雨降って、地固まる。〈八〉
そろってカウンターの中に引き上げると、入れ替わりに今度は宗田さんと若蔦さんが店内へと出て行った。口論とも言い難い、子どもの喧嘩のようなものは依然として続いているものの、怒っているわけではなさそうだ。若蔦さんがゴミを集め、宗田さんがそれを乗せるための台車を持ってくる。散々バカだのなんだのと言い合うふたりだから、「ありがとう」が聞こえてくると、わたしの方がこそばゆい。
けれど、口にしないと伝わらない。ふたりはそれを知っているのだ。
「貴家くんも意外ね、そんなこと言うなんて」
「そうでしょうか?」
「だって満点あげそうじゃない。優しいでしょう」
「まあそれは」
否定はしない。
「でも、きちんとしてるひとですから。それに、あと一歩、はもう、わかりました」
「……そう?」
「はい」
わたしは客注の棚から、一冊の本が挟まれたファイルを取り出す。
「思えば、本屋に傘を置いて帰るという行為も、暗号のためだけの本を注文するという行為も、すこし本屋……第三者を巻き込みすぎな気がしていたんです。特に今回の場合は、最終的に日下部さんを喜ばせるためのものでしょう? それにしては、暗号がまるで本屋で働いている誰かに解かせるようなものばかりだった……」
ふつう、親類縁者だと名乗る方がいらっしゃっても、簡単に台帳は見せられない。個人情報なのだ。悪用されても困るだろう。今回の件だって、もしも他に創元推理文庫を注文したお客さんがいらっしゃって、知らず知らずその短冊が入ってしまっていたら、大問題だった。
でも、主に暗号を解く相手が本屋の店員だったら?
そして、そうはならないように、仕組んでいた人がいたとしたら、どうだろう?
「仮説ですけど、真尋さんは書店側に協力を頼んだんじゃないでしょうか。今もかはわかりませんが、書店で働いていた、と日下部さんはおっしゃっていましたよね。だったら、かつて一緒に働いていたかもしれない同僚にお願いすることも可能だと思うんです。どこで働いていたかは伺ってはいませんが、日下部さんは久万河書店の系列店舗によく行っていた、とおっしゃっていました。それは、真尋さんが久万河書店で働いていたからではないでしょうか」
店長は何も答えず、静かに笑ってみせるだけ。
それが「どうぞ、続けて」とおっしゃっているようで、わたしはお客さんがレジに並んでいないことを確認してから、ファイルを店長のもとへと掲げた。
ふつう、客注を受けたときには、三枚綴りの短冊に記入するけれど、例外もある。
それは、既に店頭にある商品の取り置きを頼まれたときだ。
そのときは、日付とお客さんの名前、それから電話番号と来店予定日などを書いたメモを残し、そのまま客注品を管理する棚に入れてしまう。
わたしが今掲げているファイルには、さすがさんが日下部さんに嘘をつくときに使った、そのメモが貼られていた。
「ここに書いてある『ハートの4』は、創元の目録にも載っていました。ぱっと書名を見ただけでは思いつかなかったけれど、著者はよく知られた人ですよね。そして注文者の人の名前は江良里さん。気づけばしょうもないというか、そもそも、名前がカタカナでなく漢字になっている時点で疑念を抱くべきだったんですけど……」
そこでわたしは、さすがさんの言うところの「あと一歩」を埋めるべく、店長を見据えた。ごくり、と喉が鳴る。
『ハートの4』の著者はエラリー・クイーン。偶然か故意か、エラリー・クイーンはふたりの作者から構成されていて、著者名と同じ名探偵を持つご存知クイーンシリーズでも、探偵役は息子であるエラリーと、リチャード・クイーン警視のふたりが担っている。
探偵とは百八十度立ち位置が変わるが、今回もそうだったのだ。
犯人はふたり。
江良里ときたら、次に続けたくなるのはクイーンである。
そして、クイーンは妃。と、こうくれば。
「つまり、木佐木希妃店長――――あなたが、もうひとりの犯人です」
わたしたちのクイーンは、目を細め、上品なくちびるに弧を描いた。
そして、言ったのだった。
「よく、できました」
その次の日曜日、日下部さんがいらっしゃった。
既に暗号解読の興奮も、それに伴う結婚のご報告を頂戴したあとのことだった。今でもそのときのことを思い出すと、どうにも笑いが零れてしまうのは、真尋さんから「名探偵がふたりもいるなんてビックリ」とお褒めの言葉を頂戴したからだろう。
よくよく話を伺ってみると、ちょうどあの謎解き会談の日、真尋さんは日下部さんのすぐ背後にいらっしゃったらしい。店長が関わっていたことを知った今では、きっとあのとき真尋さんに電話を掛けて呼び出しておいたのだろう、と予想がついた。真後ろで咽ていた理由も納得だ。
「また妙な暗号でも残されたのかしら?」と、不謹慎ながら胸を躍らせていると、本の取り寄せをお願いしたいとおっしゃる。
「真尋さんへの暗号返しですか?」
「はい」と頷いてから、日下部さん、「あ、でも、暗号にはしないつもりなんです。僕は暗号のほうが好きだけど、彼女はやっぱりストレートなほうが喜ぶかなと思うし、僕が喜んだぶん、彼女を喜ばせたいと思って」
「素敵ですね」
素直に、そう思った。
「それじゃあなんなりとお受けしましょう。あ、でも、在庫がない本はちょっと厳しいですからね。ありそうなやつにしてくださいよ」
「はいはい」
お小言を軽く受け流し、日下部さんは、わたしたちの元へ、見覚えのある目録を差し出した。さすがさんが差し上げたものだろう。わたしの背後に控えて話を聞いていたさすがさんに目をやると、こっくり、首が上下に動く。
「これなんですけど……」
照れくさそうな日下部さんを他所に、わたしたちは、付箋の貼られたページを開く。369ページの左端に貼られた付箋を辿ると、真っ先に、その書名が目に入る。
反応のないわたしたちに、日下部さんは、徐々に顔を青くしていった。
「……や、やっぱりクサいですかね……内容は全然違うんですが、書名が、ほら、なんというか」
「なに弱気になってるんですか」
「だ、だって……」
「いいと思いますよ。ね? さすがさん」
相変わらず自由な方向に曲がるワカメヘアーを揺らし、さすがさんが頷く。それでも日下部さんはまだ不安げだ。わたしはその不安を取り除くように、にっこり笑った。
「大丈夫。真尋さんなら、喜んでくれますよ」
だって、好きなひとからこんな一文を贈られて、喜ばないひとはいないだろう。
大事に大事に、うまくいくように、と、おめでとう、の気持ちをこめて記した短冊の文字には、日下部さんの愛が、余すことなくこめられていたから。
――『この世の涯てまで、よろしく』。
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