄せられてしまう。


「わたし、好きなんだけど、嫌いなんです」


 ぽろり、と、そんな言葉が出た。


「なにが?」

「夏が」


 さすがさんは、一瞬だけ間を置いて、


「なんで」

「……なんででしょう、ねえ」


 わたしは、答えの見つからないまま、古書の背を撫でる。


「無条件に、さみしくなるからでしょうか」


 夏には、ほかのどの季節にも勝る、さみしさ、というものがある。

 他の季節に比べれば、誰かと過ごす時間のほうが多いとさえ感じるのに、どうしてか夏が来ると、すこしため息を吐きたくなってしまうのだ。季節の終わりを感じることなんてほとんどないのに、夏の終わりを、はじまりの時点で見据えてしまう。

 古書店の軒下から離れると、また太陽の猛攻にあてられた。じりじり照る太陽の下で、額に伝う汗を、手の甲で拭う。

 さすがに行儀が悪いかしら、とさすがさんを見上げると、さすがさんも、Tシャツの襟元をたくし上げている。どっちもどっちか。


 車が通り過ぎ、残響だけが残ったとき、さすがさんが言った。


「……夏」

「え?」

「たのしい、思い出、……多いんすね。夏に」

「……それも謎解きですか?」


 さすがさんは、緩慢にワカメを揺らした。

 これはノーの意味だろう。続きを待つ。


「さみしい、って、おもうのは、比較できるたのしさとか、うれしさ、知ってるから」

「……え?」

「そう、おもっただけ」


 じんわり。熱さが身体を侵食し、そのまま喉から込み上げてきそうだった。


「おれは、そういうの、よくわかんないんで」

「……はい」

「そういうの、しってる並木さんは、ものしりだって、おもいます」


 初夏の風が、わたしのスカートを狙いにかかる。春風から守りきったと思いきやすぐこれだ。わたしはスカートを押さえるために下を向いて、その風で熱を冷ましてゆく。




 ときめいた、とか、好きだ、とか、たぶん、そういう感情ではない。


 ただ、ひたすらに純粋に、うれしくてしにそうだ、と思った。




 わたしが足を止めると、その足音の変化を聞き取って、一歩先で立ち止まってくれる。振り返ってくれる。要領が悪く傷ついたら、それを言葉で癒し、言わないことで、最良の経験で、埋め立ててくれる。


 このひとは、自分以外のひとに対して、とても誠実で、とてもやさしい。

 それこそが、さすがさんの、ちいさなことに気づく慧眼なのだ。


 わたしは風が落ち着くのを待って、眉間から目もとにかけて流れた汗を拭い、顔を上げた。立ち止まってくれている、さすがさんの背に追いつく。


「それじゃあ、来年、楽しみにしましょう」

「来年?」

「はい」


 ふしぎそうなさすがさんの横に並んで、わたしは自分の影を踏もうと、また一歩足を出す。どうあっても届かない影は、それでいて、いつもわたしの傍に寄りそっていてくれるから、誰かさんに似ているな、と感じた。


「さすがさんが、来年ね、ああ、夏って好きだけどさみしいな、なんでだろうな、って思えちゃうぐらい、楽しい思い出。今年は、作っちゃいましょう。一緒に」



 春はあけぼの、と枕草子で清少納言は語ったけれど、まさしく春は〈あけぼの〉なのだ。雪解けとともにいのちが生まれ、春風に導かれるように、新たな運命に出会う。運命に出会えば、きっと、そこにはたしかな変化がある。わたしが、さすがさんに出会ったように。


 夏が終わっても、秋を生き、冬を楽しみ、春を笑えば、またすぐに、さみしくていとしい、夏が来る。




                         ――さすがさんと春色の研究 〈了〉

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さすがさんと春色の研究 濱村史生 @ssgxxx

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